30年目の「六大陸周遊記」[043]

アフリカ東部編 19 ベニスエフ[エジプト] → ハルツーム[スーダン]

「ナイルの賜もの」

 ルクソールを過ぎると車窓の風景は一段と乾燥したものになる。ナイル川の両側の緑地は猫の額ほどの狭さになり、その向こうには砂漠が広がっている。途方もない広さだ。列車が巻き上げる砂塵が容赦なく車内に入り込んでくる。列車はナイル川の青いひと筋の流れに沿ってアスワンを目指してひたすらに走りつづける。

 こうしてみると、エジプトという国は、ほんとうに「ナイルの賜もの」だ。ナイル川の流れがなかったら、おそらくエジプトという国は存在しなかったであろう。急行列車はカイロを出てから19時間で終点のアスワン駅に着いた。真昼の強烈な太陽がギラギラと照りつけていた。

ナセル湖の船旅の準備

 エジプトのアスワンからスーダンのワジハルファに行くのには、ナイル川をせき止めてできたナセル湖の船が唯一の交通手段。その船は週2便、出ていた。アスワンでもカイロと同じようにユースホステルに泊まり、ワジハルファに渡る準備をした。

 エジプトは食料が安い。大きなカゴを買い、パン15本、オレンジ2キロ、タマネギ1キロ、サディーンの缶詰3個、チーズ、ジャム、つけもの、デーツ、あめを買った。全部合わせても2ポンド(約1000円)ほど。このカゴいっぱいの食料でスーダンの首都ハルツームまでもたせるつもりだ。

 クツはとうとうダメになった。脱ぎすててゴムゾウリを買った。ほころびのひどいズボンは半ズボンにし、上着はつぎあてしてもらう。ミシンひとつで商売をしている仕立屋に直してもらったのだが、両方で15ピアスタ(約75円)だった。

 さらにワジハルファまでのキップを買い、残ったエジプトのお金をスーダンのお金に替えた。レートはエジプトの1ポンド50ピアスタがスーダンの1ポンドだった。

 朝も昼も夜も、食堂で腹いっぱい食べた。食料の安いエジプトでは食堂も安い。こうして食いだめし、ナセル湖の船旅の準備を終えた。

アスワンの町
アスワンの町
アスワンを流れるナイル川
アスワンを流れるナイル川

ナセル湖を行く

 アスワンのユースホステルではイギリス人旅行者のリチャードに出会った。彼は大学を半年間休学し、北から南へと、「アフリカ大陸縦断」の旅に出た。旅のゴールは南アフリカのケープタウン。同じ方向に行くのだからと、リチャードと一緒にナセル湖の船に乗ることにした。「旅は道連れ」とはよくいったもので、その後、スーダンとウガンダの国境までリチャードと一緒に行くことになる。

 11時20分発の列車でアスワン駅からアスワン・ハイダムまで行く。駅から船着場まではわずかな距離だが、なにしろ食料をどっさり買い込んだので、歩きにくくて仕方ない。船着場では出国手続きを終えて船に乗り込んだ。

 船は2階になっていて、乗船すると、さっそく寝袋を敷いて自分の寝場所を確保した。屋根はない。屋根は必要ないからだ。このあたりはまったく雨が降らない。1滴の雨も降らない年が何年もつづくこともある。アスワンからワジハルファに行くのに雨に降られたら、それこそ奇跡といっていい。

 船はアスワン・ハイダムのすぐそばにある船着場を15時30分に出発した。ナセル湖を南へと進んでいく。日が落ち、暗くなると、岸辺に船を着け、そこでひと晩泊まる。無数の星空を見上げながら寝るのは最高の贅沢。この上もなく豊かな気分になってくる。

 日の出前はなんともいえずにすがすがしい。日中の猛烈な暑さが信じられないほど。やがて砂漠の日の出を迎える。朝日は毎日、確実に砂漠の地平線に昇る。はっきり、くっきりとした大きな姿を地平線上に現す。思わず手を合わせたくなるほどの神々しさ。船上でイスラム教徒は東のメッカの方角に向かって祈る。メッカに向かってひれ伏すイスラム教徒の姿と砂漠の風景はぴったりとひとつに溶け合っていた。

 ナセル湖の静けさを破るかのように、2台のホバークラフトがエンジン音を轟かせて船を追い抜いていった。アスワンとアブシンベルを結ぶホバークラフトだ。アブシンベル神殿を見にいく観光客は、ぼくたちの乗った船にカメラを向け、盛んにシャターを切っている。日中の暑さはすさまじいばかりで、何もする気にはならない。日陰でゴロゴロしているだけだ。日が落ちると、前方のはるかかなたに明かりが見えてきた。それがアブシンベルの明かりだった。

 アスワンを出てから3日目、船はスーダンのワジハルファに近づいた。目をこらして見たが、モスクのミナレットは見えなかった。ワジハルファはナイル川沿いのオアシスで、スーダンとエジプトを結ぶ重要な交通の中継地として栄えてきた。それがアスワン・ハイダムの建設によって水中に没してしまうことになり、何代にも渡ってこの地を生活の場としてきた人たちは、はるか南、エチオピアとの国境近くに移住させられた。新しくできた町がニューハルファだ。

 ぼくが1969年に来たときは、ワジハルファの町はすでになく、水中に没していた。しかし、モスクのミナレットだけは、その先端が水面から顔をのぞかせていた。そのミナレットの先端もすでに完全に水中に没してしまった。

 午前11時、ワジハルファの船着場に到着。アスワンから44時間の船旅だった。

ナセル湖を行く
ナセル湖を行く
ナセル湖に落ちる夕日
ナセル湖に落ちる夕日
スーダンのワジハルファ港
スーダンのワジハルファ港

灼熱のヌビア砂漠を歩く

 真昼のワジハルファの暑さは強烈だ。一発KOパンチのようなすさまじさ。太陽の光をまともに浴びていると、頭がクラクラしてくる。船着場で入国手続きをすませると、乗客はトラックやジープに乗ってワジハルファ駅に向かっていく。駅まではわずか4、5キロなのに料金は60ピアスタ(約500円)と高い。ぼくは歩いていくことにした。アスワンから一緒のリチャードも歩くという。駅まで歩くのは我々、2人だけだ。火のように熱くなったヌビア砂漠の砂の上を歩いた。ザックの肩ひもは切れているので、頭の上にのせたり、わきにかかえたり、赤ん坊をおんぶするように背中で背負ったりと大変だ。足はといえばゴムゾウリなので、砂の上ではなんとも歩きにくい。ゴムゾウリを脱いで裸足になると、足の裏は火傷しそうなほど熱くなる。

 ワジハルファからスーダンの首都ハルツームまで、ナセル湖の船に接続して週2便、列車が走っている。それに乗り遅れたら次の列車まで2日も3日も待たなくてはならないので、あまりゆっくりとは歩けない。リチャードと励まし合いながら灼熱の砂漠を歩いた。

ハルツーム行きの列車

 ワジハルファ駅に着いた時には、ハルツーム行きの列車の発車時間まで、まだ十分な時間があった。リチャードと駅の近くの食堂に入る。やっと太陽光線をさけることができ、ホッとひと息つけた。砂漠では極端に湿度が低いので、日陰に入れば、けっこうしのぎやすくなる。リチャードとお茶を飲んだ。砂糖のたっぷりと入った紅茶だ。この甘ったるい味が砂漠ではなんともいえずに快く、のどの渇きをいやしてくれる。

 列車は1等、2等、3等、4等に分かれている。ぼくたちはハルツームまでの4等の切符を買った。1人4ポンド42ピアスタ。日本円で3500円ほど。ワジハルファからハルツームまでは1000キロほどなので、エジプトのカイロからアスワンまでの料金と比べるとかなり高いが仕方ない。

 列車は16時40分発の予定だが、時間になっても走り出す気配はない。1時間たっても2時間たっても出発しない。まわりにいる人たちはジーゼルカーが故障したからだといっている。1969年に来たときは蒸気機関車だった。それが今回は日本製のジーゼルカーに変わっていた。ジーゼルカーが日本製なのはみんな知っているので、日本人のぼくとしては何かバツが悪かった。

 列車が動きだしたのは夜中になってからだ。リチャードの時計では24時25分。8時間あまりも遅れての発車だった。車中ではリチャードをえらいめにあわせてしまった。ぼくは荷物棚の上に、リチャードは床の上に寝袋を敷いて寝た。ところが列車がカーブで揺れたとき、荷物棚から落ちてしまった。落ちた場所がちょうどリチャードの上だった。

 彼の悲鳴で目がさめた。リチャードがクッションになってくれたので痛くはなかった。かわいそうなのはリチャードでしばらくは「痛い、痛い」といって顔をしかめていた。

「今度は大丈夫だから」
 と、ぼくは懲りもせずに、また荷物棚に登り、その上で寝るのだった。

辛い夜…

 目をさますと、列車はヌビア砂漠のまっただなかを走っていた。ナンバー5ステーションに止まった頃、砂漠をピンクに染めて朝日が昇った。乗客の多くが砂の上にひれ伏してメッカに向かって礼拝している。ヌビア砂漠内の駅名はナンバー5ステーションのように数字なのだ。

 列車はもうもうと砂煙を巻き上げながら走る。ジーゼルカーにとっては、日本では考えられないような悪条件の中を走る。おまけに日中の猛烈な暑さ。これでは故障するはずだ。客車は白っぽい色で、窓が小さく、庇がついている。それというのも、砂漠の強烈な日差しを遮るためだ。

 その日はちょうどイースターだった。リチャードとオランダ人の若いカップルと一緒に食堂車に行き、ワインで乾杯した。砂漠で飲むワインは腹にしみた。

 昼過ぎにアブハメッド駅に着く。やっとヌビア砂漠を抜け、ナイル川の河畔に出た。砂漠を見つづけた目で青いナイルの流れを見ると、目の中まで青く染まりそうだ。エジプトがナイルの賜ものなら、スーダンも同じくナイルの賜もの。スーダンという国もナイル川の流れなくしては考えられない。

 その夜は眠れなかった。べつに前の晩に荷物棚から落ちたからではない。体調がすごく悪くなったからだ。熱があった。頭がガンガン痛んだ。じっと我慢するしかない。なんとも長い夜になり、夜が明けるのをいまかいまか…という気持ちで待った。

 待望の夜明け。列車はハルツーム・ノース駅に着く。そこでかなりの乗客が降りた。青ナイルにかかる鉄橋を渡り、終点のハルツーム駅に着いたのは6時30分。ワジハルファから30時間の列車の旅だった。

 その日はハルツームのユースホステルに泊まった。最悪の体調だったこともあり、1日中、日陰でゴロゴロしていた。リチャードも30時間の列車の旅に疲れ切ったようで、同じように日陰でゴロゴロしている。夕方になり、涼しい風が吹きはじめると、やっと熱が下がり、体もずいぶんと楽になった。

ワジハルファから列車でハルツームへ
ワジハルファから列車でハルツームへ
ヌビア砂漠の日の出
ヌビア砂漠の日の出
ヌビア砂漠の日の出
ヌビア砂漠の日の出
ヌビア砂漠内の駅で停まる列車
ヌビア砂漠内の駅で停まる列車
ヌビア砂漠内の駅で停まる列車
ヌビア砂漠内の駅で停まる列車

30年目の「六大陸周遊記」[042]

アフリカ東部編 18 カイロ[エジプト] → ベニスエフ[エジプト]

ナイル川の流れ

 ベイルート発ハルツーム行きのスーダン航空機はエジプトのカイロ空港に着陸した。戦時下の空港は暗く、なんとも陰気な空気が漂っていた。入国手続きを終え、外に出る。執拗な客引きの手を振り切り、市内バスの乗り場に急ぐ。

 バスが到着する。乗ろうとする人たちは、降りようとする人たちをまったく無視し、我先にと喧嘩ごしで車内に殺到する。窓から車内に飛び込む人も何人もいる。かなりガタのきているバスで目で見てわかるほど車体は傾いている。ぼくはなんとか車内に入れたが、車内に入れなかった人たちはバスの外側にぶらさがっている。

 ぎゅうぎゅう詰めのまま終点まで行く。料金は安かった。2ピアスタ。日本円で10円ほど。そこで市電に乗り換え、またバスに乗ってカイロの中心街にあるヒルトンホテルの前まで来た。ナイル川の河畔にあり、はやる心を抑えられず、走って川の見えるところまで行った。

「ナイルだ!」
「これから、このナイル川に沿ってスーダンからウガンダまで行くんだ」

 そう思うと、胸の中が熱くなってくる。ナイル川の流れを見ていると、今、自分は確かにアフリカ大陸に戻ってきたという実感がするのだった。

カイロの中心街
カイロの中心街
カイロの中心街のバスターミナル
カイロの中心街のバスターミナル
カイロを流れるナイル川
カイロを流れるナイル川

列車でアスワンへ

 ひと晩、ユースホステルに泊まり、翌日、スーダン大使館に行く。ビザを申請したら、日本大使館からの書類が必要だといわれた。

「あなたの名前、スーダンに入国する目的、いつスーダンに行くのか、また何日ぐらい滞在するのか、それくらいのことを書いてもらいなさい」

「そんなこと、全部、ビザの申請用紙に書くでしょ。なんのためのパスポート、ビザの申請用紙なのですか」といいたい気持ちをグッと抑え、ひと言もいわず、いわれたままに日本大使館に行った。

 幸いなことに日本大使館はスーダン大使館のすぐ近くにあった。さらに館員の方はじつにてきぱきとその場で書類をつくってくれた。それを持ってスーダン大使館に引き返す。午前中に申請を終えたおかげで、午後にはスーダンのビザを手に入れた。スーダンのビザさえ取ってしまえば、カイロにもう用はない。夕方の急行列車で南のアスワンに向かうことにした。

 エジプトでは鉄道の料金が安いので、2等の切符を買った。「カイロ→アスワン」間は1000キロ近い距離だが、料金は2ポンド15ピアスタ。日本円で1000円ちょっと。当然、3等だったらもっと安くなる。

 2等に乗ったのだから、すこしはゆったりと座っていけるだろうと思ったのだが、それはなんとも甘い考えだった。地中海のアレキサンドリアからやってきた急行列車には、軍人たちがドドドドッと乗り込んだ。そのため車内はあっというまに超満員になる。2等でこの状態だから、3等はさらにすさまじいことになっているのだろう。

 16時30分、急行列車はカイロ駅を出発した。ナイル川にかかる橋を渡り、ギザ駅を過ぎる。ピラミッドが見えてくる。日が暮れかかったころ、ベニスエフ駅に着いた。ベニスエフ…。ぼくにとっては一生、忘れられない所だ。

エジプトでの思い出(その1)

 1968年から69年にかけて、友人の前野幹夫君とスズキTC250でアフリカ大陸を南から北へと縦断した。スーダンからエジプトに入ったのは、日本を発ってから1年あまりたった1969年3月のことだった。

 トラブル続きのエジプトの旅。その第一歩がアスワン。国境でいわれた通り、アスワンの交通警察に出頭した。

「キミたちの予定のコースは?」
「はい、北に向かいます。アレキサンドリアからは地中海に沿ってソロウムまで行ってリビアに入ります」
「そうか、それでは、これはソロウムに送っておこう」

 そういうなり、警官は勝手にバイクの国際ナンバープレートを外し、そのかわりに2まわりも、3まわりも大きいアラビア文字のナンバープレートを取り付けた。

「ところでキミたちは許可をとったのかね」
「なんのですか?」
「アスワンからルクソールまでは、外国人は列車以外での移動は禁止されている。それだから許可証がないと、キミたちはバイクでは走れないのだよ」
「いえ、まだ、その許可証はもらっていません」
「それではアスワン警察の本部に行きなさい」

 なんともめんどうな話になり、ぼくたちは交通警察からアスワン警察の本部に行った。すると担当の警官がいないからといって「夕方の6時に来なさい」といわれた。アスワンの町のあちこちをまわって時間をつぶし、約束の6時にアスワン警察の本部に戻った。しかしその担当の警官はやって来ない。

 1時間以上も待たされてやっとその警官が来ると、なんと、
「警察でその許可証を出すことはできない。それは軍が発行するものなので、明日の10時に来なさい。軍に連れていってあげよう」

 ぼくたちはその夜、警察の一室を借りて泊まったが、コンクリートの床の上に寝たのにもかかわらず、南京虫にやられた。かゆくてかゆくてどうしようもない。掻きむしりながらやたらと腹が立った。

 翌朝、アスワンの町をぶらつき、10時に警察本部に戻った。またしても昨日の警官は来ていない。1時間以上も過ぎたところで、彼は「やー、ごめんごめん」といいながらやって来た。彼は何通かの書類をつくり、ぼくたちを軍の事務所に案内した。そこは敵(イスラエル)をあざむくためなのだろう、まったく普通のアパートの中にあった。灯火管制で窓には明かりがもれないように青い塗料がベタッと厚く塗られていた。

 肩に星をいくつもつけた位が上の軍人は、またしても書類を何枚もつくり、「これを持って行きなさい」と、別な建物にぼくたちを連れていく。ぼくたちは気短な日本人だ。「なんでこんなことぐらいで、こんなに時間をかけるんだ」とイライラしてくる。だが、それぐらいでイライラするのはまだ早かった。

「別な建物」というのは道ひとつぐらいかと思ったら、なんとアスワンの町をはさんで反対側にあった。やっとの思いで、その軍の事務所にたどり着くと、またしても長時間待たされた。ぼくたちのパスポートと束になった書類は何人もの軍人の手に次から次へと手渡されていく。そして最後に高官がいった。

「45キロ、北に行くと、コモンボというところがある。そこの軍の事務所で許可証をもらいなさい。それを持ってここに戻ってきなさい。そうすればルクソールまでバイクで走れる許可証を発行しよう」

 ぼくはこのひと言で切れた。
「もうよして下さい。あなた方はこんな事ひとつも処理できないのですか」
と、声を荒らげていった。

 軍人たちはぼくの剣幕にたじたじとなり、
「それでは軍の車でコモンボまで護衛しよう」
 ということになった。

 コモンボに着くと、許可書などくれなかった。もっと驚いたのは「行ってもよろしい」といわれたことだ。同行した軍人たちもさっさとアスワンに戻っていった。ぼくたちはやっと理解できた。ここまでがアスワンの軍の管轄地域なのだ。ここを出たら、あとはもう、どうなってもかまわないのだ。

 ナイル川に沿って北上すると、川の両側には狭い農地がつづく。そこではサトウキビや小麦、野菜などが栽培されていた。ナツメヤシの林が目についた。その狭い細長い耕地を一歩離れると、岩がゴロゴロしている不毛の砂漠がはてしなく広がっていた。

エジプトでの思い出(その2)

 ルクソールまではなんの問題もなく走れた。古代エジプト文明の花開いたテーベの都、ルクソールを見てまわったあと、さらにナイル川に沿って北上をつづけた。ナグハマディという町に近いナイル川にかかる橋にさしかかったときのことだ。橋の手前には検問所があり、そこでは徹底的に荷物を調べられた。ところがそれだけでは終わらずに、なんとパスポートを取り上げられた。30分以上も待たされ、「町の警察に行こう」といわれた。

 町の警察に着くと、またしてもいろいろと調べられ、そのあとで警察署長は、
「荷物を全部、見せろ」
 という。今、全部、調べられたばかりではないか…。

 ぼくたちはもうふてくされた態度で、「勝手にしやがれ」という気分で、警察署前の路上にすべての荷物をばらまいてやった。大勢の町の人たちが、かたずをのんでなりゆきを見守っている。どの窓も鈴なりの人。調べ終わると警察署長はふんぞりかえっていった。

「これは私たちの義務でな。気を悪くしないでくれ。ところで、いいかね、いかなるところでも写真をとってはダメだ。汚いところは見てもダメだ。軍の施設があったら、そのまま通り過ぎるんだ。いいか、わかったか」

 その夜はソファッグという町で泊まることにした。食堂で夕食を食べていると、あたりの様子がおかしくなってくる。どうも原因はぼくたちにあるようだった。そのうちに自動小銃を肩にかけた警官たちが何人もやってくる。誰もが険しい顔つきをしている。せかされるようにして夕食を食べ終わると、警官たちはまるで犯人を連行するかのような態度で、ぼくたちを警察に連れていく。

 何が起きたというのだ。大勢の人たちがぞろぞろついてくる。石がつぶてのように飛んでくる。警察に連れていかれて、初めてその理由がわかった。何人もの市民たちが「バイクに乗ってイスラエルからやってきたスパイがいる」と警察に通報してきたというのだ。ぼくたちはそれを聞いて開いた口もふさがらなかった。

エジプトの思い出(その3)

 ソファッグからベニスエフに向かう途中の小さな町で、パンを買うために店屋の前で止まった。するとたちまち黒山の人だかり。パンを買って走り出そうとすると、前野のバイクのキーが盗まれていた。ぼくの軍手もなくなっていた。さらに信じられないことだが、スパークプラグのコードがあやうく引きちぎられるところだった。それをぼくたちの目の前で、それも大人たちがやるのだからもう呆れ果ててしまう。

 ベニスエフではカイロに通じる街道を左に折れ、砂漠のオアシス、ファイユームに向かった。すでに日は落ち、暗くなりかかっていた。軍の検問所があり、停車を命じられた。そこでさんざん調べられ、その挙げ句に、「新しい軍事施設ができたので、この道は通行できない」といわれた。彼らはファイユームに通じる迂回路を教えてくれたが、それは道幅の狭い田舎道だった。

 ぼくたちは途中で道に迷い、村にたどり着くと、
「ファイユームはどっち?」
 と男に聞いた。するとその男は「パスポートを見せろ」という。道を聞いたのにパスポートを見せろとは何事だという気分で、
「ふざけるな。道を聞いているんだ。パスポートは見せられない」
 といい返した。するとなんと男はやにわに、「イスラエル、イスラエル」と大声で叫びはじめたのだ。

 あっというまに、びっくりするほど大勢の村人たちが集まってきた。前野はバイクのライトで自分の顔を照らしながら、
「オレたちは日本人だ」
 といった。

 あたりには不穏な空気が漂っていた。ぼくたちは何人もの男たちにとり囲まれ、両腕をとられ、どこかに連れていかれる。村人たちは「イスラエル、イスラエル」と叫びつづけている。やがて後ろから飛びかかってきたり、殴りかかってきたり、石を投げてきたりする。彼らはすでに暴徒と化していた。

 気がつくと、前野の姿が見えなくなっている。2人、別々に引きはなそうというのか。このとき、「リンチにあって、殺されるかもしれない」というなんともいえない恐怖感がわきあがってきた。しかし、まだ、そのあたりまでは余裕があった。

 両側から腕をつかんでいた男たちは、ぼくをつかんだまま走り出した。路地から路地へと猛烈な勢いで駆け抜け、引っ張りまわす。もうどうしようもない巨大な渦、熱気の渦のようなものを感じた。群衆の憎しみと怒りがその熱気で加速され、途方もないものにふくれ上がっていくのが見えるようだ。

 ぼくはその渦の中にどんどん沈んでいく。意識も遠くなっていく。頭をかすめるのは「殺される」ということ。このエジプトの片田舎の闇の中で、賀曽利隆は消される…。こうやって消息を絶った旅行者がどれだけいることか。

 後ろから飛びかかってきた男にギューッと首を締められる。両腕をつかまれているので、その手をふり払うことができない。息がつまる。
「苦しい、助けてくれ!」

 そんな声もかすれて、うまく出ない。やっとぼくの両腕をつかんでいた男たちが、首に巻きついている手をふりほどいてくれた。早く死なせてはいけないのだろうか。首の手が解かれると、両腕をつかんでいる男たちは一段と速くなった。

 何度もころびそうになる。だが、ころんだら最後だ。圧倒的な群衆に踏み殺されてしまう。ものすごい長い時間、引っ張りまわされたような気がするのだが、突然、薄暗い建物の中に連れ込まれた。なだれ込んできた群衆に、いやというほど殴られた。そのとき頭を壁にぶつけ、あたりはボーッと霞んでしまう。ついに最後が来たと観念した。

 するとぼくの腕をつかんでいた男たちは懸命に群衆を外に追い出そうとしている。群衆に向かってライフル銃を振りまわしている人もいる。それを見て、「助かるかもしれない…」という淡い望みもわいてきた。前野が心配だ。もうすでに別のところで殺されてしまったのではないか…と、そんな不安でいてもたってもいられない。

「おー、前野!」

 しばくして前野もその建物に連れてこられた。眼鏡をこわされ、「見えないんだよ」とか細い声でいう。建物の外では群衆が一段と音量を上げて叫んでいる。バイクのことも心配だ。メチャクチャにされたスズキTC250が目に浮かんだ。

「軍と警察が来る」
 といわれたときは、これで助かるかもしれないという希望がわいた。
「パスポートを見せろ」
 といわれたときは、軍が来たら見せるといって2人でがんばった。しかし、誤解を招くといけないので、お互いに話はしなかった。日本語で話したら、また何をいわれるかわからない。

 過ぎていく時間が非常に長く感じられた。建物に連れ込まれてから1時間ほどたったころだろうか、軍隊がやってきた。英語を話すチーフの前に引き出されたが、調べは思ったよりも簡単に終わった。彼の話でぼくたちを守ってくれたのは民兵だったことがわかった。彼らが無線で軍に連絡してくれたのだ。おまけにてっきりメチャクチャにされたと思っていたバイクも彼ら、銃を構えた民兵たちが守ってくれていた。

 その夜、ベニスエフの軍の基地で泊まったが、神経が異常なほど昂っているので、どうしても寝つけない。前野とは「オレたち、生きていてよかったなあ!」と同じことばかりを繰り返していい合った。

 軍のチーフの言葉が胸に残る。
「日本でも、戦時中はこうだったと思う」

夜明けのナイル川

 そんな強烈な思い出のベニスエフを過ぎても、車内には空席はできない。ざわついた話し声があちこちから聞こえてくる。すっかり暗くなった車窓の風景をぼんやり見ていると、あのときのエジプトでの出来事がまるで走馬灯のように、クルクルクルクル頭の中でまわり、かけめぐっていくのだった。

 夜もふけると、話し声は途絶え、車内には寝息がもれてくる。体を横にして寝たくなった。何人かの軍人たちがしているように、ぼくも荷物棚に上がり、体をギューッと縮め、下に落ちないように気をつけて横になった。

 目がさめると、列車はナイル川の流れのすぐそばを走っていた。夜明けの空は次第に色づき、やがて華やかな色合いになり、その色がナイル川の川面に映る。やがて砂漠の岩山の向こうから朝日が昇った。雲ひとつない快晴の空。ルクソール駅に着くと降りる人が多く、軍人たちもゴソッと降り、やっと座席にゆったりと座れるようになった。

30年目の「六大陸周遊記」[041]

アフリカ東部編 17 チャナカレ[トルコ] → カイロ[エジプト]

トロイの遺跡

 チャナカレの町を歩きまわったあと、南へ。町外れまで出たところで、バスが停まってくれた。運転手は「どこに行くんだ」といってるようだった。「トロイ!」と叫ぶと、「こっちへこい」と手招きしている。またしてもバスにタダで乗せてもらう。ドイツ人のシュリーマンが生涯をかけて発掘したトロイの遺跡に寄ってみたかったのだ。

 トロイはイズミールに通じる幹線道路から5キロほど入ったところにある。バスの運転手はトロイへの入口で下ろしてくれた。トロイまで歩き、入場料の5リラ(約100円)を払ってトロイの遺跡を見てまわった。

 遺跡自体はそれほど大きなものではない。説明してもらはないことには、どれが何なのか、よくわからなかった。しかし、世界史の時間にならった歴史の舞台に今、自分の足で立っているという、その満足感だけでもう十分なように思えた。

 トロイからまた5キロほどの道のりを歩いて戻ると、幹線道路沿いの村からは陽気な音楽が流れてきた。旅芸人の一座が民家の庭先で太鼓をたたき、笛を吹き、バイオリンをひき、それに合わせて村人たちが踊っていた。ぼくの姿をみつけると、その家の主人は珍しい客がやってきたといわんばかりに隣の席をあけ、酒をつぐ。遠慮なく飲み干すとさらにつがれ、酒のあとは料理までふるまわれた。

 旅芸人の一連の演奏が終わり、村人たちの踊りも終わったところで立ち上がったが、けっこう飲んだようで足元がふらついた。家の主人や村人たちと握手して別れ、幹線道路を南へ、イズミールを目指して歩いた。なんとも忘れられない「トロイ」になった。

トロイの遺跡(トルコ)
トロイの遺跡(トルコ)
トロイ近くの村にやってきた旅芸人たち
トロイ近くの村にやってきた旅芸人たち

地中海の春風

 トロイからイズミールまでは300キロほどあった。トルコもヒッチハイクの楽な国ではないが、なんともラッキーなことに、その村外れで一発でイズミールまで行く車に乗せてもらった。エーゲ海沿いの道を車は100キロ以上の猛スピードで突っ走り、イズミール湾の一番奥にあるトルコ第3の都市イズミールにあっというまに着いた。

 イズミールの町を歩いたあと、郊外までは列車に乗った。わずかな距離だったが、鉄道も大好きなぼくなので、ものすごくいい旅のアクセントになった。

 エフェソスの遺跡に立ち寄ったあと、海岸地帯から内陸地帯へと入っていく。アイディーンからデニズリへ。アナトリア高原の山々にはまだ雪がかなり残っていた。タウルス山脈を縫う険しい山道を通って地中海のアンタリアの町に下っていくと、そこにはもう、北の寒さはなかった。頬をなぜる風が日本の春風を思わせ、なんともホンワカとした暖かな気分になるのだった。

 アンタリアからは地中海に沿って東へ。切り立った断崖がストンと海に落ちている。道はといえば、そんな断崖の中腹を通っている。はるか下の方に地中海を見下ろす。背筋がスーッと冷たくなるような険しい道がつづいた。そんな断崖地帯を走り抜けると広々とした平野に出て、メルシーンの町に着いた。

 メルシーンからはアダナ、ガジアンテップを通り、シリア国境へと向かう。いよいよトルコも最後になった。

イズミール(トルコ)
イズミール(トルコ)
イズミール(トルコ)
イズミール(トルコ)
イズミールから郊外まで乗った列車(トルコ)
イズミールから郊外まで乗った列車(トルコ)
アナトリア高原に入っていく(トルコ)
アナトリア高原に入っていく(トルコ)
アナトリア高原のブドウ畑(トルコ)
アナトリア高原のブドウ畑(トルコ)
アナトリア高原の村(トルコ)
アナトリア高原の村(トルコ)
ガジアンテップ(トルコ)
ガジアンテップ(トルコ)
ガジアンテップ(トルコ)
ガジアンテップ(トルコ)
ガジアンテップ(トルコ)
ガジアンテップ(トルコ)

トルコという国

 トルコでのヒッチハイクは楽ではなかった。ぼくが歩いていると、いたるところで人々は群がるようにしてやってきた。体をさわったり、勝手にザックをあけて中を見られたこともある。トルコ語がカタコトしかわからないのに、次から次ぎへとペラペラまくしたてられる。そのあげくに、きまって

「トルコはいい国だろ。世界中でトルコほどいい国はないだろ」と、半ば強制的に同意させられる。
「どこから来たんだ? 中国か、ベトナムか?」

「おー、そうか、おまえは日本人か。それだったらカラテを知っているだろ。教えてくれ。でも、日本人には悪いヤツが多いからな」

 トルコでは中国製のカラテ映画が大はやりだった。そのたぐいの映画の大半は日本軍が中国大陸に侵攻した当時の時代背景。日本人は徹底的に悪役で、善玉の中国人が空手で悪役の日本人をやっつけるというストーリー。観客は悪役の日本人が善玉の中国人にやられるたびに声を上げて喜ぶのだ。

「日本人には悪いヤツが多いからな」は、そんな中国のカラテ映画から来ている。

 あまりにもヒッチハイクができないので、バスに乗ったこともある。トルコではバス交通が発達している。長距離でも鉄道ではなく、バスを使うことが多い。長距離バスは便数も多く、快適で速い。そんなバスなのだが、大きな町のバスターミナルでは大変な目にあう。大勢の客引きが待ち構えているのだ。彼らはぼくの腕をつかみ、まるで大根でも引き抜くように、力いっぱいつかんだ腕を引っ張っていく。もう「やめてくれ」と叫びたくなる。

 バスに乗ると、車内では乗客たちのなめまわすような視線を浴びる。やたらとコンコンと咳き込んでいる人が多い。トルコ人ほどタバコをよく吸う民族もいないのではないか…と思うほどよく吸う。咳き込んでいるのはきっとそのせいだろう。そして必ずといっていいほど、誰かが「1本、吸わないか」といって持ってくる。「ぼくはタバコを吸わないんですよ」といってもわかってもらえない。「どうして俺のタバコを吸えないんだ」と怒ったような口調になる。ヒッチハイクも大変だが、バスに乗るのも大変だった。

 しかし、見方を変えれば、トルコという国、トルコ人という民族はそれだけ土着性が強いということになるのだろう。ヨーロッパと地続きだとはいっても、ヨーロッパとは違うトルコ独自のものをしっかりと根づかせている。

 ヨーロッパを中心にして見てみると、おもしろいことに気がつく。

「ピレネーを越えればもうアフリカ」ともいわれるように、スペインという国は同じヨーロッパとはいっても西欧とは大きく異なる。同じようにユーゴスラビアやブルガリアもそういう意味ではスペインに似ている。さらにスペインの南、ジブラルタル海峡を越えたモロッコになると、アラブ世界へと世界は大きく変わる。ボスポラス海峡もしくはダーダネルス海峡を越えたトルコはモロッコとじつによく似ているように感じられるのだ。

2つの国の大きな違い

 ガジアンテップから国境近くの町キリスまではバスに乗った。そこから国境までは10キロほど。町の人の話では夕方の5時になると国境事務所は閉まってしまうという。なんとしてもそれまでには着こうと、懸命になって早歩きした。幸いなことに、税関の車が通りかかり乗せてくれた。途中には軍の検問所があり、何ヵ所かには見張り塔が立っている。道の両側にはバリケードが張られている。シリアとの国境なのに、どうしてこれほど厳重に警備する必要があるのだろうかとちょっと不思議な気がした。

 税関の係官のおかげで5時よりもはるか前に国境に到着。トルコ側の出国手続きは簡単に終わり、シリア側に向かう。道沿いには有刺鉄線が何重にも張られている。そんな道を歩いていくと、機関銃を構えた兵士の立つ監視塔があり、そこを過ぎたところがシリア側の国境事務所だった。シリア側の入国手続きも簡単に終わった。

 シリア側はトルコ側とは違って、なんとものんびりとした風景。バリケードや監視塔、軍人のたぐいは一切消え去った。小麦畑では農夫がもくもくと畑を耕し、春の野花が咲き乱れる草原では羊が群れている。オリーブ林も見られる。2つの国のあまりの違いに驚かされてしまうのだった。

貧乏旅行の辛さ…

 シリアに入り、ヒッチハイクでシリア北部の中心地、アレッポへ。商店で残っていたトルコリラをシリアポンドに替えてもらった。85リラが20ポンド40ピアストルになった。アレッポから首都ダマスカスまではバスに乗った。ホムスを通り、古くからオリエントとヨーロッパを結ぶ十字路として栄えてきたダマスカスには夜、遅くなってから到着した。固くなったパンをかじり、タマネギを生でかじり、その夜はダマスカスのバスターミナルでゴロ寝した。

 翌朝、ダマスカス駅に行く。列車でヨルダンのアンマンまで行き、さらにアカバまで足を延ばし、そこからダマスカスに戻ってくるつもりにしていた。しかし、その日のアンマン行きの列車はなかった。そこでバスターミナルに戻り、バスでアンマンに行こうと思った。ところがアンマン行きのバスもかなり待たなくてはならなかった。ちょうどそこにいたアンマンまで行くというトルコ人と「タクシーで行こう」ということになり、乗合タクシーの乗り場に行った。しかし1人10ポンド(約830円)だといわれ、乗合タクシーを諦め、ダマスカスの南のデラまで行き、ヒッチハイクしようとした。

 シリアでのヒッチハイクもきわめて難しい。結局、車に乗せてもらえないまま時間だけが過ぎ、ヨルダン行きを諦めた。このあたりがギリギリのお金でできるだけ世界をまわろうという貧乏旅行の一番の辛さ…。

 食堂でパンとサラダ、豆のスープの食事をするとダマスカスの中心街に戻り、再度、乗合タクシーの乗り場に行った。今度はレバノンのベイルートまでの料金を聞くと1人7ポンド(約560円)だという。アフリカに早く戻りたいという焦るような気持ちもあって、ベイルートまでは乗合タクシーで行くことにした。

アレッポ(シリア)
アレッポ(シリア)
アレッポ(シリア)
アレッポ(シリア)
ダマスカス(シリア)
ダマスカス(シリア)
ダマスカス(シリア)
ダマスカス(シリア)

モンゴル系パキスタン人

 ベイルート行きのベンツの乗合タクシーにはぼくを含めて5人が乗った。その中の1人はモンゴル系パキスタン人。日本人そっくりな顔をしていて、最初に見たときは、てっきり日本人だと思ったほど。

 1971年にはバイクでアラビア半島を横断したが、その時、サウジアラビアでは何度となく、「パキスタニ(パキスタン人)か?」と聞かれた。パキスタン人によく間違われたおかげだと思っているが、このときはなんとバイクでイスラム教の聖地、メッカに入り、カーバ神殿にも入ることができたのだ。ベイルート行きの乗合タクシーの中で日本人そっくりなパキスタン人を見て、「う〜ん、なるほど!」と、サウジアラビアでの「パキスタニ(パキスタン人)か?」が理解できるのだった。

 しかし、大多数のパキスタン人はアーリア系民族で日本人にはまったく似ていない。1971年の旅では1ヵ月ほどパキスタンの各地ををまわったが、日本人そっくりなパキスタン人に出会った記憶はない。

大都市ベイルート

 ベイルート行きのベンツの乗合タクシーはダマスカスの市街地を抜け出ると高速で走り続け、あっというまに国境に到着する。レバノンとの国境は人でごったがえしていた。「ダマスカス〜ベイルート」間の人の行き来はきわめて多いということがひと目でわかる光景だった。それでも簡単にシリア側の出国手続き、レバノン側の入国手続きは終わり、レバノンに入った。

 アンチレバノン山脈の峠を越えると、前方には雪をかぶったレバノン山脈の山々が見えてくる。アンチレバノン山脈とレバノン山脈の間は平地になっている。うっとおしい雨雲が厚く低くたれこめている。いよいよレバノン山脈の峠道に突入。雨が降ってきた。グングンと高度を上げ、雪に手が届きそうなところまで登っていく。空気が薄くなったせいなのか、この峠道の登りでベンツの調子が悪くなり、運転手は2度、3度と車を停めてボンネットを開けた。やっとの思いで峠を越えると、ベンツはもとどおりの調子を取り戻し、一気に峠道を下った。

 やがて灰色の靄に包まれたベイルートの市街地と灰色の地中海が見えてきた。ベイルートの市街地に入っていく。さすが中東第一の都市。高層のビルが建ち並んでいる。大通りの渋滞に巻き込まれると、とたんにベンツの乗合タクシーはノロノロ運転になった。ベイルートはダマスカスとは比べものにならないくらいに車が多かった。

ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)
ベイルート(レバノン)

ベイルートの休日

 乗合タクシーはベイルートの中心地のひとつ、マルティール広場に到着。そこで5人の乗客は降りる。広場のまわりには両替屋が何軒も軒を並べている。これほど両替屋の多い都市は見たことがない。それほどの多さだ。ここで残ったシリア・ポンドをレバノン・ポンドに替えた。

 広場のまわりには映画館もあり、その奥は大きなスーク(市場)になっていた。様々な店が狭い場所にひしめきあい、様々な人種の人たちが買い物をしていた。ベイルートは国際都市だ。

 ベイルートに着いた日は金曜日。イスラム教国のシリアでは当然のことだが休日だった。ところが国境を越えてレバノンに入ると平日だ。キリスト教徒の多いレバノンの休日は日曜日なのである。

 ベイルートには4日、滞在した。「ベイルートの休日」といったところだ。その間、何本もの映画を見た。映画館の入場料は1ポンド(約100円)ぐらい。75ピアストル(約75円)という映画館もあった。この国でも中国(香港)の空手映画が人気だった。そんな空手映画を3本見たが、3本とも日本人が悪役。日本人がいつも悪役というのはほんとうに腹がたつが、それはともかく、とにかく見ていて胸がスカッする。空手を用いての格闘のシーンの連続に観客からはやんやの歓声が上がった。

イスラエル行きのバスの出る日

 マルティール広場からはダマスカス、アンマン、バグダッド、イスタンブールへと長距離バスが出ている。さらにはヨーロッパ各国の大都市へも長距離バスが出ている。しかしイスラエルのテルアビブやエルサレム、ハイファ行きのバスは1本もない。すぐ隣の、それも手の届くような近さなのに…。ベイルートにいるとイスラエルは遠い遠い、はるかかなたの国なのだ。

 マルティール広場からそんなテルアビブやエルサレム行きのバスの出る日が来ることを願わずにはいられなかった。中東の戦火がやみ、ほんとうの平和がこの地に訪れたとき、ベイルート発テルアビブ行きやベイルート発エルサレム行きのバスが出るようになるのだ。さらにシナイ半島からスエズ運河を渡り、エジプトのアレキサンドリア行きやカイロ行きのバスが出るようになる。そんな日が1日も早くやってきますようにという願いを込めて最後のマルティール広場を歩いた。

アフリカ大陸が見えてくる…

 エジプトのカイロに飛ぶ日がやってきた。ベイルートの旅行代理店を何軒もまわり、やっと正規の料金の半額という安いチケットを手に入れた。そして1974年4月8日、カイロを経由するベイルート発ハルツーム行きのスーダン航空機に乗った。機内はガラガラで乗客は数えるほどしかいなかった。

 スーダン航空機はベイルートの空港を飛び立つと地中海の上空へ。雲が多かった。しかしエジプトに近づくと雲は切れ、北アフリカの海岸線がはっきりと見えてくる。「ナイルデルタが見られるゾ!」とおおいに期待したが、ナイル川の流れと緑の沃野はいっこうに見えてこない。一面茶褐色の砂漠だけが飛行機の小さな窓から見下ろせた。スーダン航空機はナイルデルタ西側の砂漠地帯の上空を飛んでいるようだった。砂漠には点々とちぎれ雲の影が映っていた。カイロに近づくと、砂漠とナイルデルタの境が1本のはっきりとした線で見られた。その線の内側は一面の濃い緑。その線の外側にはひとかけらの緑もなかった。こうしてカイロの空港に降り立った。またアフリカに戻ってきたのだ。

30年目の「六大陸周遊記」[040]

アフリカ東部編 16 アテネ[ギリシャ] → チャナカレ[トルコ]

アテネにて

 ギリシャのアテネ国際空港に到着したのは1974年3月25日午前10時10分。その日、アテネは独立記念日の祭典でにぎわっていた。いたるところにギリシャ国旗が掲げられ、目抜き通りのアマリアス通りを陸軍が行進した。戦車部隊、ミサイル部隊、オートバイ部隊、歩兵部隊、女子部隊…と行進は次々とくりひろげられていく。アテネには広場がいくつもあるが、その中でもとくによく知られているシンダクマ広場は見物する人たちで身動きがとれないほど。空軍の戦闘機が編隊を組み、轟音を残して飛び去っていった。

 アテネには2つのユースホステルがあった。3、4日は滞在するつもりだったので、地図を見ながらアレクサンドロス通りのユースホステルに歩いていった。そのユースホステルでユキとロッド、ブライアンの3人組に会った。彼ら3人はエチオピアで知り合い、スーダン、エジプトと一緒に旅をつづけ、アテネにやってきた。

 彼ら3人とも20代の若者。ユキは日本人でひげをはやしていた。笑うと細い目がさらに細くなった。おだやかで、おっとりしている。ブライアンはニュージーランド人、ロッドはオーストラリア人だ。

 ユキはインドのカルカッタからパキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ、シリア、レバノンと4ヵ月をかけて自転車で走破した。きっと大変なこともたくさんあったに違いないのだが、「毎日、ペダルをこぎ続けただけですよ。気がついたらベイルートに着いていた」とさらりといった。

 アテネからは3人、それぞれ、行き先が違っていた。ユキは自転車で北欧へ。ブライアンはバスでロンドンへ、ロッドはトルコのイスタンブール経由でインドまで行く。

ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ
ギリシャのアテネ

アテネからの第1案と第2案

 ぼくはどうしようか決めかねていた。ベイルートからカイロに飛んでアフリカに戻るつもりにしていたが、まだ「アテネ→ロンドン」間の飛行機のチケットが残っていたからだ。例のオーストラリアのパースで買った「パース→ヨハネスバーグ→ナイロビ→アテネ→ロンドン」の1年間有効のチケット。このチケットを使ってアテネからロンドンに飛び、西欧→東欧とまわり、再びアテネに戻ってくるのが第1案。だがもし「アテネ→ロンドン」間のこのチケットを誰かが買ってくれたら、ロンドンに飛ばずに、ギリシャからトルコ、シリアを通ってレバノンに入り、ベイルートからカイロに飛びたかった。これが第2案だ。そこでブライアンに聞いてみた。

「ねえ、ブライアン、ロンドンまでの飛行機のチケット、30ドルで買わない?」

 彼の買ったロンドン行きの直通バスは50ドルだった。
「ほんと! だけど、このバスのチケット、キャンセルできるかなあ。もし、できたら買うよ」

第2案に決まる

 次の朝、ユキが一番早く起きた。国際学生証を発行してもらうためだ。それがあると運賃の割引などに使え、ヨーロッパではすごく便利なのだ。アテネでは簡単にその国際学生証が取れるという。ユキは適当な文句をタイプしてもらった紙に、正露丸のふたをハンコがわりにペタッと押し、「さー、これで大丈夫だ」と、朝のアテネの町に出ていった。

 残ったぼくたち3人はユキよりも遅れてユースを出るとシンダクマ広場へ。広場に面したアメリカン・エクスプレスの前は歩道にテーブルとイスの置かれた路上カフェ。そこは世界中から集まってくる旅行者でにぎわっていた。色白の背の高い女の子は、「アムステルダムまで乗せてくれる人を探してます」と書かれた画用紙を首からぶらさげて立っている。その隣では若い男女がなつかしそうに再会を喜び合っている。そんな自由な、のびのびとした空気の漂うシンダクマ広場だった。

 ぼくたち3人はそれぞれにすることがあり、1時間後にふたたび同じ場所で会うことにして別れた。シンダクマ広場にはぼくが一番最初に戻った。さきほどの女の子はあいかわらず画用紙を首からぶらさげて立っていた。2番目に戻ってきたブライアンは「このバスのチケットはキャンセルすると、半分しか戻ってこないんだ。だから、今、ここで売ろうと思う」といって、「ロンドンまでバスのチケット1枚。40ドル。出発は明朝」と書いた紙を手に持ち、画用紙の女の子のわきに立った。

 驚いたことに、それから30分もたたないうちに、ブライアンのバスのチケットは売れた。「よかった、よかった!」とブライアンとは手をとりあって喜び合った。ぼくはすぐさま「アテネ→ロンドン」の飛行機のチケットを彼に売った。これでぼくのアテネからの進路は第2案に決まり、ヒッチハイクでトルコに向かうことになった。

 ブライアンはできるだけ早く、ロンドンに住んでいる兄さんのところに行きたかった。彼の所持金はほんど底をついていた。兄さんのところに身を寄せ、何ヵ月か働いて金を貯めると、また旅をつづけるのだという。

アテネで血を売る

 ロッドは約束よりも大分、遅れて戻ってきた。彼は「1ccの血を1ドラクマ(約10円)で買ってくれるところがあるんだ。一緒に行かないか」とぼくたちを誘う。「1人400ccまでは大丈夫だ」ともいう。血を売ることに後ろめたさを感じたが、3人で血液銀行に行くことにした。根気よく、依然として立ちつづけている画用紙の女の子に「がんばってね」と励ましの言葉をかけてぼくたちはシンダクマ広場を離れた。

 血を買ってくれるところは裏通りに面してひっそりとあった。表には何の看板も出ていない。外の戸が開いていて中に入り、白い階段を登った。採血は小柄なブライアンが最初で、次がロッド、そしてぼくの番になった。採血の前に血圧を調べられたが、幸いにもというべきなのだろうか、血圧が低すぎて採血できないといわれた。何か、すごくホッとした気分だった。

 夕方、ユースホステルに戻ると、ユキはぼくたちよりも早く帰っていた。

「国際学生証はうまく取れたし、自転車の整備も終わったし、いよいよ北欧に向けて出発だ」

 翌朝、4人は時を同じくしてアテネを離れた。ユキはペダルをこいでアルプスを越え、ドイツの平原を走り抜けてスカンジナビア半島を目指した。ブライアンはぼくから買ったチケットでロンドンに飛んだ。ロッドは直通バスでイスタンブールへ。ぼくはヒッチハイクでトルコに向かった。

「日本はよかった!」

 ギリシャでのヒッチハイクは楽ではなかった。なかなか乗せてはくれない。アテネはヨーロッパでは南国だが、緯度では東京よりも北になる。3月末というとまだ夜の冷え込みがきつかった。野宿していると手足は凍りつき、あまりの寒さに目がさめてしまう。

 ラーミア、ラリサと通りカテリーニへ。その途中では青いエーゲ海が何度も見えた。浜辺には春の野花が咲いていた。オリンスポスの山々はまだ雪で真っ白だった。

 ドイツ人旅行者の車には何度か乗せてもらい、ずいぶんと助かったが、その中でもベンツの新車に乗った初老の人が忘れられない。その人は1927年から3年間、アジア各地をさまよい歩いた。その間はほとんど民家に泊めてもらったというのだ。西アジアからインド、そして東アジアへ。中国では上海から揚子江をさかのぼり、漢口から重慶まで行ったという。

 そのあとで日本に来た。

「日本は私にとっては一生、忘れられない国だよ。キミを乗せたのも、日本人に違いないと思ったからだ。日本はほんとうにきれいな国だったね。フジヤマ、キモノ、ショドウ(書道)…。みんな、今でもはっきりとおぼえている。東京ではヨシワラにも行った。とってもよかった…」

 1920年代の後半といったら昭和初期ではないか。ドイツ人の話を聞いてぼくもそのころの日本を見てみたかったと思った。戦後生まれのぼくにとっては、戦前の日本というのは、はるかかなたの遠い世界。それだけに強い憧れがある。

 その初老のドイツ人は「日本はよかった!」を連発する。その「よかった!」には、過ぎ去った青春を燃焼させた日々への追憶も多分にあるに違いない。しかし、それだけではないと思う。心底、「よかった!」と思わせるものが、当時の日本にはきっとあったのだ。

エーゲ海を見ながら北へ
エーゲ海を見ながら北へ
ギリシャ正教の教会
ギリシャ正教の教会
北のサロニカ(テサローニキ)への道
北のサロニカ(テサローニキ)への道

ギリシャ・トルコの国境通過

 ギリシャ第2の都市、サロニカ(テサローニキ)は北緯40度を越えている。グッと冷え込み、野宿は一段と厳しいものになる。もう寒くて寒くてなかなか寝つけない。あるもの全部を着込み、その上に雨具を着て寝袋に入り、その上からビニールのシートをかぶった。そんなにまでしても、じきに手足は氷のように冷たくなってしまう。朝起きると、夜露に濡れた寝袋はグチョグチョになっている。

 アレクサンドロポリスを通り、トルコ国境へ。仲の悪い両国にふさわしく、国境に通じる道の交通量はガクンと減った。国境目指し、冷たい風に吹かれながら歩きつづけた。手は赤く腫れ上がり、もう痛いのを通り越していた。

 国境までの10キロあまりを懸命に歩いた。その途中でザックの肩ひもがとうとう切れてしまった。ザックをかかえたり、頭の上にのせたりして歩きつづけた。

 まずはギリシャ側の国境事務所に到着。まるで軍の要塞であるかのように、軍人の姿を多くみかける。出国手続きを終え、トルコ側へ。川が国境になっている。軍隊の警備はより厳しいものになる。まるで両国は戦争状態にでもあるかのような光景だった。トルコ側の国境事務所で入国手続きを終え、トルコ内に入ったときはホッとし、フーッと大きく息をした。

拡大版「六大陸周遊計画」とは

 国境近くのイプサラの町まで歩いた。そこからケサンまでは信じられないことだったが、なんと路線バスが停まってくれ、タダで乗せてくれた。ケサンから幹線道路をまっすぐ行けば、ボスポラス海峡に面したイスタンブールに着く。だが、ぼくは南のダーダネルス海峡に通じる道に入っていった。

「ボスポラス海峡はユーラシア横断のときに越えよう!」

 アテネを出発した時点で、ぼくは「六大陸周遊計画」を大幅に拡大していたのだ。日本を出発する前は、タイのバンコクを出発点にし、アジア→オーストラリア→アフリカ→ヨーロッパ→北米→南米とまわり、最後はアメリカ西海岸のサンフランシスコから日本に帰るというものだった。それを拡大させたのは、アテネからロンドンに飛び、西欧→東欧とまわってアテネに戻るという先の第1案をキャンセルしたことも理由のひとつになっている。

 拡大計画というのは次のようなものだ。サンフランシスコからアメリカを横断してニューヨークへ。ニューヨークからロンドンに飛び、西欧→東欧とまわりアテネ、イスタンブールへ。ボスポラス海峡を渡って西アジアを横断し、インドのカルカッタへ。そこからタイのバンコクに飛ぶというものだ。サンフランシスコではなく、出発点のバンコクを今回の「六大陸周遊」の終点にしようと決めた。ボスポラス海峡は拡大版「六大陸周遊計画」のうち、「ユーラシア大陸横断」(ロンドン→イスタンブール→カルカッタ)のときに越えようと思ったのだ。

ダーダネルス海峡を越えて

 ケサンからひと山越えるとエーゲ海が見えてくる。ふたたび山地に入り、見晴らしの良いポイントに出ると、右手にエーゲ海、左手にはマルマラ海とそれにつづくダーダネルス海峡が見えた。すごい光景だ。黒海とエーゲ海の間にはマルマラ海がある。マルマラ海の北側と南側はギュッとくびれ、2つの海峡になっている。北海峡がボスポラス海峡で南海峡がダーダネルス海峡になる。ともに欧亜の2大陸を分ける海峡だ。北からいうと黒海→ボスポラス海峡→マルマラ海→ダーダネルス海峡→エーゲ海になるが、ひとつづきの同じ海でも名前が変わると、胸がキューンと締めつけられるような思いがする。

 ダーダネルス海峡の北側一帯は要塞地帯になっていた。黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡とダーダネルス海峡は世界の戦略上、きわめて重要な地点なのだ。たえず南へと目を向けるロシア艦隊の通過地点だからだ。

 トラックに乗せてもらい、ダーダネルス海峡の町、エセバットに着く。海峡には鉛色の雲がたれこめ、寒風が吹き荒れていた。海峡は大荒れに荒れ、あちこちに白い波頭が立っていた。その向こうには、建物1軒1軒がはっきり見える距離に対岸のチャナカレの町があった。エセバットからフェリーでダーダネルス海峡を越え、チャナカレの町に渡った。小アジアへ。ヨーロッパ大陸からアジア大陸に渡ったのだ。

30年目の「六大陸周遊記」[039]

アフリカ東部編 15 エルサレム[イスラエル] → アテネ[ギリシャ]

聖地巡礼

 エルサレムはこの前来たときと同じように、ショルダーバッグを肩にかけ、カメラを持った欧米からの巡礼を兼ねた観光客でにぎわっていた。ツーリスト・インフォメーションでパンフレットをもらい、ぼくもにわかキリスト教徒になって聖地巡礼をした。

 最初にオリーブ山に行った。海抜800メートルほどだが、山というよりは丘である。城壁の東側にあるオリーブ山からは、エルサレムの市街地が一望できた。ダビデの時代から神を拝む場所だったということで、キリストと弟子たちとの語らいの場所でもあった。山の麓にはいくつもの教会。キリスト教徒にとってはそれぞれに由緒ある教会なのだろうが、それがわからないのがちょっと残念なことだった。

 旧市街には城壁のライオンズ・ゲート(セント・ステファンズ・ゲート)から入った。イスラム教の聖地の金色に輝くドーム・オブ・ザ・ロック(岩のドーム)とエル・アクサス・モスクがすぐわきにある。この道がビア・ドロローサ(悲しみの道)。刑場に引かれていくイエス・キリストが通った道だという。聖墳墓教会までの「悲しみの道」沿いにはキリストの処刑にまつわるいくつかの史跡があった。聖墳墓教会はイエス・キリストが十字架に張りつけられ処刑された場所。キリストの墓は礼拝堂のドームの下にあるという。

 エルサレムの歴史は気が遠くなるほど長い。ヘブライ語で「平和の基」を意味するエルシャライムに由来するというエルサレムの歴史は、今から3000年も前にダビデがイスラエル王国の都をここに定めた時から始まる。それ以来、繁栄と荒廃、再建の絶えることのない歴史を繰り返してきた。エルサレムはまた、「ダビデの町」とも「シオン」ともいわれる。

 シオンはユダヤ人の心のふるさと。城壁の南にあるオリーブ山よりもさらに小さなシオン山からきたという。2000年という歳月を越えて失われた祖国を再建しようというシオニズム。エルサレムに来てみると、そこにとてつもないほど濃く流れる民族の血というものを強く感じる。

 ユダヤ教徒にとっての一番の聖地、「嘆きの壁」にも再度、行った。ツーリスト・インフォメーションでもらった市内地図には「ザ・ウエスタン・ウオール(西の壁)」となっている。ユダヤ民族はこの壮大な壁をソロモン神殿の西壁と信じ、この壁の前で2000年以上もの長い間、ずっと失われた祖国を嘆きつづけている。

 最後にこの前と同じように、キリスト誕生の町、ベスレヘムにバスで行った。ここは紀元前10世紀ころのイスラエル王国第2代目の王、ダビデの故郷でもある。ソロモンはダビデの子。そんなベスレヘムの町をプラプラ歩き、エルサレムに戻った。

エルサレムに戻ってきた
エルサレムに戻ってきた
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム

新市街のバスターミナルへ

 エルサレムからテルアビブに向かった日も、よく晴れ渡っていた。テルアビブからエルサレムに来たときは鉄道だったので、今度はバスにしようと思った。テルアビブ行きのバスは旧市街からではなく、新市街にあるセントラル・バス・ステーションから出ていた。その日も朝のうちは旧市街の城壁内を歩きまわり、新市街のバス乗り場に向かった。

 旧市街、新市街といっても、町が途切れ、はっきりと2つに分かれているわけではない。新市街は城壁の西側に広がっている。このあたりは現在のイスラエルが建国される以前は荒れはてた丘にすぎなかったという。

 城壁はヤッファ門から出た。そしてヤッファ通りを歩いていく。現在でもそうだが、この道は昔からヤッファ(テルアビブ)に通じる道だったという。それ式で、北のダマスカス門からの道はダマスカスに通じている。

 エルサレムの銀座4丁目的なキッカール・シオン(シオン広場)を通り、独立戦争記念広場を通り過ぎ、セントラル・バス・ステーションへ。波打つエルサレムの丘にはクネセット(国会議事堂)やヘブライ大学の建物群が見えた。

ユダヤ人とアラブ人

 セントラル・バス・セテーションに着くと、テルアビブまでの切符を買った。6ポンド80アゴルットだった。いくつもある乗場のうち、テルアビブ行きの乗場だけが混み合い、長い列ができていた。といっても本数が少ないのではない。次から次へとテルアビブ行きのバスは出発していく。長い列ができるのは、それ以上にテルアビブに行く乗客が多いということだ。

 座席がいっぱいになっても、バスにはさらに乗客が乗り込む。立っていてもかまわないようだ。それだから「なんとしても、このバスに乗るんだ」という人たちは列を崩し、かなり強引にバスに乗り込む。そんな中にあって、白い布を頭からたらし、黒い輪をその上にのせたアラブ人の中年の男の人だけは悠然としたもので、「なんで皆、あんなに急ぐのだろう。私は次のバスに乗り、テルアビブまでゆっくり座っていきますよ」と、まるで後姿でそういっているようだった。それはとるにたりない些細なことだけど、ぼくはそれがユダヤ人とアラブ人の違いを象徴しているように思えてならなかった。ぼくもそのアラブ人と同じように、1台、バスを待った。

 テルアビブ行きのバスは片側3車線のハイウエーを高速で走る。山々をどんどんと下り、地中海の海岸を目指した。その途中では流れるような霧がかかっていた。平地に下ると、果樹園のたわわに実ったオレンジが見えた。バスの窓ガラス越しにオレンジの香りが漂ってきた。

ユダヤ人の顔って?

 テルアビブに戻り、町の雑踏の中を歩きながら、ぼくは「ユダヤ人の顔って、どんな顔なんだろう」と考え込んだ。イスラエルにやってくるまでは、ユダヤ人の顔というのはなんとなく陰気で鷲鼻の魔女とか魔法使いのような顔を連想していた。しかし、イスラエルにやってきて、何人もの人たちに会うと、ユダヤ人の顔というものがまったくわからなくなってしまった。

 ロシアから来た人はロシア人みたいだし、イギリスから来た人はイギリス人みたいだし、モロッコやチュニジアから来た人たちは、ぼくの目ではアラブ人と区別できなかった。冗談半分なのだろうが、「キミがユダヤ人だといっても、この国では誰も疑わない。日本で生まれ、日本で育ったユダヤ人だと、そう思うだけだよ」といわれたこともある。

 イスラエルには100を超える国からユダヤ人が集まってきた。つまり、それだけ多くの国々の文化が、この狭いイスラエルの国に流れ込んできた。それら、混ざり合った文化が、よけいにユダヤ人の顔をわかりにくくしているようだった。

イスラエルを離れる

 いよいよ、イスラエルを離れる日がやってきた。ギリシャのアテネに向かうのだ。空港でのチェックは入国時とは比べものにならないほど厳しかった。ぼくの乗る飛行機はTWA機。8時15分発のTW841便だった。出発の2時間前までにはTWAのカウンターに来るようにといわれた。普通だったら、1時間前でいいのに…と思いながら、時間通りに空港に行った。

 遅れないでよかった。2時間はかかるはずである。出国の厳しい検査は荷物検査からはじまった。1点1点、すべて調べられた。アメリカ人観光客の中年女性はおみやげまで開けられて金切り声を上げて怒っている。ぼくの場合だと、とり終わったフィルムはテープを巻いてカンの中に入れておいたが、それらのフィルムは1本1本、すべてテープをはがしてチェックされた。それらの荷物は機内持込みではなく、飛行機に積まれる分なのである。

 次に機内に持ち込む荷物の検査。金属製のものはすべてひっかかった。小さなナイフは没収され、磁石は怪しいものでないか検査され、カメラはその場で1枚、カラ撮りさせられた。さらに1人づつ個室に入れられ、なんと服を脱がされ、体に武器となるようなものをつけていないかどうか調べられた。これだけ厳しいと、当然のことだが乗客とのトラブルも多く、あちこちから声を荒らげたやりとりが聞こえきた。

 最後に係官に、「この48時間以内に、アラブ人と親しく口をきかなかったか? 何か頼まれたことはないか? あずかったものはないか?」と聞かれ、長く厳しい検査は終わりとなった。

 入国時はキプロスのニコシア空港で調べられたものの、イスラエル側ではあまりにも簡単なチェックだったので、驚いたほどだ。それにひきかえ、出国時のこの厳しさは一体、何だ。普通は逆になる。TWA機だったからまだよかったものの、これがイスラエルのエルアル機だと、もっとひどいことになっていたという。

 アラブとの際限のない戦いがつづくイスラエル…。この国のおかれた難しい立場が、空港での検査に表れていた。その日のテルアビブの朝刊には、一面に写真入りで、ゴラン高原での戦闘が大きく報じられていた。

 テルアビブ郊外のロッド空港を飛び立ったTWAのジャンボ機は、あっというまに地中海の上空を飛んでいた。雲が多かったが、その切れ間から真っ青な地中海が見えていた。ギリシャに近づくと雲は切れ、エーゲ海に浮かぶ島々が眼下にあった。乾燥した茶色い島々。TWAのジャンボ機はテルアビブから2時間ほどでアテネ国際空港に着陸した。

テルアビブを飛び立つ
テルアビブを飛び立つ
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
アテネを見下ろす
アテネを見下ろす
アテネを見下ろす
アテネを見下ろす

30年目の「六大陸周遊記」[038]

アフリカ東部編 14 テルアビブ[イスラエル] → エルサレム[イスラエル]

北のハイファへ

 テルアビブを出発点にして南部イスラエルをまわったので、今度は北部イスラエルをまわる。テルアビブ中央駅から北のハイファ行きの列車に乗った。ハイファまでは約100キロ。料金は6ポンド40アゴルット。1イスラエルポンドは日本円の70円ほど。100アゴルットで1ポンドになる。

 ハイファに着くと、町を歩きまわり、イスラエル最大の港を見る。そのあとで町を一望できる丘に登り、そこからハイファの市街地を見下ろした。その向こうには紺青の地中海が広がっている。ハイファ港や臨海工業地帯もよく見える。港外には何隻もの貨物船が停泊していた。

 ハイファの町を歩きまわったところで、駅に戻る。列車でさらに北のナハリッヤまで行こうと思ったのだ。

2つのキブツ

 ハイファ駅構内の片隅で腰を下ろし、地図を広げている時のことだった。突然、日本語で声をかけられた。驚いて顔を上げると、日本人の青年が立っていた。白いきれいな歯並びが印象的な人。その人は辻本義仁さん。福井から来たという。辻本さんは旅に出て長い。アフリカにも足を延ばしたという。今はキブツで働いており、ぼくにも来ないかと誘われた。

 ぜひともキブツを見てみたいものだと思っていたので、彼の働いているハイファに近いヤグールのキブツに一緒に行く。そこで過ごした何日かは楽しい日々だった。ヨーロッパに空輸されるというグレープフルーツの収穫を手伝った。

 辻本さんはキブツの人たちから「ヨシ、ヨシ」と呼ばれ、人気があった。女の子たちにも大モテ。そのおかげでキブツのいろいろな人たちと話すことができた。

 辻本さんはもうしばらくキブツで働いたら、サハラ砂漠に行きたいという。夜遅くまで、暗い電気のもとで地図を広げ、2人でサハラの話をした。

 ヤグールのあと、レバノン国境に近いエイロンのキブツに行った。そこには辻本さんに紹介された山口信博さんがいて、エイロンでも何日か、働いた。ここではバナナの収穫の仕事。5時30分起床、6時にトラクターに乗って農場へ。ひと仕事したところで朝食だ。朝食後、すぐに農場に戻り、昼まで働き、昼食後は午後3時30分まで仕事がつづく。

 ヤグールとエイロンでキブツを垣間見たが、世界でも類を見ない「キブツ」という組織には驚かされることが多かった。

ハイファ駅に到着
ハイファ駅に到着
ハイファの中心街
ハイファの中心街
ハイファの中心街
ハイファの中心街
ハイファを見下ろす
ハイファを見下ろす

体験的キブツ考

 キブツは日本語だと集団農場と訳されるが、実際にはあまり正確な訳ではない。ほとんどのキブツには工場があり、工業製品や工芸品が生産されており、それらの出荷額は農産物を上回っているという。

 ぼくは組織というのは、日本の会社や役所、さらには軍隊のようにきちんとした上下階級があり、上から下への命令で動くものだとばかり思っていた。ところがキブツは違う。エイロンは小さなキブツだったが、ヤグールなどはメンバーが3000人を超え、日本だったら大企業の部類に入るような大組織だ。そんな大組織が階級とか、上から下への命令といったものなしで、キブツを構成している人たちの話し合いで動いていた。

 キブツにはキブツを構成するメンバーのほかに、世界の各地から集まったボランティアの若者たちがいる。彼らは3ヵ月とか半年、1年という単位で働いている。日本人青年の数もキブツ全体ではかなりの数になる。ボランティアの青年たちは一緒になって働きながらキブツを知りたいという人が多いようだ。彼らの多くはキブツをユートピア的に見ているようだった。

 また、1年とか2年といった長い旅をつづけている若者たちが、ちょうど渡り鳥が羽を休めるように、キブツに滞在していく例も多いという。キブツを流れる自由な雰囲気が、束縛を嫌い、自由奔放に世界を駆けめぐる旅人たちをひきつけ、またキブツの方にもそのような旅人を喜んで迎える素地があるようだ。

 ボランティアの中には教師が多いように感じられた。キブツの教育制度は彼らの注目の的だそうで、それを実際に見、体験したいのだという。キブツの子供たちは生まれたときから親と離れ、団体生活を送り、男女一緒の生活をしている。

 キブツの人たちはよく働く。べつにみんなよりも働いたからといって収入が多くなるわけではない。おいしいものを食べられるわけでも、自分の土地や家を得られるわけでもない。それではいったい何のためにと思ってしまうが、人間の労働というのは決して金銭だけに換算できるものではないということを教えてくれているかのようだ。

 とにかくキブツはものすごい実験だ。そして、その実験が成功しているように見える。しかし、キブツのメンバーが3代目、4代目…になったときも、はたして今のような活力を維持できるのだろうか。私有の財産というものなしで、ほんとうに不満なくやっていけるのだろうか。教育が進んでも、農場や工場での単純労働に我慢してやっていけるのだろうか。キブツで生まれ育った者が、いったんキブツを離れたら、はたして生きていけるのだろうか。いろいろと考えさせられたイスラエルのキブツだった。

戦乱のゴラン高原へ

 エイロンからはレバノン国境の山々に沿って東へ、戦乱のゴラン高原へと向かう。できればゴラン高原の中心、クネイトラまで行ってみたかった。しかしクネイトラの町は第4次中東戦争で徹底的に破壊され、死の町と化しているという。

 イスラエルでのヒッチハイクは辺境地帯でも、そう難しくはない。なにしろ車が来れば乗せてくれる確率がきわめて高いからだ。レバノン国境を離れ、サファッドへ。ゴラン高原は近い。サファッドからヨルダン川の谷間へと下っていく。いまだに激しい戦闘のつづくゴラン高原。それに通じる道は軍事色一色に塗りつぶされ、戦車や装甲車、軍用トラック、連絡用のジープなどが仕切りなしに通り過ぎていく。

 行く手にはゴラン高原の一番奥まった所に位置するヘルモン山が見えてきた。真っ白に雪化粧したヘルモン山は、およそ戦闘とは縁遠い、きれいな、なだらかな山の姿だった。その山麓ではイスラエル軍とシリア軍が停戦後も激しい戦いを繰り広げている。すでにこのあたりまで来ると、腹の底に響くような砲声が間近に聞こえてくるのだった。

 道はまっすぐ北に延び、イスラエル最北のメトウリアへと通じている。地図を見ると、そこまで30キロ。ゴラン高原のクネイトラに通じる道はメトウリアへの道と分かれ、ヨルダン川を渡っていく。2本の道の分岐からは軍のトラックに乗せてもらった。うまくすると、ヨルダン川を渡り、クネイトラまで行けるかもしれないとおおいに期待した。その反面、不安も大きかった。戦闘に巻き込まれ、命を落とす危険性が大きかったからだ。

 激しい砲声はより近くで聞こえるようになった。このところ連日のように、イスラエルの新聞には、ヨルダン川を渡ってやってくるゲリラ部隊との戦闘の記事がのっている。ぼくはすでに戦場に足を踏み入れていた。

 ヨルダン川の手前に検問所があった。そこでは軍が車を1台1台、調べていた。ぼくもパスポートを調べられ、「これ以上先には、軍の特別な許可証がないと行けない」といわれた。残念だが仕方ない。それと同時に何か、ホッとした気分でもあった。

 ゆるやかに波打つ丘陵地帯がゴラン高原へとつづいている。すでに春たけなわで、黄色や白の野花が一面に咲いていた。

レバノン国境の山々
レバノン国境の山々
前方には雪をかぶったヘルモン山
前方には雪をかぶったヘルモン山
ヘルモン山を望む
ヘルモン山を望む

海面下のガリラヤ湖

 今度は南に下り、ガリラヤ湖畔に出る。ヘルモン山を水源とするヨルダン川は南に流れ、ガリラヤ湖に流れ込む。ガリラヤ湖から流れ出たヨルダン川は再び南に流れ、死海に流れ込む。ヨルダン川は内陸河川で全長300キロ。水の乏しいパレスチナでは、一番重要な、貴重な川になっている。

 ガリラヤ湖はティベリア湖とも、キンネレテ湖ともいわれているが、パレスチナ北部のガリラヤ地方とともに、ガリラヤ湖はキリスト教とのかかわりが深い。キリストの奇跡には何度となくガリラヤ湖は出てくる。

 死海と同じようにガリラヤ湖も海面下の湖だ。海抜はマイナス209メートル。淡水湖のガリラヤ湖はイスラエルにとってはきわめて重要で、ここからはるか南のネゲブ砂漠まで灌漑用の水が送られている。

 ガリラヤ湖岸の道を南に行くと、湖周辺では一番大きな町のティベリアスに着く。湖畔では観光客が降り注ぐ春の日差しを楽しんでいる。この町の歴史はきわめて古い。2000年以上も前に町はでき、ローマ時代にはガリラヤ地方の首都だった。ユダヤ教の聖地で古代のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)や初期のユダヤ教のラビ(ユダヤ教の牧師)の墓などがある。

 ティベリアスでガリラヤ湖を離れ、今度はキリスト教の聖地のナザレに向かう。湖から上の台地までは急な登り坂がつづく。途中でシーレベル(海抜0m)の標識を通過。ティベリアスからナザレまでは35キロほど。ナザレはガリラヤ地方の中心都市でアラブ系のキリスト教徒も多く、キリスト教の教会とイスラム教のモスクが混在していた。ナザレは聖母マリアの故郷で、キリストが幼年時代を過ごした所だ。

ティベリアスの町
ティベリアスの町
ガリラヤ湖
ガリラヤ湖
シーレベルとガリラヤ湖
シーレベルとガリラヤ湖
ナザレの町
ナザレの町
ナザレの町
ナザレの町
ナザレの道標
ナザレの道標

「オマエはどっちが好きか?」

 ナザレからは再度、エルサレムを目指す。ヨルダン川に近いベイシェイムの町外れで野宿したが、明け方の冷え込みはきつかった。目をさましたときは夜明けの冷え込みで手足は氷のように冷たくなっていた。

 まだ暗いうちに起き、ヨルダン川西岸の道を南へ、エルサレムへと歩いた。やがて空が明るくなり、ヨルダンの山々から朝日が昇る。道端でパンとオレンジの朝食を食べていると、農作業用のトラクターが止まり、乗せてくれた。アラブ人の青年が運転していた。彼は「このへんの土地はアラブのものだ。それをイスラエルが占領しているけど、きっといつか、アラブの手に取りかえしてやる」と息巻いている。

 アラブ人には何度となく聞かれたことだが、彼にも聞かれた。

「オマエはアラブが好きか? イスラエルが好きか?」

 アラブ人を前にして、「イスラエルが好きだ」とはいえないので、「アラブが好きだ」といっておく。

 それをいうたびに南部アフリカでの会話を思い出す。黒人と話すときは黒人に合わせ、白人と話すときは白人に合わせる。それと同じようなものだ。

 イスラエルでひとつおもしろかったのは、アラブ人にはいったい何度、「アラブが好きか、イスラエルが好きか」と聞かれたかしれないが、ユダヤ人に同じような質問をされたことは1度もない。それは土着性の強いアラブ人と、世界中を流浪したことによって、洗練されたスマートさを身につけたユダヤ人の違いなのか。

ユダヤ教の安息日

 ヨルダン川の西岸をエルサレムに向かった日はサバット。ユダヤ教徒にとっての安息日だ。ユダヤ教徒にとっては金曜日の夜から土曜日の夜までが安息日になっている。サマリア地方のヨルダン川西岸地帯は人も少なく、交通量も少ない。さらにサバットとなると、さらに交通量が少なくなるのでヒッチハイクは難しくなるものと思われた。歩き疲れてバス停で止まったとき、本数は少ないがエルサレム行きとアカバ湾のエイラート行きのバスがあったので、エルサレム行きのバスが来たらそれに乗ろうと決めた。

 そんなときに1台の車が止まってくれた。日本製のスバル。幸運なことにエルサレムまで行く車だった。運転しているのはユダヤ人。「今日はサバットだから、ほんとうは働いてはいけないのだけど…」と、彼はまっさきにいった。ユダヤ教徒にとっての安息日というのは、日本人にとっての日曜日とはわけが違う。30歳ぐらいのその人は、頭にちょこんと、丸い小さなユダヤ教徒特有の帽子をのせている。

 安息日に仕事をしてしまったというその人は車が大好きだ。世界中の車を知っている。車の本や雑誌を読むのが一番の趣味だという。

「日本の自動車はほんとうにすばらしい。私はマツダが欲しいのだけど、イスラエルにはスバルしかないので、それでスバルを買ったんだよ。早く、日本のほかのメーカーの車も買えるようになるといいんだけど…」

 彼はトヨタもニッサンもホンダも知っていた。しかし、それらの日本のメーカーはアラブとイスラエルの市場を天秤にかけ、より大きな市場のアラブを取ったのだという。イスラエルに輸出すれば、アラブ側でボイコットされてしまうからだという。

ヨルダン川が見えた!

 道の両側にはサマリアの乾燥した風景がつづく。いつ、ヨルダン川が見えてくるのだろうと、心待ちにしていた。ついに、ヨルダン川が見えてきた。深い谷をつくって流れるヨルダン川。しかし、谷は深いが川の流れ自体は小さなもの。とても大河と呼べるような川ではなかった。谷間はうっすらと緑に包まれ、所々で春の野花が咲いていた。

 ヨルダン川の流域はさすがに緊張していた。谷間には2重、3重にバリケードが張りめぐらされ、要塞があり、軍の警備にも厳しさが感じられた。それでもジェリコからエルサレムへの道は全く自由な通行で、検問所は1ヵ所もなかった。

 ヨルダン川の谷間にあるジェリコの町からエルサレムへと一気に登っていく。シーレベルの標識を通過し、アラブ人の町を通り過ぎるとエルサレム。旧市街のダマスカス門の前で降ろしてもらった。

30年目の「六大陸周遊記」[037]

アフリカ東部編 13 エイラート[イスラエル] → テルアビブ[イスラエル]

地中海岸のガザ

 イスラエルの紅海の港町、エイラートからネゲブ地方の中心地ベルシェバを通り、地中海岸のガザへ。イスラエルでのヒッチハイクは楽だ。車の止まってくれる確率が極めて高かった。

 ガザで驚かされたのはユダヤ人の世界からパレスチナ人の世界にガラリと変わったことだ。町のいたるところにイスラム教のモスクがあり、道端では黒い布をすっぽりとかぶった女たちがオレンジを売っている。言葉もヘブライ語からアラビア語に変わり、道行く男たちもダラーンとたれさがったアラビア服を着ている。

 その日はサバット。ユダヤ教徒にとっては休息日となっている土曜日で、休日だ。そのためユダヤ人の町々の店はすべて閉まっていた。ところがガザに来ると、もうサバットなどはまったく関係ない。イスラム教徒にとっての休息日は金曜日だからだ。

 ガザはパレスチナの大きな紛争地点。そのため大型の無線機を背負い、腰には手榴弾をぶら下げ、機関銃を手にしたものものしい装備のイスラエル兵が町中をパトロールしている。そんなパトロールしている兵士の姿を町のあちこちで見かけるのだ。パレスチナ紛争の最前線にやってきたという緊張感が自分の体の中をピピピッと電気のように走っていく。

ネゲブ砂漠を貫く舗装路
ネゲブ砂漠を貫く舗装路
ネゲブ砂漠の標識
ネゲブ砂漠の標識
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ

シナイ半島に入る

 ガザからシナイ半島に入り、地中海沿いに西へ。できたらスエズ運河の見えるところまで行きたいと思った。西に進むにつれて緑は消え、砂地が広がっていく。乾燥した原野にはわずか4、5ヵ月前の第4次中東戦争の残骸が、無残な姿をあちこちでさらしていた。焼けただれた戦車、原型をとどめない装甲車、るいるいとつづく破壊された軍用トラック…。これでもか、これでもかといわんばかりに戦争の残骸を見せつけていた。

 いったいシナイ半島の荒涼とした原野は、どれだけ多くの人間の血を吸ったことか。ジッと耳をすますと、大地の底からは、あえぎ苦しんでこの世を去った兵士たちの、悲痛な声が聞こえてくるようだった。

シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
戦争の残骸をあちこちで見る
戦争の残骸をあちこちで見る

「戦争」を考える

 このような、すさまじいばかりの戦争の残骸を見せつけられると、「戦争」について、考えずにはいられなかった。

 戦争はなんて非人道的な行為なのだろう。戦争はよくないと、世界中の誰もがわかりすぎるくらいにわかっている。戦場で肉親や友人たちの命が奪われて喜ぶ人はいない。それなのに、どうして戦争をやめることができないのか。

 国と国との強烈なエゴがぶつかりあう国際社会。国というなんとも得体の知れない存在が戦争をなくさないのか。

 戦争で死ぬのはいつも一般の国民だ。戦争をひき起こした責任をとらなくてはならない政治家や高級軍人、さらには戦争で大もうけする経済人たちが戦場で死ぬことはめったにない。国家権力と結びついてぬくぬくと肥え太っていく人間たちが、彼らの利益を守るために戦争を引き起す。そして、その戦争で死んでいくのはいつも一般の国民だ。

 そんな一部人間たちのつくり出す大儀名分に踊らされ、「さー、敵を倒せ!」と繰り返し繰り返しいわれると、みんながそう思い込んでしまうのだろうか。戦争は1人1人の人たちに、強い意志、確固とした信念がないから引き起こされてしまうのだろうか。

 人間にとって一番楽な生きかたは抵抗しないことだ。何ものにも逆らわず、権力に従い、上の人間にいうようにすることだ。人は誰も自分が、子供が、家族が大事だ。しかし、時には勇気を持って大きな流れに逆らわなくてはならない。とくに独裁国家や全体主義の国では、権力に抵抗することは死を意味する。それでも各人が勇気をふるって自分の信念を貫いたとき、きっとこの世から戦争はなくなると、そんなことを考えながらシナイ半島を西に進んだ。

検問所で

 行く手にはあいかわらず、荒れた大地が広がっている。道路沿いには点々とイスラエル軍のキャンプがあり、何台もの戦車がこれみよがしに置かれている。それはシナイ半島を制圧した側の力の誇示のように見えた。

 シナイ半島をさらに西へ、西へと進み、スエズ運河まであと100キロという地点までやってきた。そこではイスラエル軍がバリケードを築き、通行車両を検問していた。そこから先はイスラエル軍兵士と軍から許可証をもらった人、この先の村に住むアラブ人以外は通行禁止だった。

 イスラエル軍の兵士たちはここまで来たのに残念だったなといって冷たいジュースをコップについでくれた。別に何しに来たのかとか、パスポートを見せろとか、一切、いわれなかった。スエズ運河まで行けないのはなんとも残念なことだったが、「まあ、ここまで来ればいいだろう」という満足できる気分でもあった。

バスが止まった!

 その検問所から再び、ヒッチハイクでガザに戻ることにした。しかし、このあたりは交通量がきわめて少なく、おまけに夕暮れが迫っていた。ヒッチハイクを諦め、イスラエル軍の兵士たちに頼んで検問所で野宿しようかと考えているときだった。1台のカラのバスが止まり、運転手が中から手招きしている。シュミエルフィールドさんという年配の人だった。テルアビブで兵士たちを乗せ、スエズ運河地帯まで行って兵士たちを下ろし、テルアビブに戻るところだった。なんともラッキーなことに、テルアビブまで乗せてくれるという。ぼくは運転席のわきに座り、シュミエルフィールドさんにもらったサンドイッチを食べながら彼の話を聞いた。

シュミエルフィールドさんの話

 シュミエルフィールドさんは第2次大戦後、ユダヤ人にとっての「約束の地」、パレスチナにドイツからやってきた。戦時中は大変な迫害を受けたに違いないのだが、あまりそのことにはふれたくないようだった。1948年にイスラエルが建国されたときは仲間たちと大喜びしたという。二千数百年にも及ぶ民族の流浪の歴史に終止符が打たれたのだ。

 パレスチナ戦争(1948〜1949年)の結果、イスラエルは領土を拡大し、国民は一丸となって新生イスラエルのために働いたという。しかし、このパレスチナ戦争のせいで100万人ものパレスチナ難民が発生し、そのことが後の中東情勢に大きな影響を与えるようになってしまった。
「中東の紛争はすでに私たちの手の届かないところにいってしまっている」
といってシュミエルフィールドさんは顔を曇らせる。イスラエルにとってもパレスチナにとっても、この果てしない戦いは必要なのだともいった。

 イスラエルには多様な人たちが集まり、ひとつの国家を形成しているが、たえずこのような緊張状態にないと国がバラバラになってしまう危険性があるという。

 一方、アラブにもそれなりの事情があるという。たとえばエジプトの場合だと、厳しい国内情勢が上げられる。ナイル両岸の、国土の数パーセントにも満たない狭い地域に3000万という膨大な数の人たちが住んでいるが、経済もドン底で、国民の不満は爆発寸前。国をも倒しかねない不満の渦をかわすためにも、「我らの敵、イスラエル」がどうしても必要なのだ。アラブ全体からいえば、イスラエルという天敵はてんでんばらばらなアラブ諸国をまとめる強力な接着剤になっているという。

「サラーム」と「シャローム」

 シュミエルフィールドさんの話を聞いて、ぼくは「国って、何なのだろう」と、あらためて考えてみた。「国益」だといって自己の利益しか考えず、自己の主張のみを押しつけようとするが国家なのではないかと思った。ユダヤ人とアラブ人は戦う必要などまったくないのだ。イスラエルの建国以前はパレスチナの地でお互いに仲よく暮らしていたではないか。

 アラブ人はあいさつに「サラーム(平和)」といい、ユダヤ人は「シャローム(平和)」という。朝から晩まで「サラーム」、「シャローム」といっている人たちが、何でお互いに銃を向けあわなくてはならないのか。

シュミエルフィールドさんの家に行く

 シュミエルフィールドさんは途中で何度となく兵士を乗せた。それは彼に限ったことではない。イスラエルでは兵士たちがいたるところでヒッチハイクしていたが、人を乗せる余裕のある車は、次々と彼らを乗せてあげていた。町の人たちが道端のテーブルを並べ、軍のトラックやジープなどが通るたびに、飲み物や果物をふるまっているのを見たこともある。イスラエルの国民がまさに一丸となって国を守っているといった印象を受けた。

 テルアビブの市街地に近づくと、シュミエルフィールドさんのバスは一転して市内バスに早変わりする。停留所ごとに止まり、乗客を乗せる。もちろん料金を取ってである。そこにユダヤ人の持つ合理性を見る思いがした。

 終点の車庫に着くと、シュミエルフィールドさんは事務所で報告し、料金箱を渡す。それが終わるとぼくを家に連れていってくれ、奥さんが用意してくれていた夕食をご馳走になった。

 食事がすむと、「さー、これからナイトクラブに行こう」といわれビックリ。何しろぼくの格好といったらひどいもので、ジーパンはすでにボロボロで、膝から下を切って半ズボンにしていた。ナイトクラブとは縁遠いものだ。

 奥さんは「お風呂がわきましたよ。さあ、どうぞ」とバスルームに案内してくれた。

「よーし、この格好で一緒にナイトクラブとやらに行ってやろう」
 と覚悟を決めて風呂に入らせてもらったが、ぼくが風呂から上がると、奥さんは「これを使って下さい」といってズボンとセーター、ソックスを用意しておいてくれた。

 ナイトクラブには熱気が充満していた。若い人たちに混じって夫妻は仲むつまじく音楽に合わせて踊っている。そこには戦争の匂いなどまったくなかった。ビールのグラスをかたむける男たち、踊りに夢中になっている若者たち、熱く語り合う恋人たち、そんな人たちを見ていると、「(中東全域に)一日も早く、真の平和が訪れますように!」と願わずにはいられなかった。

 ナイトクラブではほんとうに楽しい時間を過ごすことができた。そのあとシュミエルフィールドさんの家に戻ると、夫妻とビールを飲みながら語り合い、その夜は泊めてもらった。なんとも心に残るシュミエルフィールドさんとの出会いだった。

30年目の「六大陸周遊記」[036]

アフリカ東部編 12 テルアビブ[イスラエル] → エイラート[イスラエル]

テルアビブの無料ホテル

 ロッド空港からイスラエルの航空会社、エルアル航空のバスでテルアビブ市内へ。バスターミナルではツーリストインフォメーションでいわれた通り61番のバスに乗り、モノポールホテルに行った。キプロスのニコシアは東京とほぼ同緯度の北緯35度。イスラエルのテルアビブはそれよりも南の北緯32度。3度の緯度の差なのだろう、ニコシアに比べるとテルアビブは暖かく、寒さに震えることはなかった。

 モノポールホテルのフロントで空港内でもらった書類を見せると、ほんとうに宿泊も食事も無料だった。「やったねー!」という気分。部屋は2人用でオランダからやってきた小学校の先生と一緒になった。30過ぎの先生は半年間の休暇をもらい、イスラエルにやってきた。キブツの教育制度に興味を持ち、キブツで働きながらそれを研究するのがイスラエルに来た目的だという。

 翌朝、朝食を食べ終えたところで、モノポールホテル内にあるキブツのオフィスへ。そこでは「あなたはどのあたりのキブツがいいですか」と1人1人の希望を聞き、それに沿ったキブツを紹介してくる。

 いよいよぼくの番になる。場所はどこでもいいと思っていた。できることなら一番、辺境のネゲブ砂漠あたりがいい。

「あなたはキブツでどのくらい働きたいのですか」
 と最初に聞かれ、1ヵ月くらいと答えた。すると最低でも3ヵ月なのだという。

「3ヵ月か…」

 イスラエルからはギリシャのアテネに飛び、さらにイギリスのロンドンに飛び、ロンドンからヒッチハイクでアテネまで南下し、さらに中東の国々をめぐり、また、アフリカに戻るつもりにしていた。それだけに、キブツでの3ヵ月は長すぎる…。

「残念ながら3ヵ月は働けません」

「そうですか。ではまた次の機会に、ぜひとも来て下さいね」

 担当の若い女性はいやな顔ひとつしないで、そういってくれた。

 ぼくは恐る恐るホテルの宿泊代と食事代はどうしたらいいのか聞いてみたが、「一銭も払う必要はありませんよ」とありがたいことをいってくれた。

テルアビブの町歩き

 イスラエル最大の都市、テルアビブはおもしろいところだった。歩いても歩いても、すこしもあきない。このところしばらく忘れていた町歩きのおもしろさを思い出させてくれた。人々のさまざまな表情が見てとれる。世界のありとあらゆるところから集まってきたユダヤ人たち。町にはきわめてコスモポリタン的な空気が漂っていた。

 市内地図を片手に歩いていると、「どこに行くのですか。もし道がわからないのなら、教えてあげましょう」と、好意的な声を何度となくかけられた。その人がわからないと、ほかの人たちを呼んででも、教えてくれようとした。「どうして、みんがこうも親身になって道を教えてくようとするのだろう」と不思議でならなかった。苦労した人は他人の苦労がよくわかるからなのだろうか。ユダヤ王国滅亡後の二千数百年という気が遠くなるほどの長い年月、他民族から迫害されつづけてきた流浪の民、ユダヤ人の苦しみつづけてきた民族性がそうさせるのだろうか。

テルアビブの中心街
テルアビブの中心街
サイドカーを見る
サイドカーを見る

エルサレムへ

 テルアビブ南駅から列車でエルサレムに向かった。「テルアビブ〜エルサレム」間はバスがひんぱんに出ているので、列車の本数は多くはない。車内はすいており、ゆったりとしたシートには気持ちよく座れた。

 ジーゼルカーに引かれた列車は静かにテルアビブ南駅を離れていく。テルアビブの市街地を抜け出ると空港のあるロッドを通り、丘陵地帯に入っていく。岩肌の露出した山の斜面のあちこちで盛んに植林されている。ゆるやかに流れる小川の両側には、黄色い春の草花が咲いていた。

 ジーゼルカーはあえぎながら山の斜面を登っていく。丘陵地帯を登りきり、エルサレム駅に到着した。テルアビブから80キロほどの距離だ。

テルアビブ駅から列車でエルサレムへ
テルアビブ駅から列車でエルサレムへ
エルサレム行きの列車内
エルサレム行きの列車内
列車とすれ違う
列車とすれ違う
列車は丘陵地帯に入っていく
列車は丘陵地帯に入っていく

世界の聖地

 エルサレム駅から町を歩きはじめた。何か胸がワクワクしてくるような気分だ。エルサレムは首都の建設が急ピッチで進む新市街と城壁で囲まれた旧市街の2つに分けられる。エルサレムは世界の聖地。その中心となる旧市街は世界中から訪れる人たちでにぎわっていた。

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地である旧市街はジャファ門から入っていった。そこは「クリスチャン地区」、「モスレム(イスラム教徒)地区」、「ユダヤ教徒地区」、「アルメニアン(アルメニア人)地区」の4地区の分かれていた。このエルサレムの旧市街が最高におもしろい。たとえば休日ひとつをとってみても、それぞれに習慣が違うので、クリスチャン地区は日曜日、モスレム地区は金曜日、ユダヤ教徒地区は土曜日が休みになる。

 狭い迷路のような路地を歩いていくと、金色のドームが輝く「岩のドーム」に出る。ここはイスラム教徒にとってはメッカ、メジナに次ぐ第3の聖地になっている。階段を下っていくと、そこは「嘆き壁」。ユダヤ教徒にとっては一番の聖地。イスラムの聖地のすぐ下がユダヤ教徒たちの聖地なのである。

 キリスト教徒にとっても、イスラム教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても、エルサレムは一生に一度は巡礼したいという聖地。旧市街の雑踏の中を歩いていると、何百年、何千年と積み重ねられてきたこの地の歴史のずっしりとした重さが伝わってくるかのようだった。

 エルサレムからキリスト生誕の地のベスレヘムまではバスで行った。電撃的なイスラエルの勝利に終わった第3次中東戦争(1968年)以前は、エルサレムはイスラエル領とヨルダン領に二分され、ヨルダン川から死海にかけての西側はヨルダン領だった。ベスレヘムもヨルダン領内にあった。そのせいなのだろう、ベスレヘム行きのバスは旧市街のバスターミナルから出るアラブのバス。「エルサレム〜ベスレヘム」間はほんのわずかな距離で、町つづきのような感じだった。

 ベスレヘムでは「生誕教会」などの教会を見てまわったあと、アラブの市場に行く。エルサレムでは1ポンドで2個しか買えなかったオレンジが、ここでは50アゴルット(100アゴルットが1ポンド)で4個も買えた。

 ベスレヘムからエルサレムに戻り、ユースホステルに泊まる。その夜のことだ。近くの店に買い物に行った。そこで小さな女の子を連れた一家と出会い、2こと3こと、言葉をかわした。それだけのことだったのに、中年の夫婦には「よかったらウチに遊びに来ませんか」と誘われ、一緒についていった。

 その方はイスラエルの名門大学、ヘブライ大学で動物学を教えている先生だった。サソリとクモが専門だという。女の子はシーグルちゃんで、「英語だとカモメちゃんだ」といって先生は笑った。先生はエチオピアに行ったことがあり、ヘブライ語とアムハラ語がすごく似ているのには驚いたという。ヘブライ文字とアムハラ文字にも似ている点があるという。コーヒーを飲みながらの先生一家との話は楽しかった。

エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
イスラム教の聖地「ロック・オフ・ドーム」
イスラム教の聖地「ロック・オフ・ドーム」
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く

死海で浮んだ!

 エルサレムからは世界最古の町といわれるジェリコに寄ったあと、バスで死海に向かった。この道がすごい。何がすごいかというと、標高800メートル近い高原の町、エルサレムから、世界最低地点の海面下400メートルにもならんとする死海まで、下り坂が際限なくつづくのだ。まるで奈落の底に落ちていくような気分。シーレベル(海抜0m)の標識を過ぎると、エルサレムではヒンヤリしていたものが、ムッとする暑さに変わる。前方には巨大な壁が立ちふさがっている。ケニアのナイロビ近くで見られる大地溝帯(グレートリフトバレー)の風景とそっくりだ。

 ゴラン高原のヘルモン山を源とし、イスラエルとヨルダンの国境を流れるヨルダン川は、地溝帯の中を北から南へ、死海へと流れ込むが、このヨルダン河谷の地溝帯こそ、紅海からアフリカ大陸へとつづく大地溝帯の北端にあたるのだ。

 バスはヨルダンの首都アンマンに通じる道と分かれ、死海への道を南下する。バスの運転手の話ではヨルダン川にかかるアドバラッ橋を渡ってアンマンに通じる道は閉鎖されているとのことで、ジェリコからアレンビー橋を渡っていく道だけが開いているという。アンマンまでは手の届くような距離だが、イスラエルからヨルダンに入るのは容易なことではない。

 死海に到着。湖面の高さは海面下392メートル。渇水期になると、さらに水位は下がるという。死海の面積は1000平方メートル。琵琶湖の1・5倍といったところだ。最大水深は356メートル。地溝帯の中にできた地溝湖なのできわめて深い。

 いつの頃か、はっきりとはおぼえていないが、たぶん小学校の低学年の頃のことだろう。死海にプカプカ浮かびながら本を読んでいる、そんな写真か、マンガを見たおぼえがある。その時以来、「死海」が頭から離れず、いつの日か自分も同じように死海で体を浮かべてみたいと思うようになった。

 そんな長年の願いをかなえようと、死海の湖畔で服を脱ぎ捨て、湖に飛び込んだ。なるほどなるほど。じつによく浮かぶ。浮きすぎて泳ぎにくい。泳いだ拍子に水を飲んだが、まるで毒物でも飲んだかのような味の悪さ。塩分が濃すぎるのだ。舌には針かなにかで刺されたような感触が残り、気持ち悪くて吐きそうになった。死海に浮かぶのは決して気持ちのいいことではない、ということがよくわかった。

 湖から上がると、空気は乾ききっているので、おまけに猛烈に暑いので、濡れた体はあっというまに乾いてしまう。しかし塩が体にこびりつき気持ち悪い。湖面はコップの中で作った濃い塩水のようにトローンとしている。対岸には乾燥したヨルダンの山々が連なるている。

死海
死海
死海
死海

エイラート湾とアカバ湾

 死海の湖畔から紅海の港町、エイラートまではヒチイハイクで向かう。死海の西側の低地はネゲブ砂漠へとつづく砂漠地帯だ。イスラエルに入っている唯一の日本車のスバルに乗せてもらいエイラートへ。死海の南側では大規模な製塩がおこなわれている。

 死海を離れ、ネゲブ砂漠に入っていく。砂漠の中に一筋の舗装路がはてしなく延びる。所々に、砂漠を灌漑した農地が現れる。荒野と緑野が鮮やかな対比を成している。道路標識がおもしろい。最初にヘブライ語で書かれ、次にアラビア語、さらに英語で書かれてあった。

 紅海のアカバ湾に面したエイラートに着いたのは、夕暮れ時。海岸に出ると、ヨルダンのアカバの町並みがよく見えた。この「アカバ湾」もイスラエルの地図だと、当然だといわんばかりに「エイラート湾」になっている。日が落ち、町明かりが灯りはじめると、ヨルダンのアカバの町もキラキラと光り輝きはじめた。胸がジーンとしてくる風景だ。

 そんなアカバを見ていると、映画「アラビアのロレンス」のハイライトシーンが鮮明に蘇ってくる。イギリスの軍人ロレンスの率いるアラビア部族のラクダ部隊は、トルコ軍が支配する紅海の要衝のアカバを背後から奇襲攻撃した。不意をつかれたトルコ軍はひとたまりもなくやられ壊滅した。ラクダ部隊の叫ぶ「アカバ!」、「アカバ!」、「アカバ!」の声が聞こえてくるかのようだった。

 イスラエルとヨルダンの国境をはさんで隣り合うエイラートとアカバの2つの町。しかし、どんなに近くても、エイラートからアカバに行くことはできない。両者の間を切り裂く国境線というブ厚い壁の存在をあらためて強く感じるのだった。

ネゲブ砂漠を行く
ネゲブ砂漠を行く
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
エイラート湾
エイラート湾
エイラート湾
エイラート湾

30年目の「六大陸周遊記」[035]

アフリカ東部編 11 モヤレ[エチオピア] → テルアビブ[イスラエル]

なつかしのエチオピア

 エチオピアの首都、アディスアベバを歩きまわった。無性になつかしくなる。1968年にバイクで来たときは、ほんとうによくエチオピア国内をまわったものだと我ながら感心してしまう(というよりもまわらざるをえなかったのだが…)。

 1968年の「アフリカ大陸縦断」では、エチオピアはアディスアベバから北のアスマラに行き、そのままスーダンに抜けるつもりだった。ところがすんなりとはスーダンに入国できなかったためにそうなってしまった。

 アディスアベバからアスマラまでは2本のルートがある。1本はまっすぐ北上するもので、距離は1100キロ。もう1本は青ナイルの水源のタナ湖を経由するもので、距離は1300キロ。距離は長くなるが青ナイルの大峡谷を見たくてタナ湖経由のルートで行った。

 エチオピアの最高峰ラスダシャン(4620m)に近いシミアン山地には半月ほど滞在した。エチオピア北部の中心都市アスマラに着くと、すぐにスーダン領事館に行った。しかし、エチオピアのイミグレーションからの出国許可証がないと、スーダンのビザは発行できないといわれた。

 すぐさまイミグレーション・オフィスに行ったが、その出国許可証は得られなかった。エチオピア、スーダン間の不仲が理由だった。エチオピア北部のエリトリアはイスラム圏で、そんなエリトリアのエチオピアからの分離・独立にスーダンが力を貸しているというのがエチオピアのいい分だ。

 アスマラでだめならと、マイチョウ経由の直行ルートで首都アディスアベバに戻った。そしてエジプト航空で「アディスアベバ→ハルツーム」間の航空券を買い、飛行機でスーダンに入るということにし、アディスアベバにあるスーダン大使館でビザを取ることができた。

 アスマラに戻ると、北部エチオピアの国境の町、テッセナイに行き、スーダンのカッサラに抜けようとした。ところがテッセナイでは陸路でのエチオピア出国は認められないといわれ、このルートを断念しなくてはならなかった。再度、アスマラに戻ると、紅海の港町、マッサワに行ってみた。スーダンのポートスーダン港まで船で渡ろうとしたのだ。だが、これもうまくいかなかった。

 いよいよ困ってしまったが、タナ湖北側のアゼゾからならスーダンのゲダレフに抜けられるという情報をキャッチし、トライしてみた。すさまじくひどい道で決死の覚悟でエチオピアの高原地帯を下っていった。国境近くの平原地帯に降り立ったときは心底、救われた思いがした。その決死の覚悟が実ってエチオピア・スーダン間の国境を突破できた。そんな1968年のエチオピアの旅がなつかしく思い出された。

アディスアベバ
アディスアベバ
アディスアベバ駅前
アディスアベバ駅前
アディスアベバの街
アディスアベバの街
アディスアベバ、コプト教会
アディスアベバ、コプト教会

「パース→ロンドン」の航空券

 アディスアベバからはイスラエルのテルアビブに飛びたかった。次の日、航空会社のオフィスをまわる。オーストラリアのパースで買った「パース→ヨハネスバーグ→ナイロビ→ロンドン」のチケットのうち、未使用の「ナイロビ→ロンドン」をうまく使えば、一銭も払わずにテルアビブに行けるかもしれないと思った。どういうことかというと、アディスアベバからテルアビブ経由でのロンドン行きにし、テルアビブでストップオーバー(途中降機)するというものだ。

 まず最初はエチオピアエアーラインに行った。しかし、アディスアベバからテルアビブへの直行便はなかった。エチオピアエアーラインの場合だと、ギリシャのアテネ経由でのロンドン行きになり、「アテネ→テルアビブ」間の料金は別に払わなくてはならなかった。

 次にBOACに行った。BOACのロンドン行きだと、キプロスのニコシア経由があった。それで行こうと思い、チケットを「アディスアベバ→ニコシア→テルアビブ→アテネ→ロンドン」に変えてもらった。この方法だと「ニコシア→テルアビブ」間の割り増し料金を払えばいいとのことで、それはニコシアに着いてから払った方が安くなるといわれた。

画家の水野先生

 BOACのニコシア経由ロンドン行の便は週1便で出たばかり。1週間、待たなくてはならなかった。その間は1968年のときにもお世話になった日本人画家の水野先生のお宅に泊めてもらった。

 水野先生にはいろいろな話を聞かせてもらった。先生は戦時中、中国戦線で戦った。次々と病気で倒れていった戦友たち、戦闘で倒れていった戦友たちの話や水も食料も尽き、それでもつづけられた飲まず食わずの行軍の話などは、戦争のあまりのむごたらしさに胸が痛くなるほどだった。

「国家権力という抗しがたい巨大な力によって、人々は戦場へ、戦場へとかりたてられていったのだよ」という先生の言葉が強く印象に残った。

 水野先生はヨーロッパから起こった現代の物質文明に強い疑問を抱いていた。ヨーロッパを旅したときの体験が、より強くそう思わせたようだ。

「(ヨーロッパの)石造りの町々の冷たさは骨身にしみたよ」という。

「これからの世界において、今のような物質中心の文化はきっと行き詰まってしまう。それを解決できるのは東洋の精神文化しかない」と先生は熱い口調でそう話すのだった。

 水野先生のところでは何冊もの本を読ませてもらった。三島由紀夫の「金閣寺」や陳舜臣の「阿片戦争」全3巻も読破した。それが積もり積もった旅の疲れをどれだけ癒してくれたことか。

風雲急を告げるエチオピア

 エチオピアの情勢は急速に悪化していった。ゼネストが発生し、事態はより深刻になった。前年の第4次中東戦争後のオイルショックが、このゼネストの引き金になっている。オイルショックの荒波をまともにくらい、エチオピアの物価はいっぺんに上がった。1リットル50セント(約70円)だったガソリンが75セントに値上げされ、怒ったタクシー運転手たちがストライキに突入した。それをきっかけにして軍や警察がストライキに突入し、さらには大規模なゼネストへと発展した。労働者は1日3ドル(約420円)の最低賃金を要求し、内閣は総辞職に追い込まれ、ハイレセラシェ皇帝の権力も完全に失墜していた。

 だが、町行く人たちの表情はいつもとまったく変わらないように見えた。「暴動が起きようが、クーデターが起きようが、皇帝が倒されようが、そんなことはしったことではない。それよりも、毎日、生きていく方がよっぽど切実なんだ」

 人々の表情からはそんな無言の言葉を聞くような思いがした。

 そんな影響をモロに受け、アディスアベバからキプロスのニコシアに飛ぶ前日になっても、BOACでは「明日の飛行機が飛べるかどうかはわからない。そのときになってみないとわからない」というようないい方をした。

地中海のキプロス島へ

 キプロス島のニコシアに向かう当日は6時に起床し、7時には水野先生に別れを告げ、アディスアベバ国際空港に向かって歩き始めた。空港までは6キロほど。プラプラ歩き、9時前には着いた。町は平静だったのに、空港は軍や警察がものものしい警備をしている。どこの国でもそうだが、いったん事が起きると、軍とか警察はすぐに重要な拠点を押さえようとする。

 すごくラッキーなことに、BOAC機のニコシア経由ロンドン行きは予定通りに飛ぶという。しかし出発時間は1時間以上も遅れ、飛行機がアディスアベバの空港を飛び立ったのは12時過ぎだった。

 飛行機はエチオピアの山岳地帯の上空を飛ぶ。幾重にも重なり合った山岳地帯が眼下に広がっている。やがて山々はスーッと姿を消し、風景はスーダンの平原地帯に変わった。北に行くにつれ、まるでホウキで掃いたかのように、あっというまに緑が消えていく。ハルツームの上空を通過。白ナイルと青ナイルの合流点がよく見える。ナイルの両側には細長い帯のような緑の線がつづく。その両側は一面の砂漠だ。

 やがてナイル川の大人造湖、ナセル湖が見えてくる。飛行機はエジプトの首都カイロの手前でナイル川を離れ、エジプト西部の砂漠の上空を飛ぶ。地中海に出ると、じきにキプロス島のニコシア空港に着陸した。キプロス時間で午後4時。エチオピアとは1時間の時差があるので、アディスアベバからニコシアまでの飛行時間は5時間だった。

キプロスからイスラエルへ

 ギリシャ人とトルコ人の対立するキプロス島。1571年以来トルコ領だったが、1925年にイギリスの植民地になり、1960年に独立した。ギリシャ系住民とトルコ系住民の抗争は激しさを増し、ひとつの島の中に国境線があるかのような国なのだ。

 空港からニコシアの町までは歩いた。その間は4キロほど。夜のニコシアを歩き、食堂ではカバブーを食べた。羊肉を焼いたカバブーの味が「ここはもうアフリカではない」ということを強烈に実感させた。

 ひと晩、町中で野宿したあと、翌日はBOACのオフィスに行き、「ニコシア→テルアビブ」間の割り増し料金を払った。ニコシアでならアディスアベバよりもはるかに安くなるといわれたが、それでも80USドル(約21600円)。ぼくにとってはきわめて痛い出費となったが、どうしてもイスラエルは見ておきたかった。

 そのあとはバスで島を一周。ラルナカ、リマソル、バプホスと通ってトルコに近い海辺の町、キレニアまで行き、そしてニコシアに戻った。またしても町中での野宿だ。

 イスラエルにはキプロス航空機で向かった。19時30分発のテルアビブ行き。緊張のイスラエル行きの便ということで、空港での検査は厳重をきわめた。キリスト教の聖地巡礼をするというアメリカ人の団体客で混み合っていた。1席の空席もない、満員の乗客を乗せ、キプロス航空機は雨に濡れたニコシア空港を飛び立った。ギリシャ語のアナウンスがあり、軽食が出たと思ったら、もう飛行機は下降態勢に入っていた。

ニコシアの街
ニコシアの街
ニコシアの街
ニコシアの街
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア

イスラエルの第一歩

 飛行機の窓の外に目をやったとき、一瞬、我が目を疑った。イスラエル最大の都市、テルアビブのまばゆいばかりの夜景が目に飛び込んできたからだ。明る過ぎるぐらいの夜景を見て、イスラエルは大丈夫なのだろうかと思ってしまった。

 というのはイスラエルが占領しているゴラン高原ではイスラエル軍とシリア軍が激しい戦闘を繰り広げており、連日、新聞の一面記事になっていたからだ。イスラエルは臨戦体制に入り、当然、灯火管制を敷いているのに違いないと勝手に想像していたからだ。

 キプロス航空機がテルアビブ郊外のロッド空港に着陸してからも驚きはつづいた。入国手続きはじつに簡単なもので、荷物などまったく調べられなかった。フリーパス同然なのだ。これがほんとうに、世界中を動乱の渦に巻き込もうかという世界の火薬庫、イスラエルなのだろうかと信じられないくらいだった。

 驚きはさらにつづいた。テルアビブの地図でももらおうかと、空港内のツーリストインフォメーションに行った。すると受付の若い女性はニコッと笑って「いい話があるんですよ」というのだ。「ホテルにタダで泊まれて、食事もタダ。ね、いい話でしょ」と信じられないようなことをいう。

 まさか国の玄関口のツーリストインフォメーションで旅行者をだますはずがない。「でも、待てよ」と思った。ツーリストインフォメーションといったら、たいていは貧乏旅行者には冷たい。「それなのに、どうして彼女はこんなにも愛想よく、親切にしてくれるのだろう」と不思議でならなかった。

「ほんとうにタダでホテルに泊まれるんですか」

「ほんとうよ。だけど、そのかわりにキブツで働くのよ」

 それで納得できた。ぼくは彼女に即座に「OK!」の返事をした。イスラエルに来たからにはキブツ(集団農場)を見てみたかったし、短期間、どこかのキブツで体験労働もしてみたいと思っていたからだ。それだけに彼女の申し出はまさに一石二鳥といったところだ。

 ツーリストインフォメーションの美人受付嬢は「テルアビブに着いたら、61番のバスに乗りなさい」といって、ホテルの住所と簡単な地図を書いてくれた。彼女はほかに待っている人たちがいるのに、「キブツはきっと楽しいと思うわ。食事は食べ放題だし、洋服だって、靴だって、みんなタダ。お金も少しだけどくれるのよ」と、まるでずっと以前からの知り合いのような暖かさでキブツの話をしてくれるのだった。

 ツーリストインフォメーションが済むと、空港内の食堂に行った。そこでも驚きの体験をした。メニューはヘブライ語のみ。アラビア語と同じで右から左へと横書きされている。全く読めないが、じっと見ていると、なんとはなしにヘブライ文字がカタカナに見えてくる。

 読めないメニューを見ていても仕方ないので、ウエイトレスにサンドイッチを頼んだ。すると別なウエイトレスがソフトクリームを持ってきた。彼女に「サンドイッチを頼んだのだけど」というと、すぐさまサンドイッチを持ってきてくれ、さらに「よかったら、このソフトクリームも食べて下さい」といって置いていってくれた。

 これがイスラエルでの第一歩。驚きの連続だったし、うれしくなることの連続でもあった。「イスラエルって、きっとおもしろい国に違いない」と思わせる何かがあった。

30年目の「六大陸周遊記」[034]

アフリカ東部編 10 ナイロビ[ケニア] → モヤレ[エチオピア]

ケニア山の雪

 ナイロビを出発した最初の日のヒッチハイクはすごく楽で、シカ、フォートフォール、ニエリと通り、ケニア山北麓のナニュキに着いた。この町の入口では赤道を越え、南半球から北半球に入った。

 前年の1973年の8月にインドネシアのスマトラ島で赤道を越えて北半球から南半球に入ったが、それ以来の、半年ぶりの北半球ということになる。ナニュキに着いたのは夕方で、西日を浴びたケニア山の雪が赤々と染まっていた。目に残る光景だ。

 ケニア山は標高5202メートル。アフリカではキリマンジャロに次ぐ高峰で、正真正銘の赤道直下の雪山だ。赤道直下の雪山といえばアフリカにはもうひとつ、標高5119メートルのルウェンゾリーがある。

 ナニュキからはさらに夜のヒッチハイクをつづけ、その日のうちにケニア山北麓のティマウまで行った。ティマウの夜は高度のせいで寒かった…。警察でひと晩、泊めてもらったが、寒さに震えながら眠った。

 翌朝は快晴。昨夜以上の冷え込みで、おもわずギューッと首を縮めた。日本の冬枯れを思わせるような乾期のサバンナの向こうには、なだらかな裾野を引いてケニア山が聳えていた。朝日を浴びたケニア山の雪は神々しいほどにきれいだった。この寒さといい、ケニア山の雪といい、赤道のすぐ近くにいるとは思えなかった。赤道は寒いのだ。

ナイロビからシカへの道
ナイロビからシカへの道
ナニュキのメインストリート
ナニュキのメインストリート
ナニュキの道標
ナニュキの道標
ナニュキからケニア山を望む
ナニュキからケニア山を望む
ナニュキからケニア山を望む
ナニュキからケニア山を望む
ティマウから見るケニア山
ティマウから見るケニア山
ティマウから見るケニア山
ティマウから見るケニア山

灼熱地獄のヒッチッハイク

 ケニア山麓を下り、荒涼とした半砂漠地帯が広がるケニア北部への入口の町、イシオロまでは楽にヒッチハイクできた。ところがそこから先は大変だ。

 イシオロは小さな町。その町外れで道は2本に分かれる。2本ともエチオピア国境のモヤレに通じているが、右に曲がっていく道は旧道でワジールを経由し、まっすぐ行く道は新道でマルサビットを経由する。

 イシオロに着くと町中の市場でバナナ、トウモロコシ、マンゴーを食べ、そして町外れの分岐点に立って新道を行く車を待った。交通量はきわめて少ない。時間がたつにつれて強烈な日差しを浴びる。頭がクラクラしてくるほどだ。

 午前中はまったく乗れず、午後になってサンブル・ゲームリザーブ(動物保護地域)の入口にあたるアーチャーズ・ポストまで行くランドローバーに乗せてもらった。灼熱地獄から救われた。車にはソマリア人の家族が乗っていた。水を飲ませてもらい、ホッとひと息つくことができた。アーチャーズポストに着くと、食堂に飛び込み、たてつづけに冷えたコカコーラを2本、3本と飲んだ。そのあとで遅い昼食を食べた。

ケニア北部のサバンナ地帯
ケニア北部のサバンナ地帯
イシオロの町並みが見えてくる
イシオロの町並みが見えてくる
イシオロの郊外で出会った子供たち
イシオロの郊外で出会った子供たち

道を横切るサイに感動!

 アーチャーズポストでは、同じくエチオピアに向かう2人の黒人のアメリカ人と出会った。すっかり意気投合し、一緒に行くことにした。1人はカリフォルニア、もう1人はミシシッピーの出身で、ともにトルコ駐留の軍人。休暇を利用し、ヒッチハイクでアフリカをまわっていた。

 日が傾きはじめたころ、マルサビットまで行くトラックが止まり、乗せてもらえた。荷台に満載した積み荷のてっぺんに座り、広大なケニア北部の平原を一望。平原には所々でポコッ、ポコッと岩山が聳えている。ここでは野生動物を多く見た。シマウマやカモシカの類はたくさんいた。感動したのは1頭のサイが悠然と道を横切っていったときだ。

 イシオロからマルサビットまでは280キロ。道は舗装こそされていなかったが、路面はよく整備されていた。トラックは夜通し走り、真夜中にマルサビットに着いた。町中のガソリンスタンドの片隅で2人のアメリカ人と一緒に野宿した。

エチオピア国境に到着!

 マルサビットからエチオピア国境の町、モヤレまではより難しいヒッチハイクが予想された。そこでちょうどうまい具合にバスがあるというので、2人のアメリカ人と一緒に、そのバスに乗ることにした。マルサビットからモヤレまでは300キロ。バス代は20シル(約800円)。ほとんど待たずに乗れたそのバスには、我々のほかにイギリス人の男女、オーストラリア人、ニュージーランド人の旅行者が乗っていた。

 モヤレに着いたのは夕方。我々、旅行者の一団は一緒になって食堂に入り、「無事にエチオピア国境までやってきた!」ということでビールで乾杯し、そのあとで食事にした。その夜はケニア側のイミグレーション近くの無料のキャンプ場で泊まった。そこでも、ひきつづいての乾杯! 人種や国籍が違っても、同じ旅人同士ということで、こうしてすぐに仲良くなれるのが、我々の大きな強みだ。

マルサビットから乗ったバス
マルサビットから乗ったバス
バスの車中
バスの車中

アフリカの6年間の変化

 キャンプ場での宴会が終わるとシュラフにもぐり込んだが、ぼくはモヤレに着いて胸がいっぱいになった。1968年の「アフリカ大陸縦断」では、ケニアのナイロビからエチオピアのアディスアベバに行くまでが大変だったからだ。

 イシオロから先のケニア北部には、特別な許可証がないと入れなかったし、エチオピア側はモヤレからの陸路での入国を認めていなかった。ケニア、エチオピア内でのソマリア人のゲリラ活動が活発で、それによる治安の悪化が原因だった。

 ソマリア人は旧イタリア領と旧イギリス領のソマリーランドが一緒になって独立したソマリア以外にも、フランス領ソマリーランドとエチオピア南東部のオガデン地区、ケニア北東部に住んでいる。彼らの民族意識はきわめて高く、「大ソマリア国」をつくろうとケニア、エチオピア内でゲリラ戦をつづけていた。そのためケニアからエチオピアへ、陸路では入れなかった。

 で、どうしたかというと、ケニア北部のインド洋岸の島、ラム島からソマリア南部のキスマユ港に船で渡り、首都のモガデシオへ。そこからは灼熱の砂漠を2000キロ以上も走ってソマリアを横断し、フランス領ソマリーランドのジブチに出た。そしてジブチからエチオピアの高地に登り、アディスアベバまで行ったのだ。
 それから6年。ソマリア問題は解決された訳ではないが、表面上は小康状態を保っていて、こうして国境のモヤレまでやって来ることができた。モヤレでは過ぎ去っていった6年間のアフリカの変化を見る思いがした。

エチオピア国境近くの風景
エチオピア国境近くの風景
国境のモヤレ

暴動が起きた…

 翌日は朝一番でケニア側で出国手続きをし、エチオピア側に入る。そこではつい2、3日前に大規模な暴動が起きたことを知らされた。エチオピア北部のエリトリアで起きた暴動は首都のアディスアベバに飛び火し、さらに軍部が反乱を起こしたという。

 まったく収拾のつかないような状態に陥っているとのことで、町のあちこちで銃撃戦がつづき、相当数の死者が出ているという。イミグレーションの役人は事態が落ちつくまで、何日か、モヤレに滞在したほうがいいという。

 アディスアベバからバスでやってきたヨーロッパ人旅行者は「バスは武装した軍人や警官に護衛されていた。途中で何度か発砲したけれど、それが銃撃戦だったのか、威嚇したのかはわからない」といった。モヤレからアディスアベバまでの間も相当、混乱しているようだ。

 その暴動が連綿とつづいたハイレセラシェ皇帝をいだくエチオピア帝国の消滅にまで発展するとは、そのときはまだ考えが及ばなかった。

エチオピアの長い歴史

 エチオピア人(主にアムハラ族の意味で)というのは、話していると、よく「我々はアフリカ人とは違う」という。色は黒くても、白人種の血を引くエチオピア人なので、彼らのいうことも理解できる。しかし、「我々はアフリカ人とは違う」といういい方には、アフリカ人に対する差別感が多分にあった。

 エチオピア人のそのような意識、自分たちはアフリカ人よりも上だという意識を持たせる理由のひとつは、エチオピア独自の歴史にある。ソロモン王とシバの女王の間に生まれた伝説の始祖、メネリック1世によって3000年前には国が出来ていたというのが彼らの誇りなのだ。

 4000メートル級の山々がいくつも聳えるアビシニア高原は天然の障壁になり、外部からの進入を遮断し、長い間、エチオピアの独立は保たれてきた。それだけに皇帝のハイレセラシェは危ないという話は何度か聞いたことはあるが、まさか、ほんとうに王政が倒されるとは思いもしなかった。

アフリカを大きく2分する国境線

 国境の役人たちには「(首都の)アディスアベバに向かうのは、今はすごく危険だ」と強くいわれたが、ぼくたち外国人旅行者たちは「どうせ、たいしたことはないだろう」とたかをくくり、全員がアディスアベバに向かうことにした。

 ほかの旅行者たちは金を払って車に乗せてもらい、アディスアベバに向かっていった。ぼくはヒッチハイクするつもりなので彼らと別れ、エチオピア側のモヤレの町を歩いた。国境を境にしてケニア側のモヤレとエチオピア側のモヤレでは、ずいぶんと変わる。

 エチオピア側に入ると、ラクダが多く見られるようになり、家の造りや人々の服装も違ってくる。食堂に入り、エチオピアの主食の酸味のあるインジェラを食べると、「あー、エチオピアに入ったんだ!」と実感する。インジェラは雑穀のテフからつくる大きな平べったいパンで、ケニア以南にはないものだ。この国境線を境に南はトウモロコシや雑穀の粉を煮固めたものが主食になり、北は雑穀粉や小麦粉を焼固めたものが主食になる。ケニア・エチオピアの国境線はアフリカを大きく2分する線。その線を越え、「煮る」世界から「焼く」世界に入ったのだ。