30年目の「六大陸周遊記」[076]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 6 アアイウン[スペイン領サハラ] → カサブランカ[モロッコ]

町全体が要塞のアアイウン

 スペイン領サハラのアアイウンは、町全体が要塞といった感じだ。モロッコとの国境が風雲急を告げているので、戦力を急速に増大させていた。新しい兵舎があちこちに続々と建てられ、軍用車が町中を頻繁に走りまわっていた。

 アアイウンの町を歩く。そしてまた歩く。自分の足で町をひとまわりした。

 日が暮れると、急速に気温が下がり、ヒンヤリとしてくる。砂漠気候の影響のほかに、大西洋の寒流も影響しているようだ。

 寒さに震えながら、白い教会前のベンチで寝る。寒いのに蚊にやられた…。

緊迫の国境越え

 1974年9月13日、アアイウンを出発。ヒッチハイクでモロッコとの国境を目指す。軍用トラックや戦車部隊が続々と北の国境方面に向かっていく。演習なのか、ドーン、ドーンと大砲の音が聞こえてくる。空には何機ものジェット戦闘機の銀翼が光っている。開戦間近を思わせる光景だった。

 アアイウンから国境までは80キロほど。その間は舗装路だ。途中、2ヵ所に検問所があったが、ピーンと張り詰めた緊張感が漂っていた。

 夕方、国境に着いた。

 スペイン領サハラ側で出国手続きをし、モロッコ領内に徒歩で入っていく。バラックが何棟か、建っている。我慢できないほどの冷たい風が吹いている。

 スペイン領サハラの車はモロッコに入れない。モロッコの車はスペイン領サハラには入れない。そのため両国間の物の流れは、ここ、国境の砂漠地帯で物の受け渡しをするようになっていた。

 戦争同然の状況下でも、両国間の交易はしっかりとおこなわれていた。

サハラ砂漠を抜け出た!

 入国手続きのないまま、モロッコに入っていく。

 荷物を積み込んでいる最中の3台のトラックに頼むと、幸運にも乗せてもらえた。モロッコ側のサハラの玄関口、タンタンまで行くトラックだった。

 積み込みが終ると、荷台の、うず高く積まれた荷物のてっぺんに登る。

 やがて3台のトラックは動き出す。一望千里のサハラの眺め。自分の心の中まで雄大な風景になっていく。

 砂深い道がつづく。トラックは砂にめりこみながら走った。

 小さな砂丘が連続する砂丘地帯。その中をトラックは縫うように走り、北へ北へと進んでいった。

 最後の難関はズボズボの砂道。そこでは何度もスタックしたが、そのたびにシャベルで砂をかき、サンドマットを使って砂地獄を脱出した。

 砂丘群が後に去ると、道は固くなった。砂がずいぶんと少なくなった。その夜、タンタンについた。ついにサハラ砂漠を抜け出たのだ。

 タンタンからは舗装道路になる。グルミン、アガディール、エサウェラ、マラケシュと通り、モロッコ最大の都市、カサブランカに到着した。]

モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
タンタンからは舗装路
タンタンからは舗装路
タンタンからは舗装路
タンタンからは舗装路
グルミン近くの乾燥した風景
グルミン近くの乾燥した風景
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
カサブランカに到着!
カサブランカに到着!
カサブランカに到着!
カサブランカに到着!

30年目の「六大陸周遊記」[075]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 5 ビルモグレイン[モーリタニア] → アアイウン[スペイン領サハラ]

サハラ越えのアフリカ人旅行者

 モーリタニア北部のオアシス、ビルモグレインでは警察に泊めてもらった。

 朝から暑い。警察の前が食堂で、パンとコーヒーの朝食を食べる。砂漠で飲むコーヒーはうまかった。

 バッグがとうとうダメになり、キューバ製の小麦粉を入れる布袋を買う。その中に荷物を突っ込んだ。

 その店は雑貨屋で、店の片隅は床屋になっている。そこで髪の毛をバッサリ切ってもらい、丸坊主同然にした。

 暑くて暑くてどうしようもない。強烈な暑さにやられ、郵便局の建物の影でゴロゴロしている。そこでは何人ものアフリカ人旅行者に出会った。

 セネガル人4人とモーリタニア人1人のグループ。ガンビア人6人のグループ。彼らは全員、アルジェリアのティンドウフに行くトラックを待っているのだ。アルジェリアからモロッコ、スペイン経由でフランスへ。全員がフランスで働きたいといっている。

 飛行機代を払うほどのお金は持っていないので、陸路、サハラ砂漠を越えてヨーロッパを目指すのだ。だが、ビルモグレインからティンドウフに行く車はきわめて少ない。もう1週間以上も待っているという。

 なぜスペイン領サハラ経由でモロッコに入らないのか、と聞いてみた。その方がはるかに交通量は多いのだ。すると、スペイン領サハラはアフリカ人旅行者の入国を認めていないからだという。

流砂を越えて

 その日の午後、スペイン領サハラの首都アアイウンに向かうトラックが、4台一緒になって出発した。そのうちの1台に乗せてもらったが、それらのトラックはアアイウンから来たもので、帰りは空荷だ。

 4台のトラックがサハラを突き進む光景は圧巻。長く延びる砂塵を巻き上げていく。

 流砂地帯を越える。まさに「砂の河」で、1本の川幅は100メートル前後はある。トラックは次々にスタックしてしまう。そのたびに砂を掘り、サンドマットを敷いて砂の河を渡っていく。

 夕日が地平線に近づき、やがて落ちていく。

 夜になると、突然、突風が吹き荒れる。トラックの荷台に乗っているので、小石まじりの砂がビシビシバシバシ顔に当る。

 前方にポツンと小さな灯が見えてきた。それはスペイン領サハラの国境守備隊の要塞だ。その夜は国境の町ゲルタゼムールで泊った。

ビルモグレインを出発。一望千里のサハラを行く
ビルモグレインを出発。一望千里のサハラを行く
木陰で小休止
木陰で小休止
スペイン領サハラの一筋の道を行く
スペイン領サハラの一筋の道を行く
スペイン領サハラの風景
スペイン領サハラの風景
アアイウンの町並みが見えてくる
アアイウンの町並みが見えてくる
首都アアイウンに到着

 夜が明ける。山がちな風景。国境の税関、イミグレーション、警察などはすべて白い建物。スペインを感じさせる洒落た建物だ。

 入国手続きをすませ、首都アアイウンを目指して出発。じきに山々は後方に去り、平坦な砂漠の風景に変わる。

 砂はそれほど多くない。その中に車1台分が通れるくらいの、幅の狭い舗装路が延びている。

 国境から260キロ、スペイン領サハラの首都アアイウンには、まだ日の高いうちに着いた。

 猛烈なのどの渇きにたまらず、店に飛び込み、冷えたコカコーラーをたてつづけに4本飲んだ。まさに生き返るような思い。それとともに、アアイウンに着いた喜びがジワジワと湧き上がってくる。

 このルートでのサハラ砂漠縦断の峠を越えたのだ。

アアイウンに到着
アアイウンに到着
アアイウンに到着
アアイウンに到着

30年目の「六大陸周遊記」[074]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 4 ラゲイラ[スペイン領サハラ] → ビルモグレイン[モーリタニア]

再度、鉄鉱石専用列車に乗る

 スペイン領サハラのラゲイラでは、ジリジリ照りつける太陽のもとで考えた。

 その結果、「もう一度、モーリタニアに入り、チュームに戻ろう」と決めた。

 チュームからはサハラ砂漠を北上し、モーリタニア北部のビルモグレインからスペイン領サハラに入り、首都のアーイウンへ。そしてモロッコに入り、タンタン、アガディール、カサブランカ、ラバトと通ってタンジールへ。タンジールからフェリーに乗ってジブラルタル海峡を越えてアフリカからヨーロッパに渡ろうと決めたのだ。

 ラゲイラからモーリタニアに戻ると、カンサドまで行き、再度、鉄鉱石専用列車に乗り込む。行きは鉄鉱石を満載にした列車は帰りは空だ。

 鉄鉱石専用列車は15時に出発。夕方になると、信じられないことが起こった。なんと稲光が光り、やがて雷鳴が聞こえてくる。そのうちポツポツと雨が降り出した。一木一草もないサハラの雨だ。雨はパラパラッと降って、5分ほどでやんだ。

 真夜中、鉄鉱石専用列車はチュームに停まった。見覚えのある山影が闇の中に、黒ずんで横たわっていた。

 最初はチュームで降りるつもりだったが、気が変わり、終点のズエラート鉄山まで行くことにした。

 翌朝、目をさますと、列車はズエラート鉄山の麓を走っていた。露天掘りの大鉄山だ。列車は停まる。そこからは乗り合いタクシーでズエラートの町まで行った。バラック風の家々が砂漠の中に建ち並んでいる。

カンサドで鉄鉱石専用列車に乗る
カンサドで鉄鉱石専用列車に乗る
はてしなく延びる鉄鉱石専用列車の鉄路
はてしなく延びる鉄鉱石専用列車の鉄路
鉄鉱石専用列車でサハラを行く
鉄鉱石専用列車でサハラを行く
終点のズエラートに到着
終点のズエラートに到着
真昼のサハラを行く

 ズエラートの町の広場には、400キロ北のビルモグレインまで行く2台のランドローバーが停まっていた。そのうちの1台に乗せてもらう。1台の荷台には人と荷物が乗り、もう1台の荷台には羊と山羊が乗った。

 ズエラートを出発したのは10時過ぎ。すでに強烈な暑さだ。まともに熱風が吹きつけてくる。羊と山羊を積んだ方のランドローバーがパンクした。真昼のパンク修理は楽ではない。おまけにそのランドローバーには予備のタイヤは積んでいなかった。人と荷物の乗った方のランドローバーの予備タイヤを使う。

 タイヤは高価なものなので、ボロボロになるまで使う。

 サハラ縦断のトラックでさえ、予備のタイヤを持たないで走ることもある。最新の装備でやってくるサハラ縦断の外国人の目には、信じられないようなことだ。

 これでもう2台のランドローバーには予備のタイヤはない。今度、パンクしたらどうするのだろう…と不安になる。

 だが、その恐れはすぐに現実のものとなった。我々の乗ったランドローバーがパンクしたのだ。タイヤを外し、チューブを引っ張り出し、ゴムのりを使って穴をふさぐ。そのあと、自転車用のポンプで気長に空気を入れる。頭上の太陽は容赦なく照りつける。

 パンク修理が終り、真昼のサハラを走り出す。道は悪い。というよりも、道はないといった方が正確かもしれない。運転手は勝手気ままに砂漠を走っているように見える。

 昼過ぎ、木を見つけると、その下で停まる。火をおこし、お茶をわかす。木のあるところだけ、生の世界が蘇る。フンコロガシが忙しげに動きまわっている。まるで脱色したかのような色の無いバッタが弱々しげに跳ねる。うるさい蝿が飛びまわっている。蜂も飛んでいる。バッタと同じように、サソリにも色が無かった。

 木の枝には小鳥がとまっていた。元気がないなと思っていたら、バタンと枝から落ちた。苦しそう。口をパクパクさせている。そのうちパタンとひっくり返り、そのまま動かなくなった。

 わずかな日影だったが、木の下にいる間はよかった。お茶の時間が終り、出発。灼熱地獄のサハラを行く。所々、かなり砂が深くなる。真っ平な塩原もあった。夕日がサハラの地平線に落る頃、ビルモグレインに到着。熱風は夜になっても吹きやまず、何とも寝苦しかった。

ランドローバーに乗ってサハラを北上
ランドローバーに乗ってサハラを北上
ランドローバーに乗ってサハラを北上
ランドローバーに乗ってサハラを北上
遊牧民のテント
遊牧民のテント
ビルモグレインに到着
ビルモグレインに到着
砂嵐の思い出

 ビルモグレインに到着したのは1974年9月10日のことだった。

 その2年前の1972年にもビルモグレインにやってきた。そのときはアルジェリアの地中海岸の町、オランから南下した。2月に入ってまもなくのことで、寒かった。おまけに連日のように砂嵐に見舞われた。アルジェリアのティンドウフからビルモグレインに向かったときのことである。

2月5日(土)快晴のち砂嵐

 朝の冷え込みが厳しい。トラックの荷台で、毛布を体にギュッと巻きつけ、寝袋に入っている。うっかりすると荷台からころげ落ちてしまうので、神経を使う。

 風景は真っ平な広々としたショット、岩がゴツゴツした台地、美しい砂丘地帯と次々に変っていく。

 昼前から激しい砂嵐。大地をすさまじい勢いで砂が流れていく。視界ゼロ。ザーザーと音をたてて砂が降ってくる。交通量がきわめて少ないので、轍はほとんど消えている。運転手のブジュマさんはそれでもトラックを停める気配はまるでない。

 砂が深く、何度かトラックはスタックして動けなくなる。そのたびにサンドマットを使う。乗客は荷台から飛び降り、トラックを押す。

 夕暮れが近づくと、やっと砂嵐はおさまった。

 夕日が地平線に沈み、きらきらと星が輝く。荒れ狂った砂嵐がまるでうそのよう。

 背の低い木々がまばらにはえているところで止まる。砂の上で火をたく。お茶を飲み、助手のタハットが作った夕食を火のそばで食べる。そのあとまたお茶。しばしの雑談が終ると、砂の上で寝る。寒い。夜中に寒さのため何度も目をさました。

2月6日(日)曇のち砂嵐

 めずらしく雲っている。驚いたことに朝、10分ほどパラパラッと雨が降った。昨日と同じように、昼前から砂嵐になった。ゴーゴーとうなりを上げて砂が舞う。視界はゼロ。一緒に乗っていた3人の遊牧民が、この砂嵐の中でトラックを降りた。

 ブジュマさんの話によると、30キロほど歩いたところに彼らのテントがあるという。いったい何を目印にして、その地点でトラックを降りたのか、いったい何を目標にして30キロも歩いていくのか、この途方もなく広いサハラで…。

 ラクダの背につける鞍と羊の皮袋に入ったわずかばかりの水を持って、彼らは歩き始めた。そんな3人の姿はあっというまに厚い砂のカーテンの向こうに消えた。

山と渓谷社刊の『極限の旅』から

 1972年のときは、このようにしてビルモグレインに着いたのだった。今回の到着は夏。寒さどころか、夜中まで熱風が吹き荒れ、暑くて暑くて寝苦しいほどだった。

30年目の「六大陸周遊記」[073]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 3 アキューズ[セネガル] → ラゲイラ[スペイン領サハラ]

やっとチュームを出発…

 サハラ砂漠のオアシス、アキューズの町に到着したもの、日中は何もできない。日影をみつけ、みんなと同じようにただゴロゴロしている。肌を突き刺し、突き抜けていくような強烈な日差しの前には、なすすべがなかった。

 夕方になると、やっと町に精気が戻ってくる。

 アキューズから一歩も出られないまま、町の広場でゴロ寝した。

 アキューズの2日目。

 町の広場にはチュームまで行くという乗り合いのタクシーが停まった。小型トラックの乗り合いタクシーだ。チュームは鉄鉱石専用列車の停まる駅。

 乗り合いタクシーの運転手はすぐに出発するという。料金は1人500ウギア。日本円で2500円ほど。チュームまでは300キロほどある。

 モーリタニアの物価の上昇は激しかった。1972年の「サハラ縦断」から2年半しかたっていないのに、物価は2倍以上になっている。すべては石油ショックの影響。

 運転手にいわれるままに500ウギアを払った。乗る前に払えというのだ。

 だが、すぐに出発するというのに、なかなか出ようとしない。いまかいまかと出発を待っているうちに昼になってしまう。もうこうなると、日影で昼寝をする以外になかった。

 目がさめても、まだ出発する気配はなかった。

 夕方になって荷台に20人もの乗客と3頭のヒツジ、さらに乗客たちの大荷物を積み込み、やっと出発した。

サハラのオアシス、アタールへ

 チュームに行く前に、アタールに寄るという。道は舗装こそされていないが、それほど悪くはない。砂に埋まることもなかった。

 岩山が見える。山肌に緑はまったくない。遊牧民のテントを2度、3度と見る。小型トラックの荷台で乾いた風を切って乗っているので、猛烈にのどが渇く。

 夕日が地平線に沈みかけると、乗り合いタクシーは停まり、全員が砂漠で礼拝する。
「アラーアクバル(アラーは偉大なり)」と3度唱え、
「ラーイラハイララー(アラーは唯一の神)」
「モハメッドラスララ(マホメットは偉大な預言者)」
 といって皆、ひたいに砂がつくほどにひれ伏し、東のメッカに向かって祈る。

 夜、遅くなってアタールに到着。その夜はアタールに泊まった。

夜明けのサハラを行く
夜明けのサハラを行く
灼熱のサハラを行く

 翌朝、運転手は日が昇ったら出発するといった。だが、アキューズのときと同じように、なかなか出発しない。アタールの町を車でグルグルとまわる。きっと乗客と積荷を探しているのだろう。

 ラクダの市場、ヤギやヒツジの市場、ロバの市場と家畜市をまわっていく。

 とうとう午前中には出発しなかった。

アタールの町
アタールの町
アタールの町
アタールの町
アタールのラクダ市
アタールのラクダ市

 また、どうせ日が落ちたころ出発するのだろうと思っていたら、なんと、猛烈に暑い昼過ぎにチュームに向かって出発した。

 炎天下、小型トラックの荷台に乗っているので、頭がズキズキ痛んでくる。それほどの日差しの強さだ。乗客の多くは頭から黒い布をすっぽりとかぶっているが、あまりの暑さに頭を抱え込み、うめき声をあげている人もいる。

 何ということ。砂漠の民なのに。これが文明なのか。

 灼熱のサハラでラクダとともに暮らしていた頃は、火のように焼けた砂の上を平気な顔をして裸足で歩いていたというのに…。いったん楽な生活になじんでしまうと、人間は弱くなる。

 アタールの周辺には小さなオアシスが点々とあった。ナツメヤシの緑が目にしみた。

 峠を越える。もうひとつの峠を越え、平地に降りていった。すると砂が深くなった。車の速度は極端に落ち、何度か深い砂にスタックした。そのたびに乗客は荷台から降り、車を押すのだった。

 日が暮れかかった頃、チュームに着いた。

チュームへの道
チュームへの道
乗り合いタクシーの荷台を降りて小休止
乗り合いタクシーの荷台を降りて小休止
猛烈な暑さ。木陰で休む
猛烈な暑さ。木陰で休む
チュームに近づく
チュームに近づく
サハラの鉄路

 モーリタニアはリベリア、南アフリカと並ぶアフリカ有数の鉄鉱石の産地。鉱山はチュームの北、約200キロのフーデリックからズエラートにかけての山塊である。サハラの上にポコッと鉄山がのった感じの鉱山だ。

 ズエラートから鉄鉱石専用の鉄道が、積み出し港のカンサドまで通じている。4台のジーゼルカーにひかれた鉄鉱石専用列車は、全長2キロにも達する。

 ズエラートとカンサドの間では、チュームのように何ヵ所かで停車する。その列車には誰でも自由に無料で乗れる。

 ぼくはチュームからこの列車に乗ってカンサドまで行き、隣合ったスペイン領サハラに入るつもりだった。スペイン領サハラのラゲイラ港から船でカナリー諸島のラスパルマスに渡るつもりにしていた。

 まだ日の残っているころ、カンサドに行く列車が着いた。

 鉄鉱石を満載にした150両ほどの大型の貨車。鉄鉱石の上によじ登り、サハラを見渡す。列車はすぐに動き出し、「ガシャガシャガシャーン」と、連結器の音が次々と伝わっていく。

 真ん中あたりに乗ったのだが、列車の先頭と後ろを同時に見るのは容易ではなかった。それほどこの鉄鉱石専用列車は長かった。

チュームで鉄鉱石専用列車に乗る
チュームで鉄鉱石専用列車に乗る
夕暮れのサハラを行く列車
夕暮れのサハラを行く列車
国境を越えて…

 万里の長城を思わせるような鉄鉱石専用列車はサハラをひた走る。鉄鉱石の赤い粉が舞う。あっというまに粉まみれになる。暮れゆくサハラ。日が落ち、星が見えてくる。満天の星空。鉄鉱石の上にシートを広げ、寝袋を敷く。鉄鉱石から伝わる冷気を感じながら眠りについた。

 夜が明ける。ほこりまみれになった寝袋とシートをたたむ。冷たい風を切って走るので寒い、寒い。ひとつひとつが独立した砂丘群が見えている。

 日が高くなると、真っ青な大西洋が見えてくる。列車はカンサドの選鉱所の前で停まり、そこで降りた。

 カンサドと隣合ってワディブーの町がある。白っぽい家並み。

 ワディブーから乗り合いタクシーで、スペイン領サハラのラゲイラに向かった。国境は信じられないことだったが、フリーパス同然。スペイン領サハラの独立か、それともアルジェリアかモロッコかモーリタニアへの帰属か、それとも分割しての帰属かともめにもめている地域とは思えなかった。

 ラゲイラに着いてガックリ…。何とカナリー諸島への船は前の日に出てしまった。次の船は15日後だという。

モーリタニア側のワディブーの町
モーリタニア側のワディブーの町
スペイン領サハラ側のラゲイラの町
スペイン領サハラ側のラゲイラの町

30年目の「六大陸周遊記」[072]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 2 サンルイ[セネガル] → アキューズ[セネガル]

国境のセネガル川

 セネガルの古都サンルイからモーリタニア国境へ。100キロほどの距離がある。車に乗せてもらえないまま、北に向かって歩いた。南京豆畑。枯れた木を多く見る。乾燥した風景。やっとオンボロのルノーに乗せてもらう。その車は何度も調子が悪くなり、そのたびにエンジンを見る。やっとの思いで国境の町、ロッソに着いた。

 目の前にはセネガルとモーリタニアの国境のセネガル川が悠々と流れている。この川を渡ってモーリタニアに入れば、そこはもうサハラ砂漠の世界だ。

 1972年の「サハラ縦断」がなつかしく思い出される。

 そのときは今回とは逆に南下したが、セネガル川の流れと河畔の緑を見たときは大感動で、「おー、水だ、緑だ!」と、裸になってセネガル川に飛び込んだ。砂漠を見つづけてきた目には、セネガル川の流れはあまりにも強烈だった。

セネガルとモーリタニアの国境を流れるセネガル川
セネガルとモーリタニアの国境を流れるセネガル川
セネガルとモーリタニアの国境を流れるセネガル川
セネガルとモーリタニアの国境を流れるセネガル川
セネガル川をフェリーで渡るトラックの列
セネガル川をフェリーで渡るトラックの列
セネガル川を渡るカヌー
セネガル川を渡るカヌー
セネガル川を渡るカヌー
セネガル川を渡るカヌー
セネガル川で洗濯する女性
セネガル川で洗濯する女性
モーリタニアに入る
モーリタニアに入る
モーリタニアの首都ヌアクショット

 セネガル側のロッソには、フェリーを待つトラックの長い列ができていた。それを見ながらカヌーで対岸のモーリタニア側のロッソに渡る。セネガルの出国手続き、モーリタニアの入国手続きはじつに簡単なもの。それだけ両国の人の行き来、物の行き来が多いということなのだろう。

 セネガル川を渡ると、急激に緑が薄れる。脳天を焼き尽くすような暑さ。炎天下を歩きはじめたが、じきに首都ヌアクショットまで行く役人のプジョーに乗せてもらえた。車は120キロぐらいのスピードで突っ走る。

 あっというまに砂漠の風景に変っていく。

 国境からヌアクショットまでは200キロほど。2時間もかからずに到着した。

 真昼のヌアクショットの暑さは言葉ではいい表せないほど。歩く気力をなくし、夕方になるまで、町の中央の市場でゴロゴロしていた。

 ここでも1972年の「サハラ縦断」がなつかしく思い出された。そのときは猛烈な砂嵐に見舞われた。白っぽい砂ですっぽりと覆われた町の姿はまるで雪気色。大通りを除雪車ならぬ除砂車が忙しげに動きまわっていた。

モーリタニアの首都ヌアクショットに到着
モーリタニアの首都ヌアクショットに到着
炎天下のヌアクショット
炎天下のヌアクショット
ヌアクショットからアキューズへ
ヌアクショットからアキューズへ
炎天下のヌアクショット
炎天下のヌアクショット
遊牧民のテントで泊まる

 すべてを焼き尽くすような太陽が西の空に傾く。やっと歩けるような状態になり、ヌアクショットを出発する。

 じつにラッキーなことに、歩き出して間もなく、乗せてもらえた。その車はアキューズへの手前で舗装路を外れ、砂漠の中を走る。

 前方に遊牧民のテントが見えてきた。井戸があり、砂漠の民のモール人がラクダやヤギ、ヒツジに水を飲ませていた。ぼくを乗せてくれた人は遊牧民のテントをまわる行商人のようだ。

 とあるテントに連れていかれる。2本の丸太を柱にし、ラクダの毛で編んだ布を屋根にかけている。同じくラクダの毛で編んだ絨毯がテントの中に敷かれている。

 お茶をいただく。中国製の緑茶だ。それに砂糖を入れて飲む。

 お茶のあとは礼拝。テントから外に出、砂の上にひれ伏し、メッカの方角に向かって祈る。礼拝が終ると夕食。客人をもてなすためなのだろう、羊肉が出た。

 夜はそのテントで泊めてもらう。

 夜中に突風に見舞われ、テントは飛ばされた。あわてて飛び起きたが、遊牧民たちは驚きもしないで平然とした顔をしている。テントなどは簡単に建てられるからだ。やがて何事もなかったように風はやんだ。見上げる空は満天の星空だった。

アキューズに到着

 サハラの夜明け。砂漠をほんのりと白く浮き上がらせ、やがて空一面に色づいてくる。地平線に昇る朝日。すべてのものを焼き尽くす真夏のサハラの1日の幕が切って落とされた。

 遊牧民のテントを出発。砂漠の中を走り、やがて首都ヌアクショットと銅山のあるアキューズを結ぶ舗装道路に出る。

 ヌアクショットから250キロのアキューズに到着。ここまでが舗装路だ。

 この先、もうヒッチハイクはできない。お金を払って車に乗せてもらうしか、方法がない。いよいよ厳しいサハラの旅がはじまった。

30年目の「六大陸周遊記」[071]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 1 ダカール[セネガル] → サンルイ[セネガル]

大西洋の砂浜で考える

 アフリカ大陸最西端、セネガルのダカールに到着した日は、大西洋の砂浜で野宿した。寄せては返す大西洋の波を見ていると、通り過ぎてきた西アフリカの国々がしきりと思い出された。そして「国境とは?」と考えてみるのだった。

 西アフリカの小さな国々を旅していると、パスポートがなくても、ビザがなくても、自由に国境を行き来できればいいのにと何度、思ったことか。国境に近づき、国境を越えるたびに厳しく調べられたからだ。

 まるでなにか、悪いことでもしたかのような容疑者扱いで調べられると、そのたびに心は重くなる。また調べられるのではないかと思うと、気持ちは萎縮し、おどおどしてしまう。

 西アフリカの場合、国があまりにも細分化されすぎてしまった。それはアフリカを植民地にしたヨーロッパ諸国の罪にほかならない。

 植民地を支配しやすいようにと、そこに住む人たちの生活や文化などはまったく無視し、地図上にかってに線を引いた国境線。その目に見えない国境線でアフリカはズタズタにされてしまった。民族もいたるところで分断された。

 アフリカ諸国は独立後、それぞれの国の利益しか考えずに、隣国をののしったり、攻撃している。

 日本という国は、そういう面では恵まれている。島国なので、国境というと、海のはるかかなたになる。国境にあこがれを感じても、さしせまった問題として、国境に脅威を感じることはない。

 また、住んでいる民族も大半が日本人で、共通の日本語という言葉がある。たとえ方言の違いはあっても、日本語さえ話せば、日本中で何の不自由もなく意志を通じ合わせることができる。

 ところが西アフリカ(東アフリカでもそうだが)ではそうはいかない。

 ひとつの国の中にも、いろいろな民族が住み、いろいろな言葉が使われ、さらに国境線でズタズタに切り裂かれている。そのために起きる問題はあとを絶たない。

 西アフリカのそんな現実を見ると、国というものがほんとうに必要なものなのだろうかと考えさせられてしまう。

 世界中がひとつになったら、地球上から国境線が消えたら、それこそいうことはない。ところがそんな理想からはどんどんとかけ離れ、より細かく国は細分化されている。

 民族の血というものが、あまりにも濃すぎるからだろうか。

ダカールでの出会い

 翌日はダカールの町へ。

 モーリタニア大使館でビザを申請し、そのあとはダカールをプラプラ歩いた。

 町の公園では真野さん、村松さん、尾身さんの3人の日本人に出会った。真野さんはマグロ船の航海長、村松さんは機関長。尾身さんは通訳だ。

 4人で尾身さんの泊まっているホテルに行き、ビールを飲みながらいろいろと話した。尾身さんは「漁船員のみなさんは飾り気がまったくないので、話していてもすごく気持ちいい」といっていた。

 夕食をごちそうになり、ビールや日本酒、ジョニ黒を飲ませてもらった。漁船のコック長がおにぎりを届けてくれたが、それがまた、飛び切りのうまさだった。

 何ヵ月もの長い航海のマグロ漁なだけに、操業中のトラブルは多いという。限られた人数の狭い世界。人間関係がとくに難しいという。操業中に解雇され、日本に帰るようなケースもあるという。真野さん、村松さんの乗った船の船長はひどい皮膚病にやられ、操業半ばで日本に帰ったとのことだが、病気の不安も大きい。

 その夜は結局、夜通しの飲み会になり、尾身さんの部屋で全員、寝かせてもらった。

セネガルの首都ダカールを歩く
セネガルの首都ダカールを歩く
セネガルの首都ダカールを歩く
セネガルの首都ダカールを歩く
ダカール港の思い出

 日本人のみなさんに別れを告げ、なつかしのダカール港へ。岸壁に立つと、胸がジーンとしてくる。

 1968年から69年にかけての「アフリカ一周」では、モロッコのカサブランカ港で愛車のスズキTC250ともどもフランスの客船に乗り、ダカール港で下船した。

 ほんとうは一番西のルートでサハラ砂漠を縦断し、今回とは逆のコースでモーリタニアからセネガルに入りたかったのだが、その自信がなく、断念したのだ。

 あのときの「サハラ砂漠縦断」をできなかった悔しさと、ダカール港に降り立ち、「さー、これから西アフリカだ!」といった気持ちの高ぶりがまるで昨日のことのように蘇ってくるのだった。

 1971年から72年にかけての「サハラ砂漠縦断」では、アルジェリアからモーリタニア経由でサハラ砂漠を縦断し、ダカールにやってきた。サハラ砂漠縦断のバイク、スズキ・ハスラーTS250をアルジェであずかってもらい、今回と同じようにヒッチハイクでサハラを南下したのだ。そのときは自分一人ではなく、フランス人旅行者のベルトランと一緒。ダカールには4日、滞在し、船でダカール港沖のゴレ島に渡った。

 そんな思い出のシーンが次から次へとまぶたに浮かんだ。

古都サンルイ

 モーリタニアの大使館でビザを発給してもらうと、ダカールを出発。北のサンルイに向かう。強烈な日差しのもと、ダカール市内からカオラックに通じる道を歩いていく。あまりの暑さに頭がくらくらしてくる。1時間以上歩き、郊外に出たところでヒッチハイクを開始。まずはティエスへの道との分岐点まで乗せてもっらた。

 そこからサンルイへ。

 北に向かうと風景はどんどん乾燥してくる。サハラ砂漠に近ずいているのがよくわかる。暑さは一段と厳しくなる。

 南京豆の畑が目立つようになる。

 何台かの車に乗せてもらい、夕方、ダカールから270キロのサンルイに到着。サンルイの町はセネガル川河口に浮かぶ小島、サンルイ島にある。

 この町は1885年にフランス領西アフリカの首都になり、それ以降、西アフリカでは最大の都市になった。サンルイにはそのような古都の面影が濃く残っていた。この町はまた北のイスラム教と南のキリスト教の接点を強く感じさせた。

 イスラム教のモスクからはコーランが流れ、キリスト教の教会からは賛美歌が聞こえてきた。町中の屋台で夕食を食べ、ダカール同様、大西洋の砂浜で野宿した。

ダカールを出ると、街道沿いには雑穀畑が広がる
ダカールを出ると、街道沿いには雑穀畑が広がる
北のサンルイへの道
北のサンルイへの道
風景はどんどん乾燥してくる
風景はどんどん乾燥してくる
一面の南京豆畑
一面の南京豆畑
セネガル川の河口にかかるサンルイ島への橋
セネガル川の河口にかかるサンルイ島への橋
セネガル川河口の風景
セネガル川河口の風景

30年目の「六大陸周遊記」[070]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 19 クンダラ[ギニア] → ダカール[セネガル]

国境の町クンダラ

 ギニア北西端の町、クンダラまでやってきた。

 ここからどうやってセネガルに入るかが、大問題だ。ギニアとセネガルは国交を断絶しているので、両国を結ぶ交通はまったく途絶えている。道はあるが、雨期の大雨のために、ひどい状態だという。

 クンダラではギニア政府の役人にいろいろと世話になったが、彼らから得た情報ではPAIGCのトラックが1台、近日中にセネガルに行くかもしれないという。

 PAIGCというのはポルトガルからの独立を目指すギニア・ビサウの解放戦線。ギニア、セネガルの両国内にキャンプ地があるので、それらを結ぶトラックだという。クンダラはまさに要衝の地でセネガル国境にもポルトガル領ギニア国境にも近い。ともに50キロほどの距離でしかない。

独立目前のギニア・ビサウ

 ギニア政府の役人はクンダラの町外れにあるPAIGCのキャンプ地に連れていってくれた。そこでは迷彩色の戦闘服に身を固めたコマンドに紹介された。何ともラッキーなことに、セネガルに向かうトラック1台がまもなく出発するという。それに乗せてもらえることになった。

 キャンプ地には不思議なほどの、明るい空気が流れていた。戦闘でいつ死ぬか、わからない兵士たちだったが、これが独立を目指す強さというものなのだろう。多数の人命を失いながらも、厳しい弾圧を打ち破ってここまでやってきた彼ら、戦士たち。

 世界最後の植民地帝国のポルトガルはギニア・ビサウの激しい独立運動を力でもって制しようと、大量の軍隊を投入した。結局、それが命とりになり、ポルトガル本国の財政を著しく圧迫した。ポルトガルに革命をもたらし、ギニア・ビサウの独立を認めざるをえない状況に追い込まれていた。

戦車と衝突…

 1974年8月31日、クンダラを出発。PAIGCのトラックはスウェーデンのボルボ製。中国、デンマーク、スイスなどからの支援物資や食糧、武器弾薬を満載にしてセネガルのカサマンス川河口の町、ジギンショールに向かった。

 荷台のてっぺんに解放戦線の若い兵士たちと一緒に座る。

 クンダラを出てまもなくのことだ。前方にタンクローリーが立ち往生している。水溜りにめり込み、動けない状態だった。ナンバープレートにはFFの文字。やはりPAIGCのものだった。

 幸いなことに、ギニア・ビサウ国境に向かうギニア陸軍の大型戦車が通りがかった。この戦車がワイヤーを使ってタンクローリーを泥沼の中から引っ張り出してくれた。さて、出発しようかと動き出したとき、今度は我々の乗ったトラックが泥沼にめり込んでしまった。

 すでに動き出していた戦車に向かってクラクションを鳴らすと、戦車は気がつき、ガシャガシャガシャガシャとキャタピラーの音を響かせ、戻ってきてくれた。

 戦車がトラックの横をすり抜け、後に出ようとしたとき、トラックの全部と衝突してしまった。トラックはあまりにももろく、まるで紙細工のようにバリバリッと音をたて、ボンネット、フロントガラス、ドアなどがメチャクチャになった。

 戦車はそんなトラックを泥沼の中から引きずり出した。そのあとで、トラックが動けるように、車輪にひっかかったカバーを引っ張りはがす。トラックのダメージは見た目ほどは大きくなく、走るのには支障がなかった。

国境通過!

 ギニア側最後の集落で出国手続き。ここで何度も役立たせてもらった内務省発行の許可証を返した。

 その村を出るとすぐに国境。ポツンと白いペンキで塗った小塔が立っていた。

 ついにセネガルに入った!

 ギニア側の道もひどかったが、セネガル側はそれ以上。湖のような水溜まりが連続する。交通量はまったくといっていいほどなかった。

 最初に現れた小さな村で入国手続き。PAIGCの兵士たちと一緒だったせいか、フリーパス同然。ギニアとセネガルは国交を断絶しているが、両国はPAIGCに対しては最大限の支援をしている。

 日が暮れ、夜になると、激しい雷雨に見舞われた。トラックの荷台の上で我々はずぶ濡れになり、落雷に震えた。

 夜遅く、ガンビア国境近くのベリンガラに到着。そこにあるPAIGCのキャンプ地でひと晩、泊めてもらった。解放戦線の戦士たちと一緒に遅い夕食を食べたが、ギニアからセネガルへと、大きな難関を突破した喜びで、悪路のトラック旅の疲れなど一気に吹き飛ぶ満足感だった。

27歳の誕生日

 翌朝、PAIGCのキャンプ地で朝食をご馳走になり、そのあとみなさんと別れた。トラックはカサマンス川河口のジギンショールまで行くが、ぼくはここから小国のガンビア経由でセネガルの首都ダカールに向かうつもりだった。

 戦車に衝突し、痛々しい姿になったトラックだが、運転手はブーブー、ブーブーと盛大にクラクションを鳴らしてぼくを見送ってくれた。

 セネガルからいったんガンビアに入る。

 ガンビア川沿いのバセサンタスの町で入国手続きをし、ガンビア川沿いに南下。首都のバンジュールを目指す。トウモロコシや南京豆の畑が広がっている。

 ガンビアはセネガル内に楔を打ち込んだかのような細長い国。国の中央をガンビア川が流れている。

 バンジュールに着いたのは9月1日。

 ここまで乗せてくれた乗り合いタクシーの運転手、まだ若いベジェコの家で泊めてもらった。この日はぼくの27歳の誕生日。20歳のときに「アフリカ一周」に旅立って以来、海外で迎える6度目の誕生日だった。

 夕食をご馳走になったが、ベジェコには誕生日を祝福された。ガンビアは旧英領なので、うれしいことに英語が通じる。

ガンビアに入国。南京豆の畑が広がっている
ガンビアに入国。南京豆の畑が広がっている
バセサンタスの町
バセサンタスの町
バセサンタスの市場
バセサンタスの市場
バセサンタスの市場
バセサンタスの市場
バセサンタスの乗り合いタクシー乗場
バセサンタスの乗り合いタクシー乗場
ガンビア川の流れ
ガンビア川の流れ
ガンビア川の流れ
ガンビア川の流れ
ガンビア川の流れ
ガンビア川の流れ
ガンビア川沿いの村の風景
ガンビア川沿いの村の風景
ベジェコ(前列左)の乗り合いタクシーでバンジュールに到着
ベジェコ(前列左)の乗り合いタクシーでバンジュールに到着
バンジュールの町並み
バンジュールの町並み
バンジュールの町並み
バンジュールの町並み
ガンビア川河口を渡るフェリー
ガンビア川河口を渡るフェリー
ガンビア川の河口
ガンビア川の河口
ダカールに到着!

 バンジュールはガンビア川河口の町。

 翌日はベジェコに見送られ、フェリーで対岸に渡る。大西洋に流れ出る直前のガンビア川は川幅を広げ、海のような広さ。対岸までは30分以上かかった。

 対岸に渡ると、再度セネガルに入り、カオラックからダカールへ。乗り合いタクシーに乗った。

 1974年9月2日の夕刻、セネガルの首都ダカールに到着。オーストラリアからアフリカに渡って以来、すでに9ヶ月が過ぎていた。

 アフリカ大陸最西端のベルデ岬の海岸に立ち、大西洋を眺めていると、その間の過ぎ去っていった数々の思い出が一気によみがえってきた。

カオラックの乗り合いタクシー乗場
カオラックの乗り合いタクシー乗場
カオラックの乗り合いタクシー乗場
カオラックの乗り合いタクシー乗場
カオラックの乗り合いタクシー乗場
カオラックの乗り合いタクシー乗場
セネガルの首都ダカールに到着!
セネガルの首都ダカールに到着!

30年目の「六大陸周遊記」[069]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 18 コナクリ[ギニア] → クンダラ[ギニア]

信じられない出来事

 ギニア高地の町ラベから首都コナクリに強制送還され、内務省内の秘密警察本部に連れていかれた。そこでしばらく待たされたが、やがて40過ぎの長官がやってきた。強面の人を想像していたが、やさしいオジサンタイプの人だった。

 長官に連れられ、彼の部屋に入る。

 何をいわれるのか…、心がすこしも落ち着かない。

 ところがそのあと、信じられないことが起きた。

 長官は封筒に入れられたぼくのパスポートに目を通し、英語でひととおりのことを聞くと、
「キミはもう、クンダラに行くつもりはないのかね」
 というではないか。

 驚いて聞きなおすと、
「ラベの知事から電報が入った。キミをどうしたらいいだろうか…と。そこで私は考えた末に、その日本人旅行者をクンダラまで行かせるように、そしてセネガルとの国境を越えてよいという許可証を出すようにと、今朝、返電したところだった。残念ながらひと足違いだったね。いやー、ほんとうにびっくりしたよ。日本人はカミカゼで知っていたけど、カミカゼ通りの命知らずだ」
 といって笑う。

 ぼくはもううれしさを隠すことができなかった。

「どうもありがとうございます。どうかクンダラに行かせてください。クンダラからはセネガルに向かいたいと思います」
 といって、長官と固い握手をかわした。

内務省の賓客になる!

 その日は土曜日だったが、月曜日になったら、クンダラまで行く許可証、そこから国境を越えてセネガルに行く許可証を出してくれるという。

 そのあと長官はぼくを彼の家に連れていき、
「アピエ! トゥールドゥモンデ!(歩いて世界一周してる!)」
 といって奥さんに紹介する。

「この日本人青年はクンダラからセネガルに入ろうとしたんだ!」

 奥さんの手料理の昼食をご馳走になったあと、コナクリで一番立派なホテル「インディペンダンス」に連れていってくれた。

 長官は「(ホテル代もホテルのレストランでの食事代もすべて内務省が払うので)何も心配することはない」といった。

 これではギニア内務省の賓客になったようなものだ。

ラベに戻る

 月曜日、内務省の係官がホテルにやってきて、長官の部屋に連れていかれた。

 そこでパスポートに1ヶ月のビザをもらい、それとは別にギニア全土を自由に旅してもよい、クンダラに行ってもよい、国境を越えてセネガルに行ってもよいといった内容の許可証を発行してもらった。

 長官がサインしたこの許可証の威力は絶大なものだった。

 長官にお礼をいって、握手をかわし、ラベへ。

 ラベまでは内務省が用意してくれたタクシーだ。それもオンボロタクシーではない。新車並みのタクシーで、ラベまでは高速で一気に突っ走り、昼過ぎには着いた。

 前に来たときとはうってかわって、VIP並みの扱いを受ける。

 警察のオートバイの先導で知事の公舎に連れていかれた。大広間ではこのエリアの重要人物が集まり、食事をしていた。

 ぼくにも一緒に食べるようにと席を与えられた。

 大広間にはマルクス、レーニン、スターリン、ゲバラ、エンクルマ、PAIGC(ギニア・ビサウ解放戦線)の党首、ギニア反植民地闘争の勇士の写真がセク・トーレギニア大統領の写真とともに飾られていた。

 その夜は賓客用のガバメント・ハウスに泊めてもらった。

クンダラに到着

 翌早朝、クンダラまで行くトラックに乗せられた。それも荷台ではなく助手席だ。クンダラまでのトラック代も1銭も払わなかった。ラベの知事がすべてやってくれたことなのだ。

 岩肌の露出した山道を行く。トラックは激しく揺れた。山地から平地に下りると、雨期の影響であたり一面、水をかぶっていた。まるで湖の中を行くようだ。盛土した道なのでかろうじて走れた。

 クンダラには夜になって到着。ラベと同じように知事公舎に連れていかれ、知事と一緒に夕食を食べた。その夜はやはりラベと同じように、賓客用のガバメント・ハウスに泊めてもらった。これらはすべて内務省の長官のサインの入った許可省のおかげなのだ。

30年目の「六大陸周遊記」[068]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 17 コナクリ[ギニア] → コナクリ[ギニア]

大雨のコナクリを出発

 1974年8月19日、ギニアの首都コナクリを出発。セネガルの首都ダカールを目指す。マモウ、ラベ、クンダラと通ってセネガルに入るつもりだったが、はたしてうまく国境を越えられるかどうか…。自信はなかったが、やるだけやってみるだけ。ダメだったらそのときはそのときのことだ。

 ギニアではヒッチハイクをするつもりはなかった。

 各地での検問は厳しく、フラフラ歩いていたら、捕まってしまいそうなピリピリ感が漂っていたからだ。おまけにビザは48時間のトランジトなので、それがみつかったらまずいという思いもあった。

 雨期のコナクリ。何度も大雨が降る。空一面に張り付いたぶ厚い雨雲に押しつぶされそうになる。

コナクリの教会
コナクリの教会
乗り合いタクシーに乗る

 コナクリのタクシー乗場からマモウ行きの乗り合いタクシーに乗った。距離は300キロほど。車はプジョーのワゴンタイプで、前に2人、真ん中に4人、後ろに3人と、ぎゅう詰め状態。

 マモウまで料金は300シリー。1シリーは公定のレートだと13円なので、3900円にもなる。ところが闇のレートだと約1円なので、300円ほどでしかない。

 日本の新聞に世界で最も物価の高いのは東京とコナクリだと出ていたが、確かに公定レートだとそうなのだろう。しかし闇レートで両替すれば、それほど高くはない。

 コナクリからマモウの間では、何度か検問所を通過した。そのたびにパスポート、荷物を調べられた。48時間のトランジトビザが気がかりだったが、その件に関しては何もいわれなかった。

西アフリカの水ガメ

 コナクリとマモウの中間のキンディアに到着。キンディアの周辺には世界的なボーキサイトの鉱床が確認されている。

 乗り合いタクシーの乗客のうち、何人かはここで降りる。降りた人数分だけ客を乗せ、満員になったところで再びマモウを目指して走り出した。

 乗り合いタクシーはギニア中央部の山地に入っていく。このギニア高地こそ、西アフリカの水ガメのようなところ。西アフリカの大河、ニジェール川、セネガル川、ガンビア川はすべてギニア高地を水源にしている。

 雨期なので、よけいにギニア高地は青々としていた。

マモウの休日

 マモウには夕方に着いた。

 町の入口にある日本工営のキャンプ地で乗り合いタクシーを降りる。コナクリで紹介されてやってきた。

 ここには2人の若い日本人社員がいて、大歓迎された。さっそく夕暮れ迫るマモウの町をすみずみまで案内してもらった。

 60年前にギニアに入植したというレバノン人商人とも話したが、老人はぼくがカタコトのアラビア語で話したことをすごく喜んでくれた。

 その夜は日本食の夕食をご馳走になったあと、2人の日本人社員と夜遅くまで話した。思いっきり日本語を話せて、胸がスーッとする思いだった。

 ギニアはリベリア国境のニンバ山(1752m)とコートジボアール国境近くのシマンドゥ山(1340m)の高品位の鉄鉱石積み出しと国内の交通網整備を兼ね、新しい鉄道を計画中だった。日本工営はその鉄道建設の調査をしていた。

 翌日は「遠足に行こう!」といってくれ、マイクロバスでフータジャロン山地のキンコンの滝まで連れていってくれた。

 キンコンの滝はマモウからラベに行く途中のピタの近くにある。

 平均高度が1000メートルを超えるフータジャロン山地(最高は1515m)には霧がかかり、ひんやりした空気が流れていた。ここはギニア高地の中でもその中心といえるようなところ。中国の援助で完成したダムと発電所を見学し、そして深く険しい峡谷に分け入り、岩壁から水が束になって流れ落ちるキンコンの滝を見た。激しく水しぶきが飛び散ってくる。滝の展望台の岩にはタンザニアのニエレレ大統領、エジプトのナセル大統領、コートジボアールのボワニ大統領、セネガルのサンゴール大統領がこの滝を見にきたことが記されていた。

 マモウの宿舎に戻ると、前夜と同じように、日本食の夕食をご馳走になり、そのあとは夜が更けるまで2人の若い日本人社員と話した。

 最高に楽しいマモウの休日だった。

ラベのトラック

 マモウからはいまにも壊れそうな(実際、途中で何度も壊れ、そのたびに修理した)オンボロタクシーで、150キロ北のラベに向かった。途中のピタまでは前日通ったのと同じ道だ。

 ラベには昼過ぎに着いた。ちょうど運よく、セネガル国境に近いクンダラまで行くトラックがあった。

 そのトラックはすぐに出るという。荷台には15人ほどの乗客が乗っていた。クンダラまでは悪路がつづくとのことで、距離は300キロもないのだが、30時間以上はかかるという。

 積荷がなかなか集まらないようで、すぐに出るといっていたトラックはなかなか出ない。そのうちに日が暮れ、夜になる。出発は朝になるとのことで、その夜はトラックの荷台でゴロ寝した。

 夜が明ける。バナナや焼きトウモロコシ、野菜や肉、日用雑貨などが売られている市場に人が集まってくる。乗り合いタクシーやバス、トラックの出る広場はにぎわいをみせはじめる。すっかり明るくなっても、まだトラックは出ない…。

 トラックが動き出したのは昼近くになってからのことだった。

マモウから乗ったオンボロタクシー
マモウから乗ったオンボロタクシー
ギニア高地の風景
ギニア高地の風景
ラベを出られない…

 クンダラまで行くトラックがラベの町をまだ出ないうちに、警官に停められた。

 乗客と積荷が調べられたあと、ぼくだけがトラックから降ろされた。トラックは走り去っていく。クンダラがいっぺんに遠くなる。

 警察に連れていかれた。机と椅子がポツンとある部屋で、パスポートを調べられ、荷物を調べられた。そのあとは、
「どこから来た?」
「何しに来た?」
「ここからどこへ行く?」
 と、矢継ぎ早にフランス語で質問される。

 一応の調べが終ると、警官はぼくのパスポートをポケットに入れ、
「しばらく預かっておく」
 と言い残して部屋を出ていった。

 長い時間、粗末な木の椅子に座っている。もうやりきれなくなってくる。クンダラはいよいよ遠くなっていった。

コナクリへの強制送還

 2時間ほど待たされただろうか、警官はやってくるなり、ぼくを別な建物に連れていく。そこでは何を聞かれるということもなく、ただ待たされるだけだった。何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。時間だけがどんどんと過ぎていき、とうとう夜になってしまった。

 その夜は建物内のベンチでゴロ寝。何も食べていないので腹が減った…。

 翌日、それも昼近くになって、やっと迎えの人が来た。連れていかれたのは知事の公舎だった。これから起きるであろうことを瞬間的に予感し、暗い気持ちになった。

 まだ若い30代ぐらいの知事がやってきた。英語を話せる通訳も一緒だ。
 通訳が、
「キミはクンダラに行くことはできない。政府の車でコナクリに送り返されることになった」
 と、きわめて事務的に告げた。

 セネガル国境の町クンダラは、同時にポルトガル領ギニア国境の町でもある。国境を越えて攻めてきたポルトガル軍とポ領ギニアの解放戦線を支援するギニア軍との間で大規模な戦闘が起こり、それ以降、外国人の立ち入りは禁止されているという。

コナクリの内務省

 もうじたばたしても始まらない。ぼくはまな板の上の鯉同然だ。

 その日の夕方、政府の車でコナクリに送り返された。

 翌日の昼過ぎにコナクリに着いたが、何と内務省内の秘密警察本部だった。

「まずいことになった…」

 土曜日の午後で仕事が終っているのにもかかわらず、
「今、長官の家に電話した。長官はすぐに来るので待っていなさい」
 といわれた。

 絶望的な気分になる。これでは重要な容疑者扱いだ。

「ほんとうにまずいことになった…」

 長官がやってくるまでの耐え難いほどの重苦しい時間。最悪の場合は留置されるだろう。冷え冷えとした留置場の鉄格子が目にちらついた。

30年目の「六大陸周遊記」[067]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 16 フリータウン[シエラレオネ] → コナクリ[ギニア]

熱帯モンスーンの町

 シエラレオネの首都フリータウンではすさまじい雨に降られた。休みなく降りつづけるすごい雨だった。

 この一帯の雨期に降る雨の量はものすごい。

 フリータウンの月別の降水量は次のようなもの。

 1月 10ミリ
 2月 5ミリ
 3月 30ミリ
 4月 79ミリ
と、ここまではたいしたことがない。

 ところが5月以降の雨期になると、桁外れの雨量になる。
 5月 241ミリ
 6月 363ミリ
 7月 742ミリ
 8月 927ミリ
 9月 566ミリ
 10月 361ミリ
 11月 140ミリ

 12月になると雨期は終り、30ミリとぐっと少なくなる。

 フリータウンの年平均の降水量は3495ミリ。東京の2倍以上の雨が降る。気候帯でいえば、熱帯モンスーン気候になる。

「えい、ヤー!」

 フリータウンの町を歩いていて腹だたしくなるのは子供たちだ。

 ぼくの姿を見ると、
「チャイニーズ、チャイニーズ」
 と、はやしたてる。

 そのあときまって、
「エイ、ヤー!」
 と、叫びながら身構える。

 アフリカで大人気の香港映画の影響だ。

フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
フリータウンの町を歩く
信じられないような幸運

 フリータウンを離れるときは緊張した。いよいよ難関のギニアだ。

 モンロビアのギニア大使館で取った48時間のトランジットビザを持っているとはいえ、ほんとうに入れるかどうか、おおいに不安だった。

 フリータウンの郊外からはベンツの乗用車に乗せてもらった。80キロほど行くと、ボーに通じる道とギニアのコナクリに通じる道との分岐点、マシアカの町に着く。

 ここでは信じられないような幸運な目にあう。

 ベンツの前を走っているのは赤地に白文字のナンバープレートをつけたニッサン車。
「あの車はコナクリに行く車だ。頼んであげよう」

 そういってベンツの運転手はクラクションを鳴らしてニッサン車を停めた。

「この人をコナクリまで乗せていってもらえないだろうか」

 その車には2人が乗っていた。何とも幸運なことに、2人はコナクリの日本企業で働いていた。2人のおかげでコナクリまで乗せてもらえることになった。

ギニアに入った!

 ポートロコの手前でマランバ鉄山と積出港のペペルを結ぶ鉄路を越える。

 熱帯雨林からサバンナへ、風景はずいぶんと変る。空を突くような大木はもう見られない。

 水量の豊かなスカシーズ川をフェリーで渡った。

 カンビアの町を過ぎると、もうギニアは目の前だ。

 コレンテ川を手動のフェリーで渡る。鉄製のワイヤーを木の道具を使って引っ張る。

 激しく降りつづく雨をついて走り、国境に到着。シエラレオネ側の出国手続を終え、ギニア側に入った。

 ギニア側のイミグレーションではトランジトビザのことは何もいわれず、税関のチェックも簡単に終り、ついに鎖国同然のギニアに入った。

ギニア国境への道
ギニア国境への道
スカシーズ川のフェリー
スカシーズ川のフェリー
コレンテ川のフェリー
コレンテ川のフェリー
首都コナクリへ

 ギニアに入ったとはいうものの、国境周辺の道はひどいもので、雨でぬかった上り坂を登れない。そこで村人たちを呼び集め、20人ぐらいの人たちに車の後ろを押してもらった。

 超悪路をなんとか走り抜け、舗装路に出たときはほっとした。

 統制経済のせいでモノが極端に不足しているギニアだけに、すれ違う車はオンボロ車ばかりだった。

 フリータウンから350キロ、ギニアの首都コナクリに着いたのは夜になってからのことだった。

日本工営の日本人社員

 2人が働いている日本企業というのは日本工営で、ニンバ鉄山の鉄鉱石積み出し用鉄道建設の調査をしていた。すでに夜も遅い時間だったが、2人は「同じ日本人なのだから」といって、ぼくを日本人社員の家に連れていってくれた。

 ほんとうにありがたかったのだが、大歓迎され、ひと晩泊めてもらった。シャワーを浴び、遅い夕食をご馳走になり、そのあとはウィスキーを飲みながら話した。

 ギニアへの入国はきわめて難しいので、
「よく入れましたねえ」
 と、まっさきにいわれた。

 さらにギニアからセネガルに行く計画だというと、両国の関係を考えるとほとんど不可能だという。

 セネガルのサンゴール大統領がギニアのセク・トーレ大統領の悪口をいったのが原因で、両国は国交を断絶しているからだという。

 前途多難だ…。