30年目の「六大陸周遊記」[015]

アフリカ南部編 1 パース[オーストラリア] → ポートルイス[モーリシャス]

「さらば、オーストラリアよ」

 西オーストラリアのパースの空は真っ青に晴れ渡り、乾燥気候特有の乾いた風が肌に心地よかった。目抜き通りには近代的なビルが立ち並んでいる。伸び伸びした明るい感じの都市だ。

「パース→ヨハネスバーグ」の安チケットを探して、そんなパースの中心街にある何軒もの旅行社をまわった。その結果、「サマーランド・トラベルセンター」で「パース→ヨハネスバーグ→ロンドン」のチケットを1000USドル(26万円)で買った。大きな出費だが、こればかりは仕方ない。なぜ「パース→ヨハネスバーグ」ではなく、「パース→ヨハネスバーグ→ロンドン」にしたかというと、それほど料金が変わらなかったからだ。

 このチケットは1年オープンでストップオーバー(途中降機)もできるという。それを最大限に利用してやろうと考えたのだ。さっそく「パース→ヨハネスバーグ」間では、インド洋上のモーリシャスとフランス領レユニオン、それとマダガスカルに立ち寄ることにし、同じ英連邦の一員ということで、パースのイミグレーションで、モーリシャスのビザを発給してもらった。こうして1973年12月13日、パース国際空港から20時15分発のSA(南アフリカ航空)241便に乗り込んだ。

 飛行機が離陸すると、小さな窓に顔をこすりつけるようにしてパースの町明かりを見た。やがてパースの外港フリーマントルの上空にさしかかる。埠頭に接岸している船、港外に停泊している船の灯が点々と見える。フリーマントルの町明かりが遠ざかると、飛行機は明かりひとつない、暗いインド洋上へと出ていった。

「さらば、オーストラリアよ」

アフリカへの熱き想い

 SA241便の機内でぼくは、間近に迫ったアフリカに興奮していた。アフリカの地図を広げ、くいいるように見つづけた。今回の「六大陸周遊計画」にしても、まず最初にアフリカがあって、アフリカを世界の中心に置いて考えた計画だ。アフリカは、ぼくにとっては自分自身の生きることのすべてといってもいいようなところなのだ。

 最初のアフリカの旅は1968年4月から1969年12月までの20ヵ月間でアフリカ大陸を一周した。このときはアフリカの33ヵ国をまわった。20歳の旅立ちで、アフリカで目にするものすべてが新鮮に映った。夜になると村々に転がり込んで泊めてもらい、アフリカ人のあたたかな心にふれることがたびたびだった。高熱に倒れ、下痢に苦しむ日々がつづいたようなこともあったが、心の中はいつも満たされ、ぼくはすっかりアフリカに魅せられた。

 2度目は1971年8月から1971年9月までのアフリカを中心とした「世界一周」で、アフリカの13ヵ国をまわった。一番の目的はサハラ砂漠の縦断。アラビア半島を横断してアフリカに渡り、サハラ砂漠は3本のルートで3度、縦断した。焼けた砂の上を飄々と裸足で歩き去っていくサハラの遊牧民には心底、驚かされた。サハラでは人間の持つ強靱なまでの生命力をまのあたりにした。

 これら2度の旅では、広大なアフリカ大陸を懸命になってバイクで駆けたが、1人の人間がどんなにがんばっても、まわりきれるものではない。そうとはわかっていても、ぼくはすくなくとも大陸内のすべての国には足を踏み入れようと今回の3度目の旅に出た。アフリカをトコトンまわってみたいのだ。

 そんなアフリカへの熱き想いをめぐらせているうちに、いつしか深い眠りに落ちていった。

「まもなくモーリシャス島のプレゾンス国際空港に着陸します」
 というアナウンスで目が覚めた。

 最初は南アフリカの公用語のアフリカーナで、次が英語でのアナウンスだった。

モーリシャスに到着!

 モーリシャスに着いたのは、現地時間の22時40分。パースとは4時間の時差があるので、6時間25分の飛行。オーストラリアから5000キロ以上も離れているモーリシャス島だが、なにか、あっというまに着いたような気がする。

 入国手続きは簡単に済み、ターミナルの外に出る。気温25度。プレゾンス空港のあるプレゾンスは島の南東に位置し、あたりには明かりひとつ見えない。首都のポートルイスは島の反対側の北西に位置している。

 空港の両替所はすでに閉まっていて、タクシーの運転手が両替してくれた。4オーストラリアドルが28モーリシャスルピー。運転手はポートルイスまで乗っていけとしつこく誘ったが、ぼくも負けずにしつこく断りつづけ、暗い夜道を歩き始めた。

 モーリシャスは南緯20度、東経57度にあるモーリシャス島と周辺のロドリゲス島および小島群から成っている。旧英領で1968年3月12日にアフリカで40番目の独立国として誕生した。面積は1843平方キロ。沖縄本島に淡路島を足したぐらいの大きさ。人口は86万人。人口密度は1平方キロ当たり400人を超え、アフリカの中では飛び抜けて高い。

 モーリシャス島は古い火山島で、周囲は珊瑚礁で囲まれている。島は水に恵まれ、土壌が肥沃で、島のどこにでも人が住むことができる。そのせいか、それほど人口が密集しているようには見えない。南回帰線の北側にあるこの島は、年平均気温が23度とまさに南海の楽園。ただし熱帯性低気圧のサイクロンの通り道で、島特産のサトウキビが大きな被害を受けることもある。

アフリカ最初の野宿

 空港から大分、歩いた。月明かりの夜で、時々、月を隠すように細い雲がスーッと流れていく。道路沿いには点々と集落がつづき、歩いていると、何度も犬に吠えられた。

「もう、寝よう」

 集落を抜け出たサトウキビ畑のわきにザックを下ろし、シートを広げ、シュラフを敷いた。きれいな月を見上げながらの、なんとも優雅なアフリカ最初の野宿だ。

 目をさましたのは夜明け前だった。いやに顔が冷たいと思ったら、ポツポツ雨が降っていた。急いでシュラフとシートをたたみ、ザックに詰め込み、出発。夜が明けるとポートルイスの市場に行くのだろう、野菜を満載にしたトラックが3台、4台とたてつづけに通ったが、ヒッチハイクは成功しない。

 平坦なサトウキビ畑から丘陵地帯に入っていく。そこは茶畑になっている。雨が激しくなり、濡れながら歩く。バスが来たので飛び乗った。島の中央のキュアピプ行きのバス。キュアピプまではなんと15セントだという。モーリシャスの通貨はルピーで、100セントが1ルピーになる。1ルピーは約60円なので、15セントというと10円ほどでしかない。モーリシャスはバス交通が発達している。料金がきわめて安いことがわかり、これ以降、ヒッチハイクはやめにしてバスでまわることにした。

 雨はいよいよ激しくなった。オンボロバスで、雨が車内に入り込み、座席はすっかり濡れてしまう。キュアピプはモーリシャス第2の町。バスターミナルに着くと、ポートルイス行きのバスに乗り換えた。ポートルイスまで30キロほどあるが、料金は65セント(約40円)。安いのでうれしくなってしまう。

なつかしのポートルイス

 ポートルイスが近づくと雨はやみ、日が差してきた。ギザギザした形のピエテ・ポト山(823m)が見えてくる。なつかしい。なつかしさのあまり、胸がギューッと締めつけられる。あのポートルイスの山だ。

 1968年4月12日、ぼくは友人の前野幹夫君とオランダ船「ルイス号」で横浜港を離れ、アフリカに向かった。横浜を出てから名古屋、神戸、釜山、香港、シンガポール、ポートセッテンハム、ペナンと寄ってインド洋を南下した。マレーシアのペナン港を出てからというもの、陸地はおろか、船の影さえ見ることはなかった。目に入るものは大海原だけなので、なんとも退屈きわまりなかった。

 ペナン港を出港してから9日目、目をさますと「ルイス号」はモーリシャス島のポートルイス港の沖に停泊していた。ポートルイスの町越しの、この独特の形をした山並みが目に入り、それがぼくにとって最初に見たアフリカの風景になった。そんなこともあって特別に印象深かい。急いで前野を起こし、甲板で2人して陸地を見ることのできた喜びにひたった。そのときはモーリシャス島を1日しかまわれなかったが、こうしてバスがポートルイスに近づくと、5年以上も前の思い出が鮮やかに蘇ってくる。

ポートルイスを歩く

 バスはポートルイスのバスターミナルに着いた。町をあちこち歩きまわる。歩きまわったところで朝食。露店でバナナを5本とマーガリンを塗ったパンを買った。両方合わせて25セント(約15円)。とにかくモーリシャスの物価は安い。貧乏旅行者にとってはこれほどありがたいことはない。目の玉が飛び出るほど何でも高いオーストラリアからやってきたので、モーリシャスの物価の安さはひときわ際立った。

 もっとも物価が安いとはいっても、ぼくのように外からやってきて外貨でルピーに両替したときに感じることで、モーリシャスの人たちは決して物価が安いとは思っていない。人口密度が高く、サトウキビの栽培以外にこれといった産業のないモーリシャスなだけに失業率は高く、賃金も安いからだ。

 それはおいて、とにかくうれしくなってしまう。オーストラリアでは1ドルではたいしたものは食べられないが、モーリシャスでは同じ1ドルで1日3食、満腹になるくらいに食べられた。ちょっと我慢すれば3、4日分の食費になった。

 市場も歩いた。大勢の人たちでごったがえし、それはにぎやか。豊富な野菜や果物がモーリシャスの自然の豊かさを感じさせた。

ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスを歩く
ポートルイスの港
ポートルイスの港
ポートルイスの市場で
ポートルイスの市場で
ポートルイスの市場で
ポートルイスの市場で
パンを売る
パンを売る
靴みがき
靴みがき

モーリシャスのバス旅

 ポートルイスを拠点にしてバスで島をめぐった。最初は島の北東にあるパンプレモスのボタニカルガーデンへ。きれいに手入れされた熱帯の植物園。濃い緑が目にしみる。池には直径2メートル以上もある大オニバスが浮かび、人が楽に乗れるくらいの海ガメが何匹もいた。ボタニカルガーデンの草の上で寝ころんでいると、「遠い南の島にやってきた」という気分にさせてくれる。

ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン
ボタニカルガーデン

 バスでさらに北へ、グッドランズまで行く。ゆるやかに起伏したサトウキビ畑の中の道を走る。どこを向いてもサトウキビ畑。グッドランズでバスを乗り換え、今度は南に下ってサントルドフラクへ。風景にあまり変化はない。サトウキビ畑の中に製糖工場が見えた。

 さらにバスに乗り継ぎ、モカ経由でオージルへ。この町の教会で泊めてもらった。教会に遊びに来ていた中国系のフィリップという少年に話しかけられた。彼はハイスクールに通っているが、卒業したら「日本で働きたい」という。モーリシャスの就職難は厳しいもので、ハイスクールを卒業しても、なかなか就職できないという。彼は「トヨタで働きたい」とさかんにいった。もう1人、クレオールのロジャーという少年も来た。フィリップは英語を話せるのだが、ロジャーはクレオール・フレンチ(土着のフランス語)しか話せない。そこでフィリップが通訳してくれたが、やはりロジャーも「日本で働きたい。何とか日本で働けるようにしてほしい」とぼくに頼みにきたのだった。2人の少年に何もしてあげられない自分に情けない…。

出会った少年
出会った少年

モーリシャスのクレオール

 ところでクレオールはモーリシャスや西インド諸島、南米などで生まれたヨーロッパ人の子孫のことだが、モーリシャスでは混血もクレオールといってるようで、ロジャーは混血だった。ロジャーとはフィリップに通訳してもらいながら話したが、彼と話しながら気づいたことがある。モーリシャスは旧英領であるのにもかかわらず、英語よりもフランス語、もしくはクレオールのフランス語の方がはるかに通用するようだ。地名も英語よりもフランス語の地名の方が多い。

 モーリシャス島はフェニキア人にその存在が知られていたといわれ、また昔からアラビア人航海者が訪れていた。ヨーロッパ人によって最初に発見されたのは1508年。ポルトガル人のマスカレナが上陸したときは無人島だった。1598年にはオランダが領有し、モーリシャスという名前は時の皇太子マウリッツに由来するという。1715年にはフランス領になり、フランス時代が100年近くつづき、1810年から独立するまでがイギリス領だった。モーリシャスでフランス語がよく使われるのは、その100年近いフランス時代の影響なのだろう。

 フィリップとロジャーが帰ると、教会の警備員のルイス・ラベレさんが一緒に食べようといって夕食をもってきてくれた。翌朝もコーヒーとトースト、ゆでたまごをもってきてくれた。ラベレさんにお礼をいって出発。バスターミナルでポートルイス行きのバスに乗った。イギリス風の真っ赤な2階建バス。上の階に乗る。見晴らしがいい。ボーバサンを通ってポートルイスへ。その間は家並みが途切れることはほとんどなかった。こうしてモーリシャス島の北半分をまわってポートルイスに戻ってきた。

赤い2階建のバスが走る
赤い2階建のバスが走る
ポートルイスのバスターミナル
ポートルイスのバスターミナル
ポートルイスに戻ってくる
ポートルイスに戻ってくる

30年目の「六大陸周遊記」[012]

オーストラリア編 06 シドニー → テナントクリーク

バイク編「オーストラリア一周」の開始!

 11月6日の午後、シドニーのキャンベル・ストリートにあるスズキの代理店「HAZELL&MOORE」社でスズキ・ハスラーTS250を引き取った。「バンコク→バンコク」を走ったのと同じバイク。キック一発でエンジンがかかる。2サイクル特有のエンジン音が響く。体中がゾクゾクッと震えてくるほどだ。1971年から72年の「世界一周」に使ったのも、このハスラー250。その途中での「サハラ砂漠縦断」のシーンが蘇ってくる。

 さー、バイク編「オーストラリア一周」の開始だ!。

 最初は肩慣らしのつもりで、シドニーにも近いブルーマウンテン周辺を走るつもりだったが、ジョージ・ストリートを反対方向に走ってしまい、そのままハバーブリッジを渡って国道1号のパシフィック・ハイウエーを北へ。シドニーを離れるとまもなく雨。「出発したばかりだというのに…」と、少々、泣きが入る。

 ニューカッスルに近づくと土砂降りになった。トホホホ…。

 ニューカッスルからは内陸の国道15号を北上。雨に降られながら走り、その夜は314キロ走ったムスウェルブルックのエッソのガソリンスタンドの片隅で震えながら眠った。ヒッチハイクのときと同様、シュラフのみの野宿だ。

 翌日も雲の多い天気。大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)の山並みを見ながら走る。トムワースの町を過ぎると、ニューイングランド地方の標高1000メートルを越える高原地帯に入っていく。きれいな高原の風景がつづく。ハスラーで切る風は冷たく、ブルブルッと震えるほど。だが、幸いにも雨には降られなかった。

 この地方の中心のアーミデールを通り、グレン・イネスを過ぎたところで、海岸地帯を南北に走るニューイングランド山脈の峠を越え、パシフィック・ハイウエーの国道1号に出た。ゆるやかな山並みが海岸近くまで迫っている。国道沿いに建てかけの家をみつけ、その中で寝たが、夜中に寒さのために何度も目がさめた。

シドニーを出発
シドニーを出発
「オーストラリア一周」のバイクと全荷物
「オーストラリア一周」のバイクと全荷物
ニューカッスルの町
ニューカッスルの町
ニューカッスルから国道15号を行く
ニューカッスルから国道15号を行く

ブリスベーンのベネットさん一家

 ニューサウスウエル州からクイーンズランド州に入り、ブルスベーンに到着。スズキの代理店の「MAYFAIRS」社に立ち寄る。ここではみなさんにじつによくしてもらった。「テレグラフ」紙と「サン」紙の新聞2紙の取材も受ける。日本人ライダーの「オーストラリア一周」が珍しいのだ。昼食にはチャイニーズレストランで腹いっぱいにご馳走になった。午後はノエル・ベネットさんがブリスベーン市内を車で案内してくれた。郊外のブリスベーン川に面したローンパインのコアラ・サンクチュアリーにも連れていってくれた。コアラがかわいい。コアラを抱いたシーンを写真にとってもらった。コアラのほかにカンガルーやウォルビー、エミューなどもいる。

 その夜はノエルの家で泊めてもらった。奥さんのパットはきれいな人。2歳を過ぎた女の子のポーリンがかわいらしい。そんなベネットさん一家との夕食は楽しいものだった。

 翌朝はトーストとゆでたまごの朝食のあと、みんなと一緒にノエル家を出る。ポーリンを幼稚園で下ろし、奥さんをブリスベーン市内で下ろし、「MAYFAIRS」社へ。朝刊を見せてもらったが、ぼくのハスラーでの「オーストラリア一周」の記事が大きくのっていた。「MAYFAIRS」社には、スズキ本社の横山さんが来ていた。オーストラリア各地のディーラーをまわっているという。午前中、ハスラーの整備をしてもらい、昼食はスズキの横山さんにご馳走になった。オーストラリアならではのぶ厚いステーキ。昼食後、横山さんやノエルらの見送りを受けてブリスベーンを出発した。

「カンガルーに注意!」の標識
「カンガルーに注意!」の標識
ニューサウスウエルスとクイーンズランドの州境
ニューサウスウエルスとクイーンズランドの州境
ゴールドコーストの浜辺で
ゴールドコーストの浜辺で
国道1号の案内板
国道1号の案内板
ブリスベーンの中心街
ブリスベーンの中心街
ブリスベーンのスズキ代理店「メイフェアー社」
ブリスベーンのスズキ代理店「メイフェアー社」
ブリスベーンのコアラサンクチャリーで
ブリスベーンのコアラサンクチャリーで
そこにはカンガルーもいる
そこにはカンガルーもいる

恐怖の泥土!

 ブリスベーンからは国道54号を西へ。大分水嶺山脈の峠を越え、トゥーンバ、ダービー、マイルスと通り、広大な乾燥地帯に入っていく。

 国道沿いのファイヤープレースで野宿。翌日はローマ、ミシェルと通り、チャールビルから国道71号を北上。北に向かって走るにつれて天気が悪くなる。すでにオーストラリア北部は雨期に入ったという。大きな雲の下に来るとザーッと雨が降ってくる。

 タンポ、ブラッカールと通り、国道66号に合流。ここで日暮れ。国道66号のナイトラン。カンガルーがひんぱんに道に飛び出してくる。イルフラコンベの町に着いたところで野宿。天気が回復し、満月がこうこうと照り輝いていた。この日は1日で936キロ走り、シドニーを出発して以来の1日の走行距離としては最高となった。

 国道66号で鉱山都市のマウントアイザに向かう。ロングリーチの町を過ぎると、舗装が途切れ、ダートに突入。すでに雨期に入っているので、このダートにはやられた。ツルツル滑り、何度となく転倒…。ゆるやかな登り区間では10台ものロードトレインや大型トラック、タンクローリーなどが立ち往生していた。タイヤが空転し、そのゆるやかな登り坂を登れないのだ。

 ぼくも大苦戦。泥土がフェンダーにつまり、まったく走れなくなってしまった。そこでフェンダーを外した。粘土質の泥で、バイクにからみつく。ハスラーはまるで大きな泥団子になったかのようだ。リアへの泥のつまりもひどいので、チェーンガードも外した。

 泥沼にズボッとはまり込んだときは、にっちもさっちもいかなくなった。アクセルをふかしてもまったく歯がたたない。進むことも、戻ることもできなくなった。そこでは、やはり立ち往生していた大型トラックの運転手たちに助けられた。みんさん、泥まみれになってハスラーを泥の中から引きずり出してくれた。

 すさまじい泥土との戦いが際限なくつづき、もうヘトヘト状態。それだけに、クロンカリーの町に着き、国道66号が舗装路になったときは心底、ホッとした。

国道54号で大分水嶺山脈を越え大平原を行く
国道54号で大分水嶺山脈を越え大平原を行く
地平線上では雨が降っている
地平線上では雨が降っている
スタックして動けなくなった大型トレーラー
スタックして動けなくなった大型トレーラー
バイクのフロントフェンダーを外して走る
バイクのフロントフェンダーを外して走る
掘り抜き井戸の風車
掘り抜き井戸の風車

蟻にやられた!

 マウントアイザでは鉱山を見学した。ここは1932年に発見された大鉱山。鉛は世界最大の産出、銀はベスト3、銅はベスト10に入るという。鉱山事務所で見学の手続きをし、30分ほどの鉱山紹介の映画を見たあと、無料バスで広大な鉱山をぐるりとひと回りする。しかし残念ながら坑内には入れなかった。

 マウントアイザからはコーモウエルを通り、クイーンズランド州からノーザン・テリトリーに入る。日が暮れる。夜道を走る。ここでも何度となく、カンガルーの飛び出しがあった。

 ロードハウスで給油し、ハンバーグを食べ、さらにナイトランをつづける。真夜中に眠気に我慢できなくなったところで、国道わきの鉄塔下で野宿した。シュラフにもぐり込むなり、深い眠りに落ちていく。どのくらいたっただろうか、体がやけにチクチク痛むので、目がさめ、飛び起きた。

 ハスラーのエンジンをかけ、ライトで照らしてみると、なんとシュラフの中は無数の蟻だらけ。そればかりか、ぼくの体中にまとわりついている。獰猛な蟻で、皮膚にくらいつき、ブランブランとぶら下がっている。これでは痛いはずだ。ぐっと我慢してそんな蟻をいっぴきづつ引き離し、やっと全部を取り終えた。

 もうそこでは寝る気もしないので、しばらく走ったところで再度、野宿。地面をライトで照らし、蟻がいないのを確認してシュラフを敷いた。シュラフ内の蟻も全部、取り除いたが、鼻にツーンとくる臭いが残り、夜明けまでその強烈な臭いをかぎながら眠った。

またしてもエアーズロックを断念…

 翌日は快晴。夜明けとともに走り出したが、雲ひとつない抜けるような青空を見ながら走っていると、蟻にさんざん痛めつけられた辛さもスーッと抜けていくようだった。ハスラーのエンジン音もいつも以上に胸に響いてくる。

 オーストラリア縦断ルートのスチュワート・ハイウエーとの分岐点に出る。そこを左へ、テナントクリークの町へ。ここで給油し、パンのみの食事を終え、「さー、エアーズロックだ!」と、一度は世界最大の一枚岩のエアーズロックに向かおうとした。

シンプソン砂漠へとつづく大乾燥地帯
シンプソン砂漠へとつづく大乾燥地帯
雨期に入り、水無川に水が流れる
雨期に入り、水無川に水が流れる
テナントクリークに到着
テナントクリークに到着

 だが地図を見て、テナントクリークからエアーズロックまでの距離を計算してみると、気が変わった。500キロ走ってアリススプリングスまで行き、さらに200キロ走った分岐点でスチュワート・ハイウエーを離れ、そこからさらに250キロを走ってようやくエアーズロックに着く。エアーズロックを見たあと、また同じ道を走ってテナントクリークまで戻ってこなくてはならない。片道1000キロ、往復で2000キロ。2000キロのガソリン代がぼくの気を変えたのだ。

 ヒッチハイクのときは、ギリギリまでに削った食費だけで旅をつづけることができた。だが、バイクになるとガソリン代を削る訳にはいかない。ガソリン代を押さえるためには、走る距離を押さえなくてはならないのだ。

 シドーニーを出発して以来、毎日の出費は1日5ドル前後だった。宿泊費はゼロ、食費にもほとんど使っていないので、その出費の大半がガソリン代と2サイクルオイル代ということになる。2000キロのガソリン代と2サイクルオイル代というと、20ドルぐらいはかかってしまう…。

「六大陸周遊」の旅はまだこれからアフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカとつづく。それを考え、泣く泣くエアーズロックを諦めた。ヒッチハク編「オーストラリア一周」にひきつづいて、バイク編での「オーストラリア一周」でも、エアーズロックに行くことができなかった。

「きっと、いつか、エアーズロックに行ける日がやって来る!」

 自分で自分にそういい聞かせ、自分で自分をそう慰め、テナントクリークからはエアーズロックとは反対方向の北に向かって走りはじめた。

30年目の「六大陸周遊記」[011]

オーストラリア編 05 ブルーム → シドニー

最長記録の2459キロ

 ブルームから10キロほど歩き、ポートヘッドランドへの道とのジャンクションで野宿。翌朝は夜明けとともに起きた。「早起きは三文の得」ではないが、起きるのとほぼ同時にダットサンのピックアップが停まってくれた。ペンキ屋ジム。彼はダーウィンからやってきて、これからパースまで行くという。ラッキー。ブルームからパースまでの2500キロ近い距離を1台の車で行けるのだ。

ブルームの町を離れる
ブルームの町を離れる

 彼は6年前にイギリス・ヨークシャーのハルからオーストラリアにやってきた。

「オーストラリアに来れば、誰でも金持ちになれると思っていたんだけど、それはもう昔の話。ハルに帰りたいよ」
 と、ジムは「ハルに帰りたい!」を連発した。

 ブルームからポートヘッドランドまでは未舗装路。560キロ間にガソリンスタンドが1軒あるだけ。乾燥した風景がつづく。ジムとは途中で運転を交替した。

 ニューマン鉄山の鉄鉱石の積み出し港、ポートヘッドランドからはインド洋岸のルートを夜通し走り、翌日は南回帰線を通過した。そこには「Tropic of Capricon」の表示板が立っている。

 カーナボンではNASAの大きなパラボラアンテナが目についた。

 ノーザンプトンに近づくと植生が変わり、緑がぐっと増え、野花が咲いている。広大な小麦畑も見られるようになった。

 さらに南下し、ジェラルドトンの町を過ぎると、気温がグッと下がり、肌寒くなる。

 第2夜目は国道沿いに車を停め、仮眠したが、寒くて目がさめてしまった。無数の星が青白く光っている。ジムも同じで、我々は運転を交替しながらほとんど寝ずに走りつづけ、夜明け前にパースに到着した。

 ブルームからパースまでジムには2459キロもの長い距離を乗せてもらった。これはブラドに乗せてもらった2200キロをはるかに上回るもので、1台の車に乗せてもらった距離としては、我がヒッチハイクの最長記録だ。

 パースの中心街で下ろしてもらったが、ジムとは固い握手をかわして別れた。

ナラボー平原を行く

 午前中は西オーストラリア州の中心都市、パースを歩いた。のびやかな町並み。ハンバーガーとコヒーの昼食を食べて出発。パースの郊外に向かって歩く。きついヒッチ。交通量は多いのだが、乗せてもらえない。車に乗せてもらえるまで歩きつづけるというのがぼくのやり方なので、パースの中心街から20キロ以上も歩いた。日が暮れかかったころ、やっと大型トラックに乗せてもらえた。日が落ちると、ググググッと寒くなる。そのトラックで720キロ先のサウスオ−シャンに面した港町、エスペランスまで行った。

パースの町並み
パースの町並み
パースの町並み
パースの町並み
パースの郊外へ
パースの郊外へ

 エスペランス到着は翌日の昼前。トラックの運転手はジャック。エスペランスに着くと、大型トラックで港を案内してくれた。西ドイツのハンブルグからの貨物船や日本のKラインの貨物船が接岸していた。

 町中でジャックと別れると、国道1号で内陸のノーズマンへ。2台の車に乗せてもらい、ノーズマンに到着すると、そこからはナラボー平原を横断する。町外れで車を待ったが、乗せてもらえないままに日が暮れた。強烈な色彩の夕焼け。ひと晩、ぐっすり眠りたくて国道沿いのブッシュの中にシュラフを敷いて寝た。だが、あまりの寒さに何度も目がさめ、ほとんどひと晩中、ウトウト状態だった。

 夜が明ける。じつについていた。シュラフをまるめ、国道1号に出るなり、最初のトラック(冷凍車)でバラドニアへ。広大なナラボー平原に入っていく。バラドニアでもほとんど待たずにグレッグのオンボロ車に乗せてもらった。

 バラドニアを過ぎるとまもなく、約120キロ、一直線の道になる。まったくカーブがない。直線路はナラボーの大平原をズバーッと貫いている。約120キロ走って最初のコーナーにさしかかったときは、グレッグと一緒に手をたたいて喜んだ。一直線の道をただひたすらに走るというのも、変化がなく、けっこう辛いものなのだ。

 西オーストラリア州から南オーストラリア州に入ったとたんに舗装路は途切れ、ダートになる。夜遅くにセドゥナの町に着いた。この町の手前、約80キロの地点からまた舗装路になった。町中に車を停め、車内で眠った。

 翌日は日の出とともに出発。昼過ぎ、ノーズマンから1500キロのポートオーガスタに到着。ここでグレッグと別れたが、彼はさらにブリスベーンまで行く。

ナラボー平原を行く
ナラボー平原を行く
グレッグの車でポートオーガスタへ
グレッグの車でポートオーガスタへ
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原を貫くエアー・ハイウエー(国道1号)の案内板
ナラボー平原を貫くエアー・ハイウエー(国道1号)の案内板
西オーストラリア州と南オーストラリア州の州境
西オーストラリア州と南オーストラリア州の州境
大陸横断鉄道
大陸横断鉄道
ポートオーガスタまであと41マイル
ポートオーガスタまであと41マイル

エアーズロックを断念

 世界最大の一枚岩、エアーズロックはどうしても見てみたかった。エアーズロックまでヒッチハイクで行くのは無理だといわれていたが、それにチャレンジ。「ダーウィン→ポートオーガスタ」の大陸縦断ルートを今度は南から北に向かう。

 多民族国家オーストラリアにふさわしく最初はインドネシアのスラバヤ生まれのトムのトラック、つづいてウクライナ人のトラックに乗せてもらった。ウクライナ人とはいろいろと話した。とくに戦争の話題になったときの「いつも一般の国民が苦しめられ殺される」との彼の言葉が頭に残った。その夜はピンバで野宿。夜の寒さがきつかった。

 翌朝は寒さに我慢できず、シュラフを首に巻いて車を待った。ポリスの車が通りがかり調べられた。パスポートはキャンベラの南アフリカ大使館にあるので、一瞬、まずいなと思ったが、ビザ担当の書記官の名刺を見せたらOK。ほっとした。

 1時間ほどたったところで、いったんは通りすぎていったキャラバンカーが、すこし先で停まった。運転手は車を下りて、「乗れ」と手招きしてくれる。車まで走っていった。アリススプリングスまで行く車。ところが運転手は「おこりんぼ」。ハンドルを握りながら、やたらとブツブツ文句をいう。そしてすぐに「バーステッド」、「ファッキン」、「ブラディー」と、ののしりの言葉を連発する。一人言なので、何に怒っているのか、よくわからなかった。こういうときは「さわらぬ神にたたりなし」で、黙ってじっと車窓を流れていく風景を眺めた。

キャンピングカーに乗せてもらい、スチュワートハイウエーを北へ
キャンピングカーに乗せてもらい、スチュワートハイウエーを北へ

 舗装路からダートに突入し、オパール鉱山の町、クーバーペディーでひと晩、泊まった。翌日、南オーストラリア州からノーザンテリトリーに入った。すると急に暑くなる。

 クルゲラの町から70キロほど北の地点、エアーズロックに通じる道との分岐点で「おこりんぼ」さんの車を降りた。

 時間は午後3時。分岐点には「エアーズロック」の標識があるのみ。エアーズロックに向かう車はほとんど通らない。たまに来ても乗せてはくれない。エアーズロックに行けないまま、日が暮れてしまう。荒野での野宿だ。

 翌朝もただじっと、分岐点でエアーズロックに向かう車を待った。けっこう辛いヒッチハイク。あっというまに暑くなる。おびただしいハエ。分岐を示すドラムカンの影で横になり、顔をハンカチで覆ってひと眠りする。午後になると黒雲がモクモクと出はじめ、あっというまに空全体を覆い、強風が吹きはじめた。まるで嵐。強風はますます激しくなり、体ごと吹き飛ばされそうになる。稲光が大空を駆けめぐる。近くに雷が落ちたときは、一瞬、青ざめた。「やばい!」。この荒野の中では遮るものは何もない。

 午後3時になったところで、「エアーズロックは断念しよう」と決めた。

 そう決めたとたんに、マットレスや生活道具一式を積んでアデレードまで行くデビッドのホールデンの旧型車が通りがかり、乗せてもらった。チンタラチンタラ走る車で、なんと5日がかりでアデレードに到着した。

 アデレードで読んだ新聞には、サイクロンに襲われたアリススプリングスの記事が写真入りで大きく出ていた。ぼくがエアーズロックへの道で車を待ったのと同じころ、最大風速100マイル(166キロ)の強風が吹き荒れ、アリススプリングスだけで数百万ドルの被害が出たと報じている。あの嵐では仕方ないか…と諦めようとするのだが、エアーズロックに行けなかったのは残念でならなかった。

ヒッチハイク編「オーストラリア一周」終了!

「さー、キャンベラだ!」
 と、気分も新たにヒッチハイクを開始。国道1号を行く。1発でヒッチ成功!

 メルボルンまで行くトラックに乗せてもらった。南オーストラリア州からビクトリア州に入り、州都のメルボルンに到着。オーストラリアでは例外的に、歴史を感じさせる都市。中心街を歩きまわったところで、フリンダー・ストリート駅から郊外電車に乗り、終点のタンデノン駅へ。近くのフットボール場の屋根の下で寝た。夜中に雨。屋根があるので雨も気にならない。屋根の下で寝られるありがたさをしみじみとかみしめた。

メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地

 翌日も国道1号を行く。1日中、雨…。おまけにヒッチもうまくいかない。辛い1日だ。何台かの車に乗り継ぎ、モーウェルの町に着いたところで銀行で1万円を両替。あまりのレートの悪さに情けなくなる。1万円で22ドル09セント。1ドルは約455円だった。ダーウィンで両替したときは、USドルをオーストラリアドルに替えた。40USドルで26ドル65セント。1ドルは402円だった。それが日本円でオーストラリアドルに替えると、1ドルが455円になってしまう。あまりにも弱い円に泣きたくなるような思いだった。

 ビクトリア州からニューサウスウエルス州に入り、ベガの町で国道1号と別れ、キャンベラへの道に入っていく。何台もの車に乗り継ぐ。きつい勾配の山道をのぼりつめると、上は平坦な高原状の台地。スノーウィ山脈の玄関口の町、クーマへ。そこからはキャンベラまではイタリア人の運転するトラックに乗せてもらった。彼は開口一番、「オレはオーストラリア人ではない。イタリア人だ!」と胸を張っていう。かといって、今さらイタリアには戻れないともいう。彼は21年前にユーゴスラビアとの国境の町、トリエステから新天地を求めてオーストラリアにやってきた。だが、21年ぐらいの年月では彼をイタリア人からオーストラリア人にはできないようだ。

 11月2日午前11時、キャンベラに到着。ヒッチハイク編「オーストラリア一周」の終了だ。キャンベラを出発してから32日目のことだった。すぐにビザをもらいに南アフリカ大使館に行ったが、なんということ、まだ本国照会の返事は来ていないという。仕方がない。次のバイク編「オーストラリア一周」を終えてからもう一度、来よう、そのときはきっと大丈夫だと、落ち込んだ気分を立て直した。

 その夜はキャンベラのユースホステルに泊まった。1ヵ月ぶりの宿泊費を払っての宿泊。シャワーを浴び、洗濯をしてさっぱりした。

「キャンベラ→キャンベラ」の「オーストラリア一周・1万7464キロ」では全部で88台の車に乗せてもらった。使ったお金は22ドル。1日平均0・68ドルだった。

奇跡の再会!

 キャンベラのユースホステルではイギリスのニューキャッスルで生まれたフィリップと一緒になった。彼はオーストラリアに来てからすでに3年。シドニーに住んでいる。フィリップのワーゲンに乗せてもらい、翌日、シドニーへ。冬を思わせるような寒々とした天気。国道沿いのカフェでフィッシュ&チップスの昼食を食べ、シドニーに着くと、フィリップのアパートで泊めてもらった。夜はレストランでステーキを食べ、パブでビールを飲んだ。昼食代も夕食代もビール代も、すべてフィリップが出してくれた。ありがたくご馳走になっておく。

シドニーに到着!
シドニーに到着!
シドニーに到着!
シドニーに到着!

 翌日はシドニーでの休日。朝は10時過ぎまで眠った。こんなに寝たのはいったい何日ぶりのことだろう。午前中はコインランドリーで洗濯し、午後はフィリップとハバーブリッジのすぐ下にあるルナ・パークに行った。フィリップはここで半年ほど働いたとのことで、タダで乗れるチケットをたくさん持っていた。それを使わせてもらい、ジェットコースターや回転飛行機、電気自動車と次から次ぎへと乗った。そのあとノースシドニーの浜辺に行く。シドニーの中心部からわずか10数キロしか離れていないのに、すぐ近くに大都市があるとは思えないような自然の美しさ。きれいな浜辺が延びている。

 もうひと晩、フィリップのアパートで泊めてもらった。

 翌朝、フィリップはブリスベーンに向かう。朝食を一緒に食べると、彼のワーゲンでフェリー乗り場まで乗せてもらう。そこで別れた。さようなら、フィリップ。彼は北へ、ブリスベーンへ。ぼくはフェリーに乗り、シドニーの中心街へ。フェリーは朝の通勤客で混んでいた。

 シドニ−の中心街を歩き、地図を頼りにキャンベル・ストリートの「HAZELL&MOORE」社を訪ねる。ここはスズキのニューサウスウエルス州の代理店。ここで「オーストラリア一周」のバイクを用意してもらうことになっている。ジェネラルマネージャーのシャノンさんに会うと、「明日までに整備して用意しておきましょう」とうれしいことをいってくれる。バイクでの「オーストラリア一周」に出発できると思うと、胸がワクワクしてくる。

 シャノンさんはすぐに「モーターサイクル・ニューズ」社に電話した。そしてチーフ・エディターのジェフ・コラートンさんに会って欲しいという。ぼくのバイクでの「オーストラリア一周」を取材したいのだという。「モーターサイクル・ニューズ」社を訪ね、ジェフに会ったときはびっくりした。驚きの再会。なんと彼には4年前に会っているのだ。

 1969年4月、アフリカ大陸縦断を終え、ロンドンに着いたとき、『モーターサイクル』紙のジョン・エブローさんに取材された。そのときエブローさんの下で仕事していたのがジェフだった。

 彼はこのときのことをとってもよくおぼえてくれていた。

「(ロンドンの)ウーターロー・ブリッジの上で撮ったキミの写真、あの写真は忘れられないね」
 といってくれた。このような偶然の再会があるのも旅のおもしろさ。ジェフには昼食をご馳走になった、食事が終わると、コーヒーを飲みながらおおいに語り合った。

 ジェフと別れると、午後はシドニーの町をクタクタになるまで歩きまわり、夜はシドニー郊外のクーリングガイ国立公園にあるユースホステルに泊まった。泊まり客はぼく1人。管理人のニュージランド人のビルと一緒にマグロのかんづめの夕食を食べ、ビールを飲んだ。いよいよバイクでの「オーストラリア一周」が始まる!

30年目の「六大陸周遊記」[010]

オーストラリア編 04 ケアンズ → ブルーム

大分水嶺山脈を越えて

 オーストラリア東海岸北部のケアンズからタウンズビルに戻ると、国道78号で内陸部に入っていく。チャーターズタワーの町までは、老人の車に乗せてもらった。老人はぼくが日本人だとわかると、さんざん日本を非難した。

「日本は危険な国だ。なにをしでかすか、わかったものではない。(太平洋)戦争のときもそうだった。私はあやうく日本軍の空襲でやられるところだった」

 太平洋戦争中、日本軍は激しくダーウィンを爆撃したという。そのころ老人はダーウィンに住んでいた。日本軍の空襲で家は焼かれ、命からがら逃げ延びた。日本軍の空襲では多数の死傷者が出たという。そのときの恐怖のシーンが老人の脳裏に焼きつき、いまだに離れないという。

 オーストラリアには猛烈な勢いで日本車が進出していた。老人の車も日本車だった。だが、老人はいった。

「私が日本を嫌っているのと、日本車が好きで乗っているのとは、まったく関係ないことだ。日本車はすばらしい。ほんとうにすばらしい。値段が安いのにもかかわらず、品質がきわめて高い。私はそれだから日本車に乗っている。ただ、それだけのことだ」

 老人は70を過ぎている。年などまったく関係ないかのようにぶっ飛ばす。もっともオーストラリアの国道をノロノロ走っている車などはないが。

 車はオーストラリアの東側を南北に連なる大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)に入っていく。山脈といっても別に険しい山並みがつづくわけでもないが、あたりの風景は一変し、サトウキビ畑は完全に消えた。

 きれいな夕日を見る。雲ひとつない西の空はまばゆいばかりに輝き、やがて大きな夕日がゆっくりと山の端に落ちていく。チャーターズタワーの町に着いたときは、すでにあたりは暗かった。日本大嫌いの老人にお礼をいって車を下り、その夜は町外れで野宿した。

大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)に入っていく
大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)に入っていく

ブラドと走った2200キロ

 チャーターズタワーの町を過ぎると、交通量はガクッと減った。ときどき、思い出したように車が通るが、乗せてくれない。ヒッチハイクのきわめて難しい内陸部に入ったのだ。シドニーからずっと楽なヒッチハイクをしつづけてきたので、それがこたえた。

 日が高くなるにつれて、厳しい暑さになる。太陽が頭上に来るころは、まともに直射日光を浴びつづけているので、頭が割れるように痛む。日射病にかかったかのような辛さ。「地獄のあとは天国」。これは旅の法則だ。苦しんだかいがあり、午後になると、オンボロ車が停まってくれた。オイルがもるような車なので、どうせ近くまでだろうとタカをくくっていたら、なんと2200キロ先のキャサリンまで行くという。あのウォールさん一家と出会ったキャサリンだ。2200キロというと、日本だと東京から鹿児島、さらには沖縄の那覇あたりまで行く距離になる。

 乗せてくれたのはユーゴスラビア人のブラド。1947年生まれで、ぼくと同年。それだけに気があった。チャーターズタワーからキャサリンまで、4日間のブラドとの旅が始まった。

 目をキラキラと輝かせ、夢を見、夢を追いつづけている人に出会うと、無性にうれしくなるものだ。ブラドはそんな若者だ。

 彼はユーゴスラビアのザグレブで生まれた。ユーゴスラビアの貧困と不自由から逃れたくて、19歳のときに、オーストラリアに単身で移住した。バイタリティーに富んだブラドは言葉のハンデをものともせずに、いろいろなことに手をだしてきた。今は北部地方のビクトリア川を中心にして、ワニの密猟をやっているという。

「真夜中の川に行って、明かりひとつで川を下っていくんだ。ワニをみつけ、パーッとサーチライトで照らすと、ワニはすっかり動けなくなってしまう。そこを銃でねらい射ちする

 と、得意気に話す。1ヵ月で5000ドル(約200万円)も稼いだこともあるという。ブラドはその資金を元にして、オパールの原石を買い込んでいた。

「ワニの密猟はヤバイので、そろそろオパールに換えようと思っている。オーストラリア産のオパールを世界中に売るんだ」

 ブラドとはいろいろなことを話した。

 その中でもすごく印象に残っているのが、自由についてだった。

「人間にとって一番大事なものは自由だ。自由に自分の頭で考え、それを自由に行動に移せる、そんな自由だ。そうでなかったら、人間は人間とはいえないよ。ユーゴスラビアにいたときは自由がなかった。政治の批判はできないし、自分の将来の選択の自由もない。何を考えようと自由なのに、夢を抱く自由もなかった」

 それだからブラドはオーストラリアに来てよかったといっている。しかしブラドはオーストラリア人に好意は持っていなかった。おそらく彼がオーストラリアにやってきたころは、英語も話せずに、オーストラリア人に冷たくされたと思い込んでいるからだろう。

「オーストラリア人といったって、もとはといえば、みんな自分と同じような移民。それなのに新しくやってきた移民をバカにして」

 ブラドの話からも、いろいろな民族の混ざり合ったオーストラリアの抱える悩みを見ることができる。オーストラリアはいろいろな民族の寄り合い所帯なので、ドイツ系はドイツ系でかたまり、フランス系はフランス系で、イタリア系はイタリア系というように、民族ごとで固まっている。オーストラリア人の本家ともいえるイギリス人でさえ、イギリス国内の対立をそのままオーストラリアに持ち込み、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、お互いに反目し合っている。

 幅の広いグレート・ディバイディング・レインジ(大分水嶺山脈)を越え、内陸部に入っていくと、乾燥した大地がはてしなく広がっている。車窓からは車にぶつかって死んだカンガルーをひんぱんに見かける。カンガルーは暗くなると、車のヘッドライトをめがけて飛び込んでくる。

 ブラドのオンボロ車にも、ルーバー(カンガルー・バー)がついている。ルー・バーというのは、車の前につける鉄製の頑丈なバーで、ぶつかたカンガルーをはね飛ばすようになっている。ルー・バーはカンガルーのためばかりでなく、牛と衝突したときも、車や運転者や同乗者のダメージを減らしてくれる。ブラドは買ったばかりの新車を牛にぶつけてしまい、車は大破、そこでやむなく100ドル(約4万円)でこのオンボロ車を買ったのだという。

 日が落ちても走りつづける。睡魔に襲われてくると、ブラドは道のわきで車を止めた。そしてシートを敷き、我々は降るような星空のもとで野宿した。

泥沼地獄

 翌日は夜明けとともに出発。雲ひとつない快晴で、朝日が草原を赤く染めた。単調な風景の連続に、疲れがたまり、思わずウトウトしてしまう。そこでブラドとは途中、何度か運転をかわった。ブラドは100ドルで買った車が予想以上に走るのでご機嫌だ。

 トラブルもなく、2日目も夜になった。道はダートだが、それほど悪くはない。

 ブラドにかわってぼくが運転しているときのことだった。車のヘッドライトは片側が壊れ、左側だけで走っていた。その頼りない明かりの中に、突然、道いっぱいに広がった水溜まりが浮かび上がった。とっさに急ブレーキをかけたが、間に合わずに、その中に突っ込んでしまった。その大きな水溜まりの手前には、草原の中をう回する道があったのだが、まったく気がつかなかった。

 ブラドが車のアクセルを踏み、ぼくが車の後を押した。しかし、まったく動かない。真昼の暑さとはうってかわって、泥水は氷のような冷たさだ。ぼくたちは車を押すのをあきらめ、通りがかりの車を待った。

「悪いなあ、ブラド」
「気にするな、タカシ。こういうときのために、ロープを持ってきているんだ。車が来たら、助けてもらえばいい」

 真夜中になって待ちに待った車が来た。懐中電灯を点滅させて、車を停めると、大型のタンクローリーだった。運転手は快く「よし、引っ張ってあげよう」といって、ブラドの車に結びつけているロープをタンクローリーで引っ張った。ロープはピーンと張りつめる。祈るような気持ちで見ていたが、無残にもロープはプッツンと切れてしまった。

 タンクローリーの運転手は「ロード・キャンプに知らせておく。多分、明日の朝になれば助けだされるよ」といい残して走り去っていった。

 ぼくたちは「明日の朝まで待とう」といって、車の中で寝た。ブラドに揺り動かされて目をさましたときは、まだ夜明け前で、あたりは暗かった。車がやってくる。懐中電灯を振って車を停める。それは回送中のバスだった。なんともラッキーなことに、バスは長い鉄製のワイヤーを積んでいた。それを使ってバスに引っ張ってもらうと、ブラドの車はジリジリと動きだし、ついに「泥地獄」から脱出できた。ぼくとブラドはバスの運転手と握手をかわし、「泥沼地獄」からの脱出を喜び合った。

 マウントアイザ、テナントクリークと通り、なつかしのキャサリンに着くと、ブラドは友人のボブの家に行った。ボブは食べきれないほどのチキンとポテトチップを買ってくる。ぼくたちはビールをガンガン飲みながら食べた。そこへブルノが帰ってくる。ボブもブルノもユーゴスラビア人。彼ら3人は何度か一緒に仕事をしたことがあるという。

 ひと晩、泊めてもらい、翌朝、キャサリンの郊外まで車で送ってもらった。そこでブラドとボブ、ブルノと別れた。

 そこで車を待った。厳しい暑さ。頭がクラクラしてくる。車に乗せてもらえないまま、昼になった。そんなときにブラドがボブ、ブルノと一緒にやってきた。「昼食だよ」といって、冷たい飲み物とサンドイッチ、サラダを持ってきてくれた。ありがたい。ほんとうにありがたい。彼らのおかげで元気が出た。

チャーターズタワーからマウントアイザへ
チャーターズタワーからマウントアイザへ
鉱山町のマウントアイザで
鉱山町のマウントアイザで
鉱山町のマウントアイザで
鉱山町のマウントアイザで

恐怖の酔っぱらい

 午後になって1台の車が停まってくれた。運転しているのは50過ぎの人。乗せてもらうなり、まずはアイスボックスに入ったカンビールをすすめられる。炎天下に立ちっぱなしだったので、一気に飲み干した。なんともいえずにうまいビール、だが、運転手はぼく以上に、2本、3本とたてつづけに飲んだ。それ以前にもかなり飲んでいるようで、危なっかしくて仕方がない。道を外れ、立木にぶつかりそうになったときは、思わず冷や汗が出た。「もう、これまで」と、ぼくが運転をかわった。そのとたんに、彼はグーグー、いびきをかいて眠ってしまうのだ。

 おまけに車のトラブルに見舞われた。オイルランプがつきはじめ、さらにラジエター水も減ってオーバーヒート寸前になる。からくもガソリンスタンドにたどり着き、オイルを足し、ラジエター水を補給し、給油した。ところがこのオッサン、金を持っていないのだ。ガソリン代とオイル代の9ドルは、ぼくが払うしかなかった。

 キャサリンから500キロのクヌヌラに着いたのは、夜も遅くなってからのことだった。酔っぱらいのオッサンは大分、酔いもさめたようで、何事もなかったかのように「じゃー、元気でな」といい残して走り去っていった。その夜はクヌヌラの町の中心の広場で野宿したが、蚊にさんざんやられ、よく眠れなかった。

キャサリンからクヌヌラへ
キャサリンからクヌヌラへ

自由奔放な空気

 夜が明けたところで出発だ。クヌヌラはオード川をせき止めた感慨用のダムから水を引いてつくり出した広大な農業地帯の中心地。ホールズクリークからフィッツロイクロッシングに向かって歩いていく。おびただしい数の蠅。はらってもはらっても、まとわりついてくる。飛行場のわきを通る。そのとき、ものすごい数の鳥の群れを見る。一瞬、空が暗くなるほどの鳥の大群だった。

オード川をせき止めた灌漑用ダムとダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダムとダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダムとダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダムとダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダム湖
オード川をせき止めた灌漑用ダム湖

 オード川を渡っているときに、ティモール海のケンブリッジ湾に面したウィンダムまで行く車に乗せてもらい、ホールズクリークとのT字の分岐で下ろしてもらった。

 ホールズクリークまでは350キロあるが、すごくラッキーなことに、ほとんど待たずに次の車に乗せてもらった。若い男女5人の乗る車。それなのにぼくを乗せてくれたのだ。後の座席には女の子たち3人が乗っていたが、その中に割り込んで座らせてもらった。

 彼女たちとはいやでもおうでもピッタリと肌を寄せ合い、彼女たちの体の暖かさがジンジン伝わってくる。なんと5人はパースまで一緒に行くとのことで、その途中のブルームで仕事をするという。舗装は途切れ、ダートに突入。ものすごい土ぼこりが車内に入り込み、彼女たちの顔はあっというまに真っ白になる。昼過ぎにホールズクリークに到着。レストランで5人と一緒に食事をしたが、ぼくの分はみんなが払ってくれた。

 次の町、フィッツロイクロッスングへ。約300キロある。荒野には無数の蟻塚。まるで墓標のようだ。珍しく雲を見た。遠くの方では雨が降っている。夕方、フィッツロイクロッシングに到着。ここにはホテルがあって、パブがあって、郵便局があって、ガソリンスタンドがあってと、それだけ。とても町といえるようなところではない。

 昼と同じようにレストランで5人と一緒に夕食を食べ、そのあとはパブで飲んだが、自分の分はまたしてもみんなが払ってくれた。5人はホテルに泊まり、ぼくは車中で寝た。またしても蚊の猛攻を受け、ひと晩中、蚊との戦いであまりよくは眠れない。

 フィッツロイクロッシングを過ぎると舗装路になった。風景はほとんど変わらない。荒野が延々とつづく。ダービーの町に寄り、500キロ近くを走って、夕方、インド洋に面したブルームに到着した。5人はここでしばらく働くという。

 男性2人は中国人の経営する漁業会社の船に乗り、女性3人はレストランで働くという。5人はシドニーを出発した。みんなでお金を出し合って中古車を買い、それで旅に出た。途中、ブリスベーンで働き、マウントアイザで働き、さらにダーウィンで働いてここまでやってきた。ブルームで働いたらパースまで行くという。そんな5人に自由奔放な空気を強く感じるのだった。

 夕暮れのブルームで男性2人とは握手をかわし、女性3人とは熱き抱擁をかわして別れたが、いつまでも後髪を引かれるような思いがした。

西オーストラリアの荒野を行く
西オーストラリアの荒野を行く
ブルームの町並みが見えてきた
ブルームの町並みが見えてきた

カソリング43号 2003年11月発行より

30年目の「六大陸周遊記」[009]

オーストラリア編 03 シドニー → ケアンズ

南アフリカのビザに泣く…

 オーストラリアの首都キャンベラではユースホステルに泊まり、貸自転車に乗って、ビザを取るために南アフリカ大使館に行った。アジア、オーストラリアのあとはアフリカだが、西オーストラリアのパースから南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶ計画なのだ。

「きっと、何日か待たされるに違いない」と覚悟していたら、なんとビザ担当の書記官に、「明日の午前中に来て下さい」といわれ、いささか拍子抜けしてしまった。

 その日は1日、自転車でキャンベラ見物をした。国会議事堂、官庁街、キャンベラ大学、キャンベラ駅と見てまわる。最後が「戦争記念館」だった。オーストラリア兵が出兵した数々の戦争の写真や絵画などが展示されている。その中には、太平洋戦争での日本軍との戦いのものも数多くあった。

キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く

 翌日、南アフリカ大使館を訪ねる。すんなりとビザをもらえるものとばかり思っていたが、ビザ担当の書記官に呼ばれ、
「あなたのビザは本国照会になった。返事が戻るまでには4週間ぐらいかかるので、そのころにもう一度、来て下さい」
 といわれた。なんということ。

 ぼくの計画ではシドニーに行き、バイクを借り、「オーストラリア一周」をする。そのあとヒッチハイクで大陸を横断し、西オーストラリアのパースから飛行機で南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶというものだった。急遽、予定を変更し、先にヒッチハイクで「オーストラリア一周」をしてキャンベラに戻り、南アフリカのビザを取り、そのあとバイクで「オーストラリア一周」をすることにした。こうして「オーストラリア一周」が「オーストラリア二周」になった。

 そう決めると、気持ちがスーッと楽になった。さっそくヒッチハイクでの「オーストラリア一周」をスタートさせる。雨が降っている。雨に濡れながら、シドニーに通じる道を歩く。キャンベラの郊外まで歩いたところで車を待った。

 最初は80キロ先のグールバーンまで行く車に乗せてもらった。パイプオルガン奏者のデビッドの車。彼はスイスのバーゼルで5年間、音楽の勉強をした。32歳。独身。こうしていろいろな人たちに出会えるのが、ヒッチハイクの最大の魅力だ。

 きれいな田園風景の中を走る。ユーカリの林。牧場ではヒツジが群れている。グールバーンに着くと、デビッドはカトリックの教会に連れていってくれた。神父とは親しいとのことで、教会のパイプオルガンを弾いて聞かせてくれた。薄暗いドームにパイプオルガンの音色が響く。ステンドグラスを通して差し込む光りが、ムードを一段と盛り上げた。

 デビッドはグールバーンの町外れまで連れていってくれた。そこからシドニーまでは、ほとんど待たずに、テッドとシェーンの老夫婦の車に乗せてもらった。2人は1ヵ月間、キャラバンカーでオーストラリアをまわり、旅を終え、シドニーの家に帰るところだった。キャンベラから280キロのシドニーには、夜になって着いた。テッド、シェーンと別れ、夜のシドニーの町を歩き、建設中のビル内でシュラフを敷いて眠った。

 翌日の午前中はシドニーの中心街を歩いた。久しぶりに吸う大都会の空気のホッとする。東京生まれ、東京育ちの自分が、シドニーを歩きながら「都会っ子」だということを実感する。完成したばかりのオペラハウスに行き、そこからシドニー湾をまたぐハーバーブリッジを眺める。シドニーと対岸のノースシドニーを結ぶフェリーが湾内をひんぱんに行き来している。客船用の桟橋には、真っ白な大型客船が停泊していた。

シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く

ヒッチハイク編の「オーストラリア一周」に出発だー!

 1973年10月4日の昼過ぎにシドニーを出発した。ヒッチハイクでオーストラリアを一周するのだ。次にシドニーに戻ってきたときは、バイクでの「オーストラリア一周」になる。最初は電車に乗ってシドニーを離れた。中央駅からホンズバイ駅まで行き、そこから歩いて国道1号に出た。いよいよ「オーストラリア一周」のヒッチハイクの開始だ!

 シドニーの北、160キロのニューカッスルまでは若い女性に乗せてもらった。30代前半のすごくきれいな人。彼女の香水の匂いに頭がクラクラッとする。映画のディレクターをやっているとのことで、着ているものや化粧の仕方、話し方など、彼女のセンスの良さはきわだっていた。

「タカシが次の車に乗せてもらいやすいように、ね」
 といって彼女はニューカッスルに着くと、町を走り抜け、郊外まで連れていってくれた。別れるときは、思わず彼女の手を握りしめた。つかのまの恋!?

 彼女のおかげで、すぐに、次の車に乗れた。テリーとロイの2人組が乗っていたニューカッスルから750キロ北のサウスポートまで泳ぎに行くという。2人は運転を交替しながら夜通し走りつづけ、翌、早朝にはサウスポートに着いた。

 10月初旬のシドニーはやっと春になったといったところで、雨も冷たく、夜も寒く、震えながら野宿した。ところがニューサウスウエルス州からクイーンズランド州に入り、南緯28度のサウスポートまで来ると、初夏のような陽気。すっかり寒さからは解放された。この一帯の太平洋岸はゴールドコーストと呼ばれ、オーストラリアでも屈指のリゾート地になっている。

 サウスポートからクイーンズランド州の州都、ブリスベーンまでは85キロ。その間もほとんど待たずに乗せてもらえた。オーストラリアでのヒッチハイクは楽だ。シドニーから1000キロのブリスベーンに到着したのは午前10時前。なんと1日もかからなかった。オーストラリアでの距離感は、日本とはまるで違う。1000キロといえば、東京からだと山口県の岩国あたりで、相当な距離になる。ところがオーストラリアだと1000キロというのは、東京から大阪どころか、名古屋ぐらいの感覚だった。

シドニーから郊外へ
シドニーから郊外へ
ブリスベーンに到着
ブリスベーンに到着

すさまじい豪雨

 ブリスベーンの中心街を歩き、そのまま国道1号を北へ。シドニー→ブリスベーン間の国道1号は「パシフィックハイウェー」だが、ブリスベーンを過ぎると「ブルースハイウェー」と名前を変える。

国道1号を北へ
国道1号を北へ

 ここでは信じられないような出来事があった。

「早く郊外に出よう!」
 と、急ぎ足で歩いているときのことだった。

 鉄道のガードをくぐったところに1台の車が停まっていて、運転している人がぼくを手招きし、「乗りなさい」というのだ。「キミの歩いている姿を見て、きっとヒッチハイクしているんだなと思ったんだけど、あそこだと道幅が狭くって、車を停められなかった。それでキミが来るまで、ここで待っていたんだよ」

 なんともありがたいこと!

 彼はダニーといって、40を過ぎていた。だが、若いころにはヒッチハイクでオーストラリア中を旅した。ぼくの姿を見て「あのころの自分を思い出したんだよ」という。

 ダニーにはよくしてもらった。車中ではサンドイッチをもらった。腹をすかせているぼくを見て、それだけでは足りないと思ったのだろう、さらにハチミツのたっぷりかかったクッキーや白身の魚のフライも出してくれた。ダニーにはブリスベーンから50キロほど先まで乗せてもらったが、別れぎわにはオレンジをゴソッと袋に入れて持たせてくれた。

「これから北に行くと、ものすごく暑くなるから」といって、帽子までくれるのだった。

 ダニーと別れたあとは、ブリスベーンから280キロ北のマリーボロまで行く車に乗せてもらった。ブリスベーンを出るときは、きれいに晴れ渡っていたが、マリーボロに向かうにつれて天気は崩れ、やがて雨が降りだした。雨はあっというまに豪雨に変わる。すさまじい豪雨。まるで空が抜けたかのような降り方だった。

 丘陵地帯を走っていたが、道路はあっというまに川に変わり、濁流が渦巻いている。車のワイパーはまったく役にたたず、前方はほとんど見えない。車は10キロ以下のノロノロ運転。そこまで速度を落としても、ボンネットを越えて、バケツでたたきつけるかのような雨水がフロントガラスを打った。背筋が寒くなるような光景。

(オーストラリアはその年の年末から翌年の1974年にかけて、広範囲な地域で、記録的な大洪水に見舞われた。ブリスベーンもブリスベーン川の氾濫で大きな被害を受けた。ぼくはそのころはアフリカに渡っていたが、現地の新聞でオーストラリアの大洪水のニュースを見たときは、まっさきにこの豪雨のシーンが頭をよぎった)

 マリーボロまで来ると、ついいましがたまでの、すさまじい豪雨はまるでうそのように空は晴れ渡っていた。抜けるような青空。強い日差しがさんさんと降りそそいでいた。

熱帯圏に入っていく

 マリーボロからは若者の車に乗せてもらった。背がすらりと高い。イアン、20歳。1200キロ北のタウンズビルまで行く。

 車はホールデンのワゴン車。ひどいオンボロ車。バッテリーは上がり気味で、エンジンがなかなかかからない。タイヤはツルツルで、おまけにブレーキのききも悪い。乗っているのが怖いくらいだ。が、イアンはそんなこともおかまいなしに飛ばす。カーブにさしかかったときは身が縮むような思い。車は横滑りし、思わず「あーっ!」という声が出てしまう。日がくれかかったころ、カンガルーが道に飛び出してきた。イアンは急ブレーキをかけたが間に合わない。カンガルーに激突かと、目をつぶってしまったほど。だが、幸いにも尻尾にヒットしただけで済んだ。カンガルーは大丈夫だったようで、ピョンピョン跳ねて逃げていった。イアンの車はといえば、片一方のヘッドライトが破損しただけのダメージで済んだ。

 南回帰線を越え、熱帯圏に入っていく。ロックハンプトン、マッケイと大きな町々を通り過ぎていく。イアンは夜通し走りつづけ、一睡もしない。そして夜が明ける。あたりは一面のサトウキビ畑だった。

 昼前にタウンズビルに着いた。イアンに誘われるままに、彼の家に行き、昼食をご馳走になった。イアンは母親、弟と一緒に住んでいる。お母さんはガンの手術で左腕を切断、弟の小学生のバディーは障害児で、なんともはや気の毒だった。だが、イアンには暗さは微塵もない。それから2日、彼の家で泊めてもらった。

 翌日は日曜日。一家と一緒に太平洋のマグネティックアイランドに行った。ここはタウンズビルにも近い島なので、ちょっとした観光地になっている。浜辺でイアン、バーディとボール投げをし、昼にはお母さんがつくってくれたお弁当を一家と一緒に食べた。

 イアンの家を発つときは、お母さんもバーディもぼくとの別れを惜しんでくれた。お母さんは「途中で食べなさい」といって昼食のお弁当を持たせてくれた。

 タウンズビルから370キロ北のケアンズへ。その間では全部で9台の車に乗せてもらった。そのうち20キロほど乗せてもらった車は、スピード違反でパトカーに捕まり、警官に切符を切られた。罰金は10ドル(約4000円)。かなりの額だ。運転している人に何か、すごく申し訳ない気持ちになる。もし彼がぼくを乗せなかったら、パトカーに捕まらなかったかもしれないと思ってしまうからだ。そんなぼくの顔を見て、「スピード違反は、キミにはまったく関係ないよ」と運転している年配の人はいってくれた。

 道の両側には、行けども行けども、広大なサトウキビ畑が広がる。アルトゥールさんという老人の車に乗せてもらったときは、そんなサトウキビ畑の一角にある製糖工場を案内してもらった。工場には次々とトロッコ列車でサトウキビが運び込まれる。そのサトウキビが粗糖になっていく過程を工場を歩きながら、わかりやすく説明してくれた。工場見学が終わると、しぼりたてのシュガーケーン・ジュース(サトウキビジュース)を飲ませてくれた。

北部オーストラリアのサトウキビ畑
北部オーストラリアのサトウキビ畑
北部オーストラリアのサトウキビ畑
北部オーストラリアのサトウキビ畑
製糖工場
製糖工場
製糖工場
製糖工場

 ケアンズへの9台目はドイツ系移民のゲーリック・ロドラーさんの車だった。ケアンズに着いたのは夜の8時過ぎで、ゲーリックには「今晩はウチで泊まっていったらいい」といわれた。ありがたくそうさせてもらう。彼は40代の半ば。ドイツ人の奥さんと10代の2人の娘さんがいる。夕食をいただいたあと、世界地図を真ん中に置き、ロドラー一家とおおいに世界を語り合った。

ケアンズに到着
ケアンズに到着

 翌朝、ゲーリックにケアンズ港まで送ってもらった。船でグリーンアイランドに渡るのだ。グリーンアイランドは珊瑚礁のグレート・バリア・リーフ(大保礁)の島。南北2000キロにも渡って延びるグレート・バリア・リーフは世界最大の大保礁なのだ。

 船は1日1便。9時の出港だ。往復で2ドル(約800円)。グリーンアイランドは手軽に渡れる島なので、観光客も多い。外国人観光客の姿も見受けられた。

 1時間ほど船に揺られると、グリーンアイランドに到着。すばらしくきれいな海の色で、スーッと吸い込まれそうになってしまう。島を取り巻く遠浅の海の向こうで、太平洋の波が白く砕けている。ここでは海中を展望するガラス張りのアンダーウォーターオブザーバトリーや、船底がガラス張りになったグラスボートで、色鮮やかなサンゴや熱帯魚を存分に見ることができた。夢の世界のようだった。

 グリーンアイランドからケアンズに戻ると、ゲーリックが車で迎えに来てくれていた。もうひと晩、彼の家で泊めてもらった。2人のかわいい娘さんたちと一緒の夕食はなんとも楽しいものだった。

船でグリーンアイランドへ
船でグリーンアイランドへ
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド

カソリング42号 2003年10月発行より

30年目の「六大陸周遊記」[008]

オーストラリア編 02 アリススプリングス → キャンベラ

大型トラックの運転手ティム、22歳

 オーストラリア中央部の蠅の多さには、泣きがはいるほど。ほんとうに蠅がうるさい。ウワーッと、顔にまとわりついてくる。追い払っても。追い払ってもまとわりついてくる。頭にきてパーンと顔をたたいたら、一度に10ぴき以上の蠅を落とした。それほどの蠅の多さだった。

 暑さがきつくなりはじめたころ、ボルボの大型トラックに乗せてもらった。ラッキー。乾燥した原野を南下していく。やがてダーウィンからつづいた舗装路が途切れ、ガタガタのダートに入っていく。

 大型トラックの運転手はティム。22歳。すごくいいヤツだった。助手はいないオーストラリアではあまりにも人手がないので、1000キロ、2000キロという長距離を走るトラックでも、たいてい助手は乗っていない。助手が1人どころか、2人も3人もいるインドネシアのトラックとは大違いだった。

 オーストラリアの長距離トラックの運転手たちは、助手のかわりに、助手席によく犬を乗せていた。ティムもそうだ。犬を相手に、寂しさをまぎらわしているようだった。犬のために、ドッグフードの入った缶詰をごっそり積んでいた。ティムもそうだった。

「コイツの方がオレよりも、食事代によけいかかるんだ」
 と、ティムは犬に目をやりながらいった。

 ティムは靴を一切、はかない。トラックの運転中だけではなく、トラックを降りて町を歩くときも裸足だ。裸足の方がはるかに気持ちよく、また健康にもいいという。

「日本にも裸足の人たちはいるの」
「いやー、見たことがないな」
「なぜ」
「裸足で外を歩くと、なんとなく恥ずかしいし、それに道にはガラスとかクギが落ちていて危ないんだ」

 裸足の方が気持ちいいというのは、よくわかる。ぼくはそのとき、トラックの荷台に乗ってサハラ砂漠を縦断したときのことを思い出した。3週間の間、一度も靴をはかなかった。砂は焼けて、裸足で歩くと火傷しそうだった。トゲが刺さったりしたが、それでも靴をはかなかった。裸足の方がよっぽど気持ちよかったからだ。それだけにティムのいいたいこともよくわかった。オーストラリアでは、ティムに限らず、裸足の人たちをけっこう見かけた。

 オーストラリアの中央部は暑く、乾燥していた。すぐにのどが渇く。ティムはクーラーボックスから冷えたジュースやコーラの缶を取り出して飲むときは、ぼくにも「飲め」といって缶を手渡すのだ。

「ティム、もう、いいよ。なくなってしまう」
「かまわないんだ。町に着いたら、また買えばいいんだから」
 といって取り合わない。

 ノーザンテリトイリー(北部地方)から南オーストラリア州に入ると、幾分、暑さはやわらいだ。その夜、鉱山町のクーバーペディーに着き、ティムはトラックを止めた。ここは世界でも最大級のオパールの産出地。トラック内でひと晩眠ると、翌日は新たな積み荷を積み込み、昼近くにこの鉱山町を出発した。さらに300キロ南のキングーニャまで行くという。ティムのトラックはモウモウと土煙を巻き上げて走りつづける。大陸縦断の幹線ルートだが、すれ違う車はほとんどない。

クーパーペディーのオパール鉱山
クーパーペディーのオパール鉱山
クーパーペディーのトラックターミナル
クーパーペディーのトラックターミナル

 夕方、キングーニャに着いた。ティムと固い握手をかわし、ぼくはトラックを降りた。ティムはここからさらに西へ、ナラボー平原に入っていく。道はもっと悪くなるという。ティムのトラックが動きだす。ぼくは手を振って見送った。土煙を巻き上げて走るトラックはあっというまに小さくなり、やがて夕焼けの西の空に吸い込まれたかのように、その姿を消した。

大陸横断の鉄路。キングーニャで
大陸横断の鉄路。キングーニャで
キングーニャのきれいな夕焼け
キングーニャのきれいな夕焼け

貨物列車から飛び降りる

 キングーニャは小さな町だが、この町には大陸横断のトランス・オーストラリアン鉄道の駅がある。その駅でひと晩、寝ることにした。その日は土曜日で、月曜日になるまでこの駅に停まる旅客列車はない。そのため駅には乗客はもちろんのこと、駅員も1人もいなかった。

 駅舎内のベンチにシュラフを敷いて眠った。久しぶりにぐっすり眠れた。が、夜中に西のパース方向からやってきた貨物列車の停まる音で目がさめた。反対方向から来る列車との待ち合わせのようだった。

「ラッキー!」

 ぼくはガバッと飛び起きた。シュラフをすばやく丸め、ザックを背負い、その貨物列車に飛び乗った。その列車でポートオーガスタまで行こうとしたのだ。ぼくが飛び乗ったのは乗用車を専門に積む貨車で、上下2段に分かれた空の車両だった。

 シドニー方向から来た貨物列車とすれ違うと、ぼくの乗った貨物列車が動きだす。そのときの「ガシャガシャガシャーン」という連結器と連結器のぶつかり合う音がすごい。貨物列車は暗闇の中を相当なスピードで走る。キングーニャからポートオーガスタまでは約350キロ。列車がキングーニャを出発したのは午前1時ごろなので、夜が明けるころにはポートオーガスタに着くだろうという予測を立てた。

 ポートオーガスタまではノンストップで走るであろうと思っていたら、途中のウーメラ駅で貨物列車は停車した。トーチを手にした車掌が見回りにきたが、シュラフにもぐり込んで寝ていたこともあり、逃げるまもなく見つかってしまった。もうジタバタしてもはじまらない。

「どこまで行くつもりなんだ」
「ポートオーガスタまでです」
「いいか、キミは悪いことをしているんだぞ」
「はい、よくわかっています」
「ポートオーガスタに着いたら、ポリスに突き出してやる。金はちゃんと持っているだろうな。料金はポートオーガスタに着いたら払うんだ」

 なんともラッキーなことに、ウーメラ駅では降ろされなかった。

 そのまま貨物列車に乗りつづける。やがて白々と夜が明けてきた。荒野のはるかかなたに町の灯が見えてきた。

「ポートオーガスタだ。間違いない!」

 ぼくは貨車の鉄板の上に敷いたシュラフをクルクルッと丸め、身支度を整える。列車が大分、町に近づいた。すでにすっかりと夜が明け、あたりの風景がはっきりと見えてくる。大きなカーブにさしかかる。列車はガクンとスピードを落とす。

「今だ、今がチャンスだ!」

 ぼくはザックを投げ下ろし、すぐさま列車を飛び降りた。こういうことは、バイクの事故で慣れているのだ。うまく受け身をとることができ、ゴロゴロゴロンところがり、右足をすこし痛めた程度で無事に立ち上がった。走り過ぎていく貨物列車に敬礼して見送る。車掌にはなんとも申し訳なかったが、「やったゼ!」とガッツポーズをとると、右足を引きずりながらポートオーガスタに向かって歩いた。

 思ったよりも距離があり、2時間ぐらいかかってポートオーガスタの町に着いた。公園の水道で顔を洗い、「フーッ」と、ひと息つくのだった。

ポートオーガスタ郊外の荒野
ポートオーガスタ郊外の荒野
パース方向から貨物列車がやってきた。ポートオーガスタで
パース方向から貨物列車がやってきた。ポートオーガスタで

首都キャンベラに到着!

 ポートオーガスタからは国道1号でアデレードに向かっていく。町外れにはアンポール(オーストラリアの石油会社)の24時間営業のガソリンスタンドがあった。そこのレストランでコーヒーを飲みながらサンドイッチを食べた。このおかげで、新たな力が蘇ってきた。

 その日は日曜日。日曜日というのは、平日に比べると、ヒッチハイクが難しい。ところがすごくラッキーな1日で、アデレード方向に歩きはじめると、ほとんど待たずにメルボルンまで行く車が停まってくれた。男女2人づつの若者たちの乗る車だった。

 ぼくは首都のキャンベラに直行したかった。そのことを彼らに告げると、なんと300キロ先のアデレードでわざわざ遠回りをし、アデレード郊外の国道20号で降ろしてくれたのだ。この国道20号はアデレードとシドニーを結ぶ最短ルートで、キャンベラは国道20号から南に入ったところにある。アデレードからキャンベラまでは1250キロだ。

 彼らのおかげで、そのあとすぐに、なんとキャンベラまで行く車に乗せてもらえた。信じられないようなラッキーさだ。ディーンとエリス夫妻の乗る車。2人にはぼくと同じくらいの年ごろの息子がいるという。が、2人はとてもそんな年には見えない。見かけも考え方も若々しかった。

 オーストラリア最大の川、マレー川流域を走る。この一帯は豊かな農地で、ブドウなどの果樹園も多い。北部地方の荒涼とした原野とは、きわめて対照的だ。空気もひんやりとして湿っている。吹く風も冷たく、40度、50度という猛烈な暑さに慣れた体には、寒さがひどく身にこたえた。

 南オーストラリア州からビクトリア州に入り、きれいなミルジュラの町を過ぎると、ニューサウスウェールズ州になる。

 国道沿いの露店で夫妻はごっそりとリンゴとオレンジを買った。ディーンは「タカシ、食べたいだけ、食べなさい」といってくれたが、ぼくが遠慮して手を出さないでいると、すかさずいわれた。

「ここはオーストラリアだからね。日本ではないんだよ。日本式の遠慮は通じない」

 ディーンは言語学者で、大阪で開かれた学会に、奥さんのエリスを連れて行った。夫妻が日本で何に一番、驚いたかというと、「日本人の何か欲しくても、すぐには欲しいといわない遠慮深い性格」だという。

 ディーンとエリスは交替で車を運転し、夜通し走りつづけた。ワガワガという町に着いたとき、24時間営業のレストランで夫妻に夕食をご馳走になったが、遠慮なしにいただいた。ディーンは「あと、もうひと息でキャンベラだよ」という。ワガワガを過ぎると、国道20号はメルボルンとシドニーを結ぶ国道31号に合流し、ヤスの町を過ぎたところで、キャンベラに通じる道に入っていく。

 ニューサウスウェールス州から連邦政府直轄のACT(オーストラリアン・キャピタル・テリトリー)に入る。やがて遠くにキャンベラの町明かりが見えてきた。ディーンは寄り道をして小高い丘の上で車を停めてくれた。そこからはキャンベラの夜景を一望できた。

 ディーンとエリス夫妻の家に着いたのは午前3時を過ぎていた。夫妻の家でひと晩、泊めてもらう。「タカシ、自由に使いなさい」といってひと部屋、用意してくれた。きれいなベッド。真っ白なシーツ。ぼくはディーンとエリス夫妻の家で死んだように眠った。

 こうしてオーストラリアの首都キャンベラに10月1日に到着したが、ダーウィンからは4500キロ、その間で使ったのは4ドル(約1600円)だけだった。

 ディーン、エリス夫妻の家では昼近くまで寝かせてもらった。夫妻と一緒に昼食を食べ、そのあとキャンベラの中心街まで車で連れていってもらった。そこで夫妻と別れたが、エリスはぼくをギュッと抱きしめると、「タカシ、気をつけて旅をつづけるのよ」といってほほにキスしてくれた。

 じつによく整備されたキャンベラの町を歩く。驚くほどきれいな町だ。小道1本1本まで、すべて計画通りにつくられている。だがその日は休日で人通りも少なかったこともあって、何か人間くささがなく、インドネシアの雑然とした町がなつかしく思い出されるのだった。ユースホステルに泊まろうと思い、ドライアンドラ通りを探した。しかし、なかなか見つけられず、通りがかりの家で、トントンとカナヅチを振って日曜大工している人に聞いた。すると「ちょっと待ってなさい。もうすぐ仕事が終わるので、車で送ってあげよう。ドライアンドラ通りまでは歩いたら大変だ」といってくれたのだ。

 その人はキャンベラ大学でドイツ語を教えているロン・ホッフさんだった。彼の車でキャンベラ郊外の樹林に囲まれたユースホステルに連れていってもらったが、夕方の5時まで待たなくてはならなかった。すると、「それまで、私の家にいたらいい」といって、ふたたび彼の家に戻った。

 ロンは野生動物にすごく興味を持っている。図鑑などを見せてもらいながら、オーストラリアの動物についてのおもしろい話を聞いた。ロンの奥さんは「我が家では、日曜日とか休日には、よく中国料理を食べに行くのよ。さ、一緒に行きましょ」といってぼくをも誘ってくれた。こうしてホッフ夫妻と3人の子供たちと一緒に中国料理店に行った。ロンは中国語(広東語)もかなり話せる。店の主人とは中国語で楽しそうな会話をかわした。
「この店のオヤジは友人で、いいヤツなんだけど、ギャンブルに狂っていてね。それだけが玉にキズなんだ」とロンはいう。

 中国料理店では何種もの料理をご馳走になった。ぼくの食べっぷりがいいといって夫妻は喜んでくれた。ホッフさん一家と過ごした時間はなんとも楽しいものだった。明るくおおらかなホッフ一家の空気は、オーストラリアそのものといった感じがした。食事が終わると、そんなホッフさん一家にユースホステルまで送ってもらい、清潔感の漂うユースホステルに泊まるのだった。

カソリング41号 2003年9月発行より

30年目の「六大陸周遊記」[007]

オーストラリア編 01 ダーウィン → アリススプリングス

ダーウィンが出発点

 1973年9月24日、ポルトガル領ティモールのバオカオ空港から9時45分発のTAA(トランス・オーストラリア・エアーライン)機でオーストラリア北部のダーウィンに飛んだ。機内食のサンドイッチを食べ終わるころには、ダーウィンの北のバサースト島が見えてきた。山岳地帯が途切れなくつづくインドネシアの小スンダ列島の島々を見てきた目には、どこまでも平坦で、だだっ広いバサースト島の風景はすごく新鮮に映った。これから新たな世界に足を踏み入れていくのだという気分にさせてくれた。

 やがてオーストラリア大陸の一角が見えてくる。一面の赤茶けた大地。その中にまばらな緑が見える。圧倒的な広さ。大地と空の境はぼやけ、霞んでいた。

 ポルトガル領ティモールのバオカオ空港から3時間ほどでオーストラリアのダーウィン空港に着陸した。機内では乗客全員に2種類のマラリア用の錠剤が配られた。オーストラリア政府は多額の費用を投じ、ノーザンテリトリー(北部地方)からマラリアを撲滅するのに成功したとのことで、インドネシアからマラリアが持ち込まれるのを警戒していた。

 飛行機を降り、ターミナルビル内のイミグレーションでの入国手続きが終わり、税関へ。そこでは「キミはバリ島には行ったかね」と聞かれ、つい、正直に「イエス」と答えた。これがまずかった。バリ島に長く滞在したあとでやってくる旅行者の多くが、ハッシーシや麻薬の類をオーストラリアに持ち込むといって大きな社会問題になっていた。そのような事情があったので、税関では徹底的に荷物を調べられた。正露丸のビンの中まで調べられた。オーストラリアはインドネシアから持ち込まれる麻薬に極度に警戒の目を光らせていた。

 空港から市内へ。まずは銀行で両替だ。10USドルが6・66オーストラリアドルになった。1オーストラリアドルは約400円。米ドルよりもはるかに高い。次にスーパーマーケットの「ウールワース」に行く。ぼくは食パンとニンジン、タマネギ、トマトの野菜を買った。デビッドは食パンとコンデンスミルクを買った。
「ウールワース」の清潔な店内、豊富な商品、きちんと整頓された陳列棚を見ていると、「うーん、これがオーストラリアか…」と唸ってしまう。インドネシアの島々では小さな店や露天市で買い物したが、それとはまるで違う世界だった。

「ウールワース」で買い物を終えたところで、店の前で、インドネシアのスンバワ島からずっと一緒だったイギリス人のデビッドと別れた。何度も握手を繰り返した。いつも世界地図を広げては、あきずに眺めていたデビッド。彼の口グセは「これからも、ずっと世界をまわりつづけたい!」というものだった。ぼくもまったく同じ気持ちだったので、よけいにデビッドとは気が合った。

「タカシ、また、世界のどこかで会おう!」

 デビッドはダーウィンの町中に消えていった。

オーストラリア北部のダーウィン空港に着陸
オーストラリア北部のダーウィン空港に着陸
ポルトガル領ティモールからダーウィンまで飛んだTAT機
ポルトガル領ティモールからダーウィンまで飛んだTAT機
ダーウィンの中心街
ダーウィンの中心街
ダーウィンの中心街
ダーウィンの中心街

ヒッチハイク開始!

 ダーウィンの中心街から郊外まで歩き、町外れで車を待った。オーストラリアはヒッチハイクでまわるのだ。ここからは大陸を縦断し、南海岸のポートオーガスタへ、そしてシドニーを目指す。

「さー、オーストラリアのヒッチハイク開始だ!」
 と、気合を入れた。

 ほとんど待たずに、320キロ南のキャサリーンまで行くロードトレインに乗せてもらった。幸先のよいオーストラリアでのヒッチハイク。ロードトレインというのは2台、もしくは3台のトレーラーを引っ張って走る大型トラックだ。

 ロードトレインははてしなく広がる原野の中を突っ走る。人の姿を見かけることはほとんどない。無数のアリ塚が、まるで墓標のようにあちこちに見える。夕暮れが近づくと、カンガルーがひんぱんに道路に飛び出してくる。ロードトレインといい、アリ塚といい、カンガルーといい、それらはまさにオーストラリアそのものだった。

 キャサリーンに着いたときは、すでに日は暮れ、あたりは暗くなっていた。運転手にお礼をいってロードトレインを降り、町外れまで歩く。大陸縦断のヒッチハイクはきわめて難しいと聞いていたので、暑さを避けて夜中に走るトラックにねらいをつけた。ところが交通量が少ないので、なかなかうまく乗せてもらえない。車に乗せてもらえないまま、いつしか道端で寝込んでしまった。

 目がさめると、東の空がほんのりと白みはじめていた。広大なオーストラリアの原野が姿をあらわし、やがて地平線を赤く染めて朝日が昇る。さわやかな朝の空気。だが、それもほんの一時で、すぐさま猛烈な暑さとの闘いになる。おまけに乾燥しているので、やたらとのどが渇く。水筒の水はあまりの暑さに湯に変わっているが、それでも飲まないよりはマシで、湯になった水を飲む。これが気持ち悪い。昼が過ぎる。太陽光線が強いので、頭が割れんばかりにガンガン痛んでくる。それでも炎天下に立ちつづけた。

 車に乗せてもらえないまま、時間だけが過ぎていく。日は西の空に傾き、やがて沈んでしまう。そんなときに自転車に乗った人が、ぼくの前で停まった。さらに驚いたことには「コンニチワ」と日本語で声をかけてくれた。ウォールさんという30代半ばくらいの人で、近くの熱帯植物の研究所に勤めているという。ウォールさんは奥さんとまだ小さな子供を連れて、北は北海道から南は九州まで、3ヵ月あまりも日本をまわった。特に北海道の礼文島と利尻島が忘れられないという。

 ウォールさんは背負ったザックの中からコカコーラのカンを取り出すと、「ドウゾ」と日本語でいってぼくに手渡す。ぼくも「ありがとう」と日本語でお礼をいった。ウォールさんが立ち去ったあとも、その余韻がいつまでも残り、「今晩こそはヒッチを成功させよう!」という新たな元気が湧き出てきた。

 日中はものすごい数の蠅がまとわりついた。日が落ちると、今度はプーン、プーンと蚊の猛攻だ。たちまち顔や腕を刺され、ボリボリとかきむしる。そんなところへ、ウォールさんと奥さんが一緒に車でやってきた。奥さんは20代の明るい感じのきれいな人。夫妻は「よかったら家に来ませんか」という。ぼくは「今晩こそは」といった思いが強かったので、最初は断った。だが、夫妻に「家では2人の子供が楽しみに待っているんですよ」といわれ、夫妻の好意をありがたく受けることにした。

 ウォールさんの家に行くと、キム君とアンジェル君という2人のかわいらしい男の子が出迎えてくれた。上のキム君が夫妻と一緒に日本に行った。日本ではたくさんの友達ができたというキム君は、「ほら、見て」といって、おみやげに買った日本の箸で器用に豆をつまんで見せてくれた。夫妻は日本に行く前に、半年以上も日本語の勉強をした。カタコトの日本語だとはいっても、2人の、できるだけ正しい日本語を話そうという姿勢に心を打たれた。

 利尻島のユースホステルで教えてもらったのだといって、奥さんは透き通ったきれいな声で、
「チエコハ トーキョウニハ ソラガナイトイッタ…」
 と、大好きだという「智恵子抄」の歌を歌ってくれた。そんなウォールさん一家と夕食をともにし、一晩、泊めてもらった。

 翌朝、朝食をご馳走になると、ウォールさんは自転車で研究所に行く。奥さんはぼくを車で前夜の場所まで送ってくれる。「お昼に食べてね」といって、サンドイッチやフルーツ、飲み物の入った紙袋を手に持たせてくれた。「タカシが無事にシドニーまで行けることを祈ってるわ」といって、ぼくのほほにキスしてくれた。胸がジーンと熱くなるようなウォールさん一家との別れだった。

ダーウィンから南に伸びるスチュワートハイウエー
ダーウィンから南に伸びるスチュワートハイウエー
キャサリーンの町並み
キャサリーンの町並み
キャサリーンの郊外。貨物列車が通り過ぎていく
キャサリーンの郊外。貨物列車が通り過ぎていく
キャサリーンの郊外。炎天下、ここで車を待った
キャサリーンの郊外。炎天下、ここで車を待った

ヒッチハイクで出会う人々

 キャサリーンでの3日目。朝から車を待ったが、昼を過ぎても乗せてもらえず、
「やっぱりオーストラリア縦断のヒッチハイクだなんて、無理だったのかなあ…」
 と弱気になりかかった。そんなときに、ついに、1台の乗用車が停まってくれた。

 隣町のマタランカまで行く車。驚いたことに、アメリカン・インディアンの人たちが乗っていた。ぼくが乗ってぎゅうづめになる。彼らはアメリカ人が経営する牧場で働いているとのことだったが、口々に「こんなところに日本人がいるなんて、ビックリしたなあ」という。ぼくも「こんなところでインディアンに会うなんて、すごくビックリしたなあ」と、いかにも驚いたという顔をした。彼らは車内での酒盛りの真っ最中。なんとも陽気なアメリカン・インディアンの人たちだった。

 きっとウォールさん一家の祈りのおかげなのだろう、このあとのヒッチハイクはまさにトントン拍子だった。

 マタランカからは700キロ南のテナントクリークまで、トムの車に乗せてもらった。彼はハンガリー人で、1956年のハンガリー動乱のあと、一家そろってオーストラリアに移住した。

 トムは35歳で独身。溶接工をしている。ひとつの町で数ヵ月働き、たっぷりと金がたまると、2、3ヵ月は旅をする。金がなくなると、また、数ヵ月働くという。トムの車にはキャンピング用具一式が積まれ、釣り竿が何本もあった。釣りが大好きなのだという。夜中の12時を過ぎたところで、車を荒野のまっただなかに停め、そこで眠った。

 翌朝は夜明けとともに走り出す。銅鉱山のあるテナントクリークには昼前に着き、そこでトムと別れた。

 テナントクリークの町中を歩いていると、なんともラッキーなことに1台の車がスーッと近寄ってきて、「アリススプリングスまで行くの?」と声をかけられた。「オー、イエス」とぼくがうれしそうな声を上げると、その車で500キロ南のアリススプリングスまで乗せてもらった。

 運転しているのはガッチリした体つきのオランダ人のアルベル。オーストラリアには出稼ぎでやってきた。「あと2、3年働いたら国に帰るよ」という。アルベルの車はフォード・ファルコンの新車・広大な原野の中に延びるひと筋の舗装路を猛烈なスピードで走る。スピードメーターの針は110マイル(176キロ)から120マイル(192キロ)を指している。南回帰線を越え、アリススプリングスまでの500キロを3時間もかからずに走りきった。

 アルベルにはアリススプリングスの中心街で下ろしてもらい、しばらくはオーストラリア中央部では最大の町を歩いた。そして南のポートオーガスタを目指し、町外れまで歩いていく。日暮れが近づくと、急にひんやりとした風が吹き始める。

 そんなときに酔っぱらってフラフラ歩いている先住民のアボリジニの男にからまれた。

「オマエはどこに行く?」
「ポートオーガスタ」
「オマエはどこから来た?」
「ダーウィン」
「オーストラリア人か?」
「いや、違う。日本人だ」
「私はアボリジニースだ。知っているか?」
「知っている」
「ブラディー・ネイティブ(ひどい原住民)だ」
「そうは思わない」
「オマエは金を持っているだろ。すこし、くれ」

 ぼくが黙っていると、アボリジニの酔っぱらいは、ふらつく足でやにわに殴りかかってきた。男の奥さんなのだろうか、すこし遅れてやってきたアボリジニの女が「やめなさい!」といって男を止めた。彼女も男ほどではないが、かなり酔っていた。女は男の腕をかかえるようにして去っていった。

 キャサリンでもテナントクリークでもそうだったが、町でまともなアボリジニを見ることはほとんどなかった。たいていのアボリジニは昼間から酔っぱらっていた。ぼくにはそれが、あとからやってきて、力でもって彼らの土地を奪った白人への復讐のようにも見えた。また、オーストラリア政府は邪魔なアボリジニを滅ぼしたいために、彼らに金をバラまき、アルコール漬けにしているのだという話も聞いた。

 あたりは暗くなりはじめていた。ぼくはすっかりヒッチハイクする気をなくし、アリススプリングスの町の方向に戻っていった。すると、さきほどのオランダ人のアルベルの車が通りがかり、止まった。

「タカシ、どうしたんだ」
「今晩は、どこか、その辺で寝ようかと思って…」

 アルベルも野宿に付き合ってくれるという。彼の車に乗せてもらい、涸川に行った。砂地の河原にシートを広げる。降るような星空のもとで、アルベルのクーラーボックスに入っている冷えたカンビールを一緒に飲んだ。何本ものカンビールを空けたところで、アルベルは毛布にくるまり、ぼくはシュラフに入って眠った。

 翌朝、アルベルはアリススプリングスの郊外まで乗せてくれ、「ここで車を待ったらいい」といって、並木道のところで下ろしてくれた。ポートオーガスタまで、あと1350キロ。

「さー、気合を入れてヒッチハイクするぞ!」

アリススプリングスに到着
アリススプリングスに到着
アリススプリングス郊外のはてしなく広がる荒野
アリススプリングス郊外のはてしなく広がる荒野

カソリング40号 2003年8月発行より

30年目の「六大陸周遊記」[006]

アジア編 06 エンデ[インドネシア]→ バオカオ[ティモール]

分断された島

 インドネシア・フローレス島のエンデ港を出港したのは夜の10時。ティモール島のクーパン港に到着したのは翌朝の8時。さすがに動力船は早い。フローレス島からティモール島までは10時間の船旅だった。

 クーパンの港に上陸して、「とうとう小スンダ列島の東端まで来た!」と、感動した気分。「ティモール」はインドネシア語で「東」を意味する。ティモール島は「東島」だ。

 船内では33歳の軍人、アブドラハマンさんと親しくなった。彼に「ぜひとも家に寄っていって下さい」といわれ、ベモ(乗合タクシー)で港から10キロほど行ったクーパン市内のアブドラハマンさんの家に行った。5年ぶりの故郷だとのことで、お父さんもお母さんもアブドラハマンさんの顔を見ると、泣いて喜んだ。彼はカリマンタン(ボルネオ島)での共産ゲリラとの戦闘で、左足を切断した。相手方のチェコ製の機関銃にやられたのだという。

 アブドラハマンさんの家で食事をご馳走になり、クーパンを出発。ポルトガル領ティモールとの国境に向かっていく。ティモール島は分断された島で、西ティモールはインドネシアだが、東ティモールはポルトガル領。陸路で国境を越えるのは、きわめて難しいといわれていた。その国境越えの困難にあえて挑戦するのだ。

 ティモール島はフローレス島と比べると、はるかに道はよく、交通量も多い。アディーさんという40過ぎの人が運転するトラックで国境まで乗せてもらった。カタコトの日本語を話せる人だった。オイサ村という村近くの平原を走っていると、アディーさんは太平洋戦争中のここでの戦闘を話してくれた。

「日本軍の兵士たちは次々と、この平原にパラシュートで降下した。だけどアメリカ軍とオーストラリア軍が待ち伏せしていてね。日本兵は次々に撃ち殺された。ほとんど全員が死んだよ」と、アディーさんはいかにも無念だといわんばかりの口調だった。

 インドネシアでは、いろいろな人たちから太平洋戦争当時の話を聞いた。だが不思議なことに、インドネシアの人たちは日本のことをあまり悪くはいわなかった。最初はぼくが日本人なので、あまり悪くはいえないからだろうと思っていた。ところがそうでもないようだった。「大東亜共栄圏」の建設を旗印に日本が欧米諸国と戦ったことが、インドネシアの人たちに勇気を与え、インドネシアの独立の大きな助けになったと多くの人が同じようなことをいった。それまでのオランダの統治時代がひどすぎたということか。

 国境の町アタンブアに着くと、アディーさんと別れる。ぼくたちはインドネシアを出国するためにイミグレーションに行く。胸がドキドキする。というのは、インドネシアのビザがとっくに切れているからだ。ここに来るまで何度も警察でパスポートチェックを受けたが、幸いなことに、ビザ切れはみつからないで済んだ。だが、さすがというか、イミグレーションの係官はそうはいかなかった。ぼくのパスポートを見るなり、ビザ切れを指摘した。辛い。ビザの延長で20USドル(約6000円)を取られるのか…。しかし、なんともラッキーなことに、イミグレーションの係官は「ビザ延長の手数料として1500ルピア(約1200円)を払いなさい」といって、それで無事、出国手続きは終わった。

 スマトラ島のメダンからティモール島のアタンブアまで、なんとも長い行程の「インドネシア横断」の旅だった。

徒歩40キロの国境越え

 インドネシア側の国境の町、アタンブアから国境を越え、ポルトガル領ティモールに入るのは大変なことだった。その間、まったく車は通っていないので、40キロを歩かなくてはならない。

「さー、これからが勝負だ!」
 といってイギリス人のデビッドと顔を見合わせた。

 昼過ぎにアタンブアを出発し、歩きはじめたが、暑さが厳しい。タラタラと汗が流れ落ちてくる。デビッドは壊れかけたトランクをかかえたり、頭にのせたりして歩いたが、なんとも歩きづらそう。そのため、休憩する回数が多くなった。

 歩いているときは辛いことばかりではなかった。小さな集落に着くと、フランシスさんという人の家に呼ばれた。すでに退役した軍人だが、太平洋戦争中は日本軍の一員として戦闘に参加したという。インドネシアの独立後は陸軍に入り、スマトラ、カリマンタン、セラウェシ、マルク諸島とインドネシア各地を点々とした。そんなフランシスさんとの出会いは楽しいものであり、聞いた話は心に残った。

 日が暮れ、アタンブアから20キロ歩いたところで、アタポポという小さな港町に着いた。ここはまだインドネシア領内だ。日中の暑さがあまりにもきついので、ほんとうは夜通し歩きたかった。だが、警察で止められた。「明日、キミたちのパスポートと荷物を検査する」といわれ、やむをえず警察の一室を借り、ひと晩そこで眠った。

 夜が明けても、すぐには出発できなかった。警察の署長が来るのを待たなくてはならなかったからだ。8時過ぎになって、やっと署長が来た。パスポートと荷物を調べられ、9時過ぎになって、「行ってもよろしい」ということになった。国境まであと15キロだという。

 ぼくたちが歩きだしたころには、すでに灼熱の太陽がジリジリと照りつけていた。のどの渇きがひどく、水筒の水はあっというまに空になる。小さな集落が点々とあって助かったが、集落に着くたびに水をもらった。

 すばらしくきれいな浜辺に出た。あまりの暑さに我慢できず、デビッドと裸になって泳いだ。透き通った海。しばし、焦熱地獄の苦しみを忘れることができた。

 国境に通じる小道は海岸を離れ、なだらかな丘陵地帯に入っていく。懸命になって歩きつづけ、インドネシア側の国境事務所に着いた。足はふらつき、熱射病寸前で、頭から何杯もの水をかけてもらった。ひと息ついたところで、飲み水をもらい、ガブ飲みした。ここで再度、出国手続きをする。アタンブアのイミグレーションですでに出国手続きをしているので、ここでの手続きは簡単なものだった。

 国境事務所の係官たちに「さよなら」をいってポルトガル領ティモール側のバドガデに向かっていく。そこまで5キロだという。じきに干上がった川を渡る。その川には木の橋がかかっている。橋の中間がインドネシアとポルトガルの国境。橋を渡ってポルトガル側に入ると、これでほんとうのインドネシアとの別れになった。

 ぼくはインドネシアがすっかり好きになっていた。いつの日か、今回のスマトラ島からティモール島への「大スンダ、小スンダ列島横断」ルートよりも北、「カリマンタン(ボルネオ島)→セラウェシ島→マルク諸島→イリアン・ジャヤ(ニューギニア島)」のルートで旅したいと思った。

 ぼくとデビッドは最後の力を振りしぼって歩き、日の落ちる前に、ポルトガル領ティモールのバドガデの町に着いた。ぼくたちは大きな難関を突破したのだ。

ポルトガル領ティモールへの道
ポルトガル領ティモールへの道
ポルトガル領ティモールへの道
ポルトガル領ティモールへの道
国境近くの風景
国境近くの風景
国境近くの風景
国境近くの風景
国境近くの村で
国境近くの村で
ポルトガル領ティモールに入る。写真中央がデビッド
ポルトガル領ティモールに入る。写真中央がデビッド
バドガデの海
バドガデの海

ポルトガル領ティモール

 国境の町、バドガデには要塞があった。町中、軍人だらけ。そこではポルトガル人兵士のもとで、ティモール人兵士たちが訓練を受けていた。国境の橋を越えただけで、インドネシア語はほとんど通じなくなる。ここはポルトガルの植民地なので、ポルトガル語が公用語だが、そのほかにこの一帯ではいくつかの部族語が使われていた。そのうち、テトゥン語が一番、通用するようだった。

 ポルトガル領ティモールは植民地の構図を見事に見せていた。国を支配するポルトガル人のもとで中国人が経済の実権を握り、その下で、本来の国民であるはずのティモール人が小さくなっていた。

 バドガデに着いた翌々日、ポルトガル軍のトラックで20キロほど先のバリボーに行く。そこにポルトガル側のイミグレーションがある。バリボーのイミグレーションで入国手続きをしたが、ポルトガル人の係官は我々のパスポートをブラックリストに照合し、そのあとで入国印を押した。そのブラックリストには反植民地運動をしているような人たちがのっているのだ。

 バリボーからが、また、難関だ。35キロ先のマリアナまで、ほとんど交通量はない。イミグレーションの係官には「歩かなくてはならないだろう」といわれた。しかし、日中の暑さを考えると、なかなか足が前に出ない。デビッドと相談し、金を払ってでも、車に乗せてもらおうということになった。

 バリボーには何軒かの中国人商店がある。そのうちの一軒はジープを持っていた。その店に行き、「マリアナまで乗せてもらいたいのだが」と頼むと、1人600エスクード(約6000円)だという。高すぎる。

「よし、歩こう!」
 と決め、暑さを避けて、夕方になったら歩きはじめることにした。

 ところが夕暮れが近づくと、急に天気が崩れた。ひんやりとした風がふきはじめ、あっというまに空は黒雲に覆われる。やがて雷鳴が聞こえてくる。雷鳴が近くなると、ザーッと雨が降りだし、稲妻が大空を切り裂くように駆けめぐる。パーッとあたりが閃光で光り輝いた瞬間、「ドカーン!」と爆弾が落ちたかのようなものすごい音がした。なんとぼくたちの目の前、10メートルも離れていない大木に雷が落ちたのだ。大木は真っ二つに裂け、モウモウと黒煙を上げている。あまりのすさまじい光景に背筋が凍りつき、ぼくたちは声が出なかった。

「マリアナまでは、なんとしても歩くゾ」
 と意気込んでいたが、この落雷を見て、その気持ちが急に萎え、

「雨がやむまで、もうすこし待とう」
 ということになった。

 ちょうどそのときに、1台のランドクルーザーがやってきた。中国人商人のもので、明日、ポルトガル領ティモールの首都、ディリまで行くという。商談成立。ぼくたちは2人で3ポンド(約2100円)で乗せてもらうことになった。さきほどのエスクードはポルトガルの通貨、ポンドはイギリスの通貨。エスクードやポンド、さらにはドルなどをごちゃ混ぜにして使っているのも、植民地らしかった。

 翌日は夜明けととも出発。ガタガタの超悪路を行く。川には橋がかかっていないので、車の両側に水を噴水のように巻き上げて渡っていく。深い川では水没寸前だ。ポルトガルが本国から遠く離れたティモールにはほとんどお金をかけていないことがよくわかる。

 バリボーからディリまでは、トラックだと2日かかるといわれていた。が、さすが四輪駆動のトヨタのランドクルーザーだけあって、その道のりを1日で走り切った。こうして9月23日の夕方、ポルトガル領ティモールの首都、ディリに着いた。東京を発ってから34日目のことだった。

バドガデで
バドガデで
バドガデで
バドガデで
軍のトラックでバリボーへ
軍のトラックでバリボーへ
軍のトラックでバリボーへ
軍のトラックでバリボーへ
涸れ川の風景
涸れ川の風景
このランドクルーザーに乗ってディリへ
このランドクルーザーに乗ってディリへ
川渡り
川渡り
水牛の群を見る
水牛の群を見る
露天市で
露天市で
露天市で
露天市で
露天市で
露天市で
ディリの海
ディリの海

オーストラリアへ

 ひと晩、海辺で野宿。翌朝は夜明け前に起き、町の中心にあるTAT(トランスポルト・アエロス・デ・ティモール)のオフィスまで歩いていく。TATに着くと、その前で、人が来るのを待った。ここからうまくオーストラリアに渡ることができるだろうか。

 7時過ぎになって中国人の職員がやってきた。すると、なんともうまい具合に、オーストラリア北部のダーウィン行きのTAA(トランス・オーストラリア・エアーライン)機が、9時45分に出発するという。ところが、TAA機が飛ぶのはディリ空港ではなく、200キロほど離れたバオカオ空港だという。

 中国人の職員は「大丈夫、ダーウィンへの飛行機には乗れますよ」
 といってくれる。

 ぼくたちはジープでディリ空港に連れていかれ、そこでバオカオ空港行きの、10人乗りの小さなプロペラ機に乗り込んだ。飛行機は土煙を巻き上げてディリ空港を飛び立った。眼下にはポルトガル領のアトゥル島が見える。やがてインドネシアのウェタール島が見えてくる。そしてバオカオ空港に着陸した。

 ぼくたちはすぐさまダーウィン行きのTAA機に乗り換える。9時45分、20人ほどの乗客をのせて、TAAのジェット機は定刻どおりにバオカオ空港を飛び立った。

 飛行機はティモール島の上空を飛んでいる。眼下には幾重にも重なり合った山々。じきに海岸線が見えてくる。ティモール島の南に、はてしなく広がるティモール海だ。もう島影は見えない。この海の向こうで、オーストラリアが待っている!

離れゆくディモール島
離れゆくディモール島

カソリング39号 2003年7月発行より

30年目の「六大陸周遊記」[005]

アジア編 05 レオ[インドネシア]→ エンデ[インドネシア]

フローレス島を歩く…

 カリンディ港からレオの町までは約6キロ。ぼくたちは早足で歩いた。重いザックを背負っているので大汗をかいた。レオには中国人の店が多かった。中国人の食堂に入り食事をした。それがエリッヒとの最後の食事。ぼくとデビッドはエリッヒとここで別れた。

「元気でな、エリッヒ」

 ぼくたちはレオに来れば、あとはもう楽だろうとふんだのだが、それは大間違いで、ここからが困難をきわめる旅になった。小スンダ列島も、フローレス島あたりまで来ると、もう車はほとんど走っていない。エンデに行くバスはもちろんのこと、スンバワ島で乗ったトラックバスもここにはなかった。

 レオからエンデまでは100キロぐらいだろうか。ぼくたちは「歩こう!」と決めた。車が来たら停めて乗せてもらうつもりだった。

 レオの町並みを抜け出ると、山中に入り、川沿いの道を登っていった。ぼくにとってもデビッドにとっても、やっとエリッヒと別れられてホッとした気分。そのため足取りも軽かった。

 強い日差しの中、デビッドはこわれかかったトランクとズダ袋を両手に持って歩いている。そのトランクが持ちづらそうだったので、1時間ほど歩き、木陰で休憩したあと、ザックを背負っているぼくがズタ袋を持つことにした。デビッドはトランクを両手でかかえたり、頭の上にのせて歩いた。

 やがて天気が崩れ、ザーッと雨が降りだしてくる。あっというまにズブ濡れになってしまう。ぼくたちの前を歩いていたおばちゃんは集落に着くと、「家に寄ってらっしゃい」という素振りで、手招きする。おばちゃんの言葉に甘え、階段を登り高床式の家に入り、雨が小降りになるまで雨宿りさせてもらった。

 雨が小降りになったところで、ふたたび歩き始める。日が暮れかかったところで、村に着いた。ちょっとした店があり、そこでココヤシをひとつ、買った。1個25ルピア(約20円)。ヤシの実に穴をあけ、中のココヤシジュースを飲む。その甘味が疲れた体をいやしてくれた。そのあとヤシの実を斧で割ってもらい、実の内側の白い、脂肪分の多い果肉を食べた。

 店の夫婦はまだ若く、20代の前半ぐらいに見えた。奥さんが「中で休んでいきなさい」といってくれる。店内のイスに座らせてもらうと、奥さんはコーヒーを、旦那はバナナを持ってきてくれた。ぼくたちが奥さんにコーヒー代とバナナ代を払おうとすると、「いいのよ」という仕種で受け取ろうとはしない。ぼくもデビッドも「トリマカシー(ありがとう)」と何度もお礼をいった。

 店には村の子供たちが集まり、外からぼくたちの一挙手一投足を興味深そうに眺めた。まるで珍しい動物でも見るかのような目つき。子供たちは動こうとはしない。ぼくたちがイスから立ち上がったり、バナナを口に入れたりすると、「ワー!」といって歓声を上げた。ぼくたちが何をしても、それがおもしろいようだった。

教会が一夜の宿

 店の外の子供たちが、何かを叫んでいる。ぼくは道に飛び出した。すると車の音が聞こえる。デビッドに「カーイズ カミング(車だ)!」と大声で叫んだ。ぼくは若夫婦に別れを告げ、道端で車が来るのを待った。トラックがやってきた。中国人のトラックで、ルーテンの町まで行くところだった。ぼくたちはそのトラックの荷台にのせてもらった。大人も子供も、村人たちはぼくたちに手を振ってくれる。ぼくたちも精一杯、手を振りかえした。

 日が暮れ、あたりはすっかり暗くなる。そのころから雨が降りだす。雨は激しさを増し、やがて土砂降りになる。ぼくたちはすこしでも濡れないようにと、荷台のシートの中にもぐり込み、じっとしている。シートの中は猛烈な蒸し暑さで、吹き出した汗で全身がズブ濡れになった…。これでは雨に濡れるのと、まったく同じだ。

 ルーテンの町に着くと、カトリックの教会で泊めてもらった。インドネシアの宗教はイスラム教だが、キリスト教も奥地まで広まっている。とくに小スンダ列島を東に来るにつれてキリスト教の影響が大きくなっている。

 ルーテンの町の教会は立派なもので、ぼくたちはふらりといったのにもかかわらず、インドネシア人のジョン神父は快く迎え入れてくれた。夕食はとっくに終わっていたのにもかかわらず、ぼくたちのために用意してくれた。ありがたくいただき、そのあとは、ジョン神父とお茶を飲みながら夜遅くまで話した。

「英語は最近、ほとんど使っていないので…」
 というジョン神父だったが、会話にはほとんど不自由しなかった。

 翌朝は盛大な朝食をいただいた。チャーハンに野菜スープ、ミートボール…と、食べきれないほどだった。さらに「お昼にしなさい」といって、サンドイッチまで手渡された。ジョン神父に見送られ、ぼくたちは教会をあとにした。胸が熱くなるような思いだった。

居候の日々

 ルーテンは山あいのこじんまりとした町。空気がひんやりとしていた。町外れまで歩いたところで、トラックが来た。ボロンの町まで行く中国人のトラック。その荷台にのせてもらった。運転手は林(リン)さんという人だ。

 途中の高原の村では、週1度の市が立っていた。大露天市。布や食器、魚、塩、バナナ、イモなどが売られ、大勢の人たちが集まっていた。トラックはこの大露天市で3時間近く停まった。

 午後になってトラックは動きだす。ガタガタの山道を行く。山々の緑が濃い。フローレス島中央部の山地の峠を越え、曲がりくねった峠道を一気に下っていくと、島の南側のサブ海が見えてきた。ボロンはサブ海の海岸近くの町だった。

 このボロンから先は、ほとんど交通量のない道だった。デビッドとただひたすらに歩いた。日の暮れたころ、ココヤシの林にすっぽり包まれたような村に着いた。そこで泊めてもらったが、ひと晩中、蚊の猛攻を受け、ほとんど眠れなかった。

 次の日は1日中、歩いた。車は1台も通らなかった。フローレス島の中心地、エンデへの道は遠い。日の暮れたころに、アイメレという村に着いた。ぼくもデビッドも疲れ切っていた。

 すごくありがたいことに、このアイメレでは、村で一番大きな店で泊めてもらった。陽気で色黒のカレルおばさんの店。

「ここを通る車は、みんなウチの前で停まるのよ。それにのせてもらってエンデまで行けばいい」
 と、カレルおばさんはいってくれた。こうしてぼくたちのカレルおばさんの店での居候の毎日がはじまった。1日3度の食事もいただいた。

 アイメレの浜は遠浅で、黒っぽい砂浜に無数の小石が散らばっている。引き潮になると薄紫や薄紅色のサンゴが見える。

 カレルおばさんの旦那は香港に水牛を輸出している。仕事でジャワ島のスラバヤに行っており留守だった。一番上の息子は20代の後半でアドリアヌスという。彼は学校で英語を習ったので、辞書を持っている。それを頼りに、アドリアヌスにインドネシア語を教えてもらった。

 カレルおばさんとカタコトのインドネシア語で話していると、太平洋戦争当時の話になることが多かった。戦争中は大勢の日本兵がこの島に来たという。まだ小さかった彼女は日本兵にかわいがられ、「コーラン」という名前をつけられたという。「コーラン」は日本名だという。カレルおばさんに、「コーラン」はどんな意味なのかと聞かれて困ってしまった。

 スマトラ島からフローレス島に来るまでの間、何度となく太平洋戦争中の話を聞いた。よく聞いたのは「日本兵はすぐに、オイ、コラといって怒る」という話だった。カレルおばさんの「コーラン」が、日本兵たちが面白半分でつけた「オイ、コラ」のたぐいでなければいいのだけどと、おばさんのためにも、祈るような気分でそう思った。

 カレルおばさんはインドネシア人と中国人の混血。そのせいで、ほんのわずかだが、漢字も知っている。そこでぼくは、「コーランって、日本語だとこう書くのですよ」と、紙きれに「香蘭」と書いた。「その意味はね、とってもいい匂いのする花なんですよ」というと、おばさんは顔を崩して喜んだ。

 アイメレで3日間、車を待ったが、1台も通らなかった。

 アイメレでの4日目。ぼくたちはなんともラッキーだった。アドリアヌスが急にエンデまで行く用事ができたという。カレルおばさんの店には車が2台あった。ジープとオンボロトラック。そのうちのジープで行くという。

 その日は日曜日。アイメレの朝はいつものようにおだやかで、やわらかな水色の海には波もない。カレルおばさんの一家はキリスト教だが、おもしろいことにおばさんはプロテスタントでアドリアヌスはカトリック。2人、別々の教会に行く。2人が教会から戻ると、いよいよエンデに向けて出発だ。

 カレルおばさんは「タカシとデビッドが行ってしまうと、寂しくなるね」と、しんみりとした口調でいうと、ぼくとデビッドにそれぞれ1000ルピアづつ手渡すのだ。ぼくたちはカレルおばさんにはさんざんお世話になったので、「お気持ちだけで十分です」と断ったが、最後には断りきれずにありがたくいただいた。

 ドラムカンから抜いたガソリンをジープに入れ、出発だ。ジープが走り出す。カレルおばさんはいつまでも手を振ってくれている。やがてその姿も小さくなり、アイメレも遠ざかり、ジープはきつい山道に入っていく。

 エンデに着いたのは夜の10時過ぎ。アドリアヌスは港に直行し、沖に停泊している大型船の明かりを指さし、「あの船が明日、(ティモール島の)クーパンに行く」といった。ぼくたちは港で車を下り、アドリアヌスと固い握手をかわして別れた。ぼくはそのとき、彼は別に用事があってエンデまで来たのではないなと推測した。ティモール島のクーパン行きの船が明日出るという情報をキャッチし、大変な難路を越えて、わざわざぼくたちをエンデまで送ってきてくれたんだなと思った。カレルおばさんがそのように取り計らってくれたのかもしれない。そんなことを考えながら、エンデの港の片すみで、ひと晩、野宿した。

 翌朝、エンデ港の朽ちかけた桟橋に、ティモール島のクーパンに行く船が接岸した。ペルニーラインの貨客船「ワタンボネ号」(3000トン)で、帆船とは比べものにならないくらいの大型船だ。ジャワ島のスラバヤ港からやってきた。クーパンまでの乗船券を買い、10時、「ワタンボネ号」に乗船。だが、船はなかなか出港しない。昼には出港する、午後には出港する、夕方には出港する…と次々に予定は変更された。結局、エンデ港の桟橋を離れたのは乗船してから12時間後の22時だった。

フローレス島横断の道
高原の露天市
高原の露天市
フローレス島の南側、サブ海沿いの村。ココヤシがおい茂る
家のまわりにはバナナ
エンデ港
エンデ港
エンデ港周辺の露店群
エンデ港からティモール島のクーパンに行く「ワタンボネ号」
ワタンボネ号にて

カソリング38号 2003年6月発行より

30年目の「六大陸周遊記」[004]

アジア編 04 サペ[インドネシア]→ レオ[インドネシア]

帆船の「ガディス・コモド号」

 インドネシア・小スンダ列島のスンバワ島東部の町、サペの警察でひと晩、泊めてもらったが、翌朝、目をさますとすぐにデビッドに手鏡を借り、目のまわりの傷をみる。よかった! 昨日よりは、ひどくはなっていない。痛みもうすらいできている。

 シュラフから這い出ると、ぼくたちは食料を手にいれるためにパサール(市場)に行った。そこでバナナなどを買った。エリッヒはまたしても怒鳴り出した。バナナを売っている露店のおばちゃんたちに向かって、「高すぎる。俺をだまそうとしているんだろう」と。

 ついに日独開戦だ。ぼくは完全に頭にきた。

「おい、エリッヒ、いいかげんにしろよ。高かったら買わなければいいだろう。ドイツにいるときも、いつもこうして怒鳴りながら買っているのか、あんたは。いったい、何のために旅に出たんだ。会う人ごとに怒鳴っているんなら、旅に出ないで、ドイツにいればよかっただろ」

 ぼくもデビッドも、サペのパサールではっきりとエリッヒにいった。

「もう、あんたとは一緒に旅をつづけたくない」

 エリッヒは「ラブハンバジョまで一緒に行こう。そこで別れる」といった。

 スンバワ島のサペ港から隣のフローレス島のラブハンバジョ港まで行くのは簡単なことではない。船便はきわめて少ない。それも動力船ではなく、帆船だとサペの町の人たちにいわれていた。そのために、インドネシア語をほとんど話せないエリッヒは、すでにかなりのカタコト語を話せるようになっていたぼくに頼って、とにかくフローレス島に渡ろうとしたのだ。何ともずるいヤツだ。日独開戦をしても、ちゃんと計算だけはしている。

 ぼくたちは警察に戻り、警官たちにお礼をいって、サペの町から乗合馬車に揺られてサペ港に向かった。サペ港は魚の匂いで満ちていた。石畳の道の両側には、高床式の家々が立ち並んでいる。造船所もある。そこでは50トンとか170トンというかなり大型の木造船がつくられていた。港には何十隻もの帆船が浮かぶ。ここでは主役がエンジンつきの船ではなく、帆船なのだ。ぼくは一瞬、タイムトリップしたかのような気分になった。

 サペ港では会う人、会う人、すべてに、「ラブハンバジョに行く船はありますか」と聞いた。その結果、ついに「ガディス・コモド号」という船をみつけた。明日の午後1時に出港するだろうという。次に、その「ガディス・コモド号」を探す。これがまた、なんとも難しい作業だったが、やっとの思いで、帆船の「ガディス・コモド号」にたどりつくことができた。

 ところがこの船、遊園地のボートをひとまわり大きくした程度のもの。これでほんとうに、フローレス島に渡れるのだろうかと不安になった。が、今となっては、そんなこともいてられない。

「ガディス・コモド号」の船長のパダハランさんに会った。日焼けした、しわだらけの顔の老人。ほんとうに明日の午後1時に出港するのかどうかを確かめるのが大変だ。

「パダハランさん、ベソ(明日)、ジャム・サト(1時)、シアン(午後)、ペラフー(帆船)ブランカット(出発)?」

 と聞くと、パダハラン老人は「うん、うん」とうなずいて、「ジャム・サト(1時)」といった。時計も持っていないので、どうして時間がわかるのか、ちょっと不思議な気もしたが、明日の午後1時出港というのは、間違いなさそうだ。

 サペ港には食堂は1軒もない。日は暮れるし、腹はへるし、サペの町まで歩いていくのには遠すぎるし…で、ぼくたちは思案に暮れた。そんなときに、ありがたいことに村人が「ウチに来なさい」といって声をかけてくれた。飯と魚の夕食をいただき、家の片すみにシュラフを敷いて寝かせてもらった。

 翌朝、石を積み上げてつくった簡単な桟橋に行く。おいていかれるのが心配だったので、早めに船に乗せてもらった。乗組員は船長のパダハラン老人のほかに、28歳のミラーと17歳のセイフー、それと14歳のロシディーンの3人だ。彼らはじつに陽気で、楽しいフローレス島への船旅を予感させた。

「アギン(風だ)、バグース(いいぞ)!」

 9月5日午後1時過ぎ、「ガディス・コモド号」は雑貨を積み、帆を上げ、サペ港を出港した。時間どおりの出港だったのでびっくりした。フローレス島のラブハンバジョ港(ラブハンは港の意味)までは約100キロの距離だ。

 出港したといっても、風が弱く、なかなかおもいどおりに進まなかった。ところが夕方になると風が強くなり、帆をいっぱいにふくらませ、ぐ〜と速力を上げる。真っ赤な太陽が水平線のかなたに沈む。水色の空はみるみるうちに紺青色に変わり、やがて空一面できらめく星空になった。「ガディス・コモド号」は星を目印にして暗い海を進んだ。浅瀬に来たところで、帆を下ろし、錨を下ろした。

「セラマッ・マラン(おやすみなさい)」

 乗組員はみんな思い思いの格好をして、狭いスペースの中で、寝る。ぼくも体をエビのように曲げ、きゅうくつな格好でシュラフに入って寝た。船のまわりの海では、夜光虫がキラキラ光っていた。

 翌朝はまだ暗いうちに帆を張り、錨を上げて出発する。夜が明けると、すぐ近くにスギヤン島が見え、アピ山(1949m)という火山(アピは火を意味する)がツーンと尖ってそびえていた。小さな島なので、アピ山は標高1949メートルという高さ以上に見えた。船のすぐそばに30頭あまりのイルカの大群がやってきた。イルカたちはピョコーン、ピョコーンと飛び跳ねながら船のあとをついてきた。

 だが、そのような快適な船旅も朝のうちだけだった。日が高くなるにつれて風はなくなる。帆はダラーンとたれ下がり、船はピタッと止まってしまう。やりきれないほどの暑さ。海面には波ひとつない。鏡のようなトローンとした海だ。

 退屈まぎれにパダハラン老人にインドネシア語を習う。

「サトゥ、ドゥア、ティガ、アンパット、リマ…」

 と、1から10までを繰り返し繰り返し、何度も口に出していう。1から10の授業が終わると、パダハラン老人は今度は目を指して「マタ」、耳を引っ張って「テリガー」、口を指さし「ムールット」、口をあけ歯を見せながら「ギーギー」、頭をたたいて「ケパラ」、髪を引っ張って「ラムット」…と教えてくれた。それらをノートに書き、やはり何度も声を出していった。

 パダハラン老人は日本の歌も知っていた。太平洋戦争中に日本兵に歌わさ
れたという。

「みよ とうかいの そらあけて…」
「しろじに あかく ひのまる そめて…」
「まもるもせめるも くろがねの…」

 と、なつかしさをにじませて海に向かって歌うのだ。

 頭上にあった太陽はいつしか水平線に近づき、暑さは幾分やわらいでくる。そのうちに待ちに待った風が吹いてきた。その瞬間、乗組員の顔に生気がよみがえり、

「アギン(風だ)、バグース(いいぞ)!」

 と、手をたたいて喜び合う。ダラーンと下がっていた帆は、みるみるうちにふくらんでいく。それとともに船は心地よい風を切って進みはじめる。

 コモドオオトカゲで知られるコモド島がはっきりと見えてくる。山がちな島。山肌にはほとんど緑が見られない。乾燥した島の風景だ。

 コモド島に沿って進んでいるときのことだった。船尾で釣り糸を流していたパダハラン老人は、突然、「ベサール(大きいぞ)!」と叫んで糸をたぐり寄せる。最初は信じられなかった。というのは、釣り針に釣り糸をつけただけのもので、餌もつけていなかったからだ。釣り糸は引っ張られて今にも切れそうだったが、パダハラン老人は「大丈夫。これは日本製だから」と自信満々だ。

 パダハラン老人は魚との格闘の末に、ついに5、60センチはあろうかという大物を釣り上げた。それをナイフ1本であっというまにバラバラにしてしまう。鮮やかな手さばきだ。魚料理の夕食はうまかった。それまでの赤米混じりのポロポロ飯と魚の干物、イモという決まりきった食事にいささかうんざりしていただけに、新鮮な魚の味は格別だった。

 夕日がコモド島の山の端に落ちていく。すばらしい夕焼け。空も海も燃えている。目をこらし、我を忘れて自然の織りなすショーに見入ってしまう。だが熱帯の華やかな夕焼けは、あっというまに色あせてしまう。そのあとには、夕空に星が2つ、3つと輝きを見せるのだった。

 こうして翌日も、翌々日もまったく同じような1日が過ぎていく。朝のうちは風が吹いて船は順調に進むのだが、昼近くなると、船はピタッと止まってしまう。そして夕方になると風がまた吹きはじめるのだった。

 スンバワ島のサペから、わずか100キロの距離に4日もかかって「ガディス・コモド号」は、フローレス島西端のラブハンバジョ港に着いた。パダハラン老人と3人の乗組員と何度も握手をかわして船を降りた。

スンバワ島のサベ港
スンバワ島のサベ港
サベ港で
サベ港を離れる
サベ港を離れる
サベ港を離れる
サベ港に近いラメレ村に寄る
ラメレ村では大勢の人たちが集まった
「ガディス・コモド号」をあやつるミラー(28歳)
「ガディス・コモド号」をあやつるミラー(28歳)
コモド大トカゲで知られるコモド島の近くを通る
コモド島に夕日が落ちる
フローレス海を行く帆船
毎日、潮風を受けていたので、目のまわりの傷は急速によくなった
フローレス島のラブハンバジェ港
フローレス島のラブハンバジェ港
ラブハンバジェ港で

続・帆船の旅

 フローレス島に上陸してやれやれと安堵したのもつかのま、村人たちに聞くと、なんとここからは道がないのでどこにも行けないという。レオという町まで船で行けば、そこからは島の中心のエンデに通じてる道があるという。

 ぼくたちはすごくラッキーだった。スラウェシ島のウジュンパンジャンからきている大型の帆船「チンタ・コモド号」(50トン)が、ちょうどレオに向けて出港するところだという。急遽、その船に乗せてもらえることになった。

 乗組員の1人がスルスルッと高いメインのマストに登り、帆を張る。次にサブのマストにも帆が張られ、「チンタ・コモド号」はラブハンバジョ港を離れていった。何か、南海の海賊船に乗り込んだかのような気分になった。船は東西に細長いフローレス島に北岸を見ながら進んだ。

「チンタ・コモド号」はフローレス島のあとは、スンバ島のビマ港、ジャワ島のスラバヤ港、カリマンタン(ボルネオ島)のバンジュルマシン港、スマトラ島のメダン港とまわり、4ヵ月あまりの航海ののち、スラウェシ島のウジュンパンジャン港に戻るという。大航海ではないか。船長はソーロンさんという32歳の人。顔つきが日本人に似ている。船乗りになってすでに20年になるという。「インドネシアの海は知り尽くしている」と自信満々。潮風にさらされた顔は赤銅色に光り輝いている。乗組員はソーロンさんを含めて全部で13人だ。

 ラブハンバジョ港を出て2日目、朝のうちは風があって快調に進んだが、やがて風がやむと、「チンタ・コモド号」も帆のみなので、パッタリと止まってしまう。ただ、じっと風を待つだけだ。昼が過ぎ、午後3時くらいになったところで風が吹きはじた。船が進みはじめると、乗組員たちは大騒ぎをしはじめた。船が魚群の中に入ったのだという。小魚を餌にして、乗組員たちはおもしろいように次々と2、30センチくらいの魚を釣り上げた。全部で50匹以上は釣り上げただろうか。「チンタ・コモド号」は漁船へと変身。乗組員たちは忙しげに釣った魚を焼いたり、干物や燻製にした。

 この「チンタ・コモド号」に乗るころには、うれしいことに、ぼくの目のまわりの傷も大分よくなってきた。毎日、デビッドに手鏡を借りて傷口のガーゼを取り替えていたが、潮風のおかげで化膿することもなく、傷口もふさがってきた。そこでこの日、「よーし、もうガーゼはいらない」と、赤チンを塗るだけで傷口の処置を終えた。右目をふさぐようにしてガーゼをしていたので、それが取れたときの解放感といったらなかった。世界が急に開けたようなものだ。

 ラブハンバジョ港を出て3日目。雲の切れ間から朝日が昇る。遠くにレオの港のカリンディ港が見えてきた。いいペースでカリンディ港に近づいていったが、なんと港を間近にしたところで、無情にも風はパタッとやんだ。船も止まった。

 ところが、ここからがすごかった! 船長のソーロンさんのひと声で、乗組員全員が懸命になって櫂をこいだ。50トンもの帆船を櫂だけで動かしたのだ。浜辺近くまで来ると、船から小舟が下ろされ、ぼくたちはそれに乗り移った。ソーロンさんをはじめ、乗組員のみなさんが手を振ってくれている。こうしてフローレス島に上陸したが、「チンタ・コモド号」のみなさんとの別れは辛かった。

ラブハンバジェ港を出港する
「チンタ・コモド号」でカリンディ港へ
フローレス島のカリンディ港に到着!

カソリング37号 2003年5月1日発行より