鵜ノ子岬→尻屋崎2021

『地平線通信』2021年4月号より

●3月号の『地平線通信』でみなさんにお伝えしたように、東日本大震災から10年目の3月11日、「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」に出発しました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。第1夜目の宿は四倉舞子温泉(いわき市)の「よこ川荘」。ここで渡辺哲さんと古山里美さんと合流しました。翌日、3台のバイクで北上。古山さんとは相馬で別れましたが、渡辺さんとは3日間、一緒に走りました。東日本大震災から10年目ということで、行く先々の被災地の10年間の変化を見てまわりました。福島県の双葉町では廃校になった双葉高校に立ち寄りましたが、ここは渡辺さんの母校。東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で、100年近い歴史のある学校は廃校に追い込まれたのです。校庭に設置された線量計は0・191マイクロシーベルトと、放射線量は小数点以下に下がっていました。双葉町では海岸近くに復興の拠点となる「伝承館」と「交流センター」が完成し、震災遺構の請戸小学校が公開に向けて準備中でした。

●福島県から宮城県に入り、第2夜目は石巻の「サンファンヴィレッジ」に泊まりました。石巻から牡鹿半島を一周し、女川からは雄勝に行きました。雄勝は震災以降、まるで見捨てられたかのようでしたが、ここに来て急ピッチで復興が進んでいます。高台移転した町が姿を現し、道路も高台に付け替えられました。見上げるような防潮堤に囲まれた海岸には「雄勝硯伝統会館」と「交流館」が完成。志津川(南三陸町)では「南三陸さんさん商店街」と「震災復興祈念公園」を結ぶ歩行者専用の中橋が完成しました。

●宮城県から岩手県に入り、第3夜目の宿は山田のうみねこ温泉「湯らっくす」です。三陸鉄道陸中山田駅の駅前温泉です。駅前にはスーパーマーケットもできています。この日は大雨に降られたので、湯から上がると、駅前の居酒屋「四季海郷」で渡辺さんとご苦労さん会の飲み会。大津波に襲われて壊滅状態になった山田の町は、10年間でここまで復興しています。翌日、陸中山田駅前で渡辺さんと別れ、さらに北へ。宮古を過ぎると、雨は雪に変わりました。田野畑村に入り、国道45号から海沿いのルートを行くと通行止。う回路を行くと、路面に積もった雪でまったく坂道を登れず、来た道を引き返すという場面もありました。春まだ遠い東北でした。

●国道45号に戻ると、雪に降られながらバイクを走らせ、青森県に入りました。八戸では雪が止んで助かりましたが、三沢から尻屋崎までは雪。3月の北東北は冬同然です。吹雪に見舞われて、尻屋崎まで行くのを断念したこともありましたが、今回は尻屋崎に到着できました。岬への道は冬期閉鎖中なので、尻屋の集落を走り抜けた尻屋漁港をゴールにし、漁港の岸壁にバイクを止めました。第4夜目はむつ市内の石神温泉に泊まり、「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」を走り終えた喜びで、自分一人で生ビールを飲み干すのでした。

●尻屋崎から鵜ノ子岬への復路では、太平洋岸を縦貫する高速道路を南下しました。東日本大震災以降、「復興」の旗印のもと、驚異的な速さで高速道路が開通しています。まずは下北道。むつ市内の1区間が開通。つづいて横浜吹越ICから終点の野辺地ICまで走りました。国道45号経由で上北道に入ると、第2みちのく道路→百石下田道路→八戸道で八戸JCTへ。ここからが三陸道で、仙台までの全線開通が間近です。開通直後の気仙沼を走り抜けましたが、「時代が変わった!」と強く実感しました。三陸道から仙台東部道路経由で常磐道に入り、いわき勿来ICで常磐道を降り、鵜ノ子岬に戻ったのです。この間、宮古〜盛岡と相馬〜福島の横断道路は開通目前でした。

●こうして「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」を走り終えると、今度は「青春18きっぷ」を使って東北の太平洋岸を見てまわりました。東京から常磐線で水戸へ。一昨年の台風19号で大きな被害を受けた水郡線は3月28日に全線開通し、それに合わせての東北なのです。郡山からは東北本線で福島、仙台を通り、一関へ。一関から大船渡線で気仙沼へ。「一関〜気仙沼」は鉄路です。気仙沼の駅前ホテルに泊まり、翌日はBRT(バス高速輸送システム)の赤いバスに乗って陸前高田から大船渡へ。終点の盛までが大船渡線になります。盛から三陸鉄道で釜石へ。釜石からは釜石線で盛岡へ。盛岡からは山田線で宮古へ。本数の少ない釜石線、山田線で北上山地を横断できたのは大収穫でした。宮古から三陸鉄道で久慈へ。久慈からは八戸線で八戸へ。最後は青い森鉄道で青森へ。「東京→青森」は「青春18きっぷ」2日分の4820円と、三陸鉄道「盛→釜石」の1100円、三陸鉄道「宮古→久慈」の1890円で、合計7810円でした。青い森鉄道は青森まで途中下車しなければ、青春18きっぷが使えます。また明日からは、まだ残っている2日分の青春18きっぷを使って東北をまわってきますよ。(賀曽利隆)

東日本大震災の10年を振り返る

『地平線通信』2021年3月号より

●2011年3月11日。東日本大震災の当日は、前日までの中山道の「宿場めぐり」を終え、伊勢原(神奈川県)の自宅に帰っていました。そこで大地震を体験したのですが、震源地から遠く離れた伊勢原でも震度5の揺れで、今までにないような不気味な揺れ方でした。すぐにテレビをつけると、衝撃の映像が映し出されていました。東北太平洋岸の各地が大津波に襲われている光景は目を覆わんばかりで、茫然自失の状態になりました。それからはテレビや新聞の報道を食い入るように見る毎日でした。あまりの衝撃の大きさで、体が動かなかったですね。

●東北の太平洋岸に旅立ったのは、震災から2ヵ月たった5月11日のことでした。すぐに行きたいという気持ちの反面、衝撃のあまり、体が動かないような状態だったので、なかなか足が出なかったというのも事実です。ほんとうに大変なことが起こっているところに行ってもいいものか…という迷いや恐怖もありました。しかしぼくには地図(ツーリングマップル)づくりという仕事というか、使命感に似たようなものがありましたので、まずは現状を見なくてはいけないと強く思いました。ということでバイクを走らせ、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を開始したのです。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走れば、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見てまわれると考えたからです。バイクの機動力を生かし、どの道が通れるのか通れないのかを見極め、被災された東北太平洋岸の全地域に足を踏み入れ、それを多くのみなさんに伝えようとしたのです。

●「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第1日目は忘れられません。東京から常磐道で東北に入り、20時、いわき勿来ICに到着。常磐道はここまでまったく問題なく走れました。夜の勿来(いわき市)の町を走りましたが、ここでは大地震、大津波の影響はほとんど見られませんでした。JR常磐線の勿来駅に行くと、いつも通りの勿来駅でした。勿来駅前から国道6号で東北と関東の境の鵜ノ子岬へ。この岬を境にして東北側が勿来漁港、関東側が平潟漁港になります。人影のまったくない勿来漁港岸壁の屋根の下にバイクを止め、その脇で寝ることにしました。そこへ地平線会議の仲間の渡辺哲さんが来てくれたのです。渡辺さんにはカンビールと「バタピー」、「アーモンド&マカダミア」、「チーかま」を差し入れてもらいました。遠慮なくカンビールをいただき、飲みながら「渡辺情報」を仕入れました。渡辺さんの会社はいわき市内にあります。仕事の合間にバイクで福島県内をまわっているので、「渡辺情報」は正確で豊富でした。渡辺さんの家は楢葉町にあります。楢葉町のみなさんは全員、福島第一原子力発電所の爆発事故で強制的に避難させられたのです。大地震の被害を受け、大津波の被害を受け、それに追い討ちをかけるように原発の爆発事故の影響をモロに受けた渡辺さんでしたが、二重苦、三重苦を吹き飛ばすかのような、いつも通りの元気さ、明るさが印象的でした。

●鵜ノ子岬を出発して尻屋崎を目指したのですが、福島県の太平洋側の浜通りでは、広野町と楢葉町の境で国道6号線は通行止になっていました。警察車両がズラリと並んだ物々しさ。そこから北へ、南相馬までの迂回路は大変でした。林道経由で国道399号線に出ると、川内村、葛尾村を通り、浪江町の赤宇木から峠を越え、飯館村の長泥に下ったのです。赤宇木、長泥といったら、原発事故の影響で、最も放射線量の高いところでしたが、国道399号は通れました。長泥から林道経由で南相馬市に入ったのですが、浜通りは完全に分断されていました。

●宮城県では阿武隈川河口の荒浜には入れたのですが、名取川河口の閖上は立入禁止で入れませんでした。石巻は甚大な被害を受け、残骸となった車の山があちこちにできていました。学校の校庭には、大津波で亡くなった人たちの墓標がズラッと立っていました。胸のしめつけられるような光景でした。石巻漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられていました。女川の惨状は目を覆うばかりで町全体が壊滅状態。瓦礫の山でした。女川一番人気の水産物を売る「マリンパル」は廃墟と化し、女川駅や駅前温泉の「ゆぽっぽ」は跡形もありませんでした。気仙沼の海岸地帯には無数の大型漁船が乗り上げていました。その中をかいくぐってバイクを走らせたのですが、まるで迷路を行くようでした。

●岩手県に入ると、陸前高田のあまりにもすさまじい被害には声もありませんでした。高田松原は消え去り、海岸一帯に押し寄せた海水はそのまま残り、一大湿地帯のような状態でした。大船渡では高さが明暗を分けていました。大船渡港周辺の大船渡は壊滅状態でしたが、町続きの盛はわずかに高いので、ほとんど大津波の被害を受けていませんでした。鵜住居(釜石)から大槌、山田まではバイクで走れば30分ほどの距離ですが、その間での大津波による犠牲者は3000人を超えました。このような大津波による惨状は宮古からさらに久慈まで続きました。青森県に入ると、八戸漁港や三沢漁港が大きな被害を受けましたが、白糠漁港(東通村)まで来ると、震災前と変わらない活況を見ることができてホッとした気持ちになるのでした。

●東日本大震災から4年目の被災地をマイクロバスでまわった「地平線会議移動報告会」(2015年4月17日〜18日)も忘れられません。福島県内の「いわき市〜富岡町」を見てまわりましたね。大震災4年目の浜通りは、大きく変わりました。3月1日に常磐自動車道の全線が開通したからです。移動報告会がスムーズにできたのも、そのおかげでした。国道6号は通行止でしたが、常磐道の開通によって南北に分断されていた浜通りはやっとひとつになった感がありました。浪江ICから国道114号で浪江の町中を走り抜けて国道6号に出ましたが、まさかこの区間を通り抜けられるようになるとは思ってもいませんでした。国道6号との交差点から海岸一帯の請戸地区に入れたのは、江本さんや案内してくれた渡辺さんの尽力のおかげで、許可証を取れたからです。東電の福島第一原子力発電所の爆発事故で一般人の立入禁止のつづく請戸地区には、3.11の大津波の惨状がまだそっくりそのまま残っていました。海岸のすぐ近くにある請戸小学校は、幸いにも全校生徒が避難して無事でした。その後、福島県の「震災遺構」として残されることになりました。

●請戸地区を見てまわったあとJR常磐線の浪江駅前へ。ここも許可証がないと、一般人は入れない地区でした。まったく人気のない駅周辺を歩きましたが、ゾッとするような不気味さを感じました。2011年3月11日の14時45分までは、町はにぎわい、浪江のみなさんはごくごく普通の生活を送っていたのに…と思うと、胸が締め付けられるような思いでした。浪江駅前の新聞販売店には、配達されずに積み上げられた地元紙の「福島民報」が残ったままでした。新聞の一面には「原子炉建屋で爆発」の大見出。3.11を境にして時間が止まってしまったかのような浪江でしたが、その後、町の避難指示が解除され、国道6号が通行可となり、JR常磐線が再開してからは復興が加速しています。新しくスーパーのイオンもできました。

●あの東日本大震災からまもなく10年を迎えます。「あれからもう10年か…」と、月日の流れの速さを感じます。この10年間で東北太平洋岸の復興は急ピッチで進みました。災害公営住宅の大半は完成し、盛土をして地盤を高くした新しい町並みも、高台移転をした家並みもその姿を現してきています。万里の長城を思わせる大防潮堤の大半は完成しました。常磐道が完成し、現在では全線の4車線化工事が進んでいます。三陸道も毎年、延伸し、三陸道の全線開通が視野に入ってきました。さらに高速道でいえば、「相馬〜福島」間の東北中央道の全線開通が目前ですし、「釜石〜花巻」間の釜石道の全線が完成しました。「宮古〜盛岡」間の宮古盛岡横断道路も、一部区間が開通しています。これらの高速道路は東北太平洋岸の背骨になるものですが、震災前にはここまで早く高速道路網が完成するとは夢にも思いませんでした。ズタズタに寸断された鉄道網も復旧しています。JR常磐線の全線が再開し、特急「ひたち」が被災地を走り始めると、すぐさま「品川〜仙台」間を乗りました。感無量でした。大津波で大きな被害を出したJR仙石線が復旧した時も仙台から石巻までの全線を乗り、高台移転した新線の東名駅、野蒜駅を見ました。JR山田線の一部(宮古〜釜石)は三陸鉄道に移管されました。全線が開通した時は、「盛(大船渡市)→久慈」間の三陸鉄道の全線に乗りました。こうして次々に復興していく東北太平洋岸の「今」を見るのはうれしいものです。それだけに東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故さえなければ…という思いは、よけいに強くなってきます。

●東日本大震災の10年目を目前にした先日(2月13日)のM7.3の大地震には肝を冷やしました。津波が発生しなくてほんとうによかったですね。それにしても10年前の地震の余震がM7.3というのは信じられないことでした。2011年3月11日のM9.0という本震の超巨大地震が、いかにすごいものだったかを改めて教えられたような気がします。M9.0というのは日本の歴史上、最大級の地震です。この時、地震のみならず「三陸大津波」を改めて考えてみました。仙台以北の三陸海岸は明治三陸大津波(1896年)、昭和三陸大津波(1933年)、そして今回の平成三陸大津波(2011年)と3度に及ぶ大津波の大災害を受けてきました。それら3度の「三陸大津波」を乗り越えられたのは、三陸海岸の海の豊かさがあるからだと思いました。「日本の宝」といってもいいほどの豊かな海のおかげで、三陸の未来は限りなく開けていると思いました。

●東日本大震災から10年の今年も、3月11日に「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発します。今回が第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。東北太平洋岸の全域を走る「鵜ノ子岬→尻屋崎」のほかにも、例えばいわき市や石巻市、大船渡市というように、各エリアごとに何度となく足を運んでいますので、この10年間で東北太平洋岸に行った回数は100回近くになります。そのうちの2013年と2015年、2016年の3回、『地平線通信』で「鵜ノ子岬→尻屋崎」を書かせてもらっています。それがぼくにとってはすごくいい記録になっています。「鵜ノ子岬→尻屋崎」はこれからもやり続けますので、我が生涯を通してのライフワークです。今回の第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では目を大きく見開いて、東北太平洋岸の「今」をしっかりと見てきます。東北のみなさんと一緒になって、東北の復興を喜び合ってきます。そして帰ったら、『地平線通信』に「東日本大震災の10年後」を書かせてもらいたいと思っています。(賀曽利隆)

長かったカソリの夏

『地平線通信』2012年10月号より

●みなさん、猛暑のつづいた今年の夏ですが、どのように過ごされましたか。9月に入っても暑い日がつづき、「どうなってしまうのだろう…」と不安にかられましたが、お彼岸を境に季節が変ったのには驚かされました。まさに「暑さ寒さも彼岸まで」で、それに合わせて我が家の庭の彼岸花が咲きました。地平線会議にとって今夏最大のイベントは、記念すべき第400回目の地平線報告会でしたが、それに参加できなかったのは何とも残念なことでした。しかし9月号の「地平線通信」で、その詳細を知ることができて、うれしく思いました。たいへんな盛り上がりだったようで何よりでした。これで「第500回目」という金字塔が見えてきましたね。

●ぼくはその頃、バイクでマダガスカルを走っていました。第399回目の南相馬での報告会を終え、上條さんの山荘で参加者のみなさんとお別れしたあと、スズキの650ccバイク、V−ストローム650を走らせて福島へ。福島からは奥羽山脈の鳩峰峠を越えて山形県の赤湯温泉へ。さらに山形・宮城県境の奥羽山脈の峠を越えながら北上し、芭蕉の「奥の細道」の尾花沢まで行きました。尾花沢から最後の峠、鍋越峠を越え、古川から東京に戻り、20日あまりの「東北旅」にピリオドを打ちました。

●帰宅するとすぐさまマダガスカルへと旅立っていったのです。これは旅行社「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」の第17弾目。総勢15名のメンバーとともにタイのバンコク経由でマダガスカルの首都アンタナナリボに飛びました。その中には第399回目の南相馬での報告会にも参加してくれた斎藤孝昭さんの姿もありました。斎藤さんの奥様がちょっと心配そうなお顔で成田まで見送りにきてくれたのは印象的でした。斉藤さんとは旅の途中、何度も南相馬での報告会の話をしましたよ。報告会にたびたび参加してくれている斎藤さんですが、2006年の「シルクロード横断」(天津→イスタンブール)や2008年の「南米・アンデス縦断」(リマ→ブエノスアイレス)を一緒に走っています。

●今回の「マダガスカル」は日本からバイクを送り出すのではなく、現地のレンタルバイクを使いました。15台のバイクと2台の四駆のサポートカーでアンタナナリボを出発。カソリ号はハスクバーナーの550cc。そのままモトクロスの大会に参加できそうなパワフルなバイクなのですが、車高の高さには泣かされました。足がまったく地面につかず、何と今回は3回も立ゴケしてしまいました。バイクから降りられず、そのままパターンと倒れてしまったのです。「バイクのカソリ」のあまりにも情けない姿。斉藤さんの手を借りて起き上がったこともありました。マダガスカルは、ぼくにとっては40年ぶりになります。40年前はヒッチハイクだったので、バイクでは今回が初ということになります。世界第4位の大島、マダガスカルは日本よりも大きな島。中央部は高原地帯なので、熱帯圏といえどもバイクで走っていると肌寒いほどでした。それがモザンビーク海峡沿いの海岸地帯に下ると猛烈な暑さ。オフロードを求めてマダガスカルに行ったのですが、あまりの暑さと悪路とで、ゴールのマダガスカル南西部のトリアラの町に着いたときはもう息もたえだえ状態でした。

●マダガスカル中央部ではあちこちで水田の風景を見ました。田植えと稲刈りの両方を見たこともあります。二期作どころか三期作の稲作でしょうか、その風景はアジアを思わせるものでした。モザンビーク海峡沿いの海岸地帯はバオバブの世界。バオバブ街道を走り、世界最大というバオバブの巨樹も見ました。水田とココヤシとバオバブの取り合わせは幻想的な世界でした。ナショナルパークの散策ではマダガスカル固有の原始猿、レムールとかシファカを見ることができました。

●そんな訳で第400回目の報告会に参加できなかったのです。日本に帰るとすぐに、今度はV−ストローム650で「東北旅・第2弾目」に旅立ちました。関東と東北を分ける鵜ノ子岬を出発点にして、まずは福島県の太平洋側の浜通りを走ったのです。四倉舞子温泉の「よこ川荘」に今回も泊まりましたが、渡辺哲さんが差し入れを持って来てくれました。翌日は渡辺さんの故郷の楢葉町を走りました。8月10日以降、楢葉町の全域に入れるようになったのです。楢葉町北部の波倉の海岸の風景は、目にこびりついています。大津波で破壊された堤防のすぐ先に東京電力福島第2原子力発電所があるのです。第2がよくぞ無事だったと思わせる光景で、第1同様、大事故を起こしてもおかしくないような海岸地帯の激しいやられ方でした。

●浜通りは第1の爆発事故で完全に分断されてしまいましたが、迂回路を経由して南相馬に行くと、海沿いの県道255号、幹線の国道6号、旧陸前浜街道の県道120号、「山線」の県道34号と、4本のルートで南相馬市と浪江町の境まで行ってみました。これら4本は、すべて東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故での規制線。国道6号は警察車両が国道を封鎖していましたが、それ以外の3ルートはゲートのみでした。

●南相馬では鹿島町の仮設商店街「かしま福幸商店街」の「双葉食堂」で評判の鳥ガラスープのラーメンを食べました。店は大繁盛。順番待ちができるほどでした。南相馬市から相馬市に入ると、松川浦の「喜楽荘」に泊まったのですが、ここは渡辺哲さんと一緒に飛び込みで泊まった宿。女将さんがそれを覚えていてくれていたのはうれしいことでした。翌日は浜通り最北の新地まで行き、大津波で壊滅した海岸地帯を走りました。橋が落下したままの地点でバイクを止めると、しばらくは大津波で破壊された堤防越しに、白い砂浜と青い太平洋を眺めるのでした。新地から国道6号で宮城県に入り、さらに北へ。「東北旅」の第1弾目では下北半島の尻屋崎、大間崎に立ったので、第2弾目では津軽半島の龍飛崎に立ちました。それを最後に東京に戻ってきたのです。

●「東北旅・第1弾目」にひきつづいての南相馬での地平線会議・第399回目の報告会、それに合わせて見ることのできた相馬野馬追、マダガスカル、そして「東北旅・第2弾目」と、長い長いカソリの2012年の夏でした。(賀曽利隆)

「継続」、これが一番、大事なこと

『地平線通信』2012年8月号より

●いよいよ記念すべき第400回目の報告会ですね。積み重ねてきた重さとでもいうのでしょうか、「400」の数字には驚かされてしまいます。それを前にしての第399回目の報告会はすごい盛り上がりでした。地平線会議の歴史に新たな1ページをつけ加えたかのようです。いつもの東京・新宿の会場を離れ、30余名の参加者が7月28日午前9時50分に福島駅西口に集合。マイクロバス2台、バイク3台、車2台で南相馬に向かっていくシーンは壮観でした。ぼくはその時、ふと「大人の修学旅行」の言葉が頭に浮かびましたよ。

●出発時に手渡された『飯舘村、南相馬市の現場を見、考える地平線行動』の小冊子には感動しました。よくぞこの日に間に合わせて作りましたね。今の地平線会議の実力の一端を見る思いがしました。小冊子づくりにたずさわった新垣亜美さんは「江本さん宅でエモカレーを食べて、エモバーガーを食べて、エモサラダを食べたら手伝わされてしまった」と笑ってました。それには参加者のプロフィールものっていて、今回の報告会を盛り上げるのに一役も二役もかっていました。

●阿武隈山地を越え、南相馬の旧小高町をめぐり、夕暮れ時に到着した旧鹿島町の上條さんの施設はよかったですね。まわりの山々のしたたる緑は目に染みるようでした。「おー、これぞ、東北!」というような阿武隈山地の緑でした。ミーティングでの参加者のみなさんの一言一言は心に残りました。翌朝は夜明けとともに起き、1時間ほど山中を歩いたのですが、「カナカナカナ」という鳴くヒグラシの蝉時雨がすごかったです。その日は何と「相馬野馬追」の日。武者行列、甲冑競馬、神旗争奪戦を見ることができました。これはもう「地平線会議」のドラマです。それだけに参加者のみなさんとの別れには辛いものがありました。

●ところでカソリは、7月28日に福島駅西口に行くのに、7月13日に東京を出発しました。スズキの650ccバイク、V−ストロームを走らせ、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ったのです。鵜ノ子岬というのは東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。福島県の浜通りから宮城県南部の海岸地帯を通り、塩竃、石巻から三陸海岸を北上していきました。岩手県では釜石を過ぎると、大槌町、山田町と大津波に襲われて壊滅的な被害を受けた2つの町がつづきますが、この大槌と山田の違いには大きなものがあります。大槌は町役場が津波の直撃を受けて全壊。町長をはじめ町役場の職員の多くを失くしました。それに対して山田は町自体は大槌同様全壊したものの、高台にある町役場は残りました。司令塔を失った大槌と、司令塔の残った山田、隣合った2つの町はあまりにも対照的でした。

●山田の町役場の隣には八幡宮があります。参道の入口には「津波記念碑」。1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられたものです。それには次のように書かれています。
 1、大地震のあとには津波が来る。
 1、地震があったら高い所に集まれ。
 1、津波に追はれたら何所でも此所位高い所へ登れ。
 1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。
            近くの高い所を用意して置け。
 1、懸指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな。

●山田の町役場はこの「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無傷でした。ところが山田の中心街は「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町を再建したので、明治三陸大津波、昭和三陸大津波にひきつづいて平成三陸大津波でも、町が全壊してしまったのです。

●山田から「日本の秘境」の重茂半島に入っていきました。本州最東端のトドヶ崎の入口が姉吉漁港です。ここは今回の大津波で38・9メートルという波高を記録した所です。漁港は大津波に飲み込まれ、大きな被害を受けましたが、姉吉の集落は無傷で残りました。姉吉にも「津波記念碑」が建っていますが、それには「ここより下に家を建てるな!」とあります。明治三陸大津波、昭和三陸大津波で集落が全壊した姉吉は、その「津波記念碑」の教えをしっかりと守り、すべての家が「津波記念碑」よりも上に建てられているのです。そのおかげで今回の40メートル近い大津波に襲われても、1人の犠牲者を出すこともなく、1軒の家を流されることもなかったのです。姉吉から山道を1時間ほど歩くと本州最東端のトドヶ崎に出ますが、東北一のノッポ灯台の白さと目の前に広がる太平洋の海の青さが目に染みました。

●岩手県から青森県に入り、尻屋崎まで行くと、下北半島を一周して青森へ。青森から南下。いったん東京に戻ると、今度は東北の玄関口、白河に行き、そこを出発点にして福島県内の中通り、会津、浜通りをめぐったのです。会津では田島を拠点にして南会津を一周しましたが、その途中では酒井富美さんの民宿「田吾作」に泊まりました。奥羽山脈の峠越えや奥州街道の宿場めぐりは心に残りました。磐梯吾妻スカイラインや磐梯吾妻レークライン、磐梯山ゴールドラインは現在、無料開放中なので、これら3本の絶景ラインをV−ストローム650で思う存分に走り回りました。高原の爽やか空気を切っての走行はたまらなかったです。こうして5000キロ余を走り、7月28日に福島駅西口に到着したのです。

●記念すべき第400回目の報告会を前にして、第1回目からの報告会のシーンが次々に目に浮かんできます。初期の頃の会場、東京・青山の「アジア会館」がなつかしく思い出されてきます。これといったテーマが見つけられず、夏の納涼大会をやったこともありましたよね。「地平線会議」を立ち上げたメンバーの1人、宮本千晴さんの「とにかく続けることだ」の一言が今、鮮明によみがえってきます。「継続」、これが一番、大事なことのような気がします。第400回はあくまでも一里塚。ここまで続けてきたのだから第500回目、第1000回目を目指しましょう。今、「地平線会議」をおもしろがっている人が次の人たちに伝えていく、これは「地平線会議」発足時からの基本的な姿勢です。(賀曽利隆)

東北の復興をずっと見続けていきたい!

『地平線通信』2012年3月号より

●2月の報告会では江本嘉伸さん、渡辺哲さんとともに前に出て話をさせてもらいました。渡辺さんはこの日のために、わざわざ休みをとって福島県のいわき市から来てくれたのです。感謝、感謝。間もなく東日本大震災から1年ということで現地の様子、福島県の太平洋側の「浜通り」が話題の中心になりました。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で2重苦、3重苦にあえぐ浜通りですが、原発爆発事故の20キロ圏内ということで、いまだに楢葉町の自宅に戻れない渡辺さんの話には胸が痛くなってしまいました。

●2月の報告会の2週間前に、江本さんと一緒にいわき市に行きました。じつは3月の報告会をいわき市で開催したいという江本さんの強い意向があったからです。この1泊2日の「いわき市」は忘れられないものになりました。江本さんを車に乗せて行ったのですが、常磐道で一気に東北に入るのではなく、いわき勿来ICのひとつ手前、関東側の北茨城ICで高速道を降り、大津漁港に行きました。そこでは大地震直後のような惨状を見ました。大津漁港は大津波以上に、大地震にやられていたのです。ぼくは昨年(2011年)、何度となくバイクを走らせ、東北の太平洋岸の全域を見てまわりましたが、このような復興とは縁遠い関東側の被災地を見ていなかったのです。

●東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬からは、東北の太平洋岸を見てまわりました。いわき市最大の漁港、小名浜漁港には活気が戻り始めていました。東北最大の水族館「アクアマリン」は奇跡の復活をとげ、かつての人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」も再開し、そこそこの人を集めて海産物を売っていました。「市場食堂」も店舗を新しくして営業を開始していました。ところが漁港の岸壁で漁師さんたちの話を聞いたとたんに暗い気持ちになります。魚市場は再開されたのですが、水揚げされる魚はほとんどない状態だといいます。小名浜港に水揚げされたというだけで、まったく買い手がつかないのです。風評被害のあまりの大きさに、いいようのない怒りがこみあげてくるのでした。

●小名浜から太平洋岸を北上し、大津波で集落が全滅した豊間や薄磯を通り、松林のつづく新舞子浜へ。ここには四倉舞子温泉の温泉旅館「よこ川荘」があります。じつは3月の報告会はここでやろうという話が進んでいたのです。大広間には舞台があり、50人くらいが入れます。「よこ川荘」も大津波で激しくやられましたが、おかみさんの獅子奮迅の活躍で宿の再開へとこぎつけました。そんなおかみさんのお話も聞かせてもらえるし、宿を拠点にして大津波に襲われた被災地を見てまわることもできます。しかし残念ながら、災害復興工事関係の長期滞在者で満室状態がつづいていました。それを知って江本さんは残念がるそぶりも見せず、3月の報告会のいわき市での開催を断念したのです。

●その夜はいわき駅前のホテルに泊まりましたが、渡辺哲さんと渡辺さんの弟さんが来てくれました。いわき駅近くの居酒屋に行き、飲みながらお2人の話を聞かせてもらいました。楢葉町役場職員の弟さんの話は印象深いものでした。大地震発生から1ヵ月ほどの間の詳細は、後世に残さなくてはならないものだと強く感じました。楢葉の町役場は会津美里町に移され、町民はいわき市をはじめとして各地に避難しました。そのため楢葉町はバラバラの状態になってしまったのです。原発事故の影響の大さを改めて思い知らされました。原発の爆発事故さえなかったら…。その翌日は渡辺哲さんの案内でいわき市内をまわりました。

●ぼくは東日本大震災1年後の3月11日には、東北太平洋岸の全域を見てまわる「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発します。11日の夜は東北太平洋岸最南端、鵜ノ子岬の勿来漁港で野宿する予定です。そこへ渡辺哲さんは来てくれるといいます。昨年(2011年)の東日本大震災2ヵ月後、5月11日の夜の再現です。渡辺さんとは東日本大震災の1年後をおおいに語ろうと思っています。東北の被災地の復興は大変なことです。復興の手かせ足かせになっている瓦礫撤去ひとつをとってみても、その受け入れにはあちこちで「絶対反対!」の嵐が吹き荒れています。東北の復興はこれから先、5年、10年…と、息の長い長期戦になりますが、その復興していく東北の姿をこれからもずっと見つづけていきたいと思っています。(賀曽利隆)

2度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」

『地平線通信』2011年8月号より

●第2回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ってきました。いわき駅前から伊達市の国道4号までは国道399号を走りました。このルートは東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故20キロ圏スレスレのところを通っていきますが、全線が通行可です。いわき市からは川内村→旧都路村(田村市)→葛尾村→浪江町→飯舘村と通って伊達市に入ります。飯舘村の状況は新聞、テレビなどの報道でよく知られていますが、それ以上に惨憺たる状況なのが川内村です。国道沿いの店はすべてシャッターを下ろし、信用金庫は休業中、JAも休業中、村民憩いの「かわうちの湯」も休業中…。いつもの年だと田植えの終った水田の風景なのですが、今年は荒れ放題の田畑です。大地震の被害も、大津波の被害もまったく受けていない川内村なのに、放射能汚染で村は死んだかのようです。国道から原発事故20キロ圏に入る道はすべてが「立入禁止」で、通行止になっています。村のいたるところで「危険」の大看板を目にします。自分たちの故郷が「危険地帯」になってしまった悔しさ…。福島県内でも一番といっていいくらいに豊かな自然を誇る川内村をこのようにしてしまった東電の原発事故には、おさえようのない憤りがこみ上げてきます。

●浪江町の津島から赤宇木にかけては放射線量が最も高いところで、赤木宇に至っては放射線量が40・0マイクロシーベルトを超えているのです。桁違いの放射線量の高さです。それでも国道399号は通行止にもならずに通れました。峠を越えて飯館村に入りました。ここでは2度、バイクを止めましたが、2度とも通りがかった警視庁のパトカーに調べられました。口調こそ丁寧でしたが、まるで犯罪者あつかいです。免許証を無線で照会して無罪放免になりました。峠を下った長泥の掲示板には累積の放射線量の一覧が張り出されてましたが、右肩上がりの数字には背筋が冷たくなるほどでした。「このままだと、チェルノブイリを超える!」と思ったほどです。原発事故の直後、さかんに「このくらいの放射線量なら安全です」と安全を繰り返していた原子力の専門家たちの言葉が思い出されてなりませんでした。

●仙台では海沿いの幹線、県道10号(前回の鵜ノ子岬→尻屋崎では北半分が通行止)を走りました。仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜けていくのですが、その入口には小型の飛行機の残骸がそのままになっていました。小さな沼には車が折り重なっていましたが、ここからはまだまだ遺体が出てくるのではないかと思わせるような光景でした。地平線会議の報告会で衝撃の報告をしてくれた相沢さん父子の閖上は、許可書を持っている人のみが入っていけるような状況でした。名取川の左岸は壊滅状態。あまりのすさまじさに目を覆いましたが、名取川右岸の閖上も同じようなやられ方なのでしょう。今回の大津波では阿武隈川、名取川、鳴瀬川、旧北上川、北上川、気仙川、閉伊川と、大きな川の河口や下流沿いが大被害を受けたことがよくわかります。

●県道10号から仙台港を間近にする蒲生干潟に面した日和山まで行ってみました。標高6メートルの日和山は「元祖日本で一番低い山」で知られていたのですが、なんと山は大津波でえぐられ完全に消滅していました。自然の宝庫、蒲生干潟からも大半の植生が消えていました。その周辺はまるで爆撃をくらったかのようで、ほとんど手をつけられないような状況。全国から集結した警察が懸命の遺体の捜索をしていました。各地でつづけられている行方不明者の遺体捜索は、自衛隊から各都道府県から派遣された警察へと移っているようです。

●仙台以北では大震災から3ヵ月ということもあって、一番、目についたのはガレキの撤去が急ピッチで進んでいることです。全滅した町々のガレキが撤去されると、いままで見たこともないような光景が広がり、たとえば岩手県の大槌や山田、田老のように、「えー、こんなに広かったのか…」と驚かされてしまうのでした。

●陸前高田では前年(2010年)に泊まった民宿「吉田」を探してみました。夕暮れ時に飛び込みで行った宿なのですが、こころよく泊めてもらい、宿のご夫婦にはとってもよくしてもらいました。ぼくにとっては忘れられない宿なのです。時間がないなか、豪勢は魚料理の夕食を出してもらいました。前回の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、かろうじて国道45号は通れましたが、そこから南の海岸地帯に出る道は通行止(というよりも消え去っている状態)で、民宿「吉田」までは行けませんでした。今回は国道45号(その地点は以前は立体交差でしたが、高架橋が落下し、まったく様相が変っています)を右折し、民宿「吉田」まで行くことができました。しかし大津波に襲われた民宿「吉田」はもちろんのこと、周囲の家々は大津波に流され、きれいさっぱりとなくなっていました。目の前の海岸の堤防も破壊されていました。あのときはちょうど夏祭りだったのですが、神社も消え去っていました。茫然と立ち尽くしてしまったのですが、通りかかった人の話では民宿「吉田」のみなさんは全員が無事だとのことでした。大地震のあと近くの高台まで逃げたということですが、それを聞いて「ほんとうによかった!」と思いました。「命さえ助かれば!」。

●陸前高田の惨状は、今回の大津波を象徴するかのようなすさまじさです。町全体が絨毯爆撃されたかのような壊滅的な状態。長さ2キロあまりの高田松原は消え去っています。江戸時代に植林された7万本もの赤松黒松は、見事な松原をつくり出していました。「日本三大松原」に次ぐ高田松原でした。7万本もの松が根こそぎやられましたが、気仙川河口の水門近くには1本だけ生き残りました。「奇跡の松」です。この奇跡の松には何としても生き延びてもらいたいと心底、思いました。陸前高田では今回の大津波のすさまじさを改めて思い知らされました。というのは高田松原の後には大防潮堤が延々とつづいていたからです。大津波はあの大防潮堤を破壊し、松原を全滅させ、さらに高田の町を飲み込んだのかと思うと、鳥肌が立ってきます。高田松原の海水浴場は、その大防潮堤に何ヵ所かある城門のような頑丈な鋼鉄の門をくぐり抜けて行くのです。あの巨大な鋼鉄の門も破壊されたのです。岩手県南部の三陸海岸の海水浴場というと、高田、綾里、吉浜が知られていますが、それらは今回の大津波でことごとくやられてしまいました。

●吉村昭の『三陸海岸大津波』には、こんな一節があります。「防潮堤は一言にして言えば大袈裟すぎるという印象を受ける。中略。私が三陸津波について知りたいと思うようになったのは、その防潮堤の異様な印象に触発されたからであった」。ぼくはこの気持ちがよくわかります。三陸海岸の巨大防潮堤を見るたびに、「これって無用の長物」と、思っていました。昨年(2010年)の夏、陸前高田に行ったときは、この大袈裟すぎる防潮堤の鋼鉄の門をくぐり抜け、大勢の海水浴を楽しむ近郷近在のみなさんと一緒になって泳ぎました。それはきれいな砂浜で、それはきれいな海でした。あの海が牙をむいて巨大防潮堤を破壊し、高田松原を全滅させ、高田の町に襲いかかっていったのです。(賀曽利隆)

「鵜ノ子岬→尻屋崎」東北海べり被災地行

『地平線通信』2011年6月号より

●「鵜ノ子岬→尻屋崎」に旅立ち、「東日本大震災」の大津波で大きな被害を受けた東北太平洋岸の全域をバイクで走ってきました。出発点は東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬(福島県いわき市)、ゴールは東北太平洋岸最北端の尻屋崎(青森県東通村)です。岩手県北部の久慈を過ぎると大津波の影響は薄れ、青森県の三沢以北ではほとんど被害が出ていませんでした。それでも三沢漁港(ここはかなりの被害が出ています)で7メートル、白糠漁港(ここはほとんど被害は出ていません)で5メートルの大津波です。今回の大津波がいかにすさまじいものだったかが、東北太平洋岸最北の地の、この数字からもみてとれます。その途中の岩手県宮古市から田野畑村にかけては軒並み30メートル超の大津波が記録されています。

●三陸リアス式海岸の宮城県内の女川や雄勝、志津川、岩手県内の高田や大槌、山田などの町々は壊滅的な状態で、その惨状は目を覆うばかりでした。悪夢でも見ているかのようで、信じられないような光景がつづいていました。宮城県の石巻や気仙沼、岩手県の大船渡や釜石、宮古といった三陸海岸の拠点となる港も大きな被害を受けていました。牡鹿半島や広田半島などは大津波で半島全体がやられ、とくに牡鹿半島の集落は海岸に点在しているので、中心となる鮎川の町を含め、ほぼ全滅状態。広田半島では大津波が半島を両方向から押し寄せ、津波同士が激突した現場を見ました。

●その中にあって広田半島では、最南端の広田崎近くの漁港で1隻だけ残った漁船が大震災後、初の漁に出てカニ、タコなどをゴッソリ獲って帰港したシーンに出会いました。しかし出荷する魚市場もなく、製氷工場も壊滅状態で氷もなく、漁師さんは、ご近所のみなさんに配るのだといっていました。漁師さんの話はすさまじいものでした。大地震のあと、大津波が来るとわかったとき、家族の反対を押し切って港に駆けつけました。船をつないだロープを鉈でぶち切り、エンジン全開で沖に逃げたというのです。ほんとうに間一髪で、もしモタモタしてロープをはずしていたら、港内に押し寄せた大津波に飲み込まれてしまったということです。

●唐桑半島では南端の御崎近くの民宿「堀新」に泊まりましたが、そこの庭からは対岸の大島がよく見えました。ところが大津波が押し寄せたときは、押し寄せる巨大な黒い壁がすべてを覆い隠し、大島はまったく見えなかったといいます。巨大津波の「海の壁」は、高層ビル並みの高さで気仙沼の海岸に襲いかかってきたのです。

●このように鵜ノ子岬から尻屋崎まで、東北・太平洋岸の数百キロにも及ぶ全エリアに大津波が押し寄せたのですが、さすが日本の国力とでもいうのでしょうか、仙台以南の国道6号や仙台以北の国道45号をはじめとする幹線国道、国道につながっている県道はほとんどが通れました。通行止の区間は迂回路が通れるようになっていました。驚いたのは路面がまるで箒で掃き清められたかのように、どこもきれいになっていたことです。車道のみならず、歩道もきれいなところが多かったのです。そのすぐ脇は延々とつづくガレキの山なのに…。例外は爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の20キロ圏です。この立入禁止区域の影響は甚大で、福島県太平洋岸の「浜通り」は完全に分断され、20キロ圏の南側から北側に行くのは大変なことでした。

●福島県いわき市の四倉舞子温泉「よこ川荘」は営業を再開し、さっそく泊めてもらいました。「よこ川荘」には、4月の地平線会議の報告会で東京電力福島第1原子力発電所20キロ圏からの強制避難の生々しい話をしてくれた渡辺哲さんがバイクに乗って来てくれました。「よこ川荘」のおかみさんの話は衝撃的でした。新舞子浜では多くの犠牲者が出ました。いまだに行方不明の人たちも多くいるとのことです。犠牲者の出た理由のひとつには「津波見物」があったといいます。大地震のあとすぐに逃げれば助かったということですが、大津波警報が出ても、「どうせ4、50センチくらいの津波だろう」ということで、怖いもの見たさもあって、相当数の人たちが堤防上に座り込み、やって来る津波を見ようと待ち構えていたのです。ところが予想をはるかに超える大津波が押し寄せ、逃げる間もなく、あっというまに大津波に飲みこまれてしまったのです。

●この話を聞いた時、あらためて昨年(2010年)2月28日の大津波警報を思い返しました。前日のチリ沖地震の影響で、昼過ぎには日本に大津波が押し寄せるといって、日本中がちょっとしたパニック状態に陥ったのは、まだ記憶に新しいところです。NHKなどは全番組を停止して大津波警報を流しつづけました。この日は日曜日。鉄道が止まったりして行楽地から帰れなくなった人も多くいました。三陸海岸には10メートルを超える大津波が予想されるということでした。ところが実際に押し寄せた津波はメートル単位ではなく、センチメートル単位で、海面がわずかに盛上がった程度でした。人的被害も物的被害もゼロ。あの2010年2月28日の「大津波警報」が、翌2011年3月11日の2万人もの死者・行方不明者を出した津波被害につながっているとぼくは思っています。

●渡辺さんは大津波に襲われた直後の「よこ川荘」を見ています。その瞬間、温泉宿の再開はもう不可能だろうと思ったそうです。それが全国から集まったボランティアのみなさんの懸命な努力も手伝って、3・11の3ヵ月後を前に宿の再開を成しとげました。「大広間の水を吸った50畳もの畳を私一人で運び出したんですよ。ああいうのを火事場のバカ力っていうんでしょうね」というおかみさんの顔には大津波にうち勝ったという自信が浮かんでいるように見えました。このように頑張っている人たちが、東北各地にはたくさんいます。東北人は粘りづよく、人生に対して前向きで明るいように思われます。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走り終えて得た大きな収穫は、そのような東北のみなさんに各地で出会えたことです。(賀曽利隆)

「東日本大震災特別地平線会議報告会」2011年4月23日

『地平線通信』2011年5月号より

●「東日本大震災特別地平線会議報告会」は、すごかったですね。何がすごいかって、「節電自粛」の影響で午後2時という開始時間にもかかわらず、会場は満員になりました。ほんとうに驚きました。平日の午後2時なので、来てくださる方はパラパラ程度であろうと予想していたものですから。会場を包み込む熱気には圧倒されてしまいました。地平線会議の歴史に新たな1ページが加わった、そんな気がしました。

●さて報告会ですが、私、カソリの「何で東北なの?」がオープニング。第1部の渡辺哲さん(福島県楢葉町)は大地震、大津波、原発事故のトリプルパンチ。避難所での様子は何とも生々しいものでした。つづいて相沢さん父子(宮城県名取市)。大津波前の自宅の写真と、すべてが流されてしまった大津波後の写真の対比はあまりの衝撃的で、言葉を失うほどでした。お父さんらが避難所で、「寝ないように!」と、みなさんで励ましあったという話には感動しました。同じ3月に襲った1933年の昭和三陸大津波では、津波で助かったものの、その後、多くの人たちが凍死したという話を聞いていたからです。

●第2部のリレートークはまさに「地平線会議」の面目躍如といったところでした。トップバッターの登山家・谷口けいさんのお話で強く印象に残ったのは自衛隊の救援活動のすごさです。指揮系統がきわだっていたようです。この大震災の第1報を海外で聞いたというのも谷口さんらしいと思いました。つづいての滝野沢優子(福島県天栄村)さんは、いかにも滝野沢さんらしいというか、まさに犬猫大好き人間の発想でした。「県外のボランティアの人たちが被災地の犬猫を助けているのに、地元の私が…」という思いで「犬猫みなしご救援隊」の活動をしているとのことです。被災地に置き去りにされて餓死した犬の写真はショッキングでした。「そうか、今回の大震災ではこのような被害の一面もあったのか」と思い知らされました。

●第3部の「RQのやってきたこと」は、広瀬敏雄さんと佐々木豊志さんの対談形式。広瀬さんの「RQはレースクイーンではなくレスキュー!」には会場から小さな笑い声が。沖縄の「地平線会議in浜比嘉島」では元気溌剌とした表情を見せてくれた広瀬さんでしたが、今回は憔悴したような表情が垣間見られました。想像を絶する今回の大震災でのボランティア活動の大変さが、広瀬さんのお顔からうかがい知ることができました。会議を中断して会場に駆けつけてくれた広瀬さんと佐々木さんが退席したあとは、第2部のリレートークのつづきです。RQ活動真っ最中の新垣亜美さん、「浜のかあさん応援団」の安藤安紀子さんが、それぞれの現状を報告してくれました。午後2時から午後6時までと、4時間もの拡大版の報告会でしたが、気がついてみるとあっという間に終っていました。それほど中身の濃いお話の連続でした。すごいぞ、地平線会議。

●ぼくは今回の報告会で、みなさん方からすごいエネルギーとパワーをもらったような気がします。その力でもって、大震災から2ヵ月後の5月11日に、バイクで東北に出かけます。福島から青森までの東北・太平洋側を走ってきます。東北の入口というのは、はっきりとしています。それは茨城・福島県境の鵜ノ子岬。海に落ち込む断崖の関東側が平潟漁港で、東北側が勿来漁港になります。その鵜ノ子岬から旅を始めようと思っています。原発事故での立ち入り禁止区域や通行止区間は、そのたびに頭をひねって迂回していきます。旅の最後は下北半島北東端の尻屋崎。そこには「本州最涯地」の碑が建っています。その途中では本州最東端、岩手県重茂(おもえ)半島のトドヶ崎にも立ち寄ろうと思っています。行ければの話ですが。岬への入口が姉吉漁港。今回の大津波で38・9メートルという波高を記録したところです。

●今回の東北ツーリングでは被災地の被害を見るだけではなく、現在、国道6号はこんな状態ですよ、国道45号はこんな状態ですよ、日本三景の松島は大丈夫ですよ、宮古の浄土ヶ浜には行けますよ、鵜ノ巣断崖から眺める「海のアルプス」の風景はまったく変りませんよ…といったツーリング情報を流し、1人でも多くのライダーに東北の太平洋岸を走ってもらいたいのです。

●カソリと東北のかかわりは、多くのツーリングライダーのみなさんが使ってもらっている『ツーリングマップル東北』(昭文社)にあります。1997年に誕生したのですが、その2年前から現在まで、毎年、1ヵ月1万キロを目安に実走取材で東北各地を駆けめぐっています。15年間で15万キロ走りました。東北の全市町村に足を踏み入れていると自負しています。103見開きページからなるものですが、「地図に個性を!」を合言葉に、全部で数千のコメントが入っています。その大半は実際にその地に行き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の舌で味わったものを書き込んでいます。「みちのくのカソリ」とか「みちのくライダーカソリ」などと呼ばれています。

●それだけに今回の大震災と大津波によるあまりの惨状は目を覆うばかりで、泣きたくなるほどです。3月11日以来、「なんで、なんで…」が自分の口ぐせのようになってしまいましたが、もう「なんで…」とは言っていられません。自分なりに東北に一番、恩返しできること、それは東北の今の情報を発信をすることだ思っています。それでは東北に行ってきます。(賀曽利隆)

「東日本大大震災」

『地平線通信』2011年4月号より

 まもなく10年目の3・11を迎えます。2011年3月11日に発生した「東日本大震災」の直後から、ぼくはいたたまれないような気持ちで、「地平線通信」に毎月のように書きました。それら一連の「東日本大震災」の関連原稿をお読みください。それを通して当時の状況が伝われば幸いです。

●このたびの「東日本大震災」で被災されたみなさまにお見舞い申し上げます。亡くなられた多数の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。3月11日(金)14時26分に発生した「東北地方太平洋沖地震」は、想像を絶する甚大な被害がもたらしました。我が家は神奈川県西部の伊勢原市にありますが、これがマグニチュード9・0という世界最大級の地震のすごさなのでしょう、震源地から何百キロも離れているというのに、びっくりするような揺れで震度5強でした。震源地近くの揺れの激しさはどれほどのものだったでしょうか。

●地震発生から4日目に、「地平線会議」の仲間で、ウルトラマラソンのランナーでもある福島県楢葉町在住の渡辺哲さんから電話をもらいました。いわき市内の避難所からの電話でした。渡辺さんは楢葉町の東京電力福島第2原子力発電所の近くに住んでいます。渡辺家は今回の巨大津波に飲み込まれる一歩手前だったとのことですが、猛烈な揺れで家は大きな被害を受けました。それでも渡辺さんは、家族のみなさん全員が無事だったといって喜んでいました。巨大津波に追い討ちをかけるように、今度は東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故。そのため、いわき市内の避難所に強制的に移され、渡辺さんはそこから電話をくれたのです。「すぐにでも家に帰りたいですよ。車ではまったく動けない状態ですが、バイクなら移動できます。バイクの機動力でもって、何とかしたいのです」という渡辺さん。ぼくはそこに東北人特有の強さ、人生に対する前向きな姿勢、そして明るさを感じるのでした。

●それにしても「東日本大震災」のすさまじいばかりの被害状況には、もう声もありません。女川や志津川(南三陸町)や陸前高田といった三陸のリアス式海岸の町々がきれいさっぱり消え去っている光景には、思わず我が目を疑いました。ぼくは東北の太平洋岸が大好きで、毎年、バイクで走っています。昨年も「いわき→八戸」をバイクで走りました。それは今回の大地震にともなう巨大津波で徹底的に痛めつけられたエリアに重なります。福島県いわき市の舞子浜の舞子温泉「よこ川荘」に泊まり、相馬市の松川浦の食堂「旭亭」で名物の「あさり御飯」を食べました。宮城県石巻市の牡鹿半島の鮎川では「鯨の刺身」、志津川(南三陸町)の食堂「しお彩」では「まぐろ丼」を食べ、気仙沼市の唐桑半島突端の国民宿舎「からくわ荘」に泊まりました。岩手県の陸前高田市では高田松原を歩き、風光明媚な広田半島の広田崎や黒崎に立ち、海岸近くの民宿「吉田」に泊まりました。宿のご主人、奥さんにはほんとうによくしてもらいました。そして大船渡から釜石、宮古、久慈と北上し、八戸に向かっていったのです。それだけに、各地のあまりの惨状には涙が出るほどです。「なんで、なんで…」。

●三陸のリアス式海岸では、いたるところで見上げるような防潮堤を見ました。まるで城砦を見るかのような頑丈な造りでした。岩手県の綾里(大船渡市)や両石(釜石市)、田老(宮古市)などの防潮堤はとくにすごいもので、「まさかあの見上げるような防潮堤を津波が越えるなんて…」と、想像すらできませんでした。それが今回の巨大津波は軽々と防潮堤を乗り越え、町々を飲み込んだのです。綾里漁港を襲った今回の津波は高さ23mとのことです。津波の国内の最高波高としては、明治29年(1896年)の明治三陸地震津波で綾里を襲った38・2mが記録されています。今回の大津波では、それを上回る40・1mの最大波高が綾里湾で記録されています。

●ニュースの映像には登場していませんが、松島湾には桂島や野々島、寒風沢島といった有人島が浮かんでいます。島民全部を合わせれば数千人という人口です。ほとんどの島が平坦なので心配です。牡鹿半島の西岸には田代島、網地島の2島があります。この2島も心配です。牡鹿半島の東岸には出島があります。女川から船で渡る島ですが、女川の町自体が壊滅的な被害を受けているので、出島の被害も大きいと思われます。我々日本人が汗水たらして築き上げてきた日本。その日本が一瞬にして崩れ去ってしまった…、そんな思いを強くします。悪夢であってほしいとも思います。今回の地震、津波は桁外れの大きさです。とてつもない数の人命と家が失われました。道路も鉄道も港も町も村も流されました。その中で立ち上がっていくのは大変なことだと思います。我々、日本人は戦後最大の国難に直面しています。しかし日本人は戦後の焼け野原の中から這い上がり、立ち上がった歴史を持っています。今こそもう一度、日本人がひとつになって、一丸となって立ち向かっていけば、きっとこの国難を乗り越えて復興できるものと確信しています。(賀曽利隆)

地平線通信が全国紙の一面に‼︎

「カソリング」で連載中の『地平線通信』ですが、今日(3月3日)の朝日新聞の夕刊一面に、その『地平線通信』が大きく紹介されました。

ユニークな「地球体験」触れる醍醐味
「地平線会議」会報誌500号突破

と、このような大見出しのあと、次のようなリードが続きます。

 登山家や冒険家を中心に「日本人の地球体験の共有と記録」を掲げて始まった「地平線会議」の会報誌が、新型コロナウイルスの感染拡大で海外渡航が難しいなか、発行500回を超えた。結成から40年以上続く会は、ユニークな体験や価値観を共有する場となってきた。会報誌は、コロナ禍の日本や世界各地の暮らしを記録し続けている。

と、このようなリードのあとには、一面の大半の紙面を使って「地平線会議」、「地平線通信」のことが書かれています。