30年目の「六大陸周遊記」[058]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 7 カメルーン国境[ガボン] → ヤウンデ[カメルーン]

カメルーンに入る!

 ガボンとカメルーンの国境はンテム川という、大西洋に流れ出る川。密林の中をゆったりと、ゆうゆうと流れている。熱帯雨林地帯特有の水量の多い、川幅いっぱいに流れる川だった。

 夕方、ガボン側からその日、最後のフェリーで対岸のカメルーンに渡った。そこではパスポートなどのチェックはない。10キロほど行ったアンバンに、国境事務所があるという。

 夕暮れの密林の道を歩く。

 アンバンまでは歩こうと思っていたが、日が暮れると、あっというまに漆黒の夜になってしまった。怖い…。あいにくの曇り空で、道が見えないのだ。晴れていれば、月はなくても、星明かりですこしは見えるのだが…。そのうちに闇の中からギュッと太い手が伸びてつかまれるような錯覚にとらわれたり、グシャッと巨大な足で踏みつぶされるような錯覚にとらわれるようになる。

 手のひらにはべっとりと汗がにじみ出ている。痛いくらいに、ギューッと手を握りしめているからだ。

 密林がこのまま際限なくつづくのではないか、このまま闇の世界から一生、逃れられないのではないかといった恐怖感に襲われる。

 そんなときに、集落の明かりが見えてきた。

「助かった!」

 人がいるということで、どれだけほっとした気分になったことか。

 アンバンまでは夜通し歩き通すつもりでいたが、気が変り、その村でひと晩、泊めてもらった。

 翌朝、村人たちに見送られて出発。アンバンまで歩く。

 アンバンは小さな町だが、この町で入国手続きをする。アンバンは2つの国、ガボンと赤道ギニアに近い。

首都のヤウンデへ

 国境から首都ヤウンデまでは300キロほど。

 その間のヒッチハイクは楽だった。エアボロを通って、夕方にはヤウンデに着くことができた。

 エアボロの町外れからヤウンデまで乗せてくれたのは、ハミドゥーさん。ヤウンデに着くと、彼の家に泊めてもらった。ナイジェリアのビザをヤウンデでとらなくてはならなかったが、ナイジェリア大使館に申請し、発給してもらうまでの4日間、ハミドゥーさんの家で泊めてもらったのだ。

 ハミドゥーさんはその間、ヤウンデの北30キロほどの、オバラという町に連れていってくれた。オバラまでは舗装道路だったが、その途中で、前の日に起きた交通事故の現場を通った。

 思わず目をそむけたくなるような惨状。バスとトラックが衝突したのだが、バスの乗客12人が死亡したという。

 カメルーンの長距離バスはマイクロバスを使っているが、トラックと正面衝突したそのバスはグチャグチャになり、まったく原型をとどめいなかった。ガラスの破片が一面に飛び散り、路面にはおびただしい血液の跡がそのまま残されていた。

 アフリカではカメルーンに限らず、すこし道のいいところだと、このような重大事故をよく見かける。運転手は車の性能いっぱいの速度で走るからだ。

カメルーンの首都ヤワンデの中心街
カメルーンの首都ヤワンデの中心街

30年目の「六大陸周遊記」[057]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 6 ドジル[コンゴ] → カメルーン国境[ガボン]

ランバレネへ

 コンゴからガボンに入ると、南部ガボンの中心地ンデンデに向かった。国境からは税関のランドローバーに乗せてもらった。

 国境から100キロほどのンデンデに着くと、さらにムイラへ。ガボンでのヒッチハイクは楽だ。交通量は少ないが、車が来るとたいてい乗せてくれた。ムイラはガボン最大の河川オグエ川の支流、ングニエ川を渡ったところにある。

 ムイラからはランバレネまで行くトラックに乗せてもらえた。フガモを過ぎると、密林地帯に入っていく。夕方、トラックは故障し、密林の中で止まってしまった。ランバレネまであと20キロほどの地点。

 トラックが止まると、まるで空気にふれてそうなるかのように、肌が出ているところが無性にかゆくなる。小さな、ほんとうに小さな虫が肌にまとわりついてくるのだ。日暮れの頃が一番ひどく、夜遅くなってくると、それほどやられない。

 トラックの故障は直らず、ひと晩、荷台で寝た。トラックの荷台には、ぼくのほかにもう4人、乗客が乗っていた。夜が明けるやいなや、全員でランバレネに向かって歩き出す。トラックの故障はそう簡単には直らないとみたからだ。

シュバイツアー病院

 コンゴとの国境から370キロ、昼前にオグエ川の岸辺に着く。水量の豊かな川だ。密林地帯を滔々と流れている。ランバレネの町はそのオグエ川の中島にある。フェリーボートでランバレネに渡った。

 ランバレネ。シュバイツアー病院の所在地として、世界中にその名をとどろかせている。さっそくランバレネの町を歩きまわり、シュバイツアー病院はどこかと聞いてまわった。すると町中ではなく、オグエ川の対岸にあるという。

 島の北側まで歩き、そこからカヌーで病院に渡った。25フラン(約30円)取られた。病院前の岸辺には、タクシーがわりとなるカヌーが何艘も並んでいた。

「密林の聖者」といわれたシュバイツアーはフランス人。1875年生まれ。1913年にキリスト教の布教で旧フランス領赤道アフリカのガボンにやってきた。ランバレネでの医療活動に生涯をかけ、1952年にはノーベル平和賞を受賞。1965年にこの地で死んだ。ぼくはシュバイツアーの死後10年ほどでランバレネにやってきたことになる。

 シュバイツアー病院に入っていく。ヤシの木陰に何棟かの病棟が建っている。一見すると粗末なバラック風。

「えー、これがあのシュバイツアー病院!?」

 ちょっと驚きだった。もっと大きな、近代的な病院を想像していたからだ。オグエ川には大きな橋が建設中で、巨大な鉄パイプが川中に次々に打ち込まれていた。古いアフリカと日一日と変わっていく新しいアフリカの対比を見る思いがした。シュバイツアー病院はそんな古いアフリカの象徴のようだった。

 シュバイツアー病院からふたたびカヌーでランバレネに戻ると町を歩いた。といっても、ちょっと歩けば町の端から端まで歩けてしまうようなランバレネの町だった。

ランバレネを流れるオグエ川
ランバレネを流れるオグエ川
岸辺では子供が魚を釣っている
岸辺では子供が魚を釣っている
オグエ川にかかる橋を建設中
オグエ川にかかる橋を建設中
対岸にシュバイツアー病院を見る
対岸にシュバイツアー病院を見る
これがシュバイツアー病院
これがシュバイツアー病院
シュバイツアー病院近くの岸辺
シュバイツアー病院近くの岸辺

これがアフリカ最後の赤道…

 ランバレネからカメルーン国境に向かう。フェリーで対岸に渡ると、あとはひたすら歩いた。10キロほど歩いたところで、乗り合いのタクシーが止まってくれた。何と60キロ先のビフォンまでタダで乗せてもらった。

 ビフォンで道は大きく2本に分かれる。左に曲がっていく道は大西洋岸の首都リーブルビルに通じている。北に直進する道はカメルーン国境へと通じている。

 ビフォンから北へ。夕方、ンジョレに着いた。オグエ川の河畔の町だ。

 町中のキリスト教の教会で泊めてもらった。神父さんにはよくしてもらい、一緒にビールを飲み、夕食をご馳走になった。

 翌日は赤道を通過。これがアフリカでは最後の赤道になる。ケニアの赤道、ウガンダの赤道、ザイールの赤道と、アフリカの各地で越えた赤道のシーンを思い返した。

「コンニチワ!」

 赤道を越え、大密林地帯の中の道を歩く。時々、鉄道の建設現場を見るが、これは首都のリーブルビルの外港、オゥエンド港と内陸を結ぶ鉄道だ。ンジョレの先、ブーエで2本に分かれ、1本は北東のベリンガへ、もう1本は南東のフランスビルに通じる予定なのだという。ともにコンゴ国境に近い町。1980年頃の開通を目指している。

 大密林地帯の道を疾走する原木運搬用の大型トラックに乗せてもらい、アレンベという村に着いた。食堂に入ると、
「コンニチワ!」
 と日本語で挨拶された。トーゴ人のジョゼフ。

 彼はガーナの日系企業で働いたことがあるのでカタコトの日本語を話した。30代前半のジョゼフは鉄道建設の技術者としてガボンに来たそうだ。彼とはしばらく話したが、食堂の女将に米と魚の缶詰を手渡すと、「これで料理して、あの日本人に食べさせてほしい」といって仕事に戻っていった。しばらく食堂で待ったが、ジョゼフのおかげでうまい飯をたらふく食べることができた。

原木を積んだトラックが走り過ぎていく
原木を積んだトラックが走り過ぎていく

赤道ギニアのリオムニ

 ガボンの密林地帯はとてつもなく広く大きい。行けども行けども深い森がつづく。大木が空を突き、密林内は「昼なお暗い」世界になっている。密林内の道を土煙を巻き上げて原木を運搬する大型トラックが走り過ぎて行く。そんな原木運搬用の大型トラックもラララ(LALARA)を過ぎると、パタッと姿を消した。その先は交通量はグッと減り、道も悪くなった。苦しいヒッチハイクになり、歩く距離が長くなった。

 ミジックを過ぎると道幅が狭くなり、密林の大木が覆いかぶさってくる。その中を歩きに歩いた。

 この一帯は赤道ギニアとの国境に近い。旧スペイン領のリオムニだ。1968年にスペインから独立した赤道ギニアは大陸側のリオムニとギニア湾最奥のビオコ島(旧フェルナンドポー島)から成っている。首都はビオコ島のマラボ(旧サンタイサベル)。国境一帯の村々ではカタコトのスペイン語を話す人が多かった。残念ながら赤道ギニアはキンシャサでもブラザビルでもビザを取ることができず、諦めなくてはならなかった。

「六大陸周遊」ではそれまでの2度の旅と合わせ、アフリカ大陸内のすべての国に入るつもりでいたのだが、これでパスした国はボツワナにつづいて赤道ギニアが2国目…。

もう満身創痍…

 赤道ギニアとの国境近くの村でひと晩、泊めてもらった。

 翌朝は日の出前から歩きはじめる。なにしろ交通量がほとんどないので、徹底的に歩くしかなかった。

 何ともラッキーなことに、歩きだしてまもなく、オイエムの町まで行く車に乗せてもらえた。まさに「早起きは三文の得」。車を運転しているのはナイジェリアのハウサ族の商人だ。ハウサ族はナイジェリア北部に住む民族。商才のあるハウサはナイジェリアのみならず、周辺のサハラ砂漠のオアシスや密林地帯の村々まで、広範囲なエリアで商売をしている。そのためハウサ語というのは西アフリカから赤道アフリカにかけての広い範囲で通用する言葉になっている。

 赤道直下とはいえ、早朝の密林内の空気は冷え冷えしている。窓から入ってくる風は寒さを感じるくらいだった。

 オイエムも赤道ギニアの国境に近い町。ここから西に行く道はリオムニの中心地バータに通じている。

 ハウサ商人と別れると、オイエムから北へ、カメルーン国境に通じる道を歩いていく。オイエムから次の町ビタムまでは75キロ。オイエムには午前中に着いたので、ビタムまでは楽に行けると思った。しかし、通る車はほとんどなく、さらに歩きに歩いた。ヒッチハイクは苦しい。とうとうビタムに着けないまま、途中の村で泊めてもらった。

 その夜は辛かった。朝の寒さにやられたのか体は熱っぽい。ガタガタと震えがくるほど。おまけに虫刺されがひどく、かきむしった跡はすでに何ヵ所も膿んでいる。ザイールの密林地帯でトラックから落ちたときの痛みも依然として強く残っている。もう満身創痍…。

カメルーン国境へ

 翌朝、村人たちのお礼をいって別れ、カメルーン国境に向かって歩いていく。国境近くのビタムに到着。ここでガボンの出国手続きをする。国境まではあと15キロ。車はまったくといっていいくらいに通らない。懸命に歩く。熱っぽさはとれず、鉛のように重い体をひきずって歩きつづけた。

 夕方、ついにカメルーンとの国境のンテム川の岸辺にたどり着いた。密林の中を悠々と流れる川だった。

30年目の「六大陸周遊記」[056]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 5 キンシャサ[ザイール] → ドジル[コンゴ]

ブラザビルへ!

 ザイールの港町マタディから首都のキンシャサに戻ると、すぐに外務省内のCNDに行く。するとうれしいことに、ブラザビルに渡るための許可証は出ていた。それを持って、さっそくコンゴ大使館に行く。すでに顔なじみになっている一等書記官は、その場でビザを発行してくれた。これでザイール川の対岸のブラザビルに渡れるのだ。

 キンシャサ港のフェリー乗り場に行く。米や粉ミルク、雑貨などの商品をかかえたおばさんたちの姿が目につく。国境を越えての行商だ。

 ザイールの出国手続きを済ませ、フェリーに乗り込む。フェリーはじきに動き出す。ザイール川がグッと川幅を広げ、まるで大湖のように見えるスタンレープールをブラザビルへと渡っていく。

 ブラザビル港に到着。コンゴの入国手続きを終え、町を歩く。ブラザビルは人口30万人のこじんまりとした町。キンシャサとは規模が違う。

日本人の教会?

 ブラザビルでは信じられないような体験をした。ブラザビルの中心街から大西洋の港町ポアント・ノアールに通じる街道を歩いている途中で夜になった。満月の夜だった。町外れのガソリンスタンドのすみにでも寝かせてもらおうと考えながら歩いていると、高校生に話しかけられた。彼といろいろな話をしながら歩いたのだが、突然、「この近くに日本人の教会がある」という。最初は信じられなかった。高校生はフランス語は自由自在に話せるが、英語はそれほど得意ではない。我々は英語を主にし、フランス語を混ぜて話していたが、高校生のいい間違いではないかと、聞きなおした。だが、彼は間違いなく日本人の教会だという。

「あれがそうだ」
 と、彼が指差す方向を見ると、なるほど日本風の神社を思わせるような建物が月明かりに浮かび上がっていた。

ブラザビルの天理教

 高校生に手を引っ張られるままに、その建物に入っていった。すると彼のいった通りで、そこは日本の天理教のブラザビル教会だった。突然の訪問にもかかわらず、教会長の高井さんをはじめ、日本人のみなさんには大歓迎された。

 それにしてもすごいのは、いかにも日本的な天理教がアフリカ大陸の、それも日本から遠く離れたコンゴに進出していることだった。ザイール川をはさんだ対岸のザイールは「資源大国」なので、相当数の日本人が滞在している。だがコンゴには天理教のみなさんを除いたら、日本人は一人もいない。そのような地で布教活動をしている。

 その夜は日本式の風呂に入り、日本食の夕食をいただいた。食後は夜、遅くまで高井さんたちと話した。みなさんの話によると、北米や中南米にも、かなりの数の天理教信者がいるという。

恐怖の悪路を行く

 翌日は天理教のみなさんにお礼をいって出発。次の国、ガボンへ。いつものようにヒッチハイクするつもりでいた。ところが井口さんという方が途中まで車で送ってくれるという。80キロ先のキンカラまでは舗装路だったが、その先はひどい道。砂が深く、急な坂道では登れずに車の後ろを押した。これが首都ブラザビルと港町ポアント・ノアールを結ぶコンゴでは一番の幹線道路なのである。まさか、これほどの悪路だとは思ってもみなかった。まさに「恐怖の悪路」だ。

 井口さんには「もういいですから」と何度もいったのだが、「行けるところまで行きましょう!」とのことで、そのまま乗せてもらった。

 ブラザビルから西に150キロのミンドゥリに到着。その途中では1度、パンクした。

 ミンドゥリを過ぎると、砂は少なくなったが、そのかわりデコボコが激しくなる。トラックが泥の中にめり込んだ跡が生々しく残っている。乾期だからいいようなものの、これが雨期だったら乗用車ではまず通れない。

 この道で2度目のパンク。つづいて3度目のパンク。そこはミンドゥリから20キロほどの小さな村だった。もう予備のタイヤはない。幸いミンドゥリまで行く小型トラックが通りがかり、井口さんのコンゴ人の助手はパンクしたタイヤを持って、ミンドゥリに戻っていった。

 コンゴ人の助手がミンドゥリに向かっていったのは昼の12時過ぎ。だが、助手はいくら待っても戻ってこない。とうとう日が暮れてしまう。我々はどうすることもできず、車の中で寝た。助手が戻ってきたのは真夜中。車に乗れず、ブラザビルとポアント・ノアールを結ぶ列車に乗り、近くの駅から歩いてきたという。

 さっそく懐中電灯で照らしながらタイヤをとりつけ、助手が降りたという駅まで行く。駅前にシートを広げ、井口さん、助手と一緒にビールをくみかわした。明るい月夜だった。満月に近い大きな月を見上げながら飲むビールの味は格別だ。ヤシの葉が夜風にざわついている。ひとしきりビールを飲んだところで、シートの上で3人が川の字になって眠った。

首都ブラザビルから大西洋の港町ポアント・ノアールへの道
首都ブラザビルから大西洋の港町ポアント・ノアールへの道
ブラザビルとポアント・ノアールを結ぶ鉄路を渡る
ブラザビルとポアント・ノアールを結ぶ鉄路を渡る

車はまったく通らない…

 井口さんは何度も「もっと先まで乗せていってあげよう」といってくれたが、もうこれ以上、迷惑はかけられない。

「ほんとうに大丈夫です。ここからはヒッチハイクで行きます」
 といって、翌朝、鉄道の駅前で井口さん、助手と別れた。

 井口さんにとっては、1時間に車が1台通るかどうかといったようなこんな道で、ヒッチハイクなどできるはずがないと思ったのに違いない。

 山がちの風景の中を歩いた。車は1時間に1台どころか、まったくといっていいくらいに通らない。乾期のサバンナ、乾燥した風景がつづいた。

 半日以上、歩いた。やっと午後になって車が来た。なんともラッキーなことに、その車に乗せてもらった。ブラザビルの西400キロのドジルまで行く車だった。

 マディングの手前で道は大分よくなり、サトウキビ栽培の中心地ジャコブを通り、夕方、ドジルに着いた。

 ドジルで道は2本に分かれる。1本は西の大西洋の港町ポアント・ノアールに通じる道、もう1本は北のガボン国境に通じる道だ。

コンゴからガボンへ

 ドジルからはガボンに通じる道を歩いていく。真っ赤な夕日が山の端に落ちていく。すっかり暗くなったころ、街道沿いの集落にたどり着き、そこで泊めてもらった。夕食をご馳走になり、そのあとは焚き火を囲みながらヤシ酒を飲ませてもらった。

 ガボン国境への道は悪くはない。路面はけっこう整備されている。原木を積むシャシだけの大型トラックがひんぱんに通ったが、それにはよく乗せてもらった。

 街道沿いには点々と集落があり、夜になると、ふらりと集落内に転がり込み、泊めてもらった。身振り手振りと現地語のカタコト語で村人たちと話したが、とくにコミュニケーションで不自由することはなかった。

 ガボン国境までのヒッチハイクは楽だった。車が来れば、たいてい乗せてくれたのだ。ドジルから200キロほどで国境に到着。コンゴ側の出国手続きも、ガボン側の入国手続きも簡単に終わり、熱帯雨林の国、ガボンに入った。

ガボン国境周辺の丘陵地帯
ガボン国境周辺の丘陵地帯

30年目の「六大陸周遊記」[055]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 4 キサンガニ[ザイール] → キンシャサ[ザイール]

ザイール川の船に乗る

 ザイール東部の中心地キサンガニに着くと、トラックの運転手モネバさんに「ここからどこに行くの?」と聞かれた。ザイール川の船で首都のキンシャサに向かうつもりにしていたので、それをいうと、「今日がその日だ!」というなりモネバさんはトラックの速度を上げてキサンガニの町中を走り抜け、船着き場まで連れていってくれる。

 ザイール川の河港に着くと、船はいまにも出るところだった。すでにゲートは閉められ、警備している警官は通してくれない。

「待ってくれ!」

 モネバさんや助手たちが船に向かって大声で叫んでくれる。そのおかげで警官はゲートをあけてくれ、船に乗ることができた。金網の向こうではモネバさんや助手たちが大きく手を振ってくれている。乗船券は船内で買った。

 キサンガニには何日か滞在し、船を待つつもりにしていたので、まったく待たずに船に乗れるとは夢にも思わなかった。

ザイール川の船旅

 キンシャサ行きの船は動き出す。広々としたザイール川。アマゾン川に次ぐ世界第2位の大河にふさわしい悠々とした流れだ。ザイール川の両岸はもっとうっそうと茂る大密林地帯かと思っていたが、意外と開け、人家が多かった。ひっきりなしに魚などを積んだカヌーがやってくる。

 船は3等だったが、ちゃんと部屋(4人用)があり、食事もついている。

「コスティ→ジュバ」の白ナイルや「バンギ→ブラザビル」のウバンギ川と同じような船旅を想像していたので、あまりの待遇の良さに驚いた。

 船内のバーからは陽気な音楽が流れてくる。それにつられ、昼間からビールを飲みながら踊っている人たちがいる。

キサンガニの港を離れていく
キサンガニの港を離れていく
ザイール川の船旅がはじまる
ザイール川の船旅がはじまる
乗客がカヌーに乗ってやってくる
乗客がカヌーに乗ってやってくる
キンシャサ行きの船
キンシャサ行きの船
キサンガニ行きの船とすれ違う
キサンガニ行きの船とすれ違う
ザイール川を行き来するカヌー
ザイール川を行き来するカヌー

「痛いよ…」

 この「キサンガニ→キンシャサ」の船旅は何とも辛いものになった。ブニアからキサンガニに行く途中、トラックの一番てっぺんから足を滑らせて落ちたが、そのときの痛みがひどいのだ。幸い、顔と足の痛みは薄らいだ。だが、肩と胸の痛みはかえって激しくなっている。もう激痛だ。夜が大変。すこしでも寝返りを打つと、ズキーンと強烈な痛みが脳天を突き破り、飛び起きてしまうのだ。

 さらに密林内でブヨにやられたところも、あまりのかゆさにかきむしっているうちに膿み、何ヵ所も腫れ上がっている。赤チンをつけ、ガーゼで押さえる。それを毎日、やらなくてはならない。うっとうしいことこの上もなかった。

キンシャサに到着

 キサンガニを出たあと、ブンバ、リサラと大きな町を通り、赤道上の町ンバンダカへ。ザイール川の川幅はとてつもなく広い。川の中には島がゴロゴロしているので、大きな支流が流れ込んできてもわからない。

 ンバンダカを過ぎると、北半球から南半球に入り、やがてザイール川の両岸にはなだらかな山々が迫ってくる。大ザイール盆地を抜け出たのだ。ザイール川最大の支流カサイ川が合流。船はキサンガニを出てから6日目、キンシャサに到着した。

 キンシャサ港の岸壁にはクレーンが林立している。道路も鉄道も不備なザイールにとって、ザイール川の本流とその支流の水運はきわめて重要。キンシャサ港はまさにその中心なのだ。

 ザイール最大の貿易港はザイール川下流のマタディ港。キンシャサとマタディの間のザイール川は渓谷を流れる急流となり、船舶は航行できない。そのためマタディ港に輸入された物資は鉄道またはトラックでキンシャサまで運ばれ、キンシャサ港からふたたび船で内陸各地の港へ、そこから悪路、トラックで運ばれていく。

コンゴのビザ

 ザイール川の船を下りる。キンシャサ港を出、町中へ。目抜き通りを走るタクシーは大半が日本車。まずは腹ごしらえだ。露店でチャイを飲みながら揚げパンを食べ、そのあと食堂でキャッサバ&魚汁の食事をした。

 キンシャサからはザイール川の対岸、コンゴの首都ブラザビルに渡るつもりにしていたので、ビザを取ろうとコンゴの大使館に行く。ザイールでコンゴのビザを取るのはきわめて難しいと聞いていたので覚悟はしていた。

 コンゴ大使館ではザイールの外務省からのブラザビルに渡ってもよいという許可証、それと日本大使館からの書類が必要だといわれた。まずは日本大使館に行く。その場で書類をタイプしてもらったが、書記官には「旅行者がキンシャサからブラザビルに渡るのはほとんど不可能」といわれた…。次にザイールの外務省内の「CND」へ。そこでブラザビルに渡るための許可証を出してくれるという。パスポートを渡し、書類を書き込むと、予想に反して、「明日の午後3時に来るように」といわれた。

「なんだ、おい。キンシャサからブラザビルに渡るのなんて、簡単ではないか」

 難関を突破し、心をうきうきさせてキンシャサの町を歩いた。

キンシャサの中心街
キンシャサの中心街

「明日、来い」

 翌日、午前中はキンシャサの町を歩き、午後3時、CNDに行った。さんざん待たされ、そのあげくにまた「明日の午後3時に来るように」といわれた。仕方ない。夕暮れの町を歩き、ザイール川沿いで野宿した。翌々日、午後3時にCNDに行くと、またしても「明日、来い」なのである。

 いいかげん、頭に来たが、その翌日、午後3時にふたたびCNDに行く。すると「月曜日の朝に来なさい」といわれた。もう我慢できずにCNDの最高責任者の部屋に押しかけ、直訴した。

「明日来い、明日来い…で、今日になったら月曜日に来いといわれたんですよ。ひどすぎます。なんとかしてください」

 でっぷりと太ったCNDの最高責任者は「うんうん」と聞いてくれ、そして「月曜日の朝には必ず許可証は出る」という。もうその言葉を信じるしかなかった。

なつかしい!

 毎日毎日、キンシャサの町を歩いたので、月曜日までキンシャサにいたくはなかった。そこでザイール川の港町マタディまでヒッチハイクで行くことにした。マタディまでは350キロほどだ。

 キンシャサの町外れまで歩いたところで、ンバンザ・ングング(旧テイスビル)まで行く車に乗せてもらった。その途中でインキシ・キサントゥのアンゴラに通じる道との分岐点を過ぎる。なつかしい!

「アフリカ一周」(1968年〜69年)のときには、ここからまさに決死の覚悟で、アンゴラに向かっていったのだ。

思い出の「決死の国境越え」(その1)

 1969年9月16日、今回とは逆のコースで、ブラザビルからフェリーでキンシャサに渡った。キンシャサからはアンゴラに向かい、南アフリカのケープタウンまで行くつもりにしていた。しかし、最大の難関は陸路でアンゴラに入ること。それはほとんど不可能なことだといわれていた。

 スズキTC250を走らせ、キンシャサからアンゴラ国境に向かうぼくの心臓は極度の緊張で高鳴った。インキシ・キサントゥでマタディに通じる舗装路からアンゴラのマケラドゾンボに通じるガタガタ道に入っていく。山がちの風景に変わる。日差しが強かった。夕方、ンギディンガという村に着いた。国境まで20キロほど。ンギディンガの村を通り過ぎようとしたとき、若い警官に止められた。そしてその先のマレレという村まで連れていかれた。

 若い警官はマレレの警察署長。署内で持ち物、すべてを調べられた。そのあと若い署長にいわれた。ザイール側の国境の村キゼンガからアンゴラ側の国境の村バンザソソーまでの8キロ間には地雷が埋設されているので、その間の通行はまったく不可能だという。

 ぼくは彼にどうしてもアンゴラに入りたい、もしアンゴラに入れないと、これから先、にっちもさっちもいかなくなってしまうと訴えた。すると彼は
「なんとかしてあげよう」といってくれたのだ。

「明日、テイスビルに一緒に行こう。そこのオーソリティーで特別な許可を出してくれるかもしれない」

 その夜、署長は村のバーに連れていってくれた。土の壁が赤と白に塗り分けられ、中にはテーブルが2つ3つあるだけのバー。ザイール製のビールを飲みながら、我々はおおいに語り合った。ザイールのこと、日本のこと、世界のこと。いたるところでくりひろげられている戦いの悲惨さ、無意味さ。

 署長とはぐてんぐてんになるまで飲みつづけた。ふらつく足でバーを出、月明かりに照らされた村の中を歩き、署長の家に行く。まだ少女のようなあどけなさの残る奥さんが夕食をつくって待ってくれていた。その晩は彼の家で泊めてもらった。

 翌日、朝食をごちそうになったあと、署長の乗るトラックについて走り、テイスビルの町に向かった。その途中でぼくは思いもよらない幸運をつかむことができた。偶然にもこの地方の知事に出会ったのだ。彼は新しくこの地方にやってきた人で、各地を視察している最中だった。

 署長からぼくの話の一部始終を聞くと、知事は「キミの望むコースは無理だが、マタディからならアンゴラに入れるかもしれない」といって、手紙を書き、「これを国境で見せなさい」といった。そこでぼくは署長と別れ、知事にお礼をいってマタディに向かったのだ。マタディの町中から4キロほど行くと、アンゴラとの国境だ。ザイール側の国境事務所に行き、「アンゴラに行きたいのですが」というと、国境の役人は何をいってるんだといった態度だった。そこで知事にもらった手紙を見せると、役人の態度は一変し、次々と電話をする。3時間近く待たされたが、ついにザイール側の出国許可が下りた。次はバイクの手続き。ぼくは役人の持ってきた台帳を見て心底、驚いた。マタディ→ノーキ(アンゴラ側の町)間を旅行者の車が通過したのは1959年の10月が最後で、それ以来、10年間というもの1台の車も通過していなかった。

 世界中に大きな衝撃を与えたあのコンゴ動乱、アンゴラの独立を目指す解放戦線とポルトガル軍の激しい戦闘、極度の治安の悪さが10年もの間、旅行者の車を1台も通さなかったのだ。

思い出の「決死の国境越え」(その2)

 スズキTC250を走らせ、ザイールからポルトガル領アンゴラの国境事務所へ。そんなぼくの姿を見ると、ポルトガル人の役人たちは驚き、あわてふためいて軍に電話する。ジープに乗った軍の将校が飛ぶようにしてやってきた。

「キミはほんとうにこのモト(オートバイ)でルアンダ(ポルトガル領アンゴラの首都)まで行くつもりなのかね」

「はい」

 ルアンダまでは約450キロ。ところが北部アンゴラでのポルトガル軍と解放戦線との戦いは激しく、その道はポルトガル軍の車ですら通れないという。

「明朝5時、サンアントニオ・ド・ザイール(ザイール川河口の町)に行く陸軍の輸送船がある。それに乗れるようにとりはからってあげよう。そこからルアンダまでは、軍の護衛のもとで行くことができる」

 将校は呆れ顔というよりも、諦め顔でこういってくれたのだ。

 ポルトガル領アンゴラの入国手続きを終えると、国境の町ノーキへ。そこには軍人の姿しかなかった。軍隊だけの町だった。その夜、師団長は将校の夕食会にぼくを招いてくれた。

「いやー、国境から連絡をもらったときは驚いたねえ。日本人がモトに乗って自殺しにやって来たと思ったよ」
 と、スープをすすりながら言った。それを聞いて、みんな大笑いをした。

 師団長は日本をよく知っていた。日本が現在のような経済大国になったのは高度の教育水準と日本人の勤勉な国民性、この2つだという。また、彼はリスボンの陸軍大学で3年間、日本人の先生に柔道を習ったという。その先生を心から尊敬していた。

 翌朝、5時前に陸軍の輸送船はノーキ港を離れ、まだ真っ暗なザイール川を下っていった。マタディ港に向かう大型の貨物船にすれ違うと、輸送船は大波を受け、グラグラ揺れた。ボマの町を過ぎると、それまでつづいていた丘陵地帯は途切れ、川幅はグッと広がった。カタンガの奥地から幾多の支流を集めて流れてきた大河ザイール、その4200キロにも及ぶ長大な流れも、そろそろ終わろうとしていた。

 4日間、サンアントニオ・ド・ザイールに滞在したあと、ルアンダに向かうバスについて走り、この町を離れた。70キロ南のキンザオの村までは戦闘の危険はないという。キンザオからは陸軍の護衛がついた。先頭には2台の野戦用小型トラック。それぞれに自動小銃を構えた15人づつの兵士が乗っている。その後ろにルアンダに向かうバス、民間のランドローバー、ぼくのスズキTC250がつづき、後ろには先頭と同じような2台の野戦用小型と高射砲をそなえつけた大型トラックが走った。

 夕日が林の向こうに沈みかけたころ、ンブリッジ川の河畔に着いた。フェリーで川を渡り、アンブリゼーテに到着。ノーキから連絡が入っているからと、軍人がぼくを迎えに来てくれた。これではまるでポルトガル軍の客人のようだ。

 まずは大西洋でとれたエビを肴にポルトガルのビールを飲み、そのあとで夕食をご馳走になった。食事がすむと軍主催の映画会がサッカー場でおこなわれ、それを見せてもらった。アンブリゼーテからは大部隊になる。先頭にはさらに3台の野戦用小型トラックと高射砲を据えた大型トラックが1台加わり、軍用車の間には何と72台もの民間の大型トラックが入ってきた。その光景はまるで民族の大移動のようだった。

 林の中の狭いガタガタ道を走っているときのことだった。先頭の車から銃声が響いた。数人の兵士が飛び降り、地面に身を伏せた。戦闘が始まるのかと、一瞬、緊張したが、兵士が草むらからひきずり出したのは射ち抜かれた1羽の大きな鳥だった。

 バナナや油ヤシ、サトウキビの大農園が見えてきた。川を渡ったところで、軍の護衛隊は解散となった。ルアンダまであと80キロ、もう戦闘の心配はないという。やがて日が暮れる。夜道を走る。小高い丘を越えると、突然、眼下にきらめく夜景を見た。ルアンダの灯だ。ケープタウンまであと4000キロだった。

キンシャサに戻る

 あっというまに通り過ぎていったインキシ・キサントゥの分岐点だったが、そんな「アフリカ一周」での「決死の国境越え」のシーンを思い出すのだった。そしてマタディへ。街道に沿って送電線が走っている。ザイール川のインガ・ダムの第1期工事が完成し、すでに送電が開始されているという。山上の町ンバンザ・ングングに着くと、その夜は警察でひと晩、泊めてもらった。

 翌日、マタディへ。ほとんど待たずに、マタディまで行く車に乗せてもらえた。ベルギー人の学校の先生。なつかしのマタディに着くと、町を案内してもらった。ザイール川のマタディ港も見た。その夜は先生夫妻の家で泊めてもらった。そして月曜日の朝、キンシャサに戻ったのだ。

ベルギー人の先生夫妻
ベルギー人の先生夫妻

30年目の「六大陸周遊記」[054]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 3 ブニア[ザイール] → キサンガニ[ザイール]

豚と一緒に…

 ザイール東部の町ブニアからキサンガニへ、旧式フォードのトラックに乗せてもらう。荷台は2段に仕切られ、50頭づつ豚が積まれている。前半分にはさらにもう1段、つまり3段目がある。そこに数人の乗客が乗り、ヤギやニワトリが積まれる。ぼくは荷台の一番高い所に座った。

 さー、出発だ。運転手はまだ若いモネバさんという太った人。助手が2人、ついている。トラックの荷台のてっぺんからの眺めは何ともいえない。サバンナの風景を一望。雄大な気分になってくる。

軍の検問

 とある村に着いたときのことだ。2人の軍人が検問していた。軍人は「ピー」っと笛を吹き、トラックを止めようとした。ところがモネバさんは無視し、スピードを上げる。デコボコ道を突っ走ったので、トラックは大きく跳ねた。その拍子に豚が1頭、荷台から落ちた。トラックを止め、豚を追いかけているとき、追跡してきた軍の車がやってきた。モネバさんはその軍の車に乗せられてしまう…。

「これはエライことになった」
 と思った。

 逮捕されたら2、3日は動けないかもしれない。だが、2、3時間すると軍人に連れられてモネバさんが戻ってきた。トラックはさきほどの村に戻る。検問所の軍の親分は人間2人とヤギ7頭をキサンガニまでタダで乗せていけといっている。モネバさんは反骨精神旺盛で軍の親分にたてつき、金を払わなくっては乗せないとがんばっている。

 しかし、ついに軍の権力に押し切られた形になり、渋々、2人の人と7頭のヤギを乗せ、その村を走り出した。

サバンナから密林へ

 トラックはベニからの道との分岐点のコマンダに着いた。このあたりは東アフリカから延びる高原のサバンナ地帯とザイール盆地の密林地帯の境で、コマンダの町を過ぎると、トラックははてしなくつづく密林地帯の中に入っていく。

 木々がうっそうと茂り、見上げるような大木が空を突く。このあたりは世界でも最も背丈の低いピグミー族の住むイトゥリの森だ。水量豊かなイトゥリ川水系の川を何本も渡って行く。乾燥した東アフリカのサバンナ地帯とはまるで違うザイール盆地の密林地帯だった。

ブニアからキサンガニへの道。サバンナ地帯から密林地帯に入っていく
ブニアからキサンガニへの道。サバンナ地帯から密林地帯に入っていく
ブニアからキサンガニへの道。サバンナ地帯から密林地帯に入っていく
ブニアからキサンガニへの道。サバンナ地帯から密林地帯に入っていく
ザイール盆地の密林地帯の風景
ザイール盆地の密林地帯の風景
アリの大群が道路を横切っていく
アリの大群が道路を横切っていく

豪雨の密林を行く

 夕方になるとトラックを道端に停め夕食。火を焚き、ニワトリを1羽つぶし、鶏肉を焼いて食べる。夕食が済むと、トラックは夜通し走りつづけた。悪路を走るので、トラックはいまにもバラバラになりそうな音をたてる。おまけに100頭もの豚の強烈な臭気と鳴き声。眠れたものではない。

 夜中に雨が降り出した。雨足は次第に激しくなり豪雨の様相。シートの中にもぐりこみ、ジーッとしている。下から噴き上げてくる豚の臭いがたまらない。

 夜が明けても雨はやまない。豪雨は昼過ぎまでつづいた。道はぬかるみ、登り坂になるとツルツル滑り、トラックは登れなくなってしまう。運転手も助手も乗客も、全員がシャベルを持ち、道路の補修をする。さながら道路の工事現場のようだ。

「あー!」

 その日の午後、トラックが何台もじゅずつながりで止まっているところにさしかかった。泥沼と化した道にズボーッとトラックがもぐり込んでいる。水路をつくって水をかきだしている。ヌタヌタの泥をかき出し、人海戦術でトラックを押すのだが、トラックの後輪は空まわりするばかりで「泥沼地獄」を抜け出せない。

「これでは当分、無理だ。さあ、昼飯にしよう」

 モネバさんがそういうと、助手たちはすばやく火を起こし、紅茶をわかす。カチンカチンに固くなったパンにマーガリンを塗って食べ、紅茶で腹に流し込む。

 昼食が終わったところで、トラックの荷台に戻り、昼寝しようと思った。なにしろ前の晩はほとんど眠れなかったので、眠くて仕方ない。

 荷台をよじ登り、一番上まで登った。そのとき、泥まみれの足だったのでツルッと滑ってしまった…。

「あー!」

 体勢を整える間もなく、あっというまに、まっさかさまに落ちてしまった。体中から一瞬のうちに血の気が引いていく。高さは3、4メートルほど。後頭部から落下したのだが、地面に落ちる直前で体の向きを本能的に変えたからなのだろう、顔の右半分、右肩、右膝を地面にたたきつけるような格好で落ちた。

 落ちた瞬間はまったく痛みを感じなかった。スーッと気が遠くなり、まるで天国にいざなわれていくようで、すごく気持ちの良いくらいだった。モネバさんや助手たちが何か口々に叫びながらぼくの顔をのぞきこんでいる。

 しばらくして、やっと立ち上がることができた。そのころから顔、肩、胸、膝などがズキズキと激しく痛み出してくる。思わず顔をしかめてしまう。これが舗装路だったら命にかかわるような大怪我だったことだろう。だが、何とも幸いなことに地道で、それもヌタヌタ道だったので助かった。激痛に襲われてはいるが、骨は折れていないようだった。

「ひっくりかえる!」

「泥沼地獄」は大変な思いで突破したが、次の日もそれに輪をかけて大変な1日だった。ぬかった道を走っているときのことだった。トラックの車体が突然、大きく右に傾いたのだ。傾き方が急過ぎる。

「ひっくりかえる!」
 と思い、乗客たちは我先にと荷台から飛び降りる。

 かわいそうなのは豚。荷台が斜めに傾いてしまったので、折り重なるように倒れ、グワー、グワーとすさまじい悲鳴を上げている。モネバさんはトラックを停めると、すぐさま荷台の扉を開け、豚を1頭づつ降ろす。しかし3頭の豚が押しつぶされて死んだ。それら3頭の死んだ豚は集まってきた村人が買っていった。

 何しろ10何年も前のオンボロトラックなので、傾いた拍子に荷台を支えていたバネがはずれてしまったのだ。ハンマーとジャッキを使っての修理が始まる。その間、我々は手に手に棒を持ち、豚が逃げていかないように見張っている。

 しかし、そうはうまくいかない。豚が逃げると、その逃げた豚を追って森の中に入っていく。豚との大格闘。おまけにブヨが多く、肌が空気にふれているところはあっというまにやられてしまう。かゆくてかゆくてたまらない。3時間近くかかってやっと修理は終わった。豚を集め、トラックに乗せる。だが、数が足りない。全員で手分けして森の中を探し、やっと出発にこぎつけた。

キサンガニに到着!

 キサンガニへの道沿いには竹藪が多くあった。竹が道に覆いかぶさるように垂れ下がっている。トラックの荷台に乗っているので、それをよけ切れず、何度も竹で顔を切った。もう血まみれ状態。見られた顔ではない。さらにトラックから落下したときの痛みがひどく、「何でこんな苦しみを味あわなくってはいけないの…」
 と、けっこう泣きが入る。

 ブニアを出てから5日目、ついにモネバさんのトラックはキサンガニに着いた。ブニアから700キロ。「アフリカ横断」の大きな難関を突破した。

30年目の「六大陸周遊記」[053]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 2 ベニ[ザイール] → ブニア[ザイール]

「黒い天使」

 ウガンダ国境からベニまでは人家も少なく、農地もほとんど見なかったが、ベニを過ぎると一変する。自然の恵みを感じさせる村々がつづく。道の両側には土壁、草葺屋根の家々が建ち並んでいる。バナナ、コーヒーが植えられ、油ヤシが森を成している。

 ベニを過ぎたら交通量が多くなるのではないかと期待したのだが、あいかわらず通る車はきわめて少ない。車に乗せてもらえないまま歩きつづけた。人が多くすんでいる一帯なので、見たこともないような珍しい人間が歩いているということで、子供たちがキャッキャいいながらついてくる。何ともいえずかわいらしいアフリカの子供たちだ。

 子供というのは世界中、どこにいってもかわいらしいものだが、アフリカの子供たちはとくにかわいらしい。まるで「黒い天使」のようだ。

教会の「ツーリストハウス」

 食料を持っていないので、食事時になると村で立ち止まり、バナナやパパイヤ、キャッサバなどを売ってもらって食べた。カタコト語と身振り手振りで、あとはニコニコ顔での会話。村人は椅子とテーブルをもってきてくれる。木陰で食べ、食べ終わると、お金を払おうとするのだが、受け取ってもらえないことがたびたびだ。そんなときは「ありふぁとう!」を連発してニコニコ顔で握手をかわし、村を離れていく。アフリカのみなさんの好意には甘えっぱなしだ。

 ベニから歩きはじめた日は何台かのトラックが通ったが、乗せてもらえず、とうとう1日、歩き通した。何度も繰り返しいってるように、ぼくのヒッチハイクの仕方は徹底的に歩き、歩きながらヒッチハイクするというものだった。

 夕方、オイチャという村に着いた。子供たちにとり囲まれ、「泊まるところがあるよ!」ということで、教会につれていかれた。そこには「ツーリストハウス」があった。レンガ造りの建物。床はコンクリートでトイレ、シャワー、洗面所がある。旅行者だったら、誰でも自由に、タダで泊まれる。ここの神父さんは若い頃、ぼくと同じようにヒッチハイクでアフリカを旅したという。そのときいろいろなところで、いろいろな人たちにお世話になった。そのときの恩返しで、この「ツーリストハウス」を造ったという。

泥土の道を行く

 次の日はもう最悪。土砂降りの雨の中をずぶ濡れになって歩く。人家も少なくなる。道がドロドログシャグシャ状態。まさに「泥土地獄」だ。降りしきる雨の中を、すっかりすり減ったゴムゾウリで歩くのだが、ツルツル滑って歩きづらいことこの上なし。で、裸足になって「泥土地獄」の道を歩く。ツルツルッと滑り、何度も転んだ。

 夕方、ずぶ濡れになって小さな村にたどり着いた。村外れではトラックが泥の中にめりこみ、完全に道をふさいでいる。そのため何台ものトラックが立ち往生。これではいくら歩いても、車が来ないはずだ。

 その村でひと晩、泊めてもらい、ベニからの3日目もただひたすらに歩いた。いったいいつまで歩くのだろう…と、情けない気分になってくる。

「ラッキー!」

 キブ州と上ザイール州の州境を越える。人家は一段と少なくなり、森は深くなる。車が一台も通らないまま、3日目も夕暮れが迫ってきた。すでにベニから120キロ近く歩き、コマンダの町が近い。アルバート湖の東のブニアとキサンガニを結ぶ街道との分岐点、そこがコマンダだ。

 道が開いたのだろう、トラックがやってきた。だが、乗せてはもらえなかった。つづいて赤いフォルクスワーゲンがやってきた。「ラッキー!」。そのフォルクスワーゲンは停まってくれた。「BP(ブリティッシュペトロール)ザイール」のテッド。30代前半のイギリス人だ。彼はブニアに行く途中だった。テッドにいわれるままに、ぼくもブニアまで行くことにした。目指すのはキサンガニで、ブニアは反対方向になるのだが、テッドはブニアの懇意にしているギリシャ人商人にキサンガニまで行くトラックにぼくが乗れるよう頼んでくれるという。

モンオヨで

 テッドはブニアに行く前に、モンオヨ(Mt.Hoyo)でひと晩、泊まるという。広大なザイールの密林地帯の東端にある山で、標高1450メートル。絶景ポイントで、ちょっとした観光地になっている。ホテルもある。テッドはぼくにも1部屋とってくれた。その夜はホテルのレストランで夕食をご馳走になり、食後はホテルのバーで飲んだ。

 次の日、テッドはガイドを雇った。モンオヨで蝶を採るのだという。蝶の採集に付き合い、そのあとはモンオヨの洞窟や滝にも行った。高台に立つと、茫洋と広がる大密林地帯が一望できた。

モンオヨの密林
モンオヨの密林
モンオヨの密林
モンオヨの密林
モンオヨの密林
モンオヨの密林
モンオヨの滝
モンオヨの滝
モンオヨの滝
モンオヨの滝
モンオヨから見下ろす大ザイール盆地
モンオヨから見下ろす大ザイール盆地
モンオヨから東へとつづく高原地帯
モンオヨから東へとつづく高原地帯

ブニアの豪商

 午後、ブニアに向けて出発。コマンダに出、キサンガニとは反対方向のブニアに向かう。まだ、明るいうちにブニアに到着。テッドに連れられ、この町で一番のギリシャ人商人のニコラスさんの店に行く。そこはBPザイールの代理店にもなっている。テッドの話によると、この地方に入ってくる石油類は、ケニアのモンバサ港からウガンダを経由し、陸路で入ってくるという。その夜はニコラスさんの豪邸で泊めてもらい、食べきれないほどの夕食をご馳走になった。

 翌朝、パンと紅茶の朝食をいただく。食べ終わると、ニコラスさんはキサンガニに行くトラックがあるからと、そこまで連れていってくれた。ビスケットなどの食料ももらった。テッドも赤いフォルクスワーゲンで来てくれる。BP本社の住所を書いてくれ、「ロンドンに着いたら、寄るように!」といってくれた。

 ありがとうテッド!!

30年目の「六大陸周遊記」[052]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 1 ナイロビ[ケニア] → ベニ[ザイール]

ケニアからウガンダへ

 1974年6月7日、佐藤さん一家に別れを告げ、ナイロビを離れた。ナイロビ郊外のウエストランドからヒッチハイクを開始。ナクールへ。「赤道アフリカ横断」の第1歩だ。なんとも幸先のよいヒッチハイクでほとんど待たずにナクールまで行く車に乗せてもらえた。運転しているのは日本人。東アフリカのマイクロウェーブ網の建設にたずさわる技術者だった。

「この前、ヒッチハイクしているアメリカ人の女の子を乗せてあげたのだけど、ホテル代に1日100シル(約4000円)かかるっていったら、彼女は100シルあれば1ヵ月は生活できるっていうんだ。驚いたね」

「この国に来て一番いやなことは、何かしてあげても、すべて当たり前という顔をされることだ。感謝の気持ちがない。国にしても同じことで、豊かな国から援助してもらうのは当たり前だと思っている」

 そんな話を聞きながらナクールに到着。郊外のメンネガイ山近くの山上ステーションまで連れていってもらった。機材を調べ、アンテナを点検する。そのあと火をおこし、日本製のインスタントラーメンをいただいた。アフリカで食べる日本製インスタントラーメンの味は格別だった。

 ステーションの点検が終わると、まだ時間があるからといってメンネガイ・クレーターに連れていってもらった。クレーターの直径は10キロほどあるという。深さは500メートルほど。古い火山のなごりをとどめるクレーター内はうっそうと茂る人跡未踏を思わせるような森林で、まわりの壁は切り立った崖になっている。

 標高2277メートルのメンネガイ山の山頂にはポールが立っている。それには世界各地への距離が書かれていた。カイロ2200マイル、ローマ3600マイル、ロンドン4300マイル、メッカ1500マイル、カラチ2800マイル、ボンベイ3000マイル、東京6424マイル、ソールズベリー1200マイル、ケープタウン2600マイル…。そこからの眺望は抜群でナクールの町並みやナクール湖を一望できた。

 ナクールから次の町、エルドレットへのヒッチハイクも快調で、ほとんど待たずに乗れた。エルドレットには夕方に到着。ここからウガンダのトロロまでは列車で行くことにした。エルドレット発は22時。トロロの手前でケニア側のイミグレーションの出国手続きがあったが、ウガンダ側の入国手続きはなかった。

 午前4時、ウガンダのトロロ駅に着いた。外はまだ真っ暗。夜空には星がまたたいていた。バスターミナルに行き、ゴロ寝する。夜明けまで気持ちの良い眠りを楽しんだ。

独立とは何なのだろうか…

 トロロの町は平原の中にポコッとそそり立つ岩山の麓にある。町の郊外にはセメント工場がある。そんなトロロからはカンパラまで行く車に乗せてもらった。200キロあまりの距離だが、昼前にはカンパラに着いた。カンパラの町を歩きながらウガンダの独立について考えてみた。

 ウガンダはケニアに比べると物価が高い。ウガンダ・シリングが下落しているので当然のことなのだが、ケニアで40セントだったチャイ(ミルク入りの紅茶)が60セント、1シルのコーラが1シル20セント、1枚1シルの絵はがきが1シル20セント、1シル50セントのポテトチップスが3シル…といった具合だ。

 とにかくウガンダは変わった。

 以前だったら町はいうに及ばずどんな小さな村に行っても見られたインド人商人は、まるで魔法使いに吹き消されたかのように、きれいさっぱりと消え去った。そのかわり、店屋をのぞくと、商品はほとんど見当たらない。インド人を追い出したらこうなることはわかりきっていたのに、ウガンダ政府は今になってあわてふためいて制限つきでインド人を呼び戻しはじめたという。

 この混乱したウガンダの現状を見せつけられ、ウガンダの独立について考えさせられたのだ。この国を支配していたイギリス人やインド人を追い出したかわりに、ほんのひと握りのウガンダ人がその位置についただけではないか。

 ウガンダは東アフリカでは一番豊かな恵まれた国だった。それだけに大多数のウガンダ人は物価の高騰、自国通化の暴落、乱れた国の姿を見ていったいどう思っているのだろうか。あらためて独立し、国を治め、発展させていくのは大変なことなのだと思い知らされた。とはいうものの1963年のウガンダの独立からまだ10年ほどしかたっていない。独立がどうこういうのは早計で、もっともっと長い目で見なくてはいけないことかもしれないとも思った。

カンパラのバスターミナル
カンパラのバスターミナル

アルバート湖の湖岸に立つ!

 カンパラからはザイールに向かう前に、アルバート湖とマーチソン・フォールスに行くことにした。カンパラの郊外まで歩き、ヒッチハイクで200キロ北西のマシンディへ。そこから森林地帯を通り抜け、アルバート湖畔のブティアバの町まで行った。小波の寄せるアルバート湖の対岸には、ザイールの山々が連なっている。しばし湖岸にたたずみ、そんな風景を目に焼き付けた。アルバート湖から流れ出るナイル川がアルバートナイルで、スーダンに入ると白ナイルになる。そんなアルバート湖を見るのはぼくの憧れだった。これで1番目の目的を達成!

 ところでアルバート湖だが、ザイールの大統領の名前をとってモブツ・セセ・セコ湖と湖名が変わっていた。ルウェンゾリーの南のエドワード湖はウガンダの大統領の名前をとってイディ・アミン・ダダ湖になっていた。モブツもアミンも独裁者。この先、クーデターがおき、大統領が変わったら、きっとまた湖の名前は変わることだろう。

ウガンダの森
ウガンダの森
ウガンダの森
ウガンダの森
アルバート湖への道
アルバート湖への道
アルバート湖周辺の風景
アルバート湖周辺の風景
アルバート湖
アルバート湖

南京虫とノミ、毛虫のトリプルパンチ

 ブティアバからマシンディに戻り、次にマーチソン・フォールスに向かう。マーチソンの滝は白ナイル水系最大の滝。そのマーチソン・フォールスもカバレガ・フォールスに変わっていた。それにともないナショナルパークの名称も、マーチソン・フォールス・ナショナルパークもカバレガ・フォールス・ナショナルパークに変わっていた。

 1968年に来たときも、同じようにヒッチハイクでマーチソン・フォールスまで行こうとした。しかしナショナルパークなだけにヒッチハイクは難しく、結局、諦めてしまった。今回は再挑戦なのである。

 マシンディから歩き、マーチソン・フォールスに通じる道に入っていく。かなり歩いたところに「ツェツェ・コントロール」(ツェツェ蠅のチェックポスト)があり、そこで車を待った。1日待ったがダメだった。カンパラからやって来た観光会社のマイクロバスが3、4台通った。それが1日の全交通量。マイクロバスはツアー客をのせているので、当たり前のことだが乗せてはくれない。

 夜は「ツェツェ・コントロール」の若い係官が、星空のもとでの夕食にさそってくれた。彼はそのあと空いている家をかしてくれ、土間にパピルスの茎で編んだゴザを敷いてくれた。ところがゴザの上に寝袋を敷いて寝たのはいいが、南京虫とノミのダブルパンチをくらい、猛烈なかゆみで寝られたものではない。

 それでも寝袋にもぐり込んで寝たが、夜中には飛び起きてしまった。草屋根からポトンと落ちたのだろう、寝袋の中に大きな毛虫が入った。それに足をさされ、さらにつかんで外へ投げたので、手のひらもさされた。最初は痛く、そのうちに痛がゆくなり、足も手のひらもパンパンに腫れてくる。南京虫とノミ、さらに毛虫とトリプルパンチを食らって夜明けまで一睡もできなかった。

 次の日も午前中いっぱい「ツェツェ・コントロール」で車を待った。しかしヒッチハイクは成功しない。昼過ぎになってカンパラまで行く車がやってきたとき、マーチソン・フォールスに行くのは諦め、その車に乗せてもらった。若い係官にお礼をいって「ツェツェ・コントロール」を離れたが、「ナショナルパークに行くには、やっぱりお金を払わなくてはだめだなあ…」と思い知らされた。

赤道を往復

 カンパラに戻ると、夜汽車でルウェンゾリー山麓の町、カセセに向かった。そこが鉄道の終点。目をさますと夜が明けようとしていた。霧雨のような雨が降っていた。丘陵地帯にさしかかると、蒸気機関車はガクンとスピードを落とし、あえぎあえぎ登っていく。

 蒸気機関車は荒野を走りつづけ、昼過ぎに終点のカセセ駅に着いた。赤道直下の雪山、ルウェンゾリー(5119m)は厚い雲の中。その麓さえ見えなかった。それがまた「神秘の雪山」にふさわしい眺めでもあった。ルウェンゾリーを見るのはきわめて難しいことなのである。

 駅近くの食堂で腹いっぱい食べ、ザイール国境のカシンディへ。道はクイーン・エリザベス・ナショナルパーク内に歩いて入っていく。ここもルウェンゾリー・ナショナルパークに名前が変わっていた。カモシカ類を多く見かける。バッファローの群れや象も見た。この道はムバララ経由でカンパラに通じる幹線道路なので、ナショナルパーク代を払う必要もないし、ゲートがないので歩くこともできる。この道と分岐し、国境のカシンディに通じる道は2本ある。1本は赤道の北側の道、もう1本は南側の道になる。赤道を通過したかったので、南側の道を通ることにした。

 しばらく歩いたところで車に乗せてもらった。じきに赤道を通過し、カシンディへの道との分岐点で降ろしてもらった。周囲の広々とした草原ではカモシカが群れていた。

 赤道の南側のカシンディに通じる道を歩いていくと、標識があり、この道だとナショナルパークの入園料を払わなくてはならなかった。それは絶対にできない。ということで幹線道路まで戻り、歩いて赤道を越えた。これで赤道を北から南へ、南から北へと往復して越えたことになる。

 今度は赤道の北側の道を行く。その道はカシンディに通じる一般道のようで、ナショナルパークの入園料はとられることはなかった。白と黒の毛がふさふさした猿が何びきも道に飛び出してきた。それほど歩かずに車に乗せてもらい、カシンディに着いた。

ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
赤道を通過
赤道を通過
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを貫く道
クウィーンエリザベスナショナルパークを貫く道
ルウェンゾリーの主峰群が見えている
ルウェンゾリーの主峰群が見えている

夕闇に沈むルウェンゾリー

 カシンディから国境のチェックポストに向かって歩いていく。このあたりはルウェンゾリーの南側になる。ウガンダ側の国境事務所ではポリスチェックだけで出国手続きはすぐに終わった。なんともラッキーなことだったが、ザイール側の国境事務所までは乗合タクシーがタダで乗せてくれた。ザイール側に入ると、クイーン・エリザベス・ナショナルパークはビルンガ火山群からとったビルンガ・ナショナルパークに名前が変わる。ザイール側での入国手続きも簡単に終わった。

 ここで車が来るまで待たせてもらった。じきにベニまで行くトラックが来た。国境からベニの町までは約80キロ。運転手に乗せてもらえないだろうか…と頼むと、3ザイール(約1500円)だといわれた。3ザイールは払えないので、「よーし、ベニまで歩こう」と決めた。2日あれば着けるなとふんだ。昼間は暑いので、夜通し歩くことにした。国境の役人たちに「これからベニまで歩いていく」と伝えると、彼らはとんでもないと血相を変える。

「このあたりにはライオンや象がたくさんいるんだ。夜歩いたら、ライオンに食い殺される」といって止めにかかる。

 ぼくはそんな役人たちに「いやー、大丈夫ですよ」と平気な顔を装い、歩き出した。言葉とは裏腹に内心はビクビクもの。日が西に傾いてくる。ガサッと音がしたと思ったら、カモシカだった。もうそれだけで心臓が停まるような思いだ。水辺近くではドサドサッと象の糞が落ちている。まだ新しい糞だ。それを見て心臓が早鐘のように鳴った。

 何気なく振り返ったとき、強烈なシーンが目に飛び込んできた。草原の向こうにルウェンゾリーの峰々がくっきりと浮かび上がっていた。雲はすっかり取り払われている。いまにも沈もうとする夕日を浴びて、赤道直下の雪をいだいた峰々はやわらかな橙色に染まっていた。しばらくは動物の怖さも忘れ、何もかも忘れ、立ちつくした。日が沈むと、ルウェンゾリーは青紫色に変わり、悲しくなるほどの早さで濃紺の夕空に消えていった。

「地獄に仏」だ!

 夜が深まるにつれ、恐怖感は増してくる。草原からは気味の悪い動物の鳴き声が聞こえてくる。まったくの闇夜なので、道がはっきりとは見えない。星空が唯一の頼り。月が出ていれば、どんなに楽なことか…。

 手をギューッと握りしめ、「恐くない、恐くない」といい聞かせながら歩く。手のひらは汗でびっしょり。立ち止まるとよけい恐くなるので、ひと休みしたくても立ち止まれない。

「地獄の仏」とは、まさにこのことだ。前方にランプの明かりが見えたのだ。疲れきった体にムチを入れ、明かりを目指して走った。そこにはビルンガ・ナショナルパークのゲートがあり、そのわきにはゲームワーデン(狩猟監視員)たちのキャンプ地があった。彼らには大歓迎された。遅い夕食をいただき、かしてくれた簡易ベッドで何の不安もなくぐっすりと眠れた。

ナイルの源流、セムリキ川を渡る

 次の日は夜明けとともに起き、ゲームワーデンたちに別れを告げ、ベニを目指して歩き始める。やがて朝日が昇る。日が高くなるとあっというまにきつい暑さになる。それでも昨夜の野生動物への恐怖感にくらべたら、暑さの方が楽だった。

 なにしろ交通量の少ない道なので、ベニまで歩く覚悟だったが、なんともラッキーなことに乗用車が通りがかり、ベニまで乗せてもらえた。やがてセムリキ川を渡る。この川はエドワード湖からルウェンゾリーの西麓を流れ、アルバート湖に注いでいる。ナイル川の源流のひとつといっていい川だ。

 ベニに近づくと、谷間から山道に入り、急勾配の斜面を登っていく。目の前には巨大なルウェンゾリーの大山塊が横たわっている。ベニの町に着いたときは心底、ホッとした。ザイール東部の中心地、キサンガニまで800キロ。

「ここまで来れば、あとはヒッチハイクも楽になるだろう」
 と、ぼくは何とも楽観的だった。

30年目の「六大陸周遊記」[051]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 27 ロドワール[ケニア] → ナイロビ[ケニア]

キクユ族の警官

 ケニア最北の町、ロキタングからケニア北西部の中心地、ロドワールに戻ってくると、夜の町を歩いた。のどが乾いたところでバーに入り、キューッとビールを飲み干した。うまい!

 ここではすっかり酔っぱらったキクユ族の警官と仲良くなった。彼は辺境の地での生活の厳しさを酔いにまかせて語りつづける。肥沃なハイランドに住む農耕民のキクユ族にとっては、ルドルフ湖西岸の乾ききった酷熱の地での生活は耐えがたいものなのだろう。

「ヒアー、ノーベジタブル、ノーフード。ホット!(ここには野菜も食べ物もない。ただ暑いだけだ)」

 警官は1日も早く故郷に帰りたいと、そればかりを繰り返す。ふらついた足どりの警官とバーを出ると、一緒に夜の町を歩き、その夜は丘の上にある警察で泊めてもらった。

ピンクに染まったルドルフ湖

 翌朝は夜明けとともに出発。どうしてもルドルフ湖を見てみたかった。ロドワールからルドルフ湖までは50キロ以上ある。もし車に乗れなかったら、湖まで歩くつもりでいた。ロキタングへの道を戻り、ルドルフ湖への道との分岐点まで行く。そこからルドルフ湖への道に入っていった。日が高くなるにつれて強烈な暑さに見舞われる。そんなときになんともラッキーなことにトラックが通りがかり、乗せてくれた。

 ロドワールからルドルフ湖までの道はノルウェーの援助で完成したばかり。ルドルフ湖の水産資源の開発を目的としてつくられた通称「魚道」。草がまばらにはえ、アカシアの木がポツン、ポツンとはえている乾燥した荒野の中をトラックは疾走する。

 なだらかな山道を下っていくと、前方にルドルフ湖が見えてきた。トラックは湖岸の漁民の集落で停まった。湖でとれた数十センチくらいの魚が干されていた。トラックはこの干し魚を積み込んだらロドワールに戻るということで、帰りも乗せてもらえることになった。湖畔を歩く。漁民の集落の先は湖面が一面にピンクに染められていた。無数のフラミンゴ。ジリジリ照りつける太陽のもとでピンクに染まったルドルフ湖をしばらく眺めるのだった。

ルドルフ湖周辺の風景
ルドルフ湖周辺の風景
フラミンゴが群れるルドルフ湖
フラミンゴが群れるルドルフ湖
フラミンゴが群れるルドルフ湖
フラミンゴが群れるルドルフ湖

濁流の川渡り

 夕方、ロドワールに戻ると、キターレまで行くトラックが出るというので、20シル払ってそれに乗せてもらった。夜になると、星空を見上げながら、荷台でガタガタ揺られながら眠った。ところが夜中になると、雨が降りだし、あっというまにたたきつけるような激しい降り方になる。積み荷の干し魚を覆うシートの中にもぐり込んだが、シートの穴からは雨水が流れこんでくる。全身ずぶ濡れになってしまい、とてもではないが寝てはいられない。

 夜が明けたころでやっと雨はやみ、ほっとひと息ついた。ところが国境を越え、ウガンダ領内に入ったところで、足止めを食らってしまった。来るときはチョロチョロ流れる程度だった小川が、夜中の大雨で濁流が渦巻く大きな流れに変わってしまったのだ。なすすべもなく、水位が下がるのをじっと待ちつづける。増水した川にさしかかったのは早朝だったが、2時間たっても3時間たっても、昼が過ぎても水位は下がらなかった。その間にあとから来たトラックが5台、6台と列をつくった。

 水位はほとんど下がらないまま、とうとう夕方になってしまった。列をつくっていたトラックの1台が、もう待ちきれないといわんばかりに、強引に川の中に突っ込んでいった。川の中央あたりではトラックの荷台に届くほどの水の深さ。トラックはそれでもエンジン全開で激しく水しぶきを巻き上げながら走り、反対側の岸を登る。エンジンからは白煙がたち昇る。そしてついに川岸に登った。成功だ。トラックの乗客たちからは、「ワーッ!」と、大きな歓声が上がった。

 そのトラックの成功に力を得て、ほかのトラックも次々に川を渡っていった。無事、全トラックがその川を渡り終えた。「一難去ってまた一難」ではないが、川を渡ってその先のウガンダ領内の道はものすごい悪路に変わっていた。大きな水溜まりがあちこちにでき、ちょっとした登り坂はグチャグチャの泥道に変わりはてていた。水溜まりはまだしも、グチャグチャの上り坂では何度もスタックし、そのたびに助手や乗客たちはタイヤの下に木の枝などを入れてトラックを押した。

 ウガンダ領内を走り抜け、ケニアに入ると、道はグッと良くなった。トラックはキターレに向けて夜通し走り、夜明け前にはキターレに着いた。

ウガンダ領内の悪路を行く
ウガンダ領内の悪路を行く
川に水が流れ通行止
川に水が流れ通行止
川に水が流れ通行止
川に水が流れ通行止
キターレの町に戻ってきた
キターレの町に戻ってきた

「トムソンの滝」を見た!

 キターレの町に着いたときは体中、魚くさかった。なにしろロドワールからトラックの荷台でずっと干し魚と一緒だったからだ。市場に行って、顔、頭、手足を洗ってさっぱりしたところで、バナナとパイナップルを買い、それで朝食をすませた。

 キターレからはふたたびヒッチハイクを開始し、エルドレットからナクールへと、来たときと同じ道を戻る。

 ナクールではシークテンプルに泊めてもらい、次の日、ナイロビに向かった。「ナクール→ナイロビ」間はまっすぐナイロビに戻るのではなく、トムソンズ・フォールスに行き、そこからナニュキ、ニエリ経由でナイロビに戻ろうと、地図を見ながらそう決めた。

 ナクールからトムソンズ・フォールスに通じる道との分岐点まで歩いていく。そこからナイロビへの道はひっきりなしに車が通るが、トムソンズ・フォールスへの道になると、ガクッと交通量が減る。だが、それほど待たずに女性の運転する車で4キロほど乗せてもらい、そのあとすぐに陸軍のランドローバーに乗せてもらった。舗装路は途切れ、ガタガタの山道に入っていく。やがてギルギルからの舗装路に合流。赤道を越えたところがトムソンズ・フォールスの町。乗せてくれた陸軍の将校には町のレストランで昼食をご馳走になった。そのあとで、町名の由来にもなっている「トムソンの滝」を見に行った。見上げるほどの高さなのだが、流れ落ちる水量は乾期のせいもあってそれほどでもなかった。だがこうしてトムソンの滝を目の前にしていると、「一度は見てみたい!」と思っていた滝なので満足感はあった。

ナク-ル湖を望む
ナク-ル湖を望む
乗せてもらった車にサルが来る
乗せてもらった車にサルが来る
トムソンの滝
トムソンの滝

ケニア山から昇る満月

 トムソンズ・フォールスからは赤道に沿ってナニュキに向かう。ほとんど待たずにダットサンの小型トラックに乗せてもらい7、8キロほど先の村まで行った。この分なら簡単にナニュキまで行けるなと思っていたら、そのあとのヒッチハイクはまったくダメ。交通量は少なく、たまに車が来ても乗せてくれない。
「よーし、こうなったら歩くゾ!」
 と、正面にケニア山、右手にアバデア山と雄大な風景を眺めながら平原の中に延びる道を歩いた。車に乗せてもらえないまま、とうとう夕暮れになってしまった。おまけに天気も崩れ、雨が降ってくる。近くには家もなかった。

「こうなったら、なるようになれだ」

 日が暮れる直前、GKのナンバーをつけた政府のランドローバーが通りがかり、ありがたいことに乗せてくれた。「助かった!」と、思わず胸をなでおろす。これで雨の心配はいらない。ランドローバーは暮れゆくケニア山に向かって突っ走ったが、激しい夕立になり、大粒の雨をフロントガラスにたたきつけてくる。だがそれもつかのまのことで、雨が通りすぎると雨雲は消え、きれいな夕焼けの空に変わった。ケニア山は沈もうとしている夕日を浴びてパーッと明るく輝く。山頂周辺の雪がオレンジ色に変わる。日が沈むと、残照に照らされたケニア山の主峰群の北側から満月が昇った。

 ナニュキに到着すると、ローカルガバメントの中庭で寝かせてもらった。赤道の真上だというのに、なんとも寒い。朝起きると、空には一片の雲もなく、きれいに晴れ渡っている。寝袋は夜露でぐっしょりと濡れていた。

 ナニュキからナイロビへ。町外れに立つ赤道の標識の下で車を待ったが、すぐにニエリまで行く車に乗せてもらった。ニエリからもほとんど待たずにナイロビまで行く車に乗せてもらった。ナイロビの中心街から歩き、佐藤さんの家には昼前に着いた。

アバデア山
アバデア山
ケニア山
ケニア山
ナニュキの赤道
ナニュキの赤道

佐藤さん一家との別れが迫る…

 いよいよ佐藤さん一家と別れ、ナイロビを離れる日が迫ってきた。

 ナイロビを拠点に最初はキリマンジャロ、次は「タンザニア→ザンビア→ザイール→タンザニア」の東部アフリカ一周、3度目はエチオピアから地中海沿岸諸国、そしてナイル川流域、4度目はアラビア半島南西部の南北イエーメン、5度目はケニア北西部のルドルフ湖西岸地方と、思う存分にまわれた。これというのも佐藤さんと奥さんのおかげだった。ナイロビに戻ってくるたびに、十分な休養と栄養をとらせてもらった。物理的な栄養だけでなく、内面的な栄養もたっぷりととらせてもっらた。というのはナイロビに戻ってくるたびに佐藤さんからはいろいろな話を聞かせてもらったからだ。ぼくはウィスキーを飲みながら聞く佐藤さんの話が大好きだった。

「なあ、カソリ君、どうも日本の女っていうのはよくないね。この前パーティーで日本人の婦人を紹介されたのだけど、『私は三菱の○○でございます。ケニアにはモンバサの飛行場の建設でやってきましたのよ』なんていうんだ。だからいってやったよ。『奥さんは三菱にお勤めですか。空港の建設とは大変なお仕事ですね』って」

 そんな佐藤さんなのだ。

 佐藤さんはガーナ大学に留学したが、スーダンのハルツームに行ったときは、この国の英雄、マハディの孫娘と世紀(!?)の大恋愛をした。ガーナ大学同窓の美貌のイギリス人女性を追ってイギリスのノーザンプトンまで行ったこともある。
「私は世界を駆けめぐる恋をしたんだ」
 といって笑い飛ばす。

「コスモポリタン」という言葉がぴったりする佐藤さんだが、
「あれはロンドンの地下鉄に乗っているときのことだったかなあ。なんの気なしに、窓ガラスに映っている自分の顔を見たんだ。その瞬間、ハッとしたね。そこにはまぎれもなく日本人の顔があった。あの時ほど自分が日本人だということを意識したことはないね」
 ともいった。

「旅しているといろいろな人たちに出会い、話し合う機会があるだろう。環境や立場の異なる人たちの率直な意見は貴重なものだ。カソリ君、それをしっかりと心にとめておくといい。それが君にとっての大きな財産になる日がきっとやってくる」

「ナイロビ→タンジール」は不安だらけ…

 ナイロビからの計画ルートは次のようなものだ。

 まずは「赤道アフリカ横断」。ナイロビからカンパラ(ウガンダ)、キサンガニ(ザイール)経由でザイールの首都キンシャサへ。ザイール川を渡り、コンゴ、ガボン、赤道ギニア、カメルーンと赤道アフリカの国々をめぐる。つづいて「西アフリカ横断」。カメルーンからナイジェリアに入り、ニジェール、オートボルタを通ってガーナへ。そこからはギニア湾岸、大西洋岸の国々のコートディボアール、リベリア、シエラレオネ、ギニア、ポルトガル領ギニア・ビソー、ガンビアを通り、アフリカ大陸の最西端、セネガルの首都ダカールに出る。最後が「サハラ砂漠縦断」。セネガルからモーリタニアに入り、スペイン領サハラ経由でモロッコへ。ジブラルタル海峡に面したタンジールがアフリカの旅のゴールになる。タンジールを目指しての長い長い旅になる。

 ウガンダからザイールへと、陸路での国境越えができるかどうか…、ザイールのキンシャサからコンゴのブラザビルへと、ザイール川を渡れるかどうか…、鎖国同然のギニアに入れるかどうか…、ポルトガル領のギニア・ビソーでは激しい戦闘がつづいているが、それに巻き込まれずにすむだろうか…。スペイン領サハラとモロッコの国境地帯は一触即発の緊張状態だが、うまく国境を越えられるだろうか…と、不安の種は尽きない。だが、考えていても仕方ない。そうと決めたからには、やるしかないのだ。

 ナイロビではウガンダとザイールのビザを取り、そのあとフランス大使館でガボン、カメルーン、ニジェール、オートボルタ、コートディボアールと旧フランス領赤道アフリカ、西アフリカの国々のビザをまとめて取った。それ以外の国々のビザは行った先々で取ることにする。これですべての準備は整った。

「さー、行くゾー!!」

30年目の「六大陸周遊記」[050]

[1973 – 1974年]

アフリカ東部編 26 ナイロビ[ケニア] → ロドワール[ケニア]

50万円を手にする

 南イエーメンのアデンからパキスタン航空機でケニアのナイロビに戻ってきた。空港からヒッチハイクでナイロビの中心街まで行き、そこからは郊外の住宅地にある佐藤さんの家へと1時間ほど歩いた。

 佐藤さん宅ではうれしいことがあった。50万円の日本円が届いていたことだ。この前、ナイロビに戻ってきたとき、両親から『極限の旅』の印税が送られてきたという手紙を受け取った。それを送ってもらおうとしたら、難問が発生。第4次中東戦争後のオイルショックで日本の外貨事情は急速に悪化し、送金は1件につき200ドルまでという制限がつけられてしまったのだ。なんということ。ぼくが日本を出発した1973年の8月ごろというのは、「昭和元禄」だといって日本中が浮かれ、貯まり過ぎた外貨はどんどん使おうなどといっていたのに、わずか1年でこうも変わってしまうのだから…。それだけオイルショックの影響は大きかったということなのだろう。

 すごく幸運なことに、佐藤さんと親しい菅原さんが一時帰国することになった。菅原さんは「カソリ君のご両親に会って、お金を預かってこよう」といってくれたのだ。

 菅原さんは日系企業に勤めていたが、万年文学青年を思わせるような人。35歳になっても独身だった。そんな菅原さんの話はおもしろかった。

 上司に結婚をすすめられたときのことだ。
「奥さんをもらうとな、朝の目覚めが苦にならなくなるよ」
「すると、なんですか、その奥さんとかいう女性は目覚まし時計のかわりですか」
「食事の心配をしなくてもすむようになる」
「すると奥さんは炊飯器のかわりですか」

 菅原さんは生真面目な人だが、ユーモラスな一面もある。そんな菅原さんのおかげで、ぼくは50万円を手にすることができたのだ。

「六大陸周遊」の旅はまだまだ長い…

 50万円の現金を手にすると、ぐっと心強くなる。とはいってもアフリカでは日本円の現金などまったく役にたたない。1万円札をヒラヒラさせても紅茶1杯、飲めなかった。銀行に行っても、いったいどこの国の金だといわんばかりの目つきで、両替はしてくれない。ナイロビの町中、いたるところで日本製の車やオートバイが走り、みんなが日本製のトランジスターラジオを持っているというのに…。

 今、現在の所持金は250ドルあった。これでアフリカ大陸を横断し、サハラ砂漠を縦断して北アフリカに出る。そしてヨーロッパで50万円を両替し、アメリカに渡る。アメリカから南下し、6大陸目の南米へ。この50万円で「南米一周」まではできるなという計算を立てた。さらに計画を大幅に拡大していたので、アメリカに戻ったらロサンゼルスかサンフランシスコでアルバイトして旅の資金を貯め、それを元手にアメリカを横断してヨーロッパに渡り、トルコのイスタンブールから西アジアを横断してインドのカルカッタへ。最後は今回の旅の出発点、タイのバンコクまで行き、そこから日本に帰るつもりでいた。「六大陸周遊」の旅はまだまだ、この先、長いのだ。

「ナイロビ発の旅」の第5弾目

 ナイロビからは赤道に沿ってアフリカ大陸を横断し、ザイールのキンシャサに向かうのだが、その前にもう一度、佐藤さんの家を拠点に旅に出たかった。第5弾目のナイロビ発の旅。目的地は決まっていた。ケニア北西部の辺境の地、ルドルフ湖の西岸地方だ。いままでに何度か行こうと思って、行けなかったところだ。なんとしてもルドルフ湖は見たかったし、スーダン、エチオピア国境に近いロキタウンまでは行きたかった。

 その前に佐藤さんの家で1日、ゆっくりと休養させてもらった。奥さんのつくってくれたおいしい料理をいただき、夜は佐藤さんとウイスキーのグラスを傾けた。こうしてウイスキーを飲みながら佐藤さんと話していると、アラビア半島での旅の疲れなど吹っ飛び、新たな旅への情熱が急速に蘇ってくる。そしてまだ見ぬケニア北西部に夢を馳せるのだった。

日曜日の出発

 ナイロビからルドルフ湖の西岸地方に向かったのは日曜日だった。ヒッチハイクは難しいのではないかと、何かいやな予感がした。予感は的中し、朝早く出発したのにもかかわらず、車に乗せてもらえないまま、昼近くになってしまった…。

 昼過ぎになってやっとヒッチハイク成功。乗せてくれた車はナクールまで行くマツダのカペラだった。ケニア政府の高官で、彼との話が楽しかった。カペラは高速で突っ走り、ナイロビから160キロ北西のナクールにはあっというまに着いてしまった。

 ナクールからは次の町、エルドレットに向かったが、今度は全然待たずに乗せてもらえた。モロに行く車で、エルドレットへの道との分岐点まで乗せてもらった。その先がしんどいヒッチハイクになった。交通量はかなりあるのだが、なかなか乗せてもらえない。

 植林された森林を貫く道を歩く。高原のキリリと締まった空気。ケリチョーに通じる道との分岐点まで歩いた。大半の車はそこで曲がり、大きな茶のプランテーションがあるケリチョーの方向に行ってしまう。高度が2500メートル前後の高地なので、日暮れが近づくと、風が冷たくなり寒さに震えてしまう。

「こんな寒い中での野宿はいやだ」
 と、夜通しのヒッチハイクをすることにした。

日本は遠い…

 すっかり日が暮れ、あたりは真っ暗になった。そんな中で、なんとしたことか、いったん走り過ぎていった車が戻ってきた。フランス製のプジョーの乗用車。なんともラッキーなことにエルドレットの先まで行くとのことで、乗せてもらえた。

 車を運転していたのはインド人のシーク教徒のサンドゥーさんという人。40過ぎの人で、助手席にはお母さんが乗っていた。そのお母さんが、「あの人を乗せておやり」といったので、Uターンして戻ってきたのだという。

 天気が崩れ、雨が降ってきた。霧も出てきた。赤道の標識をヘッドライトが照らす。なんとも寒々とした赤道だ。

 エルドレットの町を通り過ぎ、ウガンダに通じる道と北のキターレに通じる道との分岐点に来る。車はその分岐点を右に曲がり、キターレの方向へ。それはぼくの目指す方向だった。サンドゥーさんは「うちの農場に来て、ひと晩、泊まっていきなさい」といってくれる。ありがたく、そうさせてもらうことにした。

 サンドゥーさんの農場はキターレに通じる道を左に折れ、すこし行ったところにあった。トーモロコシを主につくっているという。トラクターが6台もある大農場だ。夕食をご馳走になったあと、お茶を飲みながらサンドゥーさんの話を聞いた。

 東アフリカを舞台にくりひろげられるサファリ・ラリーはアフリカ人もヨーロッパ人もインド人も熱狂するが、1ヵ月ほど前に終わった今年のサファリ・ラリーでは、「フライング・シーク(空飛ぶシーク教徒)」の異名をとるインド人のシーク教徒のジョギンデール・シン選手が三菱のランサーに乗って優勝した。サンドゥーさんはジョギンデール・シン選手のことをまるで自分の兄弟のように誇らしげに語るのだ。シーク教徒たちの結びつきはそれほど強い。

 サンドゥーさんは「ランサーはすごい車だよ。プジョーもフォード・エスコートもボルボもまったくかなわなかった。ランサーにしても、ダットサン(ニッサン)にしても、日本はほんとうにすごい車をつくる国だ。私は日本という国がいったいどうなっているのか、いつも見たいと思っている。だけど、なにしろ遠いからねえ…。仕事でナイロビからロンドンに行くのとはわけが違う」
 といって極東の国、日本の遠さを嘆くのだった。

にわかシーク教徒

 翌日は朝食をいただき、農場を案内してもらったあと、キターレに通じる道まで送ってもらった。サンドゥーさんとは「今度は日本で再会しましょう!」といって別れた。ところがこのキターレへの道は交通量は多いのに、なかなか乗せてもらえない。ヒッチハイクが成功しないまま2時間、3時間と歩いた。その間では車にひかれたヘビの死骸を何度となく見る。ぼくはヘビが大の苦手なので、そのたびに身震いした。

 午後になってやっとキターレまで行く車に乗せてもらえた。エルゴン山麓のキターレは標高が2000メートル近い高原の町。ルドルフ湖西岸の中心地ロドワールには、キターレからトラックが出ている。ロドワールへの道は交通量が極端に少なくなると思われるので、お金を払ってトラックに乗せてもらうつもりでいた。

 夜はシークテンプル(シーク教の寺院)で泊めてもらう。ちょうど夕食の祈りの時間だった。ひと晩、タダで泊めてもらう恩義もあって一緒に座り、シーク教の教典が読まれるのを聞いている。にわかシーク教徒といったところだ。翌朝は8時30分が祈りの時間。シーク教徒と一緒になって祈り、シークテンプルを出た。

トラックでロドワールへ

 バークレー銀行で20ドルを両替すると、ロドワールへのトラックが出るという店に行く。ベンツのトラックに穀物やタバコ、中国製の石油ストーブ、ビスケット、ペプシコーラなどが積み込まれ、最後に郵便物が積み込まれると出発だ。ロドワールまでは25シルだった。そのトラックはロドワールからさらにエチオピア国境近くのロキタングまで行くとのことで、その分としてもう15シル払った。行けるところまで行ってみたかった。

 トラックはエルゴン山麓の高原地帯を行く。トウモロコシ畑がつづく。トラクターを多く見かける。恵まれた、豊かな農地を感じさせた。カペングリアとの分岐点を過ぎると道は悪路に変わり、人もぐっと少なくなる。高地から低地に下っていく。それとともに豊かな農地は消えた。ケニアからいったんウガンダに入ったが、そこには国境を示す標識があるだけで、べつに国境のチェック・ポストはなかった。

 ウガンダ領内を走っているときにトラックが故障し、停まってしまった。エンジンの不具合のようで、なかなかよくならない。一夜、そこで野宿か…と思っていると、日没直前になって動きだした。暗くなったころ、進行方向に大きな流れ星を見た。スーッと、地表スレスレまで流れ落ちた。

 ウガンダ領内の集落を2つ通り過ぎ、ふたたびケニアに入った。そして真夜中にロドワールに着いた。キターレから350キロ。夜が明けるまで、トラックの運転席で寝かせてもらった。

ケニア・ハイランドの植林地帯
ケニア・ハイランドの植林地帯
ケニアからいったんウガンダに入る
ケニアからいったんウガンダに入る
トラック、故障…
トラック、故障…

トゥルカナ族の人たち

 きれいな夜明けだった。朝日が昇る直前、雲はピンクに染まり、空一面に大輪の花が咲いたかのようだ。ロドワールではタバコだけを降ろして出発。涸川を何本も越える。ケニア北西部に住む遊牧民のトゥカナ族の人たちによく出会うようになる。

 ロキチョキオに通じる道との分岐点を過ぎる。北西方向のロキチョキオはケニア、エチオピア、スーダンの3国国境に近い。この道を行けば、ロキチョキオからスーダン国境を越え、スーダン南部の中心地、ジュバに出る。

 ロキタングを目指して北へ。その途中では道を外れ、荒野を横切り、小さな集落に立ち寄った。そこにはソマリア人の店があって、ペプシコーラを降ろした。店ではコカコーラやペプシコーラを売っていた。1本1シル。町と変わらない値段だ。トゥルカナ族は最も現代文明から遠く離れたところで生活している民族のひとつだ。そんな彼らもコカコーラやペプシコーラを飲んでいる。

 トゥルカナ族の男たちは布を1枚、体に巻きつけただけである。風が吹くと布はなびき、その下の男根がまる見えになる。宗教的な意味があるのだろう、体には傷をつけている。腕には刃の部分を革で覆ったナイフをつけている。実用と同時に装飾にもなっているようだ。木製の折りたたみいすを持ち歩いている人が多い。それは夜、寝るときには枕になる。

 トゥルカナ族の女たちは赤、青、白、黒、紫と、色とりどりのビーズのような首飾りをしている。耳たぶに穴をあけてイヤリングをし、下くちびるにも穴をあけ飾りをつけている。腕にはちゃらちゃらと金属製の腕輪をいくつもはめ、足首にもはめている。布を1枚、体に巻きつけ、下半身には布や皮をつけている。頭の毛をまんなかだけ残し、それに飾りをつけている女、頭から背中にかけて朱色の塗料を塗りたくった女、胸をあらわにしている女、そんなトゥルカナ族の女たちからは強烈な生臭さが漂ってくる。きっと、つけている油のせいなのだろう。ぼくにはそれがトゥルカナ族が生活の糧としているラクダやロバ、ヒツジ、ヤギの臭いのようにも思えた。さらにはトゥカナ族の生活の舞台であるケニア北西部の荒涼とした荒野そのもののようにも思えた。

ケニア最北の町、ロキタングに到着

 ロキタングに近づくと、前方にはエチオピア国境の山々が見えてきた。ルドルフ湖にも近いが、このあたりからだと湖は見えない。ロドワールから250キロ、ケニア最北の町、ロキタングに到着したのは夕方になってからだった。ここはイギリス統治時代、ケニア独立の英雄、ジョモ・ケニヤッタが幽閉されていたところだ。その夜は食堂でトラックの運転手に夕食をご馳走になり、トラックの運転席で寝たが、ひと晩中、蚊の猛攻をくらってウツラウツラの状態だった。

 翌日は雑貨屋で残りの荷物をすべて降ろした。この店の主人はケニア山麓に住むメルー族の人だった。トラックは昼過ぎにはロドワールに戻るというので、乗せてもらうことにした。積み荷を降ろした雑貨屋の隣りは肉屋。その隣りの空き地でヤギが殺されるのを見ていた。このヤギはトラックの運転手が買ったもの。ヤギの首が切られると、トゥルカナ族の女たちは争うようにしてその血を洗面器に受け、口のまわりを真っ赤に染めてゴクゴクと飲み干した。そのあと肉屋は鮮やかな手つきでヤギをあっというまにバラバラにする。ヤギの解体が終わると、空き地で火を焚き、炎天下での盛大な焼肉パーティーになる。トラックの運転手は雑貨屋のメルー族の主人らを招き、焼き上がったヤギ肉を食べる。ぼくも呼ばれ、遠慮なく食べた。ヤギ肉にはまったくくさみもなく、調味料をかけるまでもなく、そのままで食べられた。肉だけで満腹になるのだった。

 炎天下での焼肉パーティーが終わったところでロキタングを出発。夕方にはロドワールに戻ってきた。運転手とは何度も握手をして別れた。

ロキタング周辺の風景
ロキタング周辺の風景
ロキタング周辺の風景
ロキタング周辺の風景
木陰で休むトゥルカナ族の人たち
木陰で休むトゥルカナ族の人たち

30年目の「六大陸周遊記」[049]

[1973 – 1974年]

アフリカ東部編 25 ケリッシュ[北イエーメン] → ナイロビ[ケニア]

「我が国には我が国のきまりがある」

 国境の町ケリッシュには軍人の姿が多く見られた。町の入口には軍の検問所。ドラムカンの上に丸太をのせたゲートがあった。そこでは所持品のすべてを調べられ、パスポートや全財産を入れた布袋、財布、地図、磁石、日記やメモ帳など文字の書かれたものが没収された。検問所の軍人と一緒にイミグレーション・オフィスに行く。そこでは、「外国人が陸路で入国することは許されない」と、まっさきにいわれた。

「アディスアベバの領事館で陸路での国境通過は可能だといわれましたよ」

「我が国の規則では外国人が陸路、北から南に入ってくることは許されない。それが我が国の規則なのだ。日本には日本のきまりがあるように、我が国には我が国のきまりがある」

 そういわれると、返す言葉もなかった。

 だが、ここでそう簡単に引き下がることはできない。

 イミグレーションの役人とは話題を変え、できるだけ会話がつづくようにもっていった。それがよかった。とうとう役人は根負けしたようで、「キミがアデンまで行けるかどうか、これから電報を入れる。夕方までには返電が来るだろう」といってくれた。そのときぼくは「これで南イエーメンに入れる!」といった感触をつかんだ。

「あ、やられた…」

 ここまで歩いてきた疲れもあって、ドドドドッと眠気がでてきた。イミグレーションの役人は奥の部屋にあった簡易ベッドをかしてくれた。そこでしばらく寝かせてもらう。彼は「返電がきたらすぐに起こすから」といって部屋を出ていった。

 泥沼の奥底深くに落ちたような眠りだったので、体を揺り動かされてもすぐには起き上がれなかった。ぼくのわきにはイミグレーションではなくて、税関の役人が立っていた。彼は外貨申告書を持ってきた。アデンからの返電はまだ届いていなかったが、「これで入国はOKだな」と思った。軍の方からはさきほど取り上げられた荷物を全部、返しにくる。外貨申告書に書き込むために所持金を数えた。

「あ、やられた…」

 ドルのトラベラーズチェックはちゃんとあったが、ドルの現金の方は20ドル紙幣2枚、40ドルも抜き取られていた。軍の検問所でのドサクサまぎれにやられたなと想像したが、南イエーメンに入れるかどうかの瀬戸際なのでうっかり騒げなかった。40ドルといったらぼくにとっては大金。だが、涙を飲んで諦めるしかなかった。

赤い郵便車

 夕方になってイミグレーションの役人がやってきて、
「まだ返電は来ないが、週1便の郵便車がこれからアデンに向かうので、キミがそれに乗れるようにした」
 と、なんともうれしいことをいってくれる。

「入国手続きはアデンのイミグレーションのヘッドクォーター(本部)でしなさい。キミのパスポートと、私からの手紙を郵便車の運転手に渡しておく。アデンに着いたら、郵便車の運転手がキミを案内するので心配しなくてもいい。これからも元気で旅をつづけるように」

 彼とは何度も握手をして別れたが、イミグレーションの役人の好意が胸にジーンとしみた。

 郵便車は赤塗りのランドローバーだった。ケリッシュから砂漠のガタガタ道を行く。

「アデンまで行ける!」

 それはまるで夢のようなことだった。アデンに着いたら、その先はどうなるのかまったくわからなかったが、ぼくにとっては陸路でアデンまで行くことが一番、重要なことだった。国境のケリッシュで南イエーメンへの陸路での入国を最終的に拒否されたら、いったん北イエーメンのタイーズに戻り、そこからモカに行き、アラビアの帆船のダウでアデンに渡ろうと考えていたので、こうして陸路、アデンに行けるようになってよけいにうれしかった。

 ダラに通じる道との分岐点まで来ると舗装路になった。アデンに近づくと雨が降ってきた。砂漠の雨だ。雨の降る中を走り、夜、遅くになってアデンに着いた。

「ついに、やったな!」
 と、ぼくは満足感で胸がいっぱいになった。

 北イエーメンから南イエーメンに陸路で入ることは不可能だといわれていた。そんな旅の不可能をブチ破ってやったという達成感もあった。スーダンからウガンダに入ったときもそうだったが、「そんなこと、べつにどうでもいいことではないか…」といわれそうだが、ぼくにとっては命を張ってでもやる価値のあることなのだ。

南イエーメンの歴史

 アデンはアラビア半島の南端、アデン湾に面した港町だ。湾というにはあまりにも広いアデン湾だが、その対岸はソマリアになる。アデンは昔からアラビアとアフリカ、ペルシャ、インドを結ぶ海上交通の要衝の地だった。そのためアデンの支配をめぐる歴史の変遷には目まぐるしいものがある。

 アデンは1513年、ポルトガル領になった。1538年にはトルコ領、その直後にはイエーメンのスルタンの領土になり、1838年にはイギリスの東インド会社に所属した。そしてそのままイギリス領になる。1869年にスエズ運河が開通すると、紅海は西洋と東洋をつなぐ海上交通の一大幹線ルートへと大変身をとげた。アデンの重要度は一気に増し、港湾都市アデンは急速に発展した。

 アデンの周辺は1937年にはイギリスのアデン保護領になり、東はマスカット・オーマン、北はサウジアラビア、イエーメンと国境を接した。それ以前はスルタン(首長)、シャリフ(族長)、アミール(土候)が統治する細分化された領地だった。

 1963年にはアデン保護領とアデン直轄植民地が連合し、イギリスのもとで南アラビア連邦が成立した。イギリスのねらいは石油。ペルシャ湾の石油権益を確保するためには、どうしても軍事拠点としてのアデンが必要だった。アデンの急進的な民族主義の動きを親英的な勢力で押さえ込もうとした。

 アデンは当時としては世界でも最大級の給油基地だった。イギリスの中東軍司令部が置かれ、イギリス空軍最大の基地もあった。さらに商業港としても繁栄していたので、イギリスとしてはどうしてもアデンを手離せなかった。

 しかし、アラブ民族主義の大波はイギリスのアデン支配を激しく揺さぶった。反英闘争はエスカレートし、反英テロが続発した。そしてついに1967年、南イエーメン人民共和国として独立し、1970年にイエーメン人民民主共和国に国名を改め、社会主義の道を歩んでいた。これがおおまかなアデンを中心とした南イエーメンの歴史だ。

北イエーメンの歴史

 一方の北イエーメンは古くからアラビア半島でも一番自然に恵まれたエリアで、「幸福のアラビア」と呼ばれてきたが、16世紀にオスマン・トルコに征服されてトルコ領になった。1918年にトルコ勢力を一掃し、王国として独立すると、イエーメンは鎖国政策をとった。王家は宗教、政治、経済のすべてを牛耳った。

 1962年、民衆の王制への不満はクーデターとなって表れ、王制から共和制に変わり、イエーメン・アラブ共和国になった。それとともに共和国政府はただちに奴隷制度を廃止して奴隷を解放し、開国を宣言した。

 しかし、その後エジプトの支援を受ける共和派と、サウジアラビアの支援を受ける王制派が激しく対立し、内戦になる。世界にも大きな影響を与えたイエーメン内戦である。その内戦も1970年には終結し、1974年のこの時点では、表面的には平静を保っているように見えた。

空港の待合室で寝る

 郵便車はアデン市内を走りまわり、ぼくをイミグレーションのヘッドクォーターに連れていった。郵便車の運転手にはほんとうに世話になった。イミグレーションに着くと、彼はぼくのパスポートと国境の役人からあずかった手紙を係官に手渡した。

 イミグレーションの高官はすでに帰宅していていなかった。ぼくのパスポートと国境事務所からの手紙を受け取った係官はあちこちに電話している。やがて高官に連絡がついたようで、「すぐにチーフオフィサーが来るから」といわれた。

 イミグレーションの高官が来ると、裸電球のともる部屋で調べられた。次から次へと質問を浴びせかけてくる。その結果、高官は「我が国は外国人の陸路での入国を認めていない」といって、入国許可を出してはくれなかった。

 ひととおりの調べが終わると、車に乗せられた。行き先はまったく告げられなかった。深夜のアデンの町を猛スピードで突っ走り、行き着いたところはアデンの国際空港だった。空港待合室に連れていかれ、「ここで寝るように」といわれた。

 ぼくのアデンからの予定は次のようなものだった。ソマリアのベルベラに渡り、そこからは陸路でハルゲイサ→ブラオ→ガローエ→ガルカイオ→ベルトウエンを経由し、首都のモガデシオへ。さらに陸路でケニアに入り、マンデラからワジールを通り、首都のナイロビに戻るというものだった。

 だがこれから先、どうなるかはまったくわからなかったが、とにかく眠ることだと自分で自分にいい聞かせ、快適な空港待合室のソファーに横になった。夜中に2、3便、飛行機が着陸したようだ。そのたびにざわついたが、なにしろ疲れきっていたので、目はさめない。うつらうつらでそのざわめきを聞いた。夜が明け、東の空が白みはじめたところで、目がさめた。夜が明けると目がさめるのは、もう習性のようなものだ。

「タイーズに戻りなさい!」

 まだ、朝も早い時間にイミグレーションの役人が空港にやって来た。前の晩にぼくを取り調べた高官よりもさらに位が上の人だった。彼にはすぐさま、「タイーズに戻りなさい!」といわれた。

「キミはこの空港から一歩も外には出られない。我々としてはトランジっトのビザも発行できない。ここからすぐにタイーズに飛びなさい」

 だがぼくとしても、「ハイ、そうですか」と、簡単に引き下がる訳にはいかない。

「国境のケリッシュではアデンに着いたら16シリング(南イエーメンの通化はディナール。1000フィルスが1ディナールになるが、習慣で50フィルスを1シリングと呼んでいた)払ってビザをもらいなさいって、そういわれましたよ。それなのにどうして空港から一歩も出られないのですか」

「ケリッシュの役人がそんなことをいうわけがない」

「たしかにそういわれました。それにぼくのパスポートと一緒に手紙があったでしょ。それを読んでもらえばすべてわかりますよ」

 ところがイミグレーションの役人は、「そんな手紙はない。私があずかっているのはキミのパスポートだけだ」と手紙の存在を頑強に否定した。ぼくはそれを聞いてすべてを納得した。ぼくの入国を最初から認めるつもりはなかったのだ。

 こうなったら必死になってくいさがるしかない。

「お願いします。どうかビザを発行して下さい。入国を認めて下さい。現に、ぼくはこうしてアデンにいるではないですか。もし、どうしてもダメなら、トランジットでもかまいません。ジプチかソマリアのビザを取ったら、すぐにアデンを離れます」

 しかし無駄だった。高官は一歩も譲歩できないといった頑な態度だった。お互いの間に沈黙の時間がつづく。重苦しい、押しつぶされてしまいそうな重圧だった。

 ついに諦めたかのように高官は出ていった。ぼくはどうしようか…と改めて考えてみたが、タイーズに戻ることは絶対にできない。自分の性分として、戻るということができないのだ。

 その後、2度、3度とイミグレーションの係官がやってきたが、話し合いはつかない。アデンのイミグレーションの主張は「タイーズに戻れ!」の一点張りなのだ。

 とうとう何ら結論が出ないまま、1日が過ぎた。いやになるほど長い夜を迎え、またぼくは空港待合室のソファーで眠った。

「ナイロビに飛ぼう」

 空港待合室で迎えた2日目の朝、ぼくは決心した。

「ケニアのナイロビに飛ぼう」

 もうこれ以上、ねばっても無理だという判断を下した。下手したら拘留されたり、強制的な国外退去の処分を食らいかねない。ナイロビならばケニアのビザを持っているので問題ない。

 そう決めると、さっそくイミグレーションの役人を呼んだ。例の高官が来てくれた。ケニアのナイロビに飛びたいというと、高官は急に顔色を明るくし、
「そうか、そうか」
 といって喜んでくれた。これで背負いこんだ荷物を下ろせるという安堵感が彼の顔には漂っていた。

 すばやい対応だった。イミグレーションはさっそく車を用意し、係官を1人つけ、ぼくを町中のパキスタン航空のオフィスに連れていく。「アデン→ナイロビ」は61ディナール550フィルスでなんと200ドル近くにもなってしまう。痛い出費だったが、仕方ない。これがぼくに残された唯一の方法なのだ。ナイロビまでの航空券を買うと、出発は明後日だった。

 次にイミグレーションのヘッドクォーターに連れていかれ、そこでパスポートを返してもらった。そしてトランジットのビザを発行してもらう。国境でいわれた通りで、ビザ代は16シリングだった。

 南イエーメンへの入国手続きが終わると、イミグレーションの車でホテルに連れていかれた。「20ジュン」という中級といった感じのホテルだったが、2泊分のホテル代はイミグレーションが出してくれるという。ぼくはそのホテルでやっと解放され、自由の身になったのだ。

アデンを歩いて考える

 ナイロビ行きの飛行機が出るまで、アデンをめったやたらと歩きまわった。夜は映画館に行き、インド映画を見た。ぼくは繁栄を謳歌していたころのアデンは知らないが、今のアデンは繁栄とは無縁な町に変わりはてていた。反英闘争の名残で中心街のビルは崩れ落ち、さながらゴーストタウンのようだった。町を歩いていると、やたらと「革命」という言葉を目にし、耳にした。

 アデンには物乞いが多かった。子供の物乞いも大勢いた。金を持っていそうな人たちのまわりにまとわりついている。そんな町を軍人たちが威張り散らして歩いている。秘密警察の私服の警官も多いとのことで、ちょっとおかしな行動をとると、有無をいわせずに警察に引っ張り込み、取り調べをするという。

 町には国営○○会社、国営△△会社、国営××会社と、やたらと国営企業の看板が目立つ。国営にすれば、すべてがよくなると思っているようだ。崩れかかったビル群の上空を銀色の翼を光らせてジェット戦闘機が飛び去っていく。いったい何のための革命だったのか、誰のための革命だったのか…。政府高官やひとにぎりの軍人のための革命だったのではないかとアデンの町を歩きながら思うのだった。

アデンの町並み
アデンの町並み
アデンの町並み
アデンの町並み
アデンの町並み
アデンの町並み
アデンの町の背後には岩山が迫る
アデンの町の背後には岩山が迫る
アデンの町の背後には岩山が迫る
アデンの町の背後には岩山が迫る
アデンの海岸
アデンの海岸
アデンの海岸
アデンの海岸

その向こうへ…

 アデン出発の朝は、7時に「ホテル 20ジュン」を出た。パキスタン航空のナイロビ行きPK745便の出発予定時間は12時25分。南イエーメンのお金はケニアでは両替できないだろうと思い、ディナールを使いきってしまおうと、朝食は優雅にレストランでとった。トーストにハムエッグ、トマトサラダ、それとデザートのプディンだ。

 1時間前には空港に行った。なにか、ものすごく懐かしい。なにしろ2夜連続でここの待合室で泊まったので、顔なじみになった空港職員が何人もいた。カラチを出たパキスタン航空機はアデン空港への到着が遅れ、結局、4時間遅れでの出発となった。アデンの空港を飛び立つと、アラビア半島はすぐに見えなくなり、飛行機は青いアデン湾の上空を飛んでいた。

 飛行機の中では退屈だった。何もすることもなく、目をとじてぼんやりしていた。そして北イエーメンを思い出していた。北イエーメンはおもしろい国だった。長い間、鎖国をしていたからかもしれない。

 エチオピアのアッサブからダウでモカに渡ったとき、そこにまったく違う世界を見た。女たちの姿が消えた。たまに見かけても、黒いベールで顔を覆っていた。男たちはフォータという腰巻きのような布を巻いていた。暑く乾燥しているので、「これが一番、いいのだ」といっていた。その上から太めのベルトをし、青龍刀を小さくしたようなナイフを差し込んでいた。

 ほおにコブのある人がやたらと多かった。最初はほんとうにコブだと思っていた。ところがそのうちに、それがコブではなく、カットという木の若芽をほうばっているということがわかった。カットには覚醒作用があるようだ。

 砂漠地帯の海岸から内陸に入っていくと、2000メートルから3000メートルの山岳地帯に変わり、雨が降り、緑も多かった。「耕して天にいたる」といった感じの見事な段々畑をあちこちで見た。

 北イエーメンは時間をかけ、もっとゆっくりとまわってみたかった。

 いや、北イエーメンばかりではない。しばらく滞在してみたいと思ったところはいたるところにあった。ぼくの今回の旅は世界の6大陸をまわることだ。たえず向こうへ、その向こうへと、旅の歩みを止めることはなかった。それがなけなしの金で世界の6大陸をまわれる唯一の方法だったからだ。だが、それとは正反対に1ヵ所に長く滞在するような旅もしてみたいという気持ちはいつもあった。

「それは、またの機会だな」

 いつもそう自分で自分にいい聞かせながら、ここまで旅をつづけてきた。

 そんなことを考えているうちにパキスタン航空機はアフリカ大陸の上空に入り、やがてナイロビ空港に着陸した。