30年目の「六大陸周遊記」[026]

アフリカ東部編 2 モシ[タンザニア] → ダルエスサラーム[タンザニア]

キリマンジャロに登れない…

 モシからキリマンジャロ登山口の村、マラングーへ。マラングーに着くと、「キリマンジャロに登りたいのならば、キボホテルに行ったらいい」といわれた。キボホテルに行き、ドイツ人マネージャーに会うと、「キリマンジャロに登るのには、ガイドとポーターを雇わなくてはならない。当ホテルですべてアレンジします」といわれた。さらに「もし、ガイドとポーターなしで登ったら捕まって懲役刑ですよ」ともいわれた。まるでキリマンジャロを私物化しているかのような口調でいわれ、ぼくはムッとした。

 冗談ではない。ポーターもガイドも雇う金などある訳がない。で、一人で登ることにした。雑貨屋でパンと缶詰、バナナを買って山道を登っていった。道沿いには点々と小集落がつづき、バナナやコーヒー、トウモロコシが栽培されている。

 家並みが途切れたところでキリマンジャロが見えてきた。雲が切れ、最高峰のキボ峰がはっきりと見える。青空を背にした雪の白さがまぶしい。そのあとすぐに、もうひとつの峰のマウエンジー峰も見えてきた。

キリマンジャロを登っていく。キボ峰が見えてくる
キリマンジャロを登っていく。キボ峰が見えてくる
右手にマウエンジー峰も見えてくる
右手にマウエンジー峰も見えてくる
キリマンジャロの山麓。手前にサイザル麻が見える
キリマンジャロの山麓。手前にサイザル麻が見える

 キリマンジャロの2峰を見て、感激しながらさらに登っていくと、ゲートに出た。係官に「ここから先はチケットがないと入れない」といわれた。

「ここでチケットを買うことはできないのですか」
「だめだね。下のキボホテルかマラングーホテルでないと」
「そのチケットというのは、いくらなんですか」
「20シリングだよ」
「ここで20シリングを払うから、なんとか通して下さいよ」
「だめ、だめ。規則を曲げることはできない」

 仕方なく来た道を戻り、マラングーに下った。キボホテルにはもう行きたくなかったので、今度は試しにマラングーホテルに行った。が、やはり同じことだった。

「チケットだけを売ることはできないよ。ガイドとポーターを雇わなくては」
 といわれた。万事休す。キリマンジャロを諦めなくてはならなかった…。

 マラングーからは街道の分岐点のヒモまで歩いた。15キロほどある。夕日が沈みかけたころ、少年が話しかけてきた。

「寝るところがないのなら、いいとこ、教えてあげるよ」
 というのだ。

 彼についていくと、そこは学校だった。教室の机の上に寝袋を敷いて寝る用意をする。彼は12歳のジェームス。キリマンジャロで食べるつもりにしていた缶詰をあけ、夕食にする。ジェームスに一緒に食べないかといっても、首を横に振るだけ。彼はそのうち、帰っていった。

 翌朝は夜明けとともに目覚めたが、驚いたことに、ジェームスが来ていた。彼はこれからモシまで歩いていくという。一緒にヒモまでの道を歩く。歩くことにかけては、ぼくもかなり自信があったが、ジェームスの速さにはかなわない。彼についていくのがやっとだった。ヒモに着いたところで、ジェームスと別れる。彼は右へ、モシの町を目指して歩いていった。ぼくは左へ、ケニア国境を目指した。

タンクローリーの運転手

 ヒモからのヒッチハイクは快調。一発でケニアのボイまで行く車に乗せてもらえた。ヒモから15キロで国境。道はここまでは舗装路。ケニア側に入ると、真っ赤な土の道。モウモウと土煙りを巻き上げて車は走る。ツァボナショナルパークを横切っていく。キリマンジャロを一望。キリンを何度となく見る。10頭以上のゾウの群れも見る。

 ボイでナイロビとモンバサを結ぶ街道に出る。ここからモンバサまではキウリさんが運転するタンクローリーに乗せてもらった。高原を下り、インド洋岸に下っていくと、ムッとする暑さ。モンバサの入口あたりのトラックターミナルでタンクローリーを降りる。キウイさんには「がんばってまわれよ!」と、ポンと肩をたたかれた。

 モンバサを歩く。汗がドクドク流れ落ちる。港も歩いた。夜は貨物専用駅のかたすみでゴロ寝したが、さんざん蚊にやられ、あまりよくは眠れなかった。

モンバサに入っていく
モンバサに入っていく
モンバサの中心街
モンバサの中心街
モンバサの中心街
モンバサの中心街
街道沿いでマンゴーを売る少年たち
街道沿いでマンゴーを売る少年たち
タンクローリーの運転手のキウイさん
タンクローリーの運転手のキウイさん

 次の日、いったんナイロビに戻ることにした。モンバサの市内から郊外に歩いていく。交通量は多いのだが、ヒッチハイクはなかなかうまくいかない。車に乗せてもらえないまま、昼が過ぎてしまった。さらにナイロビに通じる街道を歩いていると、信じられないことが起きた。なんとキウイさんのタンクローリーが停まってくれたのだ。キウイさんは運転席から飛び下りると、ニコニコしながらぼくを手招きしている。

「さー、これから、夜通し走るからな。明日の朝にはナイロビに着いているよ」
 とキウイさんはいう。「モンバサ−ナイロビ」間は500キロだ。

 途中の村で止まり、食堂で夕食をご馳走になった。日が落ちると、ものすごい星空。夜がふけると、眠気に襲われる。キウイさんに悪いので、必死になって目をこじあけようとするのだが、ついウトウトしてしまう。そんなぼくを察してなのだろう、2度、タンクローリーを停めて仮眠した。

 夜が明けたところでナイロビに到着。キウイさんとは何度も握手をかわして別れた。

「また今度、見かけたら乗せてあげるからな」
 そんなキウイさんの言葉がうれしい。

「マリファナ4人組」

 ナイロビに戻ると佐藤さんのお宅で1日、ゆっくりと休ませてもらい、「東部アフリカ一周」に出発した。ナイロビの郊外まで歩き、この前のキリマンジャロに登ろうとしたときと同じルートでまずはタンザニアのアルーシャを目指した。

 アルーシャまでは若い男女の車に乗せてもらった。カナダ人男性が2人、女性が1人、それとアメリカ人男性が1人というメンバーだ。彼らはナイロビで車を借り、これから東アフリカをまわるという。彼らは車内でマリファナを吸っていたが、国境に近づくと、それをシートの中に隠した。国境を越えてタンザニアに入り、夕暮れ時にアルーシャに着いた。そこで「マリファナ4人組」と別れ、さらにヒッチハイクをつづけ、夜遅くなってモシに到着。町中のガソリンスタンドのすみでゴロ寝させてもらった。

ナイロビのモスク
ナイロビのモスク
ナイロビからアルーシャへ。草原の風景
ナイロビからアルーシャへ。草原の風景
牛の群れが行く。アルーシャ近くで
牛の群れが行く。アルーシャ近くで

ニャンゲさんのトラック

 夜明けとともに出発。モシから530キロのタンザニアの首都ダルエスサラームを目指した。運よく一発でダルエスサラームまで行くニャンゲさんのトラックに乗せてもらった。トラックが町や村で停まるたびに、ニャンゲさんには食事やお茶をご馳走になった。さらに車内ではカタコトのスワヒリ語を教えてもらった。スワヒリ語はタンザニア、ケニア、ウガンダの東アフリカ3国のほかにも、ブルンジ、ルワンダ、ザイール東部、ザンビア北部、ソマリア南部などで通用するアフリカの重要な言葉。とくにタンザニアでは国語になっている。

 1968年に東アフリカに来たときも、できるだけスワヒリ語をおぼえるようにした。しかし、しょせんは耳からおぼえただけなので、東アフリカを去ると忘れるのも早かった。ニャンゲさんにスワヒリ語を教えてもらうと、あのときの耳の感触がすこしは蘇ってくるようだった。

 まずは「モジャ、ンビリ、タトゥ、イネ、タノ、シタ、サバ、ナネ、ティサ、クミ」と、1から10までを教えてもらう。次があいさつ。スワヒリ語は朝でも昼でも夜でも「ジャンボ」が使えるのできわめて便利。英語の「How are you?」の相当するのが「ハバリ」とか「ハバリガニ」、「ありがとう」が「アサンテ」、「さよなら」が「クワヘリ」になる。さらに「はい」が「ンディオ」、「いいえ」が「ハパナ」、「どこに行くのですか?」が「ナクエンダワピ」、「どこから来ましたか?」が「ナトカワピ」、「日本から来ました」が「ナトカジャパニ」、「お名前は?」が「ジナラコニナニ」、「私の名前はタカシです」が「ジナラングータカシ」、「何歳ですか?」が「ウナミアカミンガピ」、「26歳です」が「ニナミアカ・イシリニナシタ」…と、ニャンゲさんに教えてもらった言葉をノートに書き、それを何度も繰り返していった。

みくびられたタンザニア政府

 その夜はインド洋の港町、タンガに通じる道と首都のダルエスサラームに通じる道との分岐点に近いコログウェで泊まることになった。ニャンゲさんは給油するためにカルテックスのガソリンスタンドに行った。

 ニャンゲさんはキリマンジャロ・リージョン(モシが中心地)の役人で、ダルエスサラーム港に農業機械を引き取りに行くところだった。彼はガソリンスタンドの主人に4枚のコピーからなる政府の支払い証明書のようなものを見せる。ところがガソリンスタンドの主人には何か強い口調で文句をいわれ、給油してもらえなかった。

 何といわれたのか聞いてみると、「ガソリンは現金でしか入れられない。政府は信用できない」といわれたというのだ。このあとトータル、シェル、アジップとコログウェにあるすべてのガソリンスタンドをまわったが、結果は同じで、どこでも給油してもらえなかった。給油できないまま、バスターミナルの近くにトラックを停め、そこで寝た。

 翌朝、ニャンゲさんは警察に行った。その支払い証明書が本物であるという証明書をもらうためだ。1時間以上もかかって証明書の証明書をもらい、再度、ガソリンスタンドをまわった。ところがやはり、どこも給油してくれなかった。まったくタンザニア政府もみくびられたものである。

 ニャンゲさんはついにその支払い証明書で給油してもらうのを諦め、お金を払った。
「ダルエスサラームに着いたら、役所で返してもらうから」

 といったが、ほんとうにすんなりと返してもらえるのかどうか…。ニャンゲさんが何か気の毒になった。

ダルエスサラーム到着

 給油を終えたところで、ダルエスサラームに向けて出発。コログウェの町を出るとじきに分岐点を通過する。ここを右へ、ダルエスサラームへ。左に行くとタンガに行く。このあたりは一面のサイザル麻畑。サイザル麻はマニラ麻と同じ硬質繊維の麻で、ロープなどの原料になる。タンザニアは世界的なサイザル麻の産地で、タンガはその積み出し港として繁栄した。ところがサイザル麻は最近ではすっかり化学繊維に押され、すっかり荒れ果てたサイザル麻畑をあちこちで見る。

 ダルエスサラームに向かって南下していくと、気候が変わったのが目でわかる。カサカサに乾いた茶色の世界から、したたるような緑の世界へと鮮やかに変わっていった。

 昼すぎにチャリンゼに着いた。ダルエスサラームからザンビアに通じる幹線と、ここで交差する。道の両側には食堂が軒を連ねている。ニャンゲさんはトラックを停めると、そのうちの1軒に入り、一緒に昼食をご馳走になった。

 チャリンゼからダルエスサラームまでは100キロほど。ダルエスサラームに着くと、町中を走り抜け、港へ。そこでニャンゲさんと別れた。よく晴れている。インド洋の海の色が目にしみる。ぼくがこれからザンビアからザイールに行くというと、ニャンゲさんはずいぶんと心配し、「ザンビアはともかく、ザイールには悪いやつが多いと聞いている。十分に気をつけて。持ち物から目を離してはダメだよ」と忠告してくれるのだった。

ダルエスサラーム港
ダルエスサラーム港
ダルエスサラーム港
ダルエスサラーム港

30年目の「六大陸周遊記」[025]

アフリカ東部編 1 スプリングス[南アフリカ] → モシ[タンザニア]

ナイロビに到着!

 1974年1月15日、南アフリカのヨハネスバーグから18時45分発のBOACの024便に乗り、ケニアのナイロビに飛んだ。ナイロビ到着は23時22分。入国手続きが終わったのはあと2、3分で日付が変わるというときで、空港内の両替所はまだ開いていた。急いで窓口にかけつけると、インド人の中年女性はパタンと窓を閉めてしまった。

「12時でお終いです」
「だけどまだ、12時前でしょう」
「両替していたら12時を過ぎてしまいます」

 そう言われたら返す言葉もなく、すごすごと空港のターミナルビルの外へ出た。別にそれほどのお金が必要だったわけでもないが、その国のお金を一銭も持っていないというのは何とはなしに不安なものだ。

 ナイロビに通じる道を歩き、その夜は、空港ターミナルビルからはそれほど遠くないガソリンスタンドのすみで寝かせてもらう。寝袋を敷いて横になったが、これからケニア、タンザニア、ザンビア、ザイール、ウガンダのヒッチハイクでの「東部アフリカ一周」が始まると思うと、胸のときめきが抑えられない。

 夜が明けるると、ナイロビに向かって歩き始める。車が通るようになったところでヒッチハイクを開始する。ほとんど待つこともなく、ナイロビの中心街まで乗せてもらった。

『極限の旅』

 ナイロビの中心街に着くなり、中央郵便局に行った。そこでぼく宛の1冊の本を受け取る。それは『極限の旅』(山と渓谷社)。自分で書いた本なのに、食い入るように読みふけった。1971年から翌72年にかけて「サハラ砂漠縦断」をメインにした「世界一周」を書いたもので、最後の原稿を渡したのは日本出発の当日だった。

「山と渓谷社」の阿部正恒さんが編集してくれたものだが、阿部さんは原稿を受け取ると、わざわざ羽田空港まで車で送ってくれた。原稿を渡すだけ渡して校正もしていないので、阿部さんの苦労が容易に想像できた。

 郵便局近くの歩道にしゃがみ込んで読み、3時間以上かけて読みおえた。その間、ザックをわきに置き、その隣りにオーストラリアで買ったずた袋を置いていた。だが、本を読みおわって気がつくと、ずた袋の中に入れてあった地図やメモ帳、小銭入れがなくなっていた。

「やられた!」
 と、地団駄ふんで悔しがったが、もう後の祭。夢中になって『極限の旅』を読んでいたので、抜き取られたのに気がつかなかった。小銭入れにはたいしたお金は入っていなかったし、地図はまた買えばすむものだったが、メモ帳をとられたのが痛かった…。それには「南部アフリカ一周」の細かなメモが書かれてあった。さらにはお世話になった人や出会った旅人たちの名前と住所が書かれていた。

佐藤さんとの再会

 ナイロビでは、どうしても会いたい人がいた。佐藤芳之さん。日本人がまだほとんどアフリカには目を向けず、大半の人が「暗黒大陸」ぐらいにしか思っていなかった1960年代に佐藤さんは西アフリカのガーナ大学に留学した。それ以来、佐藤さんはアフリカに情熱をぶつけてきた。ぼくが初めて佐藤さんに会ったのは5年前。1968年の「アフリカ大陸縦断」のときのことだった。

 その時、佐藤さんは日本とケニアの合弁会社に勤めていた。

「今日はスト破りをしてきたぞ」
 と、笑い飛ばす佐藤さんの笑顔が目に焼きついている。英語はもちろん、スワヒリ語も上手で、絶えずアフリカのことを考えられる佐藤さんだからこそ、アフリカ人労働者の信頼を得ることができたのだろう。

 そのときはお宅に3日ほど泊めてもらったのだが、夜になると、ビールを飲みながら佐藤さんのいろいろな話を聞いた。若々しくて、情熱的で、知識が豊富で、視野が広くて、それでいて文学青年を思わせる感性を持ち合わせた佐藤さんには、ずいぶん心ひかれた。

 日本大使館に行き、佐藤さんのことを聞くと、すでに独立しているという。日本の資本とケニアの資源を結び付け、製材工場や鉛筆工場を建設中だとのことだった。オフィスの住所を聞くと、さっそく佐藤さんを訪ねた。

「おー、カソリか。お前、まだアフリカをうろうろしていたのか」

 佐藤さんはぼくの顔を見るなり驚きの声を上げた。ぼくはといえば、佐藤さんとのなつかしい再会に、もう顔がくしゃくしゃ状態。

 佐藤さんはお宅の住所と地図を書いてくれ、先に行ってるようにといった。ナイロビ郊外の高級住宅街にあり、緑の濃い木立と色とりどりの草花に囲まれていた。佐藤さんの奥さんも、ぼくを見るなり、「まあ、カソリクン」と、ビックリした顔をする。

 佐藤さんの奥さんはとってもきれいな方。5年前には出産間近だったが、いまではよしこちゃん、りょうこちゃんの2人のお母さんになっていた。

 夕方になって佐藤さんが帰ってきた。夕食のあと、ウイスキーを飲みながら話した。佐藤さんは農業プロジェクトに強い関心を持っていて、
「アフリカ人が腹いっぱい食べられるような社会、そんな社会の建設に自分自身の力を役立てたい」
 と熱い口調で語った。

「白ナイル流域のあの広大なサッド(大浮草地帯)をなんとか農地に変えたいものだ」
 と、佐藤さんはスケールの大きな夢のような話もしてくれた。

メカニック・ベンソン

 ほんとうにありがたいことなのだが、佐藤さんのお宅を拠点にさせてもらい、ヒッチハイクで「東部アフリカ一周」をまわることにした。

 翌朝、佐藤さんは日本政府派遣の調査団のメンバーを空港まで送っていくことになっていた。ぼくも一緒にナイロビまで乗せていってもらう。車が市内に入り、中心街のヒルトンホテルの前まで来る。すると突然、車は止まってしまった。その時、汚れたヨレヨレの服を着た人が、
「私はメカニック・ベンソンだ。車を見てあげよう」
 と押し売りのような感じで声をかけてきた。どう見ても車を修理できそうな風ではなかったが、スルスルッと車の下にもぐり込むと、「クラッチケーブルが切れている」という。

 佐藤さんは調査団のメンバーを空港まで送っていかなくてはならなかったので、タクシーで空港に向かった。ぼくが車をまかされ、キーと部品代をあずかった。メカニック・ベンソンとタクシーに乗って部品を買いにいく。佐藤さんの車はフォード。最初の店、2番目の店と行ったが、ともに部品は手に入らない。3軒目の店で、やっと部品をみつけ、手に入れた。

 佐藤さんの車には、たいした工具は積んでなかった。メカニック・ベンソンはそんなことはおかまいなしに、器用な手つきでクラッチケーブルを交換する。佐藤さんは空港から戻ると、車が直っていたので驚きの声を上げた。まさかメカニック・ベンソンに直せるとは思っていなかったのだ。

 佐藤さんはメカニック・ベンソンに修理代プラスお礼をあげた。メカニック・ベンソンは「また、なにかあったら呼んでくれ」といって紙きれに住所を書いた。

「東部アフリカ一周」の第一歩

 佐藤さんはオフィスに行き、ぼくは東部アフリカ各国のビザ取りを開始する。「東部アフリカ一周」の第一歩だ。

 まずはタンザニアとウガンダのビザだ。ともにケニアのイミグレーションオフィス(出入国管理事務所)で、その場で発行してもらった。両国のビザ代は合わせて47シリング。次がザンビア。ザンビア大使館はヒルトンホテルに近いインターナショナルハウス内にある。ザンビアのビザ代は25シリング。1ケニアシリングは日本円の40〜50円。ザンビアのビザもその場で発行してもらった。

 その次はザイールのビザだ。ザイール大使館でビザを申請すると、日本大使館からの書類が必要だという。何の書類かというと、「このパスポートは確かに日本政府から発行されたものです」という証明書だという。なんともバカバカしい話だが、ビザを取るためにはそんなことはいってられない。すぐさま日本大使館に行き、ザイール大使館が必要だといっている証明書をタイプしてもらった。それを持ってザイール大使館に戻る。ビザの受け取りは明朝だという。ザイールのビザを受け取り次第、ナイロビを出発することにした。

ヒッチハイク開始

 翌朝、佐藤さんの車でナイロビ市内まで乗せてもらい、ザイール大使館でビザを受け取ると、ヒッチハイクを開始。「東部アフリカ一周」の前に、アフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロに登るのだ。ナイロビからタンザニア国境へと向かっていく。気温はそれほど高くはないが、赤道直下の太陽光線は強烈。

 最初に乗せてくれたのは、かなりガタのきたモーリス。その車でナイロビから30キロほどのアティリバーまで乗せてもらった。ここにはセメント工場がある。工場内の食堂でパンとソーセージの昼食を食べた。

 タンザニア国境を目指し、南に向かって歩いていくと、マサイ族の中心地、カジアドまで行く車に乗せてもらった。シンガーミシンの営業車で3人が乗っていた。乾ききった草原の風景がどこまでもつづく。このあたりは2月から5月にかけての大雨期と10月から12月にかけての小雨期がある。今は大雨期前の乾期で、乾ききった草原地帯は砂漠といってもいいような風景。車の運転手に聞いてみると、小雨期にほとんど雨が降らなかったので、これほどまでに乾燥してしまった。ひどい旱魃に見舞われたマサイ族。水不足、草不足でかなりの頭数の牛が死んだという。カジアドに着くまでの間では、シマウマ、ダチョウ、トムソンガゼル、グランガゼルなどの野生動物を見た。

 カジアドからタンザニア国境まではアメリカ人アルクワークさんのランドローバーに乗せてもらった。タンザニア国境に近づくにつれて緑が増え、野生動物も多く見られるようになった。道路のすぐわきで数頭のキリンを見る。ワイルドピッグやワイルドビーストなども見る。その中を赤い布をまとい、槍を持ったマサイ族が牛や羊、山羊の群れを追っていく。

 国境に着くと、「もし、ケニアのお金を持っているのなら、見つからないように隠したほうがいいよ」と忠告してくれたアルクワークさんと別れ、ケニアを出国した。タンザニア国境では「ケニアのお金は持っていますか」と聞かれただけで、別に調べられることもなく、タンザニアに入国することができた。

5年間の大きな変化

 ケニアもタンザニアも通貨は同じシリングで同じ価値だったが、タンザニアの経済事情の悪化により、ケニアシリングの方がタンザニアシリングよりもはるかに強くなっている。そのためにタンザニアは自国の通貨防衛策としてケニアシリングの持ち込みを厳しく制限している。

 ぼくには信じられないことだった。5年前の1968年に東アフリカ3国をまわったときは、ケニアシリングもタンザニアシリングもウガンダシリングも、紙幣だったら銀行で両替しなくても使えたのに…。

 当時はまだ、東アフリカ3国は合体し、より大きな国をつくろうという気運が残っていた。しかし今となっては、金の切れ目が縁の切れ目ではないが、「もう東アフリカ連邦も無理だな」と思った。5年の間にケニアはより大きな経済力を持ったが、タンザニアもウガンダも経済力は反対に落ちてしまった。

アルーシャからモシへ

 タンザニアに入ると、メルー山麓のアルーシャへ。国境からは100キロほどで、1台の車に乗せてもらった。アルーシャに着いたときにはすでに日は暮れていた。町を歩き、食堂に入った。パンと肉の入ったスープを食べる。タンザニアシリングは持っていなかったが、ケニアシリングでもいいという。店の主人には「もっとケニアシリングを持っていないのか、持っていれば、率よく交換してあげるよ」と、しつこいくらいにいわれた。その夜は食堂の裏庭でゴロ寝させてもらった。

 翌日はキリマンジャロ山麓のモシへ。70キロほどの距離で、交通量もけっこうあるのだが、なかなか乗せてもらえない。そのため、歩きに歩いた。メルー山の南側の一帯は雨が多く、豊かな農地になっている。バナナやコーヒーの農場がつづく。

 半日以上も歩いたところで、やっと乗せてもらえた。ノルウェー人の運転するフォルクスワーゲン。アルーシャは標高1309メートルの高原の町だが、モシになると標高809メートルと、かなり低くなる。モシに向かって下っていくと、緑したたる農地は消え、乾燥した荒野に変わっていく。それにしても乾燥の度合いがすこし異常すぎると思ったら、すでに18ヵ月間も、雨らしい雨がないという。

 フォルクスワーゲンのノルウェー人はノルウェー政府から派遣された農業技術者で、すでに50を過ぎている。ぼくが「これからキリマンジャロに登ろうと思っているんですよ」というと、「私もついこの間、登ってきたけど、高山病には気をつけたほうがいい」と忠告してくれた。

 モシへの途中では、わざわざ新しくできた飛行場に寄ってくれた。イタリアの援助で完成した国際空港で、観光客を目当てにしたのだが、空港全体はガラーンとしていた。ケニアのナイロビに大半の観光客がとられてしまうからだという。雄大なキリマンジャロの裾野を見ながらモシに到着。アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(5895m)の山頂は雲の中だった。

30年目の「六大陸周遊記」[024]

アフリカ南部編 10 スワコップムンド[南西アフリカ] → スプリングス[南アフリカ]

南アフリカ領のウオルビスベイ

 スワコップムンドからは海沿いの道でウオルビスベイに向かう。その間は40キロほど。ナミブ砂漠が海に迫り、きれいな砂丘群が道路沿いに連続する。ウオルビスベイは南アフリカ領。南アフリカ領とはいっても、国境のオレンジ川を渡ったときと同じように、チェックポストもなく、気がつかないままにウオルビスベイの町に入った。

 ウオルビスベイとその周辺は1878年にイギリスに占領された。ウオルビスベイは天然の良港で、イギリスやオランダ、アメリカの捕鯨基地になっていた。1883年にはドイツの貿易商ルーデリッツが南西アフリカの海岸一帯を手に入れ、その翌年にはウオルビスベイとその周辺を除いて南西アフリカはドイツ領になった。第1次大戦中の1915年には南アフリカ軍が南西アフリカ全土を掌握し、1920年には南アフリカの委任統治領になったが、ウオルビスベイとその周辺はイギリスのあとをついだ南アフリカ領(ケープ州の一部)のまま今に至っている。そんな歴史を持つウオルビスベイの町をひとまわりし、スワコップムンドに戻った。

 スワコップムンドからは首都のウインドフックに向かう。海岸沿いのナミブ砂漠から中央の高原地帯へと入っていく。前方には真っ黒な雨雲が横たわっている。すでに夕暮れが間近。雨に濡れるのも嫌だったので、雨雲に突入する前に、ウオルビスベイとウインドフックを結ぶ鉄道の小さな駅でバイクを停めた。駅員もいない駅舎内にシュラフを敷いて早々と寝た。夜中になると激しい雨になり、すさまじい雨の音で目をさました。

 この駅で寝ていたのはぼくだけではなく、もう1人、黒人の青年がいた。ダマラ族の青年で、翌朝、彼はウインドフックまでバイクの後ろに乗せてくれないかという。何度も「頼むよ!」といわれ、「よし、わかった」と、彼をリアに積んだ荷物の上に座らせ、ウインドフックに向かった。

 彼はGT550のスピードがよっぽど怖かったのだろう、ぼくにしがみついてくる。ウサコス、カリビブと通り、オカハンジョで北に通じる幹線道路と合流し、ウインドフックに到着。町の中心で彼を下ろしたが、ホッとした表情を顔に浮かべていた。

突然、有名人になる!

 ウインドフックに到着すると、バルスワモータースを訪ね、修理工場でバイクの整備をさせてもらった。それが終わると、しばらくバイクをあずかってもらい、町を歩いた。するとなんとも驚いたことに、「新聞、読みましたよ。がんばって下さいね」と、何人もの人たちに声をかけられた。

 昼食はすこし贅沢しようと、レストランに入り、ステーキを食べた。ぶ厚いステーキに大満足し、1ラント30セントの食事代を払って店を出ようとすると、なんと白人の店の主人は「いいから」といって受け取らない。「キミのことは新聞で読んだよ。私もバイクが大好きでね。できることならキミと一緒にバイクで旅したいよ」と笑いながらいった。

 午後になってバルスワモータースに戻ると、トールさんというドイツ人の婦人がぼくを待っていた。南西アフリカで生まれた人なので、ドイツ系南西アフリカ人というべきなのだろう。彼女は日本人の若い女性と文通しているという。

「ぜひとも家に来て、お茶でも飲んでいって下さい」
 といわれ、彼女の車に乗って家まで行った。

 トールさんには4人の男の子と3人の女の子がいる。居間にはなんとヒットラーの肖像画がかかっていた。文通しているのは多治見の女性で「トキ・ヨーコ」さん。トールさんは二言目には「ヨーコ」、「ヨーコ」で、大変だ。「マイ・リトルガールのヨーコは…」といった具合で、この1年あまりの間にヨーコさんとの間でやりとりした手紙の束を見せてくれた。

 トールさんは何日か前にウオルビスベイに行ったそうで、港で日本の漁船を見かけ、うれしくなって訪ねたという。漁船員たちも大歓迎してくれ、ずいぶんと楽しい時間を過ごせたという。多治見のヨーコさんのおかげで、大の日本びいきになったトールさん。ぼくのことは新聞の記事で知った。バルスワモータースには、ぼくがウインドフックに戻ったら、ぜひとも連絡して欲しいといってあったそうだ。

 トールさんにバルスワモータースまで送ってもらうと、その日の夕方、ウインドフックを離れた。ほんとうはもう1日ぐらい、ウインドフックに滞在したかったのだが(バルスワモータースのみなさんにも、そういわれてひきとめられたのだが)、ある日、突然といった感じでこの町の有名人になってしまい、なんとも居ずらくなってしまった。

「有名人って、大変なんだなあ…」

 ウインドフックからは東のゴバビスを通ってボツワナに入り、カラハリ砂漠を横断して南アフリカのヨハネスバーグに戻りたかった。だが、ボツワナのビザを取れなかったのだから諦めるしかない。「また、別の機会にボツワナに行こう。そのときにはカラハリ砂漠を走ろう」

 と自分にいい聞かせ、来たときと同じ道を今度は南下した。マリエンタール、キートマンスホープと通り、グルノウへ。そこからは西へ。カラスバーグから国境近くのアリアムスブレイの町を通り、南アフリカに入った。といっても、いつ国境を越えたのか、まったくわからないうちに南アフリカに入っていた。

「とっとと出ていけ!」

 南アフリカに入って最初の大きな町がオレンジ川の河畔のウーピントン。ちょうど昼時で、日差しが強かった。すぐ北に広がるカラハリ砂漠からは乾いた熱風が吹きつけていた。町をひとまわりしたところで、目抜き通りにあるレストランに入った。するとテーブルに座るか座らないうちに、つかつかっと寄ってきた白人の客に、「ここはホワイト・オンリーだ。とっとと出ていけ!」
 とケンカ腰で怒鳴られた。

「レストランはレストランだろ。腹がへっているのに、ホワイトもノンホワイトもあるものか」

「ノンホワイトのレストランは別にある。そっちに行け!」

「あんたに命令させれるおぼえはない」

 出ていけ、出ていかないの押し問答がしばらくつづいた。店の主人やほかの客たちは、黙って成り行きを見守っている。

 ぼくは最初こそカーッとなったが、次第に冷静さを取り戻し、それをいうのはすごく抵抗を感じたが、「自分は日本人だ」といった。その結果がどうなるのか、わかっていながら…。

 白人の男は急に態度を変えた。

「悪かった。知らなかったこととはいえ、許して欲しい。私は仕事で何度も日本人には会っているが、キミは色が黒いので、まさか日本人だとは思わなかった」

 彼はさらに、興味深いことをいった。

「日本人とポルトガル人だけは例外で、ヨーロピアンなんだ」

 ヨーロピアンといっても、ヨーロッパ人だけではない。アメリカ人やカナダ人、オーストラリア人をも含む言葉で、つまり「白人」と同意語で使っている。彼はポルトガル人も例外でヨーロピアンだといったが、裏を返せば、ポルトガル人は白人には入らないと思っているのだろう。

 その人はビルホーエンさんという40代の人で、ぼくが日本人だとわかってからというもの、うってかわって愛想がよくなった。

「おわびのしるしに、好きなもの何でも食べなさい。さー、一緒に食事をしよう」
 といってぼくにメニューを手渡すと、ひとりでしゃべりまくった。

「日本はたいした国だ。今、私が乗っている車はトヨタだ。ついこのあいだのクリスマスには、妻にマツダを買ってあげたよ。ロータリーエンジンの車だ。彼女はとっても喜んでいる。すばらしい車だといっている。私はマンガン鉱山に勤めているが、日本は一番のお得意さん。それで会社にやってくる日本人ともよく会うのだよ。私もそのうち日本に行くようになると思う」

「そうだ、キミはいつも首にパスポートをぶらさげていたらいい。私は日本人ですってね。そうすれば間違えられることもない」

ダイヤモンドの町

 ウーピントンからキンバレーに行った。ここはまさに「ダイヤモンドの町」。1866年に子供がおもちゃがわりに持っていた石ころが大粒のダイヤだとわかって以来、大勢の人たちがダイヤを求めて殺到した。初期のダイヤモンド採りは川床の土砂をふるい取っていたという。1万人もの「川掘師」が集まり、ゴールドラッシュならぬダイヤモンドラッシュでキンバレーの町ができあがった。

 その後は大規模な機械を使って、ダイヤモンドを探し求めて地中深く掘るようになったが、その結果できたのが「ビッグホール」だ。現在では観光地にもなっている「ビッグホール」はまさに人間がダイヤモンドにとりつかれた夢の跡。人間がつくり出した穴としては、世界でも最大級のものだという。

 ビッグホールを見ていると、とても人間がつくり出したものとは思えない。のぞきこむと、目がくらむような穴の底には、緑がかった水が満々とたたえられている。周囲1600メートル、直径450メートル、深さ360メートルのビッグホールの最深部はなんと1200メートルにも達するという。最初は露天堀りだったのが、後に坑道が掘られた。1914年8月に閉山するまでに、ここからは約1500万カラット(約3トン)のダイヤモンドが掘り出されたという。

 南アフリカはザイール、ソ連に次いで世界第3位のダイヤモンド生産国だが、ザイール、ソ連産ダイヤの大半は工業用で、宝石用となると南アフリカが断トツで世界一になる。キンバレーは昔も今もその中心なのだ。

 ビッグホールは「ダイヤモンド博物館」ともいえる博物館の敷地内にある。世界の宝石用ダイヤモンドを牛耳るド・ビーア社のもので、当時のダイヤモンド商店や酒場、キンバレーで一番古いといわれる家などが再現されている。そこで目を引いたのは、ダイヤモンドで財をなしたセシル・ローズ専用の客車。それを見るとローズの力がいかにすごいものだったのかがうかがい知れた。

 セシル・ローズは南部アフリカの近代史においては、欠くことのできない人物だ。ローズは1870年に南アフリカに渡り、ダイヤモンドの独占に成功。さらに産金事業にも進出し、新聞、電信、鉄道をも傘下におさめ、1890年代の南アフリカ経済を牛耳った。その勢いでもって政界にも進出し、中央アフリカ(南アフリカに隣接した北の地域)の統治権をイギリスから獲得した。ローズは自分の名前にちなんで中央アフリカをローデシアと名づけたのだ。

 ローズは1902年に死んだが、彼の墓はローデシア南部の中心都市、ブラワーヨの郊外にある。マトポス・ナショナルパークのすぐそばにあるとのことで、それは巨大な墓だという。一代の風雲児、「怪物ローズ」の眠る地を見てみたいものである。

キンバレー近くを流れるバール川
キンバレー近くを流れるバール川
キンバレー近くを流れるバール川
キンバレー近くを流れるバール川
キンバレー近くの「ビッグホール」
キンバレー近くの「ビッグホール」
キンバレー近くの「ビッグホール」
キンバレー近くの「ビッグホール」
キンバレー近くの「ビッグホール」
キンバレー近くの「ビッグホール」
「ダイヤモンド博物館」のセシル・ローズ専用の客車
「ダイヤモンド博物館」のセシル・ローズ専用の客車
「ダイヤモンド博物館」の掘削機
「ダイヤモンド博物館」の掘削機
キンバレーの中心街
キンバレーの中心街

オレンジ自由州の州都

 キンバレーを出発。ブルームフォンテインに向かう。キンバレーの町を出ると、すぐに州境になり、ケープ州からオレンジ自由州に入る。ボショフという小さな町で食料を買い込み、郊外の広々とした平原で夕食を食べ、そこで野宿した。きれいな夕焼けだったが、すっかり暗くなるころから東の空に稲妻が光り、やがて雷鳴も聞こえてくるようになる。雨が気になって夜中に何度か目をさましたが、幸いなことに雨が降ることもなく、夜が明けるまで寝ることができた。

 オレンジ自由州の州都、ブルームフォンテインに到着。整然とした、きれいな町並み。南アフリカの最高裁判所はこの町にある。南アフリカはおもしろい国だが、行政府はトランスバール州のプレトリアにあり、国会はケープ州のケープタウンにあり、最高裁判所はオレンジ自由州のブルームフォンテインにあるのだ。さらにいえば、経済の中心地はトランスバール州のヨハネスバーグ。世界でもこのような国の例はほかにない。

ブルームフォンテイン
ブルームフォンテイン
ブルームフォンテイン
ブルームフォンテイン
ブルームフォンテイン
ブルームフォンテイン

クリフとの出会い

 ブルームフォンテインからは南アフリカを南北に縦貫するN1(国道1号)を北へ。ブルームフォンテインではよく晴れていたが、北に行くにつれて空は黒雲に覆われる。強風が吹き荒れ、稲妻が光り、雷鳴が聞こえるるようになる。雷がN1のすぐ近くに落ちたときは、腹の底にズシーンと響くようなすさまじさだった。

N1(国道1号)を北へ
N1(国道1号)を北へ
N1(国道1号)を北へ
N1(国道1号)を北へ

 やがて雨の中に突入した。恐怖を感じるような豪雨。「バケツをひっくり返した」といった生やさしい降り方ではない。「風呂桶をひっくり返した」ぐらいのすごさだった。みるみるうちに道路には水が溜まり、ちょっと坂になったところでは、濁流がうず巻いていた。

 前方に警察のパトカーが2台、道をふさぐようにして停まっていた。豪雨で視界がきわめて悪かったので、あやうくそれに突っ込むところだった。雷が落ち、大木がまっ二つに裂け、道路上に倒れていた。大木は黒こげになっている。この雷が自分のバイクに落ちなくてよかった…と、胸をなで下ろした。

 やっと雷雲を抜け出ることができた。雨具を着ていたが、何の役にもたたなかった。びしょ濡れだ。まるで服を着たまま泳いだようなもの。ベンテスバーグを過ぎたところでバイクを停める。そこで着替えをしてひと息入れた。

 そのとき車が停まり、降りてきた若者にGT550についていろいろ聞かれた。それがバイク大好きなクリフとの出会いだった。

「あそこに見えるこんもりとした森のあるところがウチなんだ。よかったら来ないか」
 とクリフにいわれ、彼の家に行った。クリフは大農場の息子だった。トウモロコシ畑が見渡すかぎり広がっている。彼はよっぽど機械が好きだとみえて、自分で改造したという車やバイクを見せてくれた。

 その夜はクリフの家で泊めてもらった。夕食にはたいそうなご馳走をいただいた。翌朝クリフは刑務所に行くというので、興味をそそられ、一緒に行った。囚人を何人かかりるのだという。

 その刑務所はベンテスバーグの町外れにあった。囚人は黒人ばかり。クリフは24人の囚人を借りた。農作業に使うのだという。3日間借りて、24人の囚人の使用料はわずかに20ラント。日本円にしたら1万円にもならない…。クリフは24人の囚人をトラックの荷台にのせ、農場に戻った。

「南部アフリカ一周」、終了!

 クリフに別れを告げ、N1(国道1号)を北へ、「南部アフリカ一周」のゴールのヨハネスバーグに向かう。あいにくの曇り空。今にも雨が降りそうだ。クルーンスタッド、パリスと通ってバール川を渡り、トランスバール州に入ると、じきにヨハネスバーグに到着。雨が降りだし、あっというまに前日と同じように激しい雨になった。まだ昼前だというのに、まるで夕暮れのように暗かった。

 最後にヨハネスバーグから北に60キロのプレトリアまで行くつもりにしていた。だが雨があまりにも激しいので、プレトリアに行くのを断念し、ヨハネスバーグの中心街から郊外のスプリングスの町へ。スズキの総代理店に戻ると、チーフマネージャーのイチコビッチさんやアクレスさん、メカニックのアルフらが、
「よくぞ、無事に帰ってきた!」
 といって大喜びしてくれた。

 1万0117キロ走ってのスプリングス到着。GT550はノントラブルで「南部アフリカ一周」を完璧に走り通してくれた。GT550のキーを返すときは、胸がキューンと締めつけられるような寂しさを感じた。

 みなさんには駅近くのステーキハウスに連れていってもらった。ワインで乾杯! そのあとは、ぶ厚いステーキをいただいた。ステーキをかみしめながら、あらためて「南部アフリカ一周」の旅が終わったことを実感するのだった。

30年目の「六大陸周遊記」[023]

アフリカ南部編 9 ウインドフック[南西アフリカ] → スワコップムンド[南西アフリカ]

雷雨の中を突っ走る!

 バルワスモータースのみなさんに別れを告げ、ウインドフックを離れた。オカハンジャを通り、北に向かうにつれて、植生はさらに変わる。南の砂漠地帯の風景とは比較にならないほどに、緑が増えてくる。雨期に入っているので、よけいに青々している。動物も多く見られるようになった。カモシカやイノシシ、マントヒヒなどを見る。

ウインドフックからオカハンジャへ
ウインドフックからオカハンジャへ
ゆるやかな山並みを越えていく
ゆるやかな山並みを越えていく

 ウインドフックから180キロ北のオチワロンゴの町に着くと、ガソリンスタンドで給油し、そこのレストランでコーヒーを飲んだ。そのレストランではガッチリした体格の中年の人と知り合う。話がはずみ、彼に夕食をご馳走になった。

 その人はストライダムさん。

「これからグルートフォンテインまで行くけど、もしよかったら、一緒に行かないか」
 と誘われた。

 さっそく地図を見ると、グルートフォンテインはオチワロンゴから220キロ、北東に行ったところにある。すでに日は暮れかかっている。おまけに行く手には黒雲が横たわっている。が、ぼくは一緒に行くことに決めた。おもしろいではないか。

 彼は新車のクライスラーに乗っている。140キロから150キロで走るので、ついていくのがやっとだった。

 やがて真っ黒な雲の中に突っ込んでいった。猛烈な雷雨。あっというまにズブ濡れになる。やがて土砂降りの雨になり、雨滴がまるでガラスのように顔に突き刺さってくる。大空を駆けめぐる稲妻がまぶしいくらいに光る。ストライダムさんはスピードを落とさないので、ついていくのがよけいに大変。雷雲を抜け出たころにはすっかり夜になっていた。

 オチワロンゴから115キロ走ったオタビでアンゴラ国境に通じている国道を右折し、グルートフォンテインへの道に入っていく。きれいに舗装されたハイウエー。路面が濡れているのでツルッと滑り、怖くなってくる。GT550のヘッドライトはそれほど明るくはないので、懸命になってストライダムさんの車の尾灯を追った。

 やっとグルートフォンテインに到着。しかし、ストライダムさんの車は町を走り抜け、軍のキャンプ地に入っていった。一瞬、ギクッとする。もしかして自分は疑われているのではないかといった疑問が頭をかすめた。

 幸いにして、それは杞憂でしかなかった。ストライダムさんはミリタリーポリスのサージャントで、部下が何人もいる身分。軍服をかしてもらった。グッショリ濡れた服を脱いでそれに着替える。熱いコーヒーを入れてもらい、やっと一息ついた。

 ランプの灯るテントで、ストライダムさんを交え、何人かの兵士たちと話した。全員が白人兵で黒人兵は1人もいなかった。グルートフォンテインは南西アフリカ北部の重要な基地で、アンゴラとの国境地帯やザンビアと国境を接している細長く延びたカプリビ・ジペール一帯を警備する拠点になっている。

 ストライダムさんはキャラバンカーも持っている。ベッドやキッチンの備えつけられた立派なものだ。「ここで寝たらいい」と、寝る用意をしてくれた。ホテルで泊まるようなもの。ついいましがたまで、激し雷雨の中を突っ走ってきたのがまるでうそのような快適さだった。この落差の大きさがなんともいえない旅の魅力なのだ。

世界一の隕石

 翌朝は兵士のみんさんと一緒に朝食を食べ、ストライダムさんや兵士のみなさんの見送りを受け、軍のキャンプ地を出発。ここには世界最大の隕石があるとのことで、グルートフォンテインの町から30キロほどのホバ農場に行った。この農場に世界一の隕石があるという。農場の入口には料金所があり、そこで30セント払って農場内に入った。

 世界最大の「ホバ隕石」を見たときは、「なんだ、隕石といったって、ただの岩と変わりがないではないか」と思った。それは直径3、4メートルの岩で、どの程度、地中にめりこんでいるのかは、見た目ではわからない。

 しかし、表面を削りとられた跡を見てビックリした。ピカピカに光っている。

「この岩は金属の固まりなのだ」ということがわかった。ホバ農場のホバメテオライトは見つかっている隕石の中では世界最大で、重量は5万4422キログラム。成分の93パーセントが鉄で7パーセントがニッケル、その他、微量の銅、コバルト、クロームが含まれているという。

 この隕石は20世紀の初めにブリッツという人が発見したもので、すぐに世界に知れ渡るところとなった。ブリッツさんは後にホバ農場の農場主になったとのこと。この隕石がいつごろ落ちてきたものかはわかっていない。それにしても、5万トン以上もの金属質の隕石が落ちたときは、ものすごい音だったことだろう。

 ホバ隕石の上に座りながらぼくは宇宙の不思議さを想った。この宇宙のどこかには鉄だけでできた星、ニッケルだけでできた星、金や銀だけでできた星があるかもしれないと、そんな夢のようなことを考えた。

世界最大の「ホバ隕石」
世界最大の「ホバ隕石」

 世界では1500個ほどの隕石が確認されているという。そのうち落下が目撃されたのは半分ほど。日本にも30個ほどの隕石があるそうだ。大きな隕石というと、このホバ隕石のほかにはグリーンランドのケープヨーク隕石(36トン)、メキシコのバキュビリト隕石(28トン)などがあるという。ところで隕石には3種類、あるそうだ。文字どおりに石から成るものと、ホバ隕石のようにほとんどすべてが金属からなる隕鉄と、その中間のものである。

 ホバ隕石でおもしろかったのは、隕石を説明する案内板だった。最初はアフリカーンス、次に英語、最後がドイツ語だった。この順序が南西アフリカでの言葉の強さの順序であるように思われた。

アンゴラ国境へ

 ホバ農場からグルートフォンテインの町に戻った。今にも泣きだしそうな空模様。灰色の雨雲がどんよりと垂れ込めていた。同じ南西アフリカでも、雲ひとつない青空の、猛烈な暑さの南とはずいぶん違う。グルートフォンテインからは70キロほど北西の鉱山町、ツメブに向かった。その途中では雨に降られたが、幸いにもツメブに着くころにはやんだ。南西アフリカの主な産業といえば鉱業だが、その中心はオレンジ川の河口周辺のダイヤモンドと、このツメブ鉱山の銅、亜鉛、鉛だ。

 ツメブからはアンゴラ国境に通じる国道を行く。じきにオジコト湖を見る。神秘的な湖で、藍色がかった濃い緑色の湖には吸い込まれそうになる。第一次世界大戦中、南アフリカ軍に追われたドイツ軍はこの湖に大砲や武器を捨て、逃げたという。

オジコト湖
オジコト湖

 さらに北へ。エトシャ・ナショナルパークの東端を通り、アンゴラ国境近くのオンダングワの町まで行った。ここからアンゴラ国境までは60キロほどでしかない。

「また、いつの日か、南西アフリカとアンゴラの国境を越えてやる!」
 と、アンゴラへの思いを馳せ、オンダングワで引き返し、ツメブへ。さらにオタビを経由し、前日、ストライダムさんと出会ったオチワロンゴまで戻った。

ナミブ砂漠の岩壁画

 オチワロンゴからナミブ砂漠に向かっていく。アウトジョの町を過ぎ、西に進むにつれて乾燥した風景に変わっていく。コリサスという小さな町がナミブ砂漠の入口。ここまで来ると、もう雨期も乾期も関係ない。東の方向には雨雲がべったりと張りついているが、コリアス上空の空には雲ひとつない。西の方向は快晴だ。

 コリアスの修理工場を兼ねたガソリンスタンドで給油し、いよいよナミブ砂漠に突入していく。峠を越えると、前方には乾燥した荒野が広がり、熱風が吹き荒れている。舞い上がる砂塵で視界も悪くなる。

 南西アフリカのナミブ砂漠は大西洋岸の南北の細長い砂漠で、北はアンゴラ国境から南は南アフリカ国境まで1300キロあまりもつづいている。東西の幅は狭く、最も狭いところだと50キロほど、広いところでも150キロほどでしかない。

南西アフリカ北部の荒野。アリ塚が多い
南西アフリカ北部の荒野。アリ塚が多い

 コリアスからはブッシュマンの岩壁画(ロックペインティング)で知られるトゥワイフェルフォンテインに向かった。そこには全部で3000もの岩壁画があるという。

 その途中では「化石の森」に立ち寄った。背の低い木がまばらにはえた平原には、石化した木の幹やその断片が散乱している。それらの石化した木々は2億年以上もたっているという。乾ききった平原の向こうには、なだらかな山々が連なっている。人一人いない荒涼とした「化石の森」にたたずんでいると、2億年という気の遠くなるような年月が、わずかながらも実感できるようだった。

「化石の森」
「化石の森」
「化石の森」
「化石の森」

 トゥワイフェルフォンテインに近づくと、黒々とした岩山が多くなる。山々に緑はまったく見られない。

トゥワイフェルフォンテインへの道
トゥワイフェルフォンテインへの道

 トゥワイフェルフォンテインに到着。しかし、岩壁画を探すのは容易なことではなかった。よく知っている人の案内があれば別なのだが…。さんざん歩きまわり、それでもいくつかの岩壁画を見ることができた。その多くは岩影にあった。キリンやサイ、カモシカ、ダチョウなどの野生動物が描かれていた。牛の絵もあった。あるものはすっかり風化し、またあるものは心ない人たちによって削り取られていたが、なかにはじつに色鮮やかなものもあった。

ブッシュマンの「岩壁画」があるトゥワイフェルフォンテイン
ブッシュマンの「岩壁画」があるトゥワイフェルフォンテイン
ブッシュマンの「岩壁画」があるトゥワイフェルフォンテイン
ブッシュマンの「岩壁画」があるトゥワイフェルフォンテイン
ブッシュマンの「岩壁画」があるトゥワイフェルフォンテイン
ブッシュマンの「岩壁画」があるトゥワイフェルフォンテイン

 トゥワイフェルフォンテインからコリアスに戻ると、大西洋岸のヘンティースベイに向かう。その途中では有名な岩壁画(ロックペインティング)の「ホワイトレディー」を見に行った。南西アフリカの最高峰ブランドバーグ山(2573m)の山麓にある岩壁画。駐車場から1時間ほど山道を歩いたところにあるが、岩に印された白い矢印をたどっていけばいいので、間違えることなくたどりつけた。そのあたり一帯には大岩がゴロゴロしている。そのひとつが屋根のように張り出した内側に「ホワイトレディー」はあった。

矢印に従って「ホワイトレディ」を見に行く
矢印に従って「ホワイトレディ」を見に行く

 躍動感にあふれる岩壁画で、「ホワイトレディー」は右手に花を持ち、左手には弓矢を持っている。胸から下が白く描かれているので「ホワイトレディー」と呼ばれているが、「ホワイトレディー」はどう見ても女性ではなく男性だ。

「ホワイトレディー」をあとにし、白いボタ山が目をひくチタン鉱山のあるウイスで給油し、太平洋岸のヘンティースベイの町に向かった。

コニングステイン山系の山並み
コニングステイン山系の山並み
ウイスの白いボタ山
ウイスの白いボタ山

バイクのトラブル…

 ウイスを過ぎると、ナミブ砂漠は砂漠らしい風景になる。どこを見ても、背の高い木々は見られない。一面に砂と小石がばらまかれたような砂漠の風景で、その中に点々と地を這うような草木が見られるだけだ。大西洋に近づくにつれて、気温がどんどんと下がってくる。寒流のベンゲラ海流の影響だ。

大西洋岸のナミブ砂漠
大西洋岸のナミブ砂漠

 ウイスを出てからというもの、バイクの調子が悪い。南アフリカのヨハネスバーグを出発して以来、初めてのトラブル。まだスパークプラグを一度も交換していないので、きっとそのせいだろうと思った。バイクを止め、スパークプラグを交換する。だが、調子が悪いのは、スパークプラグのせいではなかった。走りはじめると、またすぐにバイクを止めなくてはならなかった。今度はポイントを見る。しかし、ポイントのタイミングは合っているし、ポイントの表面も、それほど荒れてはいない。仕方なく走りだしたが、エンジンはブスブスいって、さらに調子悪くなる。

 人一人いないナミブ砂漠でのトラブルなだけに、心細くなってくる。やっとの思いで大西洋岸に出た。冷たい風が吹き荒れ、海面には白い波頭がたっている。

 ヘンティースベイから大西洋岸の道を南下。バイクをだましだまし走らせ、スワコップムンドの町に着いた。ガソリンスタンドに行き、そのすみをかりてバイクの修理。キャブレターを外し、エアーを吹きつけ、掃除する。キャブレターを取り付け、エンジンをかけようとしたときのことだ。ぼくは「あっ!」と声を上げてしまった。バイクのトラブルの原因がわかったのだ。なんとチョークが引かれたままになっているのだ。つまり濃すぎるガソリンがエンジンの中に流れていた訳である。

 ウイスのガソリンスタンドで給油したとき、大勢の町の人たちが集まり、バイクを囲んだ。バイクに乗った日本人が珍しかったのだろう。そのときの一人がチョークを引いたのに違いない。チョークを戻してエンジンをかけると、GT550はなにもなかったかのように、いつもどおりのエンジン音をあたりに響かせた。

30年目の「六大陸周遊記」[022]

アフリカ南部編 8 喜望峰[南アフリカ] → ウインドフック[南西アフリカ]

ケープタウンから北へ

 南アフリカのケープ州の州都、ケープタウンからは目の前にそびえ立つテーブルマウンテン(1086m)を見ながら走り、ケープ半島に入っていった。サイモンズタウンの町を通り、南緯34°21′51″の喜望峰に立った。喜望峰が初めてヨーロッパ人に発見されたのは1486年のことで、ポルトガル人のバーソロミュー・ディアスの一行だった。17世紀のなかばになってオランダはケープタウンを拠点にしてケープ植民地を建設し、本格的な移民がはじまった。彼らがボーア人で、ケープタウンから幌馬車を連ね、内陸の各地へと進出していった。喜望峰はこのように南アフリカの白人支配の歴史の第一歩になっている。

 喜望峰からケープタウンに戻ると、南西アフリカを目指し、N11(国道11号)を北へ、北へと走る。マルメスベリーの町を過ぎると交通量はぐっと少なくなり、ケープタウンから140キロ北のピケットバークの町外れで野宿した。GT550のわきにシュラフを敷いて寝る。うとうとしかけたときに、すぐ近くを夜汽車が通りすぎていく。一条の光の帯が暗闇の中を流れ、消えていった。そんな光景をシュラフから顔をのぞかせて見た。

 クランウイリアム、スプリングボックと通り、さらに北に向かって走ると、急速に緑は消え失せ、半砂漠の風景に変わった。乾ききった空気を切り裂いて走るので、口びるがカサカサになり、そして割れ、血がにじみ出るようになった。

ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
ケープタウンからN11(国道11号)を北へ

国境のオレンジ川

 南西アフリカの国境に近づいた。それととも不安感も増してくる。

「国境はいったい、どうなっているのだろう…」

 南西アフリカ入国のビザも許可証も持ってはいなかった。

 乾ききった丘陵地帯を走り抜け、オレンジ川の河谷に入っていく。このオレンジ川が南アフリカと南西アフリカの国境になっている。

 国境に到着すると、じつに意外というか、拍子抜けしてしまった。出入国のチェックがまったくなかったからだ。南アフリカ側、南西アフリカ側には、ともに国境のイミグレーションや税関、検問所のたぐいはまったくなかった。

 オレンジ川にかかる橋の上にバイクを停めた。茶色に濁った水が流れ、川の両側だけにわずかな緑が見られる。それらをとりまく山々の茶褐色の山肌には草木一本なかった。

南西アフリカに入国

 オレンジ川を渡って南西アフリカに入る。南西アフリカはもともとはドイツ領の植民地だった。それが第一次大戦が勃発すると、南アフリカ軍は南西アフリカの全土を占領。戦後の1920年、南西アフリカは南アフリカの国際連盟の委任統治領になった。

 第二次大戦後、国際連盟は解体し、国際連合が誕生。国連は南アフリカに対して南西アフリカの国連の信託統治領への切り換えを要求した。しかし南アフリカはそれを拒否。それどころか南西アフリカを自国の一州と同じようにしてしまったのだ。

 南西アフリカ問題は、毎年、国連の議題に上がっている。1961年には南西アフリカの住民は独立の権利を有すると総会で宣言されたのにもかかわらず、南アフリカはその宣言を無視しつづけている。資源大国の南アフリカなので、国連の経済制裁もなんのそのなのである。

 1968年の国連総会では、南西アフリカを以後、「ナミビア」と呼ぶと決めたが、南アフリカで「ナミビア」の国名を聞いたことは一度もなかった。

 ローデシアの問題にしても、南アフリカの問題にしても、この南西アフリカの問題にしても、国連の無力さ、無能さをいやというほど見せつけられてしまう。

南アフリカから南西アフリカに入る。断崖の下をオレンジ川が流れている
南アフリカから南西アフリカに入る。断崖の下をオレンジ川が流れている
南西アフリカの砂漠地帯を行く
南西アフリカの砂漠地帯を行く

世界第2の大峡谷

 南西アフリカに入ると、一段と乾燥度が増してくる。緑のひとかけらも見られない砂漠地帯に突入した。大西洋岸のナミブ砂漠と内陸のカラハリ砂漠の中間に広がる砂漠地帯だ。その中を飛行場の滑走路のような舗装路が一直線に延びている。国境から160キロ走るとグルノウの町に到着。その間には町はなく、無人の砂漠が延々とつづいているだけだった。

 グルノウで首都のウインドフックに通じる幹線道路を離れ、アメリカのグランドキャニオンに次ぐ世界第2位の大峡谷といわれるフィッシュリバーキャニオンに向かう。その途中、クレインカラスという小さな町で止まり、ガソリンスタンドでGT550のタンクを満タンにし、さらに2つのポリタンにもガソリンを入れた。その日は金曜日。翌日の土曜日と日曜日は「石油危機」後の規制で、南アフリカ同様、南西アフリカでも給油できないからだ。

 まだ日は高かったが、その日はクレインカラスで泊まることにした。大西洋の港町、リューデリックに通じる鉄道がこの町を通っている。日が暮れたところで、駅前の広場でゴロ寝。風の強い日で、地面を這うように砂が流れていく。砂まみれになりながらの野宿だった。

 翌日、フィッシュリバーキャニオンへ。展望台に立ち、パックリと口をあけた大峡谷を見渡した。峡谷の深さは600メートルほど。曲がりくねって流れるフィッシュ川がはるか下の方で小さく見えている。砂漠の中を流れる川なので水量は少なかったが、いったん洪水になると、大量の水が流れ下るという。削りとられた岩山に、緑はほとんど見られなかった。

 自分一人で大峡谷を見ていると、車が1台、やってきた。キャンピングカーで、南アフリカのダーバンに住むイギリス人の若いカップル。2人は1ヵ月の休暇を利用して南アフリカと南西アフリカをまわっていた。お互いに旅の経験談を話し、「ここがよかった、あそこがよかた!」と旅の情報交換をした。我々の一致した意見は石油危機後のガソリン規制のあまりの厳しさだった。

「土曜日、日曜日が近づくと、何とも憂鬱な気分になってくる。私たちは今日、明日と、この近くのキャンプ場でキャンプする予定だ」
 と、2人は話してくれた。

フィッシュリバーキャニオンの大峡谷
フィッシュリバーキャニオンの大峡谷

モーレスさん夫妻との出会い

シーヘイムの町近くの道標
シーヘイムの町近くの道標

 イギリス人の若いカップルと別れ、フィッシュリバーキャニオンを後にする。シーヘイムで大西洋岸のリューデリックと内陸のキートマンスホープを結ぶ幹線道路に出る。そこを左へ、キートマンスホープへと向かった。空には雲ひとつない。強烈な太陽光線。バイクに乗りながら頭がクラクラしてくるほどだ。

 キートマンスホープに着くとカルテックスのガソリンスタンドで冷えたコカコーラを飲んだ。暑くて暑くてどうしようもない。のどの渇きもひどいので、1本では足りずに、2本目、3本目とコカコーラをガブ飲みした。ガソリンスタンドは土曜日、日曜日は給油部門は石油危機の影響で休みだが、ガソリンスタンド内のレストランや売店はふつうに営業していた。

 キートマンスホープからは首都ウインドフックへ。町から10キロほど走った道路沿いのレストエリアで止まった。そこにはキノコ形の屋根の下にテーブルとイスがあった。

ひと晩、野宿した道路沿いのパーキングエリア
ひと晩、野宿した道路沿いのパーキングエリア

「もう、今日はここで泊まろう」
 と決めた。なにしろバイクへの給油ができないので、走る距離を抑えるしかない。そんなときに、1台のベンツが停まり、乗っている人に話しかけられた。初老のモーレスさん夫妻だった。ぼくが日本人だとわかると、驚いたような顔をしたモーレスさん夫妻だったが、2人には日本についてあれこれと聞かれた。

「キミがこれからも元気で旅をつづけられるように祈っているよ」
 といって夫妻の乗ったベンツはキートマンスホープの町の方向に走り去っていった。

 ぼくは寝る用意をした。といってもシュラフを敷くだけだが。その上に座り込み、地平線に落ちていく夕日を眺めた。日が落ちるあっというまにあたりは暮色につつまれる。紺青の空に星が2つ、3つと輝きはじめる。西空の地平線の周辺は濃いオレンジ色に染まっている。東の地平線からは満月が昇る。その夜はまぶしいほどの月明かりだった。

 目の前の道は南アフリカ国境からキートマンスホープを通り、首都のウインドフックに通じる幹線だが、交通量はきわめて少ない。日が落ちてからはほとんど車も通ることもなく、あたりはシーンと静まり返っている。することもないので、シュラフの上に座りつづけ、ぼんやりと月明かりに照らされた荒野を眺めていた。

 遠くにポツンと車のライトが見えてくる。視界をさえぎるものが何もないので、ずいぶんと遠くからでも見える。車のライトの光はだんだん大きくなる。車が近づくと、驚いたことに止まった。車はクラクションを鳴らす。なんと車から下りてきたのは、さきほどのモーレスさん夫妻だった。

 奥さんは手に大きな紙袋を持っている。「食べてね」というと、それをテーブルに置いた。紙袋の中にはサンドイッチやコンビーフのかんづめ、ミルク、トマト、オレンジ、リンゴ、バナナ、ビスケットなどの食べ物がどっさり入っていた。

 夫妻はキートマンスホープの町に住んでいるという。家に戻ると、冷蔵庫にあるものを紙袋に詰め込んでもってきてくれたのだ。夫妻の好意に胸が熱くなる。「おやすみ」といってモーレスさん夫妻はキートマンスホープの町に戻っていった。

恐怖の日曜日

 翌日は「恐怖の日曜日」。給油できないので、どうにもこうにも動きがとれない。残っているガソリンをできるだけもたせ、ゆっくりと走る以外に方法はない。夜が明けてもシュラフにもぐり込んでいる。日が昇り、日が高くなったところで、やっと起き上がった。

 朝食を食べてからの出発だ。風が強い。気温がみるみるうちに上昇していく。ウインドフックに向かって北上するにつれて、すこしづつだが緑が増えていく。ヒツジやヤギ、牛を放牧している大牧場を見るようになる。

 キートマンスホープから240キロ北のマリエンタールまでは5時間以上もかかった。ガソリンをなるべく使わないようにと、時速50キロぐらいで走ったからだ。高速道路のような道を時速50キロぐらいで走るのは、なんとも辛いことだった。

 マリエンタールに着くと、時間つぶしにガソリンスタンド内のレストランでコーヒーを飲んだ。客はほとんどいない。給油できないのだから、当然のことなのだが。コーヒーを飲みながら、ひまそうにしている店の主人と話した。

「ナマ族と日本人は似ているね」という店の主人の言葉が興味深かった。ナマ族はキートマンスホープからマリエンタールにかけての一帯に住んでいる。人口は約3万3000人。彼らの肌の色は明るい茶色で、なるほどそういわれてみると、日本人に似ている。

フィッシュ川のハーダップダム
フィッシュ川のハーダップダム

 バイクのタンクの中に残っているガソリンの量から、「まだ、行ける」と判断し、マリエンタールからさらに北に向かった。首都のウインドフックに通じる幹線道路を左に折れると、フィッシュ川をせき止めたハーダップダムに行ってみた。かなり大きなダムで、湖は空の色を映して目のさめるような青さ。この一帯はレクリエーションセンターになっていて、レストハウスやレストラン、キャラバンパークなどがあった。

 ハーダップダムとその周辺でしばらく時間をつぶし、幹線道路に戻る。その夜は道路沿いで野宿。翌朝、マリエンタールから70キロ北のカルクランドで給油し、やっと「恐怖の日曜日」が終わった。

ウインドフック遠望!

 首都のウインドフックを目指し、北へ、北へと走る。GT550のアクセルを目一杯に開く。前日の時速50キロ前後で走った反動だ。

 南西アフリカも南アフリカと同様、石油危機後の速度規制で最高速度は時速80キロに制限されていた。しかし80キロを守る車は1台もない。どの車も100キロ以上、なかには150キロ以上で走る車もあった。

 交通量が少なく、道がよく、おまけに平坦なのでどんなにスピードを出しても、それほど速いという実感はない。信号もないので時速100キロで走れば、1時間後には100キロ先に着いているといった世界なのである。

 南回帰線を越え、首都のウインドフックに近づくと、緑がぐっと増えてくる。アウアス山地に入った。なだらかアップ&ダウンが連続する。アウアス山地を抜け出ると、目の前には牧草地帯が広がり、その向こうの小高い山々の麓一帯には南西アフリカの首都、ウインドフックの白っぽい町並みが望まれた。

南回帰線を越える
南回帰線を越える
ウインドフックへ。一直線の道を走る
ウインドフックへ。一直線の道を走る
前方にウインドフックの町並みが見えてきた
前方にウインドフックの町並みが見えてきた

高原の首都

 南西アフリカの首都、ウインドフックに到着。南西アフリカの面積は日本の2倍以上の82万平方キロ。しかし人口はわずか75万人(1971年)でしかない。世界でも最も人口密度の希薄な国のひとつになっている。

 首都のウインドフックはアウアス山地とエロス山地の間に横たわる標高1779メートルの高原の都市。人口6万人。中心街のカイザー通りに面して近代的なビルが建ち並んでいる。

 ここではカイザー通りにあるバルスワモータースを訪ねた。南アフリカのスズキの総代理店のアクレスさんが「ぜひとも立ち寄ってほしい」といって紹介状を書いてくれたところだ。バルワスモータースは大きな会社で、いくつかの部門に分かれているが、そのうちのひとつがスズキのバイクを扱う部門だった。

 バルワスモータースでは応接室に通された。真っ白なカバーのかかったソファーに座るのは気が引けた。なにしろバイクに乗りっぱなしなので、全身ほこりまみれ、泥まみれといった格好だったからだ。バルワスモータースのみなさんはそんなことはすこしも気にしないといった顔をしている。ありがたたいことに、そのあとレストランでフルコースの昼食をいただいた。食後のコーヒーを飲みながら、会社のみなさんと話した。

「午後、すこし時間をとってもらえますか」
 といわれ、気軽に「イエス」と答えておいた。

 すると驚いたことに、次々と新聞の取材を受けた。南西アフリカには英語、アフリカーンス、ドイツ語の3紙の新聞があって、なんとその3紙、すべての記者とカメラマンが取材に来たという。バイクで南西アフリカにやってきた日本人がよっぽど珍しかったのだ。このことによってぼくは、日本と南西アフリカの「遠さ」を強烈に実感した。

30年目の「六大陸周遊記」[021]

アフリカ南部編 7 ダーバン[南アフリカ] → 喜望峰[南アフリカ]

ドラケンスバーグ山脈の峠越え

 インド洋の港町、ダーバンをあとにし、N3(国道3号)で内陸部に入っていく。

 ナタール州の州都ピーターマリツバーグを過ぎると、南部アフリカの屋根、ドラケンスバーグ山脈の山々がぐっと迫って見えてくる。ナタール州とケープ州との海岸線に平行して、北東から南西へと山並みが連なっている。南部アフリカの地形はスープ皿のようなもので、縁が高くなっている。そのスープ皿の縁は西側よりも東側の方がはるかに高くなっている。東側の一番高い部分がドラケンスバーグ山脈の最高峰、タバナヌトレンヤナ山で標高3482メートル。この山を含めてドラケンスバーグ山脈には3000メートル峰が全部で9峰もある。

 ダーバンから250キロ北のレディースミスで、国道は2本に分かれる。N3(国道3号)はそのまま北へ、ヨハネスバーグへと通じている。もう1本がN5(国道5号)で、レディースミスから西に延びている。このN5に入り、レディースミスから50キロほど走ったところでドラケンスバーグ山脈のファンレーネン峠を越えた。ドラケンスバーグ山脈の峠の中でも一番有名な峠で、このほかに主な峠として10峠余がある。

 ファンレーネン峠を越えてナタール州からオレンジ自由州に入ると、天気は一段とよくなり、真っ青な空に白い綿のような雲が浮かんでいる。高原を吹き渡る風がなんともいえずにさわやかだ。

国境で迎えた新年

 ベスレヘムの町でN5(国道5号)を離れ、もうひとつの小国、レソトに向かっていく。国境に近づくと、舗装路は途切れ、ダートになった。

 行く手にはなだらかな山並みが連なっている。その向こうはドラケンスバーグ山脈。国境のカレドンズ・ポイントに到着。オレンジ川の源流のひとつ、カレドン川が流れている。オレンジ川は南部アフリカではザンベジ川に次ぐ大河で全長2090キロ。最後は南アフリカと南西アフリカの国境となって大西洋に流れ出る。水資源がそれほど豊かでない南アフリカにとっては、オレンジ川はきわめて重要な川。このカレドン川を含めて、その源はレソト領内のドラケンスバーグ山脈である。

 南アフリカの出国手続きをするために国境のイミグレーションに行くと、なんとすでに閉まっていた。まだ日も沈んでいないので、おかしいなあと思ったら、国境が開いているのは午前8時から午後4時までだった。こういうときは待つ以外にない。

 GT550を停めると、そのわきにシートを広げ、シュラフを敷いて野宿の用意をする。ゴロンと横になると、きれいな夕焼け空を見上げた。幾筋もの細長い雲が、残照を浴びて輝いていた。日が沈み、暗くなると、今度は満天の星空に変わった。

 その日は大晦日。近くの集落からは太鼓の響きにのって、歌声が聞こえてくる。目前に迫った新年を祝い、火を囲んで歌い踊っている村人たちの姿が容易に想像できた。

 シュラフにもぐり込んで星空を見上げた。集落から聞こえてくる歌声には、一段と熱が入る。それを聞いていると、無性に日本の正月がなつかしくなってくる。雑煮の味が恋しくなってくる。ちょっと辛い大晦日の夜だった。

 夜中に目をさましたのは、異様な空気を感じたからだ。すでに集落からは太鼓の音も歌声も聞こえなかった。夜空のあちこちで稲妻が光り、冷たい風がヒューッと吹き抜けていく。じきに雨が降りだし、逃げる間もなく土砂降りになった。暗い夜空を一瞬、明るくして稲妻が何本も走り、大地を揺るがすような雷鳴が轟き渡る。

 「とんだ新年だ」
 と、腹立たしくなってくるが、天に怒ってもどうしようもない。

 逃げ込むところもないので、体もシュラフもびしょ濡れになった。シートを頭からかぶり、バイクのわきでじっとしていた。もう、なすすべもない。幸いなことに雷雨はそう長くは降りつづかなかった。稲妻も雷鳴も遠ざかり、やがて雨はやみ、また星が見えてきた。だが、体もシュラフもずぶ濡れなので寝ることもできず、うずくまったまま、うつらうつらしながら夜明けを迎えた。

 うれしいことに、猛烈な雷雨がうそのような晴天で、日が昇ると濡れた服を脱いで乾かす。シュラフも広げて干した。カラッとした気候なので、国境が開く8時までには大分、乾いた。

レソトに入国

 8時になると、イミグレーションに行き、係官に「ハピー・ニューイヤー!」と新年のあいさつをして、アフリカの出国手続きをする。晴々とした気分。カレドン川にかかる橋を渡ってレソトに入る。それほど大きな川ではない。正面には立ちふさがるような岩山が見える。カレドン川が国境で、橋を渡ったところがレソト。そこにイミグレーションがあった。

 レソトに入ると同時に、子供たちがワーッと集まり、「ギブ・ミー・マネー」と声をかけてくる。大人たちもやってきて「ギブ・ミー・マネー」だ。

 同じ小国といっても、スワジランドとはえらい違い。スワジランドではこのような経験は1度としてなかった。「山国のレソト」はきれいにいえば「アフリカのスイス」。だが、見捨てられたような大地にしがみついて生きているレソトの人たちは貧しい。それが「ギブ・ミー・マネー」の大合唱となって表れている。

 レソトはおもしろい国だ。何がおもしろいかというと、南アフリカというひとつの国にぐるりと囲まれている。アフリカではレソトのほかにはセネガルに囲まれたガンビアがあるが、ガンビアの場合だと、一方は大西洋に面している。

 レソトは面積が3万平方キロという小国。日本でいえば四国よりも大きく、九州よりも小さい。スワジランドと同じような王国だ。人口は100万人ほどで、その大半はバスト族。1966年にイギリスから独立するまではバストランドと呼ばれていた。

 レソトは出稼ぎの国で、国民の2割近くが南アフリカに出稼ぎに行っている。出稼ぎたちの南アフリカからの送金が、国の経済を支えているといっても過言ではない。レソトの通貨もスワジランド同様、南アフリカのラントで、地理的にも経済的にも南アフリカに依存しなくては国としてやっていけない。レソトの公用語は英語とセソト語だが、セソト語が公の場ではずいぶんと使われている。

レソトの首都マセル

 国境のすぐ近くの町がブタブテ。そこから南西へ、レソト唯一の幹線道路が首都のマセルに通じている。とはいってもダート。アフリカ南部の道路地図を見るとひと目でわかることだが、南アフリカの道路網は網の目状に発達しているのに対して、南アフリカに囲まれたレソトはぽっかりと空白になっている。それほどに道路がない。

 マセルに向かって走っていると、アメリカ西部を走ったときのことが思い出されてならなかった。ここはアメリカ西部のインディアン保留地と「同じだなあ!」と思った。

 南アフリカでは青々とした牧草地帯や豊かな農地を見たが、国境を越えてレソトに入ったとたんに、カサカサに乾いた荒野へと一変する。レソトの人たちは、この荒野で主食用作物のトウモロコシを細々とつくっている。アメリカ西部でも緑が薄れたなと思うと、そこがインディアン保留地だったということがよくあった。

 レリベの町を過ぎると、マセルへの幹線道路は舗装路になった。ひと筋の舗装路がゆるやかに波打つ高原を一直線に貫いている。上がまっ平なテーブル状の岩山が高原のあちこちにポコッ、ポコッとのっている。途中で見かける集落には円形の家が多い。屋根は草ぶきで壁は土か石。牛や羊を飼っている家が多かった。

 レソトの首都マセルに到着。スワジランンドの首都ムババネよりもさらに小さな町。首都をひとまわりしたあと、マセルの町外れを流れるカレドン川を見に行く。そこにかかるマセル橋が南アフリカとの国境になっている。

 マセルからさらにレソト国内を走り、南に80キロほど行ったマフェターグの国境でレソトを出国し、再度、南アフリカに入った。南アフリカに入ったとたんに道がよくなった。

再度、南アフリカを走る

 山国レソトから南アフリカに再入国したのは正月の2日のこと。日本と違って正月らしい気分もなく、おまけに季節もここでは真夏なのである。ただしこのあたりは南緯30度前後、標高1500メートルほどの高原地帯なので、それほど暑くはない。

 南アフリカの国境の町、ウェペネールはシーンと静まりかえっている。スーパーマーケットが開いていて、冷えたコカコーラを買って飲んだ。

 ここではギリシャ人の店の主人と話した。親類を頼って移民したという。

「この国に移民する前に、人種差別の話は聞いていたけれど、これほどひどいとは思わなかったよ。それも白人と黒人だけでなくて、同じ白人の中でも、ものすごい差別があるのだ。私らのようなギリシャ人は、この国ではいつも低く見られている。金をいっぱい貯めたら、さっさとギリシャに帰りたいね」

 ウェペネールからN6(国道6号)に入り、アリウル・ノースの町へ。その町の手前でレソトから流れてくるオレンジ川を渡った。南アフリカ最大の大河、オレンジ川は高原地帯を悠々と流れ、川には長い銀色の橋がかかっていた。オレンジ川がオレンジ自由州とケープ州の境。川を渡ってケープ州に入り、アリウル・ノースの町に入っていった。

 南アフリカはオレンジ自由州とケープ州、それとトランスバール州、ナタール州の4州に分かれているが、その中でもケープ州が最大で、国土の6割近くを占めている。

ドラケンスバーグ山脈の峠越え

 アリウル・ノースの町は、きれいに晴れ渡り、雲ひとつなかった。ところが60キロ南のジェームスタウンを過ぎると、急に曇りはじめ、冷たい風が吹いてきた。行く手にはドラケンスバーグ山脈がたちふさがり、山々には気味悪いほどの黒雲がたれこめている。標高1815メートルのペンホーク峠に向かって走る。峠道にさしかかり、峠を登っていくと、急激に気温が下がる。夏とは思えないほどの寒さで、GT550に乗りながらガタガタ震えてしまった。そのうちにすっぽりと霧に包まれた。

 視界はきわめて悪く、突然、霧の中に対向車のライトを見たときはギョッとし、思わずブレーキをかけたほどだ。

 やっとの思いでペンホーク峠を越える。

 峠を南へと下っていくと、霧はすこしづつ切れ、ドラケンスバーグ山脈のゆるやかな山並みが見えるようになってきた。天気は悪い。雨雲が重く垂れ込め、細かい雨が降りつづいている。

 夕方、クイーンズタウンに到着。すっかり寒さにやられ、もうそれ以上、バイクに乗る元気もなく、町外れの鉄道の駅構内にある駐車場で夕食のパンをかじると早々と寝た。ありがたいことに、その駐車場には屋根があり、雨に濡れることなく、シュラフにもぐり込んで眠れた。

N2(国道2号)を行く

 翌日も雨…。クイーンズタウンから南に150キロ走ると、N6の終点のキングウイリアムズタウンに到着。そこでN2(国道2号)にぶつかる。N2を西に行けばケープタウンの方向だが、その前に東へ、港町のイーストロンドンまで行ってみた。

 南アフリカには東から西へ、ダーバン、イーストロンドン、ポートエリザベス、ケープタウンと4つの主要な港があるが、イーストロンドンは4港の中では一番小さい。イーストロンドンでは町をぐるりとひとまわりし、港にも行った。岸壁には日本の貨物船も見られた。

 イーストロンドンの北側を流れるグレートケイ川の向こうはバンツースタンのトランスケイ。南アフリカの人種差別政策の中でもとくに重要なのは「バンツースタン計画」。政府はある程度の自治を与えて黒人のコーザ族をトランスケイに押し込めようとしている。

 イーストロンドンを出発。N2を西へ。キングウイリアムズタウンまで戻ると、さらに西へ、西へとケープタウンに向かって走った。イーストロンドンから320キロ、ポートエリザベスに到着。ここでもイーストロンドンと同じように町をぐるりとひとまわりした。中心街には高層ビルが建ち並び、中心街から郊外へと高速道路が延びている。イーストロンドンよりも大きな港には、何隻もの貨物船が停泊している。その中には3隻もの日本の貨物船が見られ、日本と南アフリカの経済的な強固なつながりをあらためてみせつけられた。

 ポートエリザベスを過ぎると、N2は海沿いのルートになる。山々が海岸近くまで迫り、目の前には次々ときれいな風景が展開される。山があって、高原があって、峡谷があって、森林があって、湖があって…と、まるで絵の中を走っているかのような錯覚にとらわれる。インド洋岸を走るこの一帯のN2は「ガーデンルート」と呼ばれているが、まさにピッタリの愛称だ。

アフリカ大陸最南端のアグラス岬

 ポートエリザベスから340キロ西のジョージの町外れで野宿し、翌日、アフリカ大陸最南端のアグラス岬を目指した。モーゼルベイ、スウェレンダムと通り、ジョージから西に260キロ走ったところでN2を左折。ゆるやかに波打つ丘陵地帯をバサーッと断ち切るかのように道が一直線に延びている。アップダウンの連続。大牧場や大農場がつづく。大牧場の牧草は枯れ、一面、茶色の世界になっている。気候が変わったのが、よくわかる。このあたりのアフリカ大陸南西端は地中海性気候で、夏は雨が少なく、冬に多い。

 ブレダースドープの町からアグラス岬へ。岬に到着すると、灯台のわきの道を走り、岬の先端まで行った。ゴツゴツした岩場にバイクを停めた。

 アグラス岬は大西洋とインド洋の2つの大洋を分けている。

「右側が大西洋、左側がインド洋。今、2つの大洋を見ている!」

 そう思うと、地球をポケットからとり出し、自分の手のひらでコロコロころがしているかのような、気宇壮大な気分になってくる。

 もちろん目の前の青い海に境目などあるわけもないが、ブーツを脱いで海に入ると、岬の右側で海水をすくって顔を洗い、次に岬の左側で同じようにして顔を洗った。

「これで大西洋とインド洋で顔を洗った!」
 といって一人で喜んだ。

 アグラス岬に着いたときは晴れ渡り、雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。

 だが、このアグラス岬沖というのは、船乗りにとっては大きな難所。アフリカ大陸の東側を北から南に流れる暖流のアグラス海流と、アフリカ大陸の西側を南から北に流れる寒流のベンゲラ海流が激しくぶつかり合い、しばしば濃霧に見舞われるからだ。

 1969年にアンゴラのルアンダ港からモザンビークのロレンソマルケス港までポルトガル船に乗った。そのときアフリカ大陸の西岸は寒流のベンゲラ海流の影響で寒くてとてもではないが甲板に出られなかった。船室には暖房が入った。それがケープタウン港を過ぎ、アグラス岬沖にさしかかると、急激に気温が上がった。アグラス岬沖は濃霧で、船はグッと速度を落とし、何度も警笛を鳴らした。

 アグラス岬の岩の上に座り、大海原を見ていると、この沖を通ったときの船旅がなつかしく思い出されてくるのだった。

 なんとも立ち去りがたかったが、アグラス岬に別れを告げ、ブレダースドープの町に戻った。そこからN2のカレドンへ。25キロ走ったところでN2から海沿いのルートに入り、ケープタウンに向かった。海がインド洋から大西洋に変わった。ファルス湾に沿った道は、海にスーッと落ち込む山々の中腹を縫っている。眼下には紺青の海、その向こうにはケープ半島の山々と突端の喜望峰になる。

 すばらしい風景を眺めながらGT550を走らせ、南アフリカ第2の大都市、ケープタウンに到着。ケープ半島の付け根に位置するケープタウンの周辺には、ヨハネスバーグと同じように、いくつもの衛星都市がある。中心街を走ったが、どこからでも見える上のまっ平なテーブルマウンテン(1100m)が印象的。ケープタウンからはケープ半島突端の喜望峰まで行った。

30年目の「六大陸周遊記」[020]

アフリカ南部編 6 スプリングス[南アフリカ] → ダーバン[南アフリカ]

スプリングスのスズキの総代理店

 ヨハネスバーグの東、スプリングスの町にあるスズキの総代理店ではずいぶんと歓迎され、スズキのGT550を貸してもらった。このバイクで南アフリカ、スワジランド、レソト、南西アフリカ、ブツワナの南部アフリカ5ヵ国をまわる予定。いよいよ「南部アフリカ一周」のはじまりだ。

 オフィスでチーフマネージャーのイチコビッツさんに会い、いろいろと話を聞いた。イチコビッツさんはユダヤ人で、若いころは世界のあちこちを旅してまわった。ぼくと同じような貧乏旅行で、その日の食事にこと欠くような日々もあったという。しかし、若い時代に自分の肌を通して得た世界観が、今の仕事で大きなプラスになっているという。日本にも何度も行ったとのことだが、今度行くときは仕事抜きで観光地でない普通の日本をまわり、普通の日本人と膝をまじえて話したいという。

 夜はイチコビッツさんの部下のアクレスさんの家で泊めてもらった。スプリングス郊外のきれいな芝生に囲まれた家。広々とした庭には色とりどりの花々が咲いている。奥さんと2人の子供。アクレスさんは南アフリカの白人の中では中産階級ということになるのだろうが、ヨーロッパのそれと比べると、はるかに余裕のある生活をしている。アクレスさんの家ではボーイが1人とメイドが2人、働いている。車もアクレスさんのと奥さんのとで2台ある。その夜は奥さんの友人の農場主の家で夕食会があるとのことで、ぼくも一緒に連れていってもらった。彼らにとっては夕食をともにし、お茶を飲みながら話すのが、何よりもの楽しみになっている。

「南部アフリカ一周」の出発の準備

 翌日は「南部アフリカ一周」の出発の準備で大忙しだった。GT550は1日かけて整備してくれるというので、別なバイクを借りてヨハネスバーグへ。まずは内務省に行き、南アフリカに再入国出来るように、リエントリー・ビザを申請する。1週間かかるといわれたが、強引に頼み込み、その場でやってもらった。そのため、首都のプレトリアにテレックスを打ったとのことで、ビザ代のほかにテレックス代も払った。

 次にイギリスの領事館に行く。旧英領のスワジランド、レソト、ボツワナの3国のビザを申請。スワジランド、レソトのビザはすぐにもらえたが、ボツワナのビザは代行していないという。ボツワナ本国への照会が必要だとのことで、1ヵ月はかかるといわれた。まいった…。「どうしよう…」と、頭を抱え込んでしまったが、結局ボツワナを諦めた。

 今回のアフリカの旅では、今までに行ったことのないアフリカ大陸内の国にはすべて足を踏み入れるつもりでいたが、最初からつまずいてしまった。それにしても腹がたつのは、南アフリカのパスポートならばボツワナへの入国はビザが必要ではないこと。日本のパスポートでも、ビザなしでいいではないか…。国の壁にこうしていつも泣かされる。

 イギリスの領事館から再度、内務省へ。南西アフリカへの入国について聞くためである。特別な許可証のようなものが必要なのか、それともビザが必要なのか。南西アフリカは1884年にドイツ領になったが、第1次世界大戦後の1920年に南アフリカの委任統治領になった。第2次世界大戦後は国連の信託統治領への勧告を拒否し、南アフリカは実質上、南西アフリカを支配していた。

 内務省では次々と、「あっちだ、こっちだ」と窓口をたらい回しにされたが、最後まで明快な回答を得ることができなかった。というよりも、わざとはっきりとさせないような節を感じた。ということで、南西アフリカはビザなしで行くことにした。

 これで「南部アフリカ一周」のすべての手続きは終わった。ボツワナは非常に残念だけど、「仕方ない。また、次の機会だ」と自分にいい聞かせた。

 スプリングスのスズキの総代理店に戻ると、GT550の整備は終わっていた。持っていく予備パーツもすべてとりそろえられていた。さっそく試乗。エンジンは快調。スプリングスの町を走りながら体がゾクゾクッとするような感動を味わった。

南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ

さー、出発だ!

 アクレスさんの家で泊めてもらい、翌日の12月29日土曜日、いよいよ出発だ。南アフリカの高原地帯は10月から3月までが雨期だが、幸いなことにこの日は快晴。雲ひとつない青空が広がっている。スズキGT550のエンジンをかけると、軽快なエンジン音があたりに響きわたる。何ともいえないうれしさが胸にこみあげてくる。アクレスさん一家の見送りを受け、走りだす。まずはスプリングスからスワジランド国境に近いエルメロに向かった。

「南部アフリカ一周」での最大の問題はガソリンだ。世界中を襲った石油危機の影響で、資源大国の南アフリカも大幅な規制をおこなっていた。すべてのガソリンスタンドの営業時間は朝の6時から夕方の6時までとし、土曜、日曜は休日、予備のガソリンは1台の車につき10リッターまでとする。最高速度は市外で時速80キロ(それまでは130キロ)、市内で時速50キロ(それまでは60キロ)に制限するという非常に厳しい規制の内容だった。

 金、ダイヤモンド、アンチモンが世界第1位、ウラン、クローム、マンガン、バナジウムが世界第2位、そのほかにも鉄鉱石、石炭、銅、プラチナ、アスベストスなどの生産が世界の上位の南アフリカだが、唯一、石油が泣きどころになっている。

 しかし、南アフリカの場合は石油危機が直接、エネルギー危機には結びついてはいなかった。豊富な石炭を利用した火力発電が電力の中心になっているからだ。さらに驚くことには、国営企業のSASOLがヨハネスバーグ近郊で石炭を液化し、石油の生産をおこなっている。この類の企業としては世界最大で、ここで生産される石油は南アフリカの全需要の1割をまかなっているという。

 南アフリカの白人にとって車はなくてはならない生活の必需品。彼らにとってガソリンが手に入らないということは、手足をもぎとられたのも同然。ぼくにとっても非常に厳しし事態で、金曜日の夜にガソリンを満タンにし、土曜日、日曜日はできるだけ走行距離を抑えるしかなかった。

スワジランド入国

 スプリングスから東へ、スワジランド国境に向かって走った。ちょうど日本の初夏のようなさわやかさで、まさにバイク日和。広々とした高原の風景がつづく。GT550を停め、小休止。牧場の片すみの草の上にゴロンと横になると、プーンと牧草の匂いが鼻をつく。見上げると、吸い込まれそうな青空だった。

 ベサールの町を過ぎ、エルメロに近づくと、炭田のボタ山が見えてくる。ヨハネスバーグ周辺の金鉱の白っぽいボタ山と違って黒々としたボタ山。エルメロの町は標高1735メートルで、周辺にはあっちにも、こっちにもという感じで炭田がある。南アフリカはオーストラリアと同規模の南半球最大の石炭生産国で、日本にも年間20万トン近くを輸出している。

 エルメロからスワジランドに向かった。スプリングスから320キロ、アムステルダムの町に着く。前方にはゆるやかな山並みが連なっている。それに向かって走っていくと、やがて舗装路は途切れ、ダートの山道を登っていくようになる。その山並みが南アフリカとスワジランドの国境になっている。

 国境はネルストン。南アフリカ側にはイミグレーションがあり、そこで出国手続きをした。しかし南アフリカのトランスバール州からスワジランドに入ると、イミグレーションも税関もなく、「首都ムババネの警察で入国手続きをするように」と書かれた立札があった。スワジランドは1万7000平方キロで、四国をすこし小さくした程度の面積。人口は43万人。アフリカに残された数少ない王国のひとつで、1968年9月6日にイギリスから独立した。国名の表すとおりで、国民の大半はスワジ族。スワジ族は南アフリカに住むズール族と同じ部族だったという。スワジ族もズール族も勇猛果敢な民族として知られている。

 スワジランドに入ってまっさきに気がつくのはお金である。南アフリカのラントが使われていて、スワジランド独自の通貨はなかった。南アフリカの人種差別政策に反対し、他のアフリカ諸国に同調しようとしているスワジランドだが、小国の悲しさで、南アフリカに頼らなくては国として成り立っていかないようだった。

 しかし、スワジランドに入れば、公用語は英語とスワジ語になる。道路標識などを見ていても、英語と並んでスワジ語が盛んに使われている。それを見て、スワジ族の国をつくっていくのだという意気込みは見てとれた。

スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る

首都ムババネへ

 国境から首都ムババネへの道は、山間部を縫うようにして走っている。植林が盛んにおこなわれ、松やユーカリ林がすがすがしい。目にしみる緑を両側に眺めながら走る。すれ違う車はほとんどない。この一帯、スワジランド西部の植林は見事なものだった。

 谷間に下ると、パルプ工場があった。パルプは砂糖、鉄鉱石、アスベストと並んでスワジランドの主要な輸出品目になっている。

 首都のムババネに着いたのは夕暮れ時。町をグルリとひと回りした。人口が3万人にも満たない小さな首都。標高1143メートルの高原の町である。

 暗くなったころに警察に行くと、その場ですぐに入国てつづきをしてくれた。そのあとで、「ひと晩、泊めてもらえないだろうか」と頼むと、係の警官はぼくを上司のところに連れていく。係の警官も、上司も黒人。独立国のスワジランドなのだから当然のことかもしれないが、その当然のことが何か、すごくうれしかった。

 その上司に「会議室を自由に使ってもいい」といわれ、部屋にあった机を2つ並べてベッドにし、その上にシュラフを敷いた。さらに宿直の警官が夕食を持ってきてくれた。スワジランド警察の客人になったかのような気分。翌朝は警官たち総出の見送りを受けながら出発。スワジランド警察のみなさん、ありがとう!

植林地帯を行く(スワジランド)
植林地帯を行く(スワジランド)
植林地帯を行く(スワジランド)
植林地帯を行く(スワジランド)
ゆるく波打つ丘陵地帯(スワジランド)
ゆるく波打つ丘陵地帯(スワジランド)
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ

なつかしのモザンビークとの国境地帯

 ムババネを出発。8キロほど北西のオショエックへ。南アフリカとの国境の中でも、一番の幹線道路がそこを通っている。ムババネに戻ると、今度は東へ。高地を下り、40キロ東のマンジニに行く。バイクのガソリンがすでに残り少なかった。スプリングスを出るときに10リッターの予備ガソリンを積んだが、それもすでに使っている。

 南アフリカでは土曜日、日曜日はすべてのガソリンスタンドが休日だが、スワジランドは規制がゆるやかで、土曜日は午前6時から午後2時まで、日曜日は午後2時から午後6時まで給油できる。その日は日曜日なので、マンジニの町で午後2時まで待った。

 バイクはどこに行っても人気の的だが、とくにGT550のような大きなバイクは南部アフリカではあまり走っていないので、よけいに人気が高かった。マンジニでバイクを停めていると、何人もの人たちが集まり、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる。そのおかげで退屈することもなく、あっというまに午後2時になった。オープンしたガソリンスタンドで給油し、マンジニからさらに東へと走る。やがて前方に山脈が見えてくる。

 上部が平坦な帯のように長い山脈が南北に連なっている。スワジランドとモザンビークの境を成すレボンボ山地だ。1968年にぼくはこの山脈を初めて見た。「アフリカ一周」の出発点、モザンビークのロレンソマルケスからスワジランドとの国境のナマアチャに向かったときのことだった。胸を打たれる風景で、「あー、これがアフリカだ!」と、大感激した。

「今、そのときの風景を反対側から見ている」

 そう思うと、過ぎ去った5年の歳月が一瞬にして蘇ってくるようだった。

 マンジニから50キロ走ると、鉄道の線路を越える。1964年に開通した鉄道で、モザンビークのロレンソマルケスとスワジランドのングウェニャ鉄山とを結んでいる。このングウェニャ鉄山の鉄鉱石の大半はロレンソマルケス港から日本に輸出されている。

 モザンビークの国境まで行ったあと、曲がりくねった山道を走り、レボンボ山地を登っていく。山上のステギという村まで行き、来た道を引き返し、今度は南へと下った。レボンボ山地の麓の低地を行く。この一帯は西部の山岳地帯と比べると、はるかに降水量が少なく、乾燥地帯の様相を見せていた。ところどころにはサトウキビ畑も見られ、製糖工場もあった。

 ビッグベンドを通って国境のゴレラへ。ゴレラへの道は舗装こそされていないが、道幅は広く、路面もよく整備されていた。ゴレラにはスワジランド、南アフリカ両国のイミグレーションがあり、スワジランドを出国し、再度、南アフリカに入国した。

モザンビークとの国境地帯(スワジランド)
モザンビークとの国境地帯(スワジランド)
快適な高原の道を行く(スワジランド)
快適な高原の道を行く(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)

ダーバンのインド人

 国境を越えてスワジランドから南アフリカに入ると、すばらしいハイウエイが南に延びていた。N14(国道14号)だ。交通量はきわめて少ない。石油危機後の新しい制限速度の80キロを無視し、時速120キロから130キロで走った。スズキGT550の高速性能のよさに酔いしれる。と同時に、南アフリカの整備された国道網には目を見晴らされた。

 N14を南下すると、すぐにポンゴラ川(モザンビークのマプト川の上流)を渡り、トランスバール州からナタール州に入った。ナタール州北部の低地には、ゲームリザーブ(動物保護地域)が何箇所のもある。ズールランド(ズール族の居住エリア)を南下していくと、やがてゆるやかな丘陵地帯になり、広大なサトウキビ畑がつづくようになる。

 ナタール州最大の都市、ダーバンに到着。中心街には高層ビルが林立している。ダーバンをひとまわりしてみてすぐに気のつくことは、じつにインド人が多いこと。ダーバン市だけの人口を見ると、白人、黒人よりも、インド人の方が多いという。

 ナタール州のインド人は19世紀後半から20世紀にかけて、サトウキビのプランテーションの労働者として移民した。華僑と同じように、世界中のどこにいっても商売上手なインド人はみるみるうちに勢力を拡大し、小売、流通で確固とした地盤を築いていった。ダーバンで何人かの人たちから聞いた範囲では、インド人は白人からも黒人からも嫌われているようだった。物を動かすだけで利益を上げているずる賢い民族、といった印象をもたれていた。

 そんなインド人は被差別民族。裏通りの小さなスーパーマーケットに入ったときのことが忘れられない。店の主人と立ち話をしたが、「あんたは日本人か。日本人はいいなあ。私らはいくら金を出しても一流のレストランでは食事をできないし、一流ホテルにも泊まれない」といった彼の言葉が、トゲのようにいつまでも心にひっかかってならなかった。

30年目の「六大陸周遊記」[019]

アフリカ南部編 5 タナナリブ[マダガスカル] → スプリングス[南アフリカ]

「世界一周」中の福田さん

 1973年12月25日、クリスマスの日にマダガスカルのタナナリブから南アフリカのヨハネスバーグへSA(南アフリカ航空)191便で飛んだ。

 機内では日本人旅行者の福田さんという65歳の方と席が隣どうしになった。福田さんとはタナナリブのイバト国際空港で会ったのだが、最初に見たときは日本人かどうか判断がつきかねた。中国人かもしれない、ベトナム人かもしれないと思った。だが、その人がバッグから日本のパスポートを取り出したときに、思いきって声をかけた。その人が東京の福田さんだった。

 福田さんもきっと驚いたことだろう。なにしろぼくは日に焼けて色が真っ黒。おまけに汚れきった格好をしている。そんな男にマダガスカルの空港で日本語で話しかけられたのだから。福田さんは会社を経営していたが、現役を引退し、一人で飛行機を乗り継いでの「世界一周」の旅を楽しんでいた。ヨハネスバーグで乗り換え、ブラジルのリオデジャネイロに飛ぶところだった。そのようないきさつがあったので、チェックインのときに隣どうしの席にしてもらったのだ。

 飛行機はモザンビーク海峡をひとっ飛びし、南アフリカのダーバンの上空にさしかかる。まばゆいばかりの夜景が眼下に広がっている。世界中が第4次中東戦争後のオイルショックで大揺れに揺れていたが、ダーバンの夜景はまるでそれをあざ笑うかのようで、福田さんは「資源のある国は違いますねえ」とため息まじりにいった。

南アフリカに入国

 飛行機はヨハネスバーグの前にインド洋の港町、ダーバンに寄っていく。

「いよいよ、アフリカ大陸だ」
 と、すごく気分が高揚する。南アフリカの入国手続きは、ここでおこなわれた。南アフリカといえば、「人種差別の国」という強烈な先入観念がある。ぼくも福田さんも、白と黒の激しい区別にとまどった。空港内のトイレは白人用、非白人用と区別されているので、気の毒なことに福田さんは「どっちに入っていいのかわからないから…」というのでトイレを我慢したという。

 ダーバンを飛び立つと、じきにヨハネスバーグ。さきほど、ダーバンの夜景のすごさに驚いたが、ヨハネスバーグの夜景はその比ではなかった。広大な平坦な大地全体が、光り輝いていた。

 福田さんは翌日の便でリオデジャネイロに飛ぶことになっていた。航空会社はホテルを用意しているはずなのだが、時間がすでに遅いということもあってか、それらしき係員はいなかった。ぼくがかわりに聞いてまわったところ、空港内のホテルだそうで、福田さんには何度もお礼をいわれた。そんな福田さんと「お互いに体に気をつけて旅をつづけましょう!」と握手をかわして別れた。

 空港のターミナルビルを出ると、ヨハネスバーグの市内に通じるハイウエーを歩いた。

「これで、やっと南アフリカに入れたなあ…」
 と、感慨深かった。

南アフリカのビザには泣かされた…

 オーストラリアでは南アフリカのビザを取るのにずいぶんと苦労した。ビザがすんなりと取れなかったばかりに、バイクのみならず、ヒッチハイクでもオーストラリアを一周した。「オーストラリア一周」の予定が「オーストラリア二周」になったのは、すべて南アフリカのビザのせいなのである。

 1968年から1969年のバイクでの「アフリカ一周」では、それ以上に南アフリカのビザでは泣かされた。モザンビークのロレンソマルケスを出発点にして北上したが、ほんとうはケープタウンを出発点にしたかった。だが東京で南アフリカのビザが取れずに泣く泣くモザンビークのロレンソマルケスを出発点にしたのだった。

 ロレンソマルケスから東アフリカを経由してアフリカ大陸を縦断し、1年後にヨーロッパに入った。日本を出発する前の計画ではヨーロッパから西アジアを通ってインドまで行き、そこから日本に帰ってくるというものだったが、ぼくはすっかりアフリカに魅せられ、ヨーロッパから今度は西アフリカ経由で南アフリカを目指したくなったのだ。ケープタウンまで行ったら、そこから船でアルゼンチンのブエノスアイレスに渡ろうと思った。

 ロンドンでバイトをしながら計画を練り、ある程度の資金ができたところで南アフリカを目指して出発した。西アフリカは雨期の最中で、雨と泥道との闘いの連続。ナイジェリアは内戦の最中で、船で迂回しなくてはならなかった。中央アフリカのバンギからウバンギ川、コンゴ川を船で下り、旧フランス領土コンゴから旧ベルギー領コンゴへ。首都のキンシャサからは決死の覚悟で国境を越え、激しい戦闘のつづくアンゴラに入った。首都ルアンダに着いたときは「これでもう、ケープタウンまでは問題なく行ける」と、おお喜びだった。
 ところがルアンダにある南アフリカ領事館に行き、パスポートを見せるなり、「日本人にはビザを出せない」といわれた。南アのビザを拒否され、前に進むことも、後に戻ることもできなくなってしまった。ほかにルートのとりようがなかった。ルアンダにある船会社をしらみつぶしにあたったが、南米に行く船はなかった。ついにぼくはアフリカの旅をルアンダで断念し、ポルトガルのリスボンから来た船でモザンビークのロレンソマルケスに戻った。そこからバイクを船で日本に送り返し、ぼく自身は飛行機で日本に帰った。

 夜更けのヨハネスバーグに通じるハイウエーを歩いていると、そんな苦い思い出がつい昨日のことのように思い出されてくるのだった。

スプリングスの町

 クリスマスの夜はヨハネスバーグ郊外のハイウエー沿いでの野宿。夜が明けると、ヒッチハイクでヨハネスバーグの東にある町、スプリングスに向かった。そこはスズキの代理店があって「南部アフリカ一周」用のバイクを借りることになっている。ヒッチハイクは簡単で最初が黒人、次が白人が乗せてくれた。

 ヨハネスバーグ周辺は世界最大の産金地帯だ。スプリングスはその産金地帯の東はずれにあたり、金鉱の白っぽいボタ山がいくつも見える。南アフリカは世界一の金産出国で、1972年の産出量は910トン。全世界の金産出量の6割を超えている。

 スプリングスの町に着くと、町全体があまりにも静まりかえっているので、どうしたのだろうと不安になった。大半の店がシャッターを下ろしている。開いている小さなスーパーマーケットに入って聞いてみた。するとクリスマスの次の日は「ボクシングデー」で休日なのだという。もともとこの日は使い走りの少年や郵便配達夫などにプレゼントする日なのだという話も聞いた。

アパルトヘイト初体験

 仕方がないので、スプリングスには次の日にまた来ることにして、電車でヨハネスバーグまで行くことにした。駅の切符売り場は白人(ホワイト)用と非白人(ノンホワイト)に分かれていた。ぼくは非白人の切符売り場に行った。電車は1等、2等、3等に分かれていて、ヨハネスバーグまで3等の切符を頼んだ。切符売りは黒人の女性だった。

 切符を受け取り、なにげなく見ると1等になっている。あわてて切符売り場に戻った。

「あの、3等の切符を頼んだのだけど」

「さっき、あなたは日本人だといったでしょ。だから1等の切符を渡したのよ。日本人が3等に乗ることはないから」

 たしかに切符を買うとき、「何人?」と聞かれた。ぼくはてっきり「この人はどこから来たのだろう」という興味半分で聞いたものだとばかり思っていた。ところがそうではなかったのだ。日本人ならば、白人と同じように1等の切符にしなくてはと、黒人女性の切符売りはそう考えたのだ。

 ぼくは3等の切符に替えてもらい、差額を返してもらって駅舎に入る。駅舎内のトイレも白人用と非白人用に分かれている。線路をまたぐ横断歩道橋も白人用と非白人用に分かれている。電車に乗れば乗ったで、白人用車両と非白人用車両に分かれている。すべてが白人用、非白人用に分かれているのだ。こんなことが許されていいのかと、ぼくは怒りに震えてしまった。

 南アフリカでは人間は白人と非白人に分けられ、非白人はさらに黒人(バンツー)、混血(カラード)、アジア人の3つに分けられている。アジア人の大半はインド人である。白人が360万人、黒人が1300万人、混血が190万人、アジア人が60万人という人口の構成だ。黒人のバンツー系アフリカ人はヌグニ、ソト、ベンダ、ジャガナ、トンガに分けられるが、そのうちヌグニが最大で、コーザ族やズール族が多数部族になっている。非白人では日本人だけが白人待遇(オーナブル・ホワイト)になっている。駅員がぼくに1等の切符を売ったのも、そのあたりのことが理由になっている。

 南アフリカの人種差別はすさまじい。白人でなければ人でない。非白人に選挙権はなく、職業は制限され、労働組合の結成やストライキは禁止されている。悪名高いパス法によって、身分証明書なしではうかうか外も歩けない。白人の移民は大歓迎だが、非白人の移民は厳重に制限されている。

 電車はヨハネスバーグに向かって走っている。車窓からは金鉱のボタ山をいくつも見る。金で栄えるブラックパン、ベーニ、ボクスバーグ、ジャーミトンといったラントの町々を通り過ぎていく。「ラント」こそ、南アフリカの心臓部。この一帯は標高1700メートル前後のウィットワーテルスラントと呼ばれる高原地帯で、普通はそれを略して「ラント」といっている。このラント(RAND)こそ、世界最大の金鉱地帯なのだ。

スプリングスの町の目抜き通り
スプリングスの町の目抜き通り
スプリングスの郊外。近郊のボタ山が見える
スプリングスの郊外。近郊のボタ山が見える
スプリングスの郊外。近郊のボタ山が見える
スプリングスの郊外。近郊のボタ山が見える
スプリングス駅のトイレ。ホワイト用とノンホワイト用に別れている
スプリングス駅のトイレ。ホワイト用とノンホワイト用に別れている
スプリングス駅のノンホワイト用の跨線橋
スプリングス駅のノンホワイト用の跨線橋
スプリングス駅に到着した電車
スプリングス駅に到着した電車

ヨハネスバーグを歩く

 ヨハネスバーグ中央駅に着くと、町を歩く。高層ビルが建ち並ぶ近代的な大都市。人口130万人。アフリカには人口だけでいえばカイロやカサブランカのように、はるかに人口の多い都市もある。だが、「近代的都市」とはほど遠い。その意味でいうと、ヨハネスバーグはアフリカ最大の都市といえる。それというのも豊かな金鉱脈と、南アフリカ国内はもとより、レソト、スワジランド、ボツワナ、モザンビーク、ローデシア、マラウィといった近隣諸国からの大量の、それもきわめて安く使える労働力のおかげなのである。

 町を歩いていてひとつ気のついたことは、何人もの人がヨハネスバーグ(Johanesburg)をジョーバーグ(Joburug)といったこと。ヨハネスバーグは南緯26度。日本とは季節が逆になり、春から夏に入ったところ。気持ちのいい天気で、公園のベンチでしばらくうたた寝した。

 目が覚めると、再び町を歩いた。ヨハネスバーグは19世紀後半のゴールドラッシュ後にできた新しい都市で、南北に、東西にと碁盤の目状に道路が延びている。中心街を歩いていて気がつくのは、大きなホテルはどこも南アフリカと関係の深い主要国の国旗を掲げているが、イギリス、オランダ、アメリカ、フランス、西ドイツといった国々と並んで、必ずといっていいほどに日本の国旗をも掲げていた。つまり、それだけ日本人の利用客が多いということだ。観光でこの国を訪れる人はほとんどいないので、その大半はビジネスマンの利用ということになる。このことひとつをとってみても、日本と南アフリカの結びつきの強さをうかがい知ることができた。

 南アフリカの輸出先を見ると、日本はイギリスに次いで第2位、輸入先ではイギリス、アメリカ、西ドイツに次いで第4位。南アフリカにとって日本はきわめて重要な国。それだからこそ、ノンホワイトの日本人を例外的にホワイト扱いにしているのだ。

ヨハネスバーグの中心街
ヨハネスバーグの中心街
ヨハネスバーグの中心街
ヨハネスバーグの中心街

ヨハネスバーグ郊外へ

 電車に乗ってヨハネスバーグの郊外に行ってみた。意地でも3等に乗りつづけた。最初は南の工業都市のフェリーニヒングへ。ヨハネスバーグに戻ると、次は西のラントフォンテインへ。その車中では、帽子をかぶり、ほころびた背広を着た中年の人と話した。

 話題はアパルトヘイト(Apartheid)。アフリカーンスで「分離」とか「隔離」を意味するそうだが、一般的には南アフリカでの人種差別を表す言葉になっている。「黒人と白人が同じ仕事をしても、給料が全然、違うんだ。もっともっと、給料を上げて欲しいよ」と彼はしきりに白人と黒人の給料の違いを訴えた。

 産金地帯の西はずれにあたるラントフォンテインの町に着いたのは夕暮れどきで、ひと晩、泊めてもらおうと教会に頼んでみることにした。通りすがりの人に「教会はどこですか」と聞くと、「白人の教会か、黒人の教会か」といわれ、愕然とした。駅も、トイレも、電車も、バスも、エレベーターも、レストランも、学校も、郵便局も、役所…も、そしておまえもかという感じで神のもとでの人間の平等を説く教会までもが白人用と黒人用に分かれていた。

 ぼくは黒人用の教会に向かった。途中、草原では黒人の子供たちがボールを蹴って遊んでいたが、彼らを見ていると、胸がしめつけられるようだった。彼らは大きくなるにつれて、肌の色が違うばかりに受ける様々な差別をどのような思いで受け止めていくのか。

 肌の色の違いによる差別はあまりにも酷い。人間のいかなる努力によっても、それを克服することができないからだ。能力による差別ならば、多少は先天的なものがあるにせよ、同じ人間なのだから各人の努力次第でどのようにでもなる。しかし、肌の色はどうしようもないではないか。南アフリカのアパルトヘイトはあまりにも人権を無視し、人間の尊厳を踏みにじっている。その夜はアフリカ人用の教会で泊めてもらったが、黒人の神父さんにはほんとうによくしてもらった。

ガラガラの白人用1等車

 翌朝、電車でヨハネスバーグへ。ラントフォンテイン駅はちょうど通勤の時間帯で混んでいた。といってもそれは黒人用の改札口だけの話で、白人用はガラガラ。電車も黒人用はぎゅうぎゅうづめの満員なのに、白人用の車両では乗客はゆったりとシートに腰掛けている。タバコをくゆらせながら新聞を読んでいる人が多い。ぼくが乗ったのは3等で、満員電車にもみくちゃにされながらヨハネスバーグに着いた。

 朝のヨハネスバーグをひと歩きしたところで、電車でスプリングスに向かった。黒人用の3等の切符売り場は長蛇の列。その列はすこしも前に進まない。早くスプリングスに行きたかったので、イライラしてくる。やむをえず白人用の切符売り場で1等の切符を買った。黒人用の3等の車両は超満員なのに、白人用の1等の車両はやはりガラガラだ。ぼくのほかには、たった1人の乗客。あきれてものがいえない。電車は動きだした。ヨハネスバーグの中心街を抜け出し、郊外へ。

 白人の中年女性の車掌が検札にやってきた。彼女はぼくの顔を見るなり、アフリカーンスでペラペラとまくしたてた。「ここはあんたの乗るところではありませんよ」ぐらいのことをいっているのだろう。ぼくはまったく無視し、「私はアフリカーンスはわからない。英語で話して下さい」といって相手にしなかった。そのすぐ後で、今度は英語を話す白人男性の車掌がやってきて、「この車両は白人用なんですよ」といった。

「よくわかってますよ。だからぼくはこの車両に乗ったのです。日本を出る前に、南アフリカでは日本人は白人になっているので、電車に乗るときは白人用に乗りなさいといわれたんです」
 と、いい返した。そのようなことは出発前に一度も言われたことはなかったが…。

 ぼくが日本人だというと、車掌は態度を一変させた。「あなたが日本人だとは思わなかったので許して下さい」といった。車掌も暇なのだろう、しばらくはぼくの話相手になってくれた。彼はイギリス人だった。知人に「南アフリカに行けば金持ちになれる」といわれ、この国にやってきたという。だが、人種差別は想像したよりももっと激しいもので、この国に対してすっかり嫌気がさしたという。できるだけ早いうちにオーストラリアかカナダに移り住みたいというのだ。彼の話によると、人種差別はヨハネスバーグを中心としたトランスバール州がとくにひどいという。

 彼と話しているうちにスプリングスに着いた。町は昨日と比べると、うってかわって人通りが多く、にぎやかだった。

「これからバイクで南部アフリカを一周するんだ!」

30年目の「六大陸周遊記」[018]

アフリカ南部編 4 アンバラバオ[マダガスカル] → タナナリブ[マダガスカル]

ラッショランドル神父の話

 マダガスカル島南部のアンバラバオから1日かけたヒッチハイクで夕方、フィアナランツォアまで戻った。ひと晩、泊めてもらおうと教会に行くと、マダガスカル人のラッショランドル神父が「家に来なさい!」といって、教会近くの彼の家に連れていってくれた。夕食をいただいたあと、神父にはいろいろな話を聞いた。神父はアメリカのミネアポリスの大学に2年間、留学したとのことで英語を上手に話す。ミネアポリスの大学では日本人留学生の友人がいたという。

 神父の話によると、マダガスカルでのキリスト教の布教は容易ではないという。人々は伝統的な部族の神々を信じているので、なかなかキリスト教には改宗しない。カソリック、プロテスタント合わせてキリスト教徒は全人口の3割ほどだという。

 マダガスカル人は全部で20くらいの部族に分かれるという。最も人口が多いのは首都のタナナリブを中心にして住むメリナ族。人口の3割程度を占め、マダガスカルの政治、経済を牛耳っている。次に多いのはベッチミサラカ族で、タマタブを中心にして東海岸に住んでいる。そのほかフィアナランツォアを中心にして住むベッチレウ族、北部に住むチミヘチ族、南部に住むアンタンドルイ族などがマダガスカルの大部族だという。

 また神父はマダガスカルの歴史についても話してくれた。その中でも、中世から近世にかけての王国が群雄割拠する時代の話がおもしろかった。マダガスカルで最初に王国を作ったのは中央高地のメリナ王国と西部のサカラバ王国だという。その後、幾多の王国の興亡があり、19世紀になってメリナ王国がマダガスカルを統一した。

 しかし、安定した時代は長くつづかず、領土欲に燃えるフランスやイギリスの執拗なまでの侵攻に、ついに1897年、メリナ王国は滅んでしまう。20世紀に入ると、フランスがマダガスカルを支配し、それは1960年までつづく。

 神父が話すそばで、奥さんは2度、3度と紅茶を入れてくれた。神父はじつに博識で、話し方もうまい。聞いていてすこしも飽きなかった。そして気がつくと、時間は12時を過ぎていた。

タナナリブに戻ってきた…

 翌朝、神父の家で朝食をいただき、北へ、タナナリブを目指す。熱もすっかり下がり、体はかなり楽になっていた。ただ、ノミにやられたところが目茶苦茶にかゆい。フランス人の老人の車でインド洋岸のマナンジャリーに通じる道との分岐点まで乗せてもらう。そこからさらに北に歩いていくと、川に出た。洗濯も風呂もすっかりごぶさたなので、つかのまの青空にこれ幸いとばかりに川で体を洗い、着ているものも川で洗った。

 洋服が乾いたところでヒッチハイクを再開。ラッキーなことに、ほとんど待たずにアンチラベまで行くプジョーの小型トラックに乗せてもらった。ラザフィンツァラマさんとラツィンバザフィさんの2人。マダガスカルでは地名も難しいが、人名も難しい。

 夕方、アンボシトラに到着。2人はこの町に友人がいるといって、町外れにあるその友人の家に行った。そのまま友人の家に泊めてもらった。珍しい客がきているといって、近所の人たちが大勢、集まってきた。だが、マダガスカル人には日本人と同じような遠慮するところがあって、集まってきた人たちにおくゆかしさのようなものを感じた。

 翌日は夜明けとともに出発。昼前にはアンチラベに着いた。そこでラザフィンツァラマさんとラツィンバザフィさんの2人と別れたが、2人は「食事代にしなさい」といってお金を紙につつみ、ぼくのポケットにねじ込むのだ。最初は断ったが、2人の好意をありがたく受け取ることにした。ほんとうにありがとう!

 アンチラベからタナナリブまではかなり交通量が多いのにもかかわらず、なかなかヒッチハイクは成功しない。1時間ほど待ってやっとタナナリブまで行く車に乗せてもらった。タナナリブに着いたときは、ホッと救われるような気分。それにしても辛いマダガスカルのヒッチハイク第1弾だった。

マダガスカル南部の高原地帯
マダガスカル南部の高原地帯
マダガスカル南部の高原地帯
マダガスカル南部の高原地帯
マダガスカル南部の高原地帯
マダガスカル南部の高原地帯
キャッサバが栽培されている
キャッサバが栽培されている
薪を運ぶ人たち
薪を運ぶ人たち
薪を運ぶ人たち
薪を運ぶ人たち
車に轢かれた大蛇
車に轢かれた大蛇
高原地帯の水田
高原地帯の水田
道を行くコブ牛のセブ牛
道を行くコブ牛のセブ牛
道で出会った子供たち
道で出会った子供たち
マダガスカル中央部の高原地帯
マダガスカル中央部の高原地帯
首都タナナリブ郊外の水田
首都タナナリブ郊外の水田
タナナリブの郊外
タナナリブの郊外
タナナリブ
タナナリブ
タナナリブ
タナナリブ
タナナリブ
タナナリブ
タナナリブ
タナナリブ

クリスマスイブの夜

 タナナリブに戻ってきたのは1973年のクリスマスイブ。市場はこの前とはうってかわってクリスマス一色。七面鳥、あひる、にわとりが売られ、買い物客でごったがえしていた。タナナリブの市場はほんとうにおもしろい。にぎやかで大きく、飾ったところがまったくない。マダガスカル人の生活そのものという感じがよく出ている。ここではアジアの匂いをかげるし、南米の匂いもかげるし、もちろんアフリカの匂いもする。それはまさしくマダガスカル特有のもので、ほかの国では見られないものだった。

 市場めぐりをし、町を歩きまわったところで、タナナリブ駅に行った。マダガスカルのヒッチハイク2弾目、東部編の開始だ。東海岸の港町、タマタブまで行こうと思った。そこでタマタブ行きの列車でタナナリブ郊外のマンジャカンドリアナの町まで行き、そこからヒッチハイクを開始しようと思った。ところがタマタブ行きの列車は出発したばかりで、次の列車というと翌日まで待たなくてはならない。

「仕方ない、それではマジュンガに先に行こう」と決め、タナナリブの北西600キロのモザンビーク海峡に面したマジュンガの町に向かうことにした。駅近くの十字路からマジュンガに通じる道を歩いていく。日はとっぷりと暮れ、すでにタナナリブの町は夜のとばりにつつまれていた。どの家からも明かりがもれている。クリスマスソングも流れてくる。楽しそうな家族の団欒が伝わってくる。

「みんな、帰る家があるのに…」

 そう思うと、あてどもなくさまよい歩いている自分が無性に寂しく、やりきれなくなってくる。

 足が重かった。おまけに、またしても雨期のマダガスカルの洗礼を受ける。雨が降りだした。あっというまに土砂降りになり、あわててビルの軒下に駆け込み、雨宿りをする。小降りになったところで、あちこちに水溜まりのできた道を歩く。通りすぎていく車に水をはねあげられる。疲れた…。どこでもいいから体を横にしたかった。

 道のわきでタクシーの運転手がパンク修理していた。ところがこの運転手、ジャッキを持っていない。彼はウーンと唸り声をあげて車を持ち上げ、スペアのタイヤをはめ込もうとしているのだが、うまくいかない。見るに見かねて手を貸した。すると運転手はすごく喜び、タナナリブの町外れまで乗せていってくれるという。

 タクシーは夜のタナナリブの町を走り抜け、イバト国際空港への道との分岐点を過ぎ、しばらく走ったところで停まった。このあたりまでくると、もうほとんど町明かりは見られない。ぼくはタクシーの運転手にお礼をいって車を降り、マジュンガへの道を歩きはじめた。うれしいことに雨はやんでいた。

空港での賭

 夜道を歩きつづけ、道端に建てかけの家をみつけ、そこで寝た。キーンという鋭い金属音で目が覚める。近くのイバト国際空港から飛び立ったジェット機の音だった。そのときぼくはギュッと胸をつかまれるような思いがし、「(一刻も早く)ヨハネスバーグに飛びたい!」と、いたたまれない気持ちになった。

 マダガスカルでのヒッチハイクが難しいということもあったし、早くバイクに乗りたいという気持ちも多分にあった。ヨハネスバーグを拠点にしての「南部アフリカ一周」は、バイクでまわる予定にしていたからだ。

 タナナリブからヨハネスバーグへの便は南アフリカ航空とマダガスカル航空を合わせて週2便ある。ぼくは賭をする気になった。

「明日、イバト空港まで歩いていこう。もし、ヨハネスバーグへの便があって、もし席がとれたらヨハネスバーグに飛ぼう」
 と決めた。

 翌朝は夜明けとともに飛び起き、10キロほどの道のりを駆け足するようにして歩き、イバト空港に急いだ。空港に到着。すぐに出発便を見る。すると、あった。19時55分発のSA(南アフリカ航空)191便のヨハネスバーグ行きがあった。この便の席もとれた。この時点で北のマジュンガ行きと、東のタマタブ行きは諦めることにした。

 空港に着いたのは8時過ぎ。出発まで12時間近くもあるので時間をもてあました。空港というのは、あたりまえのことだが、町から離れたところにある。そのため町をプラプラ歩いて時間をつぶすということもできない。なんとも時間のつぶしにくいところが空港なのだ。

 とうとう我慢できずに、近くの小さな町まで歩いていった。その町では食堂をみつけ、中に入った。店の主人が東洋人なので、ちょっとびっくり。一瞬、日本人かと思ったほどだ。その店の主人はベトナム人。第2次大戦前にマダガスカルに渡り、マダガスカル人の女性と結婚し、そのまま住みついたという。

 ぼくはすこし贅沢をすることにした。マジュンガとタマタブに行くつもりにしていたので、まだ、けっこうなお金が残っている。数えてみると、3000マダガスカルフラン(約3600円)も残っていた。それを全部、使うことにした。出国時の空港税の1500マダガスカルフランを残し、残りの1500マダガスカルフランをその店で使うことにした。ベトナム料理を注文し、ビールを飲んだ。久しぶりのビールなので、キューッと五臓六腑にしみわたった。

 いい気分になってまた歩き、空港に戻った。目に入るもの、すべてがバラ色に見えた。こうして19時55分発のSA191便に乗り込んだ。飛行機がイバト国際空港を離陸するときは、「今度はバイクでマダガスカルを縦横無尽に駆けてやる!」と、心の中で叫ぶのだった。

30年目の「六大陸周遊記」[017]

アフリカ南部編 3 サン・デニ[レユニオン] → アンバラバオ[マダガスカル]

世界の大島、マダガスカル島

 ユランス領レユニオン島サン・デニのジロ国際空港から19時10分発のAF(エールフランス)496便でマダガスカルに飛んだ。飛行機は西日を追うようにして飛び、じきにマダガスカル島の長々とつづく海岸線が見えてくる。空から見たマダガスカルの第1印象は「島」ではなく「大陸」だ。飛行機でマラッカ海峡を越え、スマトラ島を見たときと同じように、マダガスカルの大きさは大陸を思わせるものだった。マダガスカルはグリーンランド、ニューギニア、ボルネオに次ぐ世界第4位の大島。面積は59万平方キロで、日本全土にさらに本州を足したぐらいの大きさになる。

 飛行機が首都のタナナリブのイバト国際空港に着陸したのは18時30分。一瞬、きつねにつままれたような気がした。というのはサン・デニのジロ国際空港を飛び立ったのが19時10分だったからだ。これは時差からくるもので、レユニオンとマダガスカルの間には2時間の時差があり、実際の飛行時間は1時間20分だった。

 空港の税関の検査は厳しかった。ぼくはザックひとつで見るからに貧乏旅行者風情なので簡単に済んだが、かわいそうなのは大きなトランクを持った人たち。トランクをひっかきまわされ、底の方まで徹底的に調べられていた。さらに厳しいのは外貨の申告。普通は申告用紙だけで済むのが、ここでは1人1人の持っている外貨を税関の係官が慎重に数えた。そして申告した数字と係官の数えた額が合わないと、目をむいて怒り、申告用紙の書き直しを命じていた。外貨の乏しいマダガスカル。懸命になって自国通貨の価値の維持に努めている姿をそこに見た。「絶対にブラックマーケット(闇レート)での両替は許さないぞ」という脅しの声が聞こえてくるようだった。

 やっと入国手続きが終わり、空港の外に出る。マダガスカルは期待を抱かせる国。「アフリカであってアフリカではない島」といったイメージがあったからだ。それだけに、マダガスカルの大地に降り立ち、自由に歩けてうれしさひとしおである。

 マダガスカルは人口830万人。首都はタナナリブ。南緯12度から26度と熱帯圏から温帯圏にまたがっている。東経43度から50度に位置している。南北1580キロ、東西580キロのずんぐりした形で、台湾を逆にした形に似ている。

 マダガスカル島を一周する道はない。幹線道路は首都タナナリブから放射状に延びているだけである。マダガスカル島はヒッチハイクでまわるつもりにしていた。地図を見て立てた計画では、最初はタナナリブから南のモザンビーク海峡に面したテュレアルへ。その間は970キロ。次はタナナリブから北のマジュンガへ。その間は608キロ。最後は東のタマタブへ。その間は356キロ。タマタブはマダガスカル最大の港だ。

レユニオン島を出発
レユニオン島を出発
マダガスカル島が見えてくる
マダガスカル島が見えてくる

20歳の女性、ウラリとの出会い

「さー、マダガスカルの旅の始まりだ!」

 空港からタナナリブの市内に向かって歩きはじめた。その途中、どこか適当なところで野宿しようと思った。ところが空港の敷地をまだ出ないうちに、信じられないことが起きた。旅していると、こういうこともあるのだ。

 タクシーが停まり、車内から若い女性が降りてきた。

「日本人ですか?」
 と、彼女は聞く。

 ぼくがそうだと答えると、一緒に乗っていきませんかというではないか。

 ありがたく乗せてもらった。

 彼女はウラリ。まだ少女のあどけなさを残す20歳のウラリには、どことなく東洋的な雰囲気が漂っていた。

「マダガスカル人はインドネシア人に似ているというけど、ほんとうにそうだな」

 マダガスカルに着いた早々、マダガスカルとインドネシアが似ていることを実感した。

 タクシーの運転手も女性で、ウラリのお母さん。タナナリブでは最初の女性のタクシードライバーだという。タナナリブ市内に入るとウラリはどこに行きたいのか聞いた。どこでもいいというと、ウラリは泊まるところがないのなら、「家に来ない?」という。

 その夜はウラリの家で泊めてもらった。

 夕食をご馳走になり、食後は彼女のお父さん、お母さん、弟をまじえて話した。とはいっても一家が話すのはマダガスカル語とフランス語で、ぼくはカタコトのフランス語。それでも、なんとなく分かり合った気になった。

 そのあとウラリの部屋でカタコトの日本語を教えた。彼女は日本語を少し話せる。日本人に教えてもらったのだという。彼女は日本に対して、日本人に対してすごくいい印象を持っていた。そのため、空港でぼくを見かけると、声をかけてくれたのだ。若い女の子らしいウラリの部屋で過ごした1時間ほどは、なんとも楽しひと時だった。

 翌朝は朝食のあと、お母さんのタクシーでタナナリブの中心街まで乗せてもらった。ウラリも一緒だった。ウラリとは握手をして別れたが、彼女の澄みきった目がいつまでも心に残った。見ず知らずの貧乏旅行者に、これほどまで親切にしてもらって、ウラリの一家にはお礼の言葉もないほどだった。

山間の水田地帯を行く

 タナナリブの町を歩き、市場を歩く。にぎやかな市場は露店でぎっしり埋まっている。大きな白い傘の下では、野菜類や果物が売られている。帽子をかぶり、白い布を肩からかけている人を多く見る。南米のインディオの市場を連想させた。市場の食堂で昼食。ここではご飯が食べられる。昼食のご飯を食べながら、またしてもアジアに戻ってきたような錯覚にとらわれた。

 タナナリブからは列車で70キロ南のアンバトランピーまで行った。そこからヒッチハイクをはじめるつもりだ。アンバトランピーに着いたのは夜になってからで、町の広場で寝た。だが夜中に雨…。眠い目をこすりながら屋根を探す。物置らしきものをみつけ、その中にもぐり込んで寝た。

 翌朝はアンバトランピーから南に向かって歩く。風景は山がちになり、谷間には水田が多く見られた。山の斜面も耕され、棚田になっていた。すでに雨期が始まり、あちこちで村人総出での田植えが見られた。そんな光景はどう見てもアジアで、アフリカではなかった。マダガスカル中央部の高原地帯の主食は米で、農民の8割近くが米作専業というのだから驚かされてしまう。

 タナナリブの空港に降りたってからというもの、ぼくはたえず「マダガスカルはなんてインドネシアに似ているのだろう」と感じつづけてきた。マダガスカル島は標高1000メートル前後の平坦な中央部の高原地帯と、幅の狭い平野が南北に延びる東部の海岸地帯、それと幅の広い平野が南北に延びる西部の海岸地帯と3つの地域に分けられる。これら3地域のうち、中央部の高原地帯はアジア的な色彩のきわめて強いところだった。

 マダガスカル人の起源ははっきりしていないが、起源前3000年にはすでにこの地に住んでいたという。マダガスカルと東南アジアの類似点は多く、マダガスカル語はマレー語と同じ系統の言葉だといわれている。マダガスカルへの最初の移住者はインドネシアのスマトラ島やジャワ島の住民だともいわれている。赤道反流の流れに乗って、冬の季節風を利用してインド洋を渡ったのではないかというのだ。

 想像を絶した民族の大移動。彼らはどうして何千キロも離れたマダガスカル島の存在を知っていたのだろうか。イカダを組んで渡ったのか、それともくり舟に帆をつけて渡ったのか。それはともかく、すばらしい能力を持った海洋民族であったことだけは間違いない。

首都タナナリブの市場
首都タナナリブの市場
首都タナナリブの市場
首都タナナリブの市場
タナナリブの駅前
タナナリブの駅前
タナナリブ駅で
タナナリブ駅で
タナナリブ駅で
タナナリブ駅で
タナナリブ郊外の車窓の風景
タナナリブ郊外の車窓の風景
マダガスカル中央部の高原地帯
マダガスカル中央部の高原地帯
マダガスカル中央部の高原地帯
マダガスカル中央部の高原地帯
フィアナランツォアまで147キロ
フィアナランツォアまで147キロ
田植え風景
田植え風景
田植え風景
田植え風景
日干しレンガの製造所
日干しレンガの製造所
日干しレンガの製造所
日干しレンガの製造所
道で出会った一家
道で出会った一家
道で出会った一家
道で出会った一家

若いフランス人カップル

 マダガスカル島でのヒッチハイクは楽ではなかった。交通量は少ないし、おまけに通る車はほとんどが乗合いタクシーや小型バス。たまに自家用車が停まっても、お金を要求される。それでもアンバトランピーから3台の車に乗せてもらい、100キロ南のアンチラベに着いた。タナナリブからの鉄道はここまで通じている。アンチラベでも市場を歩いたが、タナナリブと同じような大きな市場だった。

 アンチラベからさらに南へ。アンボシトラに向かって歩く。なかなか車に乗せてもらえないので、歩く時間が長くなる。ゆるやかに起伏する高原の風景。やっとの思いでアンボシトラに到着。そこからはフランス人の若いカップルのシトローエンに乗せてもらった。超オンボロの車。車のあちこちからガタガタ、不気味な音が聞こえてくる。ドアも外れそうになるので、手でおさえていなくてはならなかった。

 彼らはフランス政府から派遣されたフランス版平和部隊「コープ」のメンバー。日本でいえば青年海外協力隊だ。男性は空軍の軍人で学校でフランス語を教え、女性は学生たちに保健、衛生を教えているという。2人はクリスマス休暇で北のマジュンガからここまで800キロを走ってきた。途中では何度も車の修理をしたとのことで、さらに150キロ南のフィアナランツォアまで行くところだった。

 フィアナランツォアに着いたときは夜になっていた。この町には彼らの友人がいて、我々3人はそこで泊めてもらった。夕食をいただいたあと、4人で夜の町をブラブラ歩いた。

フランス人のオンボロ車に乗せてもらう
フランス人のオンボロ車に乗せてもらう

ついにヒッチ断念…

 翌朝、フランス人平和部隊のみなさんに別れを告げ、さらに南へと歩く。いやな天気でどんよりとした雲がたれこめている。そのうちに雨が降りだした。フィアナランツォアを過ぎると、さらに交通量は減り、ヒッチハイクはいよいよ難しいものになる。昼すぎになってもまだ車に乗せてもらえずに歩きつづけた。

 小さな村に着くとバナナを買って食べ、空腹をしのぎ、しばらく雨宿りさせてもらった。すこし元気が出たところで、雨の中をふたたび歩く。フィアナランツォアから20キロほど歩いただろうか、やっと車に乗せてもらえた。その車は50キロほど南のアンバラバオまで行く車だった。

 アンバラバオに着いたときはグッタリしていた。

 疲れと、雨に濡れたせいなのだろうか、体がだるくて仕方ない。雨は激しさを増し、町の大通りには水があふれていた。食堂で粥を食べ、近くの教会に行く。

「泊めて下さい」
 と頼むと、屋根裏部屋を貸してくれた。ありがたい。どうしようもなく眠いのに、なかなか寝つけない。熱があった。おまけにノミにやられ、体中をボリボリとかきむしった。辛い夜だった。

 翌日は最悪。熱のために足がふらつき、頭がガンガン痛む。アンバラバオを過ぎると、交通量が少ないなどというものではなく、ほとんど通る車もなくなった。アップダウンの激しい丘陵地帯の道を南に歩いていく。

 朝のうちこそ雨は上がっていたが、昼に近づくと、灰色の空からは無情にも雨粒が落ちてくる。雨足はあっというまに激しくなり、やがてバケツをひっくりかえしたような土砂降りになる。道端の木の下で体を縮め、雨宿り。もう、絶望的な気分だ。

「どんなことをしても、モザンビーク海峡に面したテュレアルまでは行くんだ」
 という張りつめた気持ちは薄れ、マダガスカルでのヒッチは無理だ…と弱気になった。

 夕方、アンバラバオに向かう乗合いタクシーが通った。ぼくは無意識のうちのそのタクシーを止めていた。タクシーに乗り込むと、苦労して歩いてきた道をあっというまに走り過ぎ、1時間もかからずにアンバラバオに着いた。そして「タナナリブに戻ろう」と決めた。

 残念だが仕方ない。交通費にも宿泊費にも金を使わず、ギリギリの所持金で世界を旅しようとしている自分の限界を思い知らされた。

「乾期だったらなあ」

 雨期のヒッチハイクはきつい。

 マダガスカルの中央高地は11月から4月までが雨期で、1年の大半の雨はこの期間に降る。

 アンバラバオに戻ると、市場のわきにある飯屋で粥を食べる。前の晩にも来ているので店のおばちゃんとは顔なじみ。粥を3杯食べ、さらに店のおばちゃんの笑顔を見ると、気分がスーッと楽になった。昨夜の教会で泊めてもらい、翌日はタナナリブを目指した。