『地平線通信』(第20回目)

2020年2月号より

「一宮めぐり」から「国府めぐり」へ

●70歳の誕生日を迎えた2017年9月1日、スズキの250ccバイク、Vストローム250を走らせて、「70代編日本一周」に旅立ちました。この「70代編日本一周」は「地平線通信』で書かせてもらい、昨年1月の地平線会議の報告会でも話させてもらいましたが、94日間で2万5296キロを走り、12月17日に東京・日本橋にゴールしました。日本の47都道府県に足を踏み入れ、47都道府県庁所在地を通過し、「日本本土四極」の納沙布岬(北海道)、宗谷岬(北海道)、神崎鼻(長崎)、佐多岬(鹿児島)の最東西南北端に立ちました。

●「岬のカソリ」は「日本本土四極」のみならず、北海道の4極、本州の4極、四国の4極、九州の4極と、「日本本土十六極」に立ちました。さらに沖縄本島では最北端の辺戸岬と最南端の喜屋武岬(実際にはその南の荒崎ですが)にも立ちました。

●しかし、「70代編日本一周」で、それ以上にこだわったのは日本の旧国です。今回の日本一周では、日本の「五畿七道」の68ヵ国に足を踏み入れました。「五畿」は畿内の大和、山城、摂津、河内、和泉の5国、「七道」は東海道の15国、東山道の8国、北陸道の7国、山陽道の8国、山陰道の8国、南海道の6国、西海道の11国です。島国の佐渡(北陸道)、隠岐(山陰道)、壱岐(西海道)、対馬(西海道)、淡路(南海道)の5国にも渡りました。

●バイク旅の良さは「境」がよくわかることです。旧国の国境では極力、バイクを止めるようにしました。峠や大河のようなわかりやすい国境はいいのですが、たとえば伊豆と駿河のような通り過ぎたのも気がつかないような国境では何度も行き来しました。そして旧東海道の幅2、3メートルほどの川(境川)が国境になっていることを確認するのでした。

●日本の旧国を面白がるようになったのは、民俗学者の宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所で、日本を歩かせてもらうようになった30代からのことです。地図を見ると、まずは旧国の国境に赤線を引きました。国境の赤線を引くと、たとえば静岡県だったら伊豆、駿河、遠江で、愛知県だったら三河、尾張で、岐阜県だったら美濃、飛騨で見ていくという旅の仕方です。

●「50代編日本一周」(1999年)と、それにつづく「島めぐり日本一周」(2001年〜2002年)でも日本の旧国68ヵ国をまわりましたが、そのときは旧国のシンボルとしてそれぞれの国の一宮、68社をめぐりました。驚かされたのは68国のすべてに、千何百年という歳月を乗り越えて、一宮が残っているということでした。何という生命力。それ以降、カソリの「一宮めぐり」は始まったのです。

●一宮は1国1社ではなく、複数社の国も多いので、カソリのカウントでは全部で105社になりました。ということで、ことあるごとに日本各地の一宮をめぐるようになったのです。「一宮めぐり」を始めて21年目、昨年(2019年)、ついに100社を超えて102社になりました。残るのは越中の一宮の雄山神社と、出羽の一宮の大物忌神社です。ところがこの2社が大変なのです。雄山神社は立山の山頂に、大物忌神社は鳥海山の山頂にまつられているからです。

●7月26日、まずは越中の一宮、雄山神社に向かいました。里宮の2社、岩峅寺の雄山神社(前立社壇)と芦峅寺の雄山神社(中宮祈願殿)を参拝し、立山の玄関口の立山駅へ。そこからケーブルカーと高原バスで標高2450メートルの室堂まで行きました。室堂から立山登山が始まります。ヒーヒーハーハーいいながら標高2690メートルの一ノ越まで登り、雄山山頂への急坂を攀じ登りました。

●立山は雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)の3峰から成っていますが、そのうちの雄山山頂に雄山神社の本宮がまつられています。雄山の山頂に到達したときは感動の瞬間で、そこからは北アルプスの後立山連峰の山々を一望するのでした。すぐ近くまで雷鳥の親子がやってきて、登山の疲れを癒してくれました。雄山神社の本宮では若い神主さんにお祓いをしてもらいました。

●8月30日には出羽の一宮、大物忌神社に向かいました。大物忌神社の蕨岡口の宮と吹浦口の宮の里宮2社を参拝し、鳥海ブルーラインで鳥海山5合目の鉾立へ。「鉾立山荘」で一晩泊まり、翌日、鳥海山の山頂を目指しました。御浜小屋で昼食を食べ、猛烈な風が吹き荒れる稜線上の道を登り、ついに鳥海山山頂直下の御室小屋に到達。御室小屋に隣りあって大物忌神社の山頂本社を参拝しました。立山と鳥海山に登れたのは、「日本百名山」を登っている坂本夫妻が同行してくれたからでした。お二人には感謝、感謝です。鳥海山頂の大物忌神社の参拝を終えると、ぼくは新たな地平線を見る思いがしました。

●「一宮めぐり」は日本の旧国を見てまわるのにはすごくいい方法ですが、いよいよ旧国の本丸に迫っていきたくなったのです。ということで、かつての旧国の中心の「国府めぐり」をしようと決めたのです。「国府めぐり」を始めたのは2020年になってからのことです。まずは地元から始めました。神奈川県伊勢原市の我が家に近い相模の国府へ。ここは大磯町になりますが、「国府」(こう)の地名が残っています。相模の総社の六所神社を参拝し、国府津にも足を延ばしました。つづいて海老名へ。ここには国分寺跡と国分尼寺跡がありますが、「国府めぐり」では「国府」と「総社」、「国分寺」をセットで見ていこうと思っています。

●相模の次は武蔵の国府です。JR南武線の府中本町の駅前が国府跡。ここでは復元された国府の模型を見ることができました。つづいて武蔵の総社の大國魂神社を参拝。境内にある「ふるさと府中歴史館」の「国府資料展示室」を見てまわりました。つづいてJR武蔵野線の西国分寺駅へ。そこから武蔵の国分寺跡に行きました。国分寺跡を見てまわると、府中街道を横切り、JR武蔵野線のガードをくぐり抜けて国分尼寺跡へ。このときぼくは、府中街道が古代日本の官道の東山道の一部であることを知るのでした。

●明日は千葉県の「国府めぐり」に行ってきます。下総の国府(市川)から上総の国府(市原)、安房の国府(館山)と、房総の国府を見てまわります。何が見られるか、すごく楽しみです。つづいて上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)と北関東の国府をめぐります。10年計画でのカソリの「国府めぐり」はおもしろくなりそうです。(賀曽利隆)

越中の一宮、雄山神社の山頂本社を目指して立山を登る、立山は雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)の3峰から成っているが、そのうちの右端の雄山山頂に、雄山神社の本宮がまつられている
越中の一宮、雄山神社の山頂本社を目指して立山を登る、立山は雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)の3峰から成っているが、そのうちの右端の雄山山頂に、雄山神社の本宮がまつられている

『地平線通信』(第19回目)

2019年1月号より

カソリと日本一周

●みなさ〜ん、すっかりごぶさたしました。地平線会議の「40年祭」は盛大にやりましょうといっておきながら、何らかかわれず、参加することもできず、ほうんとうに申し訳なく思っています。大盛況のうちに終わったと聞いてホッとしています。

●昨年の『地平線通信』(1月号)でもお伝えしたように、70歳の誕生日を期して出発した「賀曽利隆の70代編日本一周」をつづけていたからなのです。おかげさまで、昨年末の12月31日をもって、終了させることができました。最後は、最初と同じ、「伊豆半島一周」です。2018年12月31日21時15分に東京・日本橋にゴール。その瞬間、2017年9月1日に日本橋をスタートしたシーンがよみがえり、胸がジーンとしてくるのでした。

●「70代編日本一周」の相棒、Vストローム250のメーターは81626キロを表示していました。この走行距離は2017年8月1日〜8月31日の「日本一周プレラン」(4174キロ)、9月1日〜12月17日の「日本一周・第1部」(25296キロ)、2017年12月20日〜1918年12月31日の「日本一周・第2部」を合わせたものです。そのほかに、『ツーリングマップル東北2019年版』の表紙撮影&実走取材で使用したVストローム1号(7328キロ)、2万キロごとのタイヤ交換やチェーン、スプロケット等の交換時に用意してもらったVストローム2号(685キロ)、Vストローム3号(3752キロ)がありますので、全部で4台のVストローム250で成しとげた「日本一周」。全走行距離は93391キロになりました。10万キロに到達しなかったのはちょっと残念です。

●「賀曽利隆の70代編日本一周」第2部の「テーマ編」は、第1部を終えた直後の2017年12月20に開始しました。「1年365日、毎日、バイクに乗ってやる!」という意気込みでスタートさせました。12月20日の浜松往復を皮切りに、峠越え(ヤビツ峠)、伊勢原探訪、三浦半島一周、江ノ島探訪、峠越え(朝比奈峠)、大楠山登頂(三浦半島最高峰)、箱根スカイライン、伊豆スカイライン、大山登頂、大山街道(田村道)と一日の休みもなくバイクを走らせました。

●2018年に入っても1月1日の元日ツーリング(初詣、初日の出、初富士、相模の神社めぐり)を皮切りに富士山一周、伊豆半島一周、東京探訪(江戸城)、峠越え(正丸峠)、高麗山登頂、小田原探訪、峠越え(箱根峠)、峠越え(足柄峠)、大山街道(矢倉沢街道)、安房国探訪、弘法山登頂、峠越え(山伏峠・道志村)、峠越え(雛鶴峠)、真鶴探訪、街道を行く(東海道・平塚宿→日本橋)、東京探訪(品川宿)、街道を行く(東海道・沼津宿→府中宿)、大山街道(二宮道)、相模川探訪(河口→昭和橋)、相模川探訪(昭和橋→小倉橋)、峠越え(篠窪峠)、国道走破行(東京〜横浜間の超短国道)、相模川探訪(小倉橋→日連大橋)、相模川探訪(日連大橋→山中湖)、新東名厚木南IC(15時に開通)、峠越え(鶴峠)、峠越え(小仏峠)、峠越え(高麗峠)と、やはり1月も1日も休むことなくバイクを走らせました。

●このようにして2月以降も、「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」、「街道を行く!」、「林道走破行」、「島めぐり」など様々なテーマで日本を駆けめぐりました。中でも特筆すべきなのは「鵜ノ子岬→尻屋崎」です。東日本大震災の発生した3月11日に、我がライフワークにもなっている「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発しました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北の岬。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ることによって、東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた東北太平洋岸の全域を見てまわれるのです。ということで始めた「鵜ノ子岬→尻屋崎」も今回が第20回目。東北太平洋岸の変わりゆく姿を見ています。

●「12345678910ツーリング」も忘れられません。日本の幹線国道の国道1号から国道10号までの国道走破行です。国道1号→国道2号→国道3号で「東京→鹿児島」を走り、国道10号→国道9号→国道8号、さらには国道17号で「鹿児島→東京」を走りました。つづいて国道4号→国道5号で「東京→札幌」を走り、青森に戻ると、国道45号経由で「仙台→東京」の国道6号を走りました。最後の国道7号は東京から国道4号で青森まで行き、「青森→新潟」の国道7号を走り、国道17号で東京に戻ってきたのです。毎年、恒例の「東京→青森・林道走破行」もやりました。全部で20本の林道を走り、ダート距離の合計は160・1キロになりました。

●我が旅人生は1968年4月12日に旅立った「アフリカ一周」に始まります。カソリ、20歳の旅立ちでした。日本に帰ってきたときは22歳になっていましたが、「こんなにおもしろいことはない。これからはバイクで世界を駆けまわるぞ!」と、22歳の誓いをたてたのです。その「22歳の誓い」どおりにというか、「アフリカ一周」にひきつづいて、「世界一周」、「六大陸周遊」で世界を駆けめぐったのです。20代の世界旅は超貧乏旅行の連続で、基本は宿泊費ゼロ。1000夜以上の野宿をしました。

●ぼくが日本に目を向けたのは20代も後半になってからのことです。そのときに、日本をテーマで見ていこうと思いたち、「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」などをテーマにして日本を走り始めたのです。「日本一周」も日本を見るためのテーマのひとつでした。30代は日本に夢中になりました。40代、50代は日本と世界をキャッチボールするような感じで、日本を見た目で世界を見る、世界を見た目で日本を見る、それをくりかえしました。60代以降は日本に重点をおいた旅をつづけています。

●下記のカソリの「日本一周一覧」を見ていただきたいのですが、ぼくにとっての最初の「日本一周」は30代編でした。今となっては20代編をやっておけばよかったと悔やむ気持ちもあります。30代編日本一周にひきつづいて40代編、50代編、60代編、70代編と「年代編」の「日本一周」をつづけました。その間には「島めぐり日本一周」、「温泉めぐり日本一周」、「林道日本一周」の「テーマ編日本一周」があります。

●10年ごとの「年代編日本一周」はまさに我が人生の節目を見るかのようです。「30代編日本一周」は妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れての「シベリア横断→サハラ縦断」から帰ったあとのことでした。2人目の子供が誕生したのを見届けると、家にあった10万円を旅の資金にし、妻には「わるいな、それでは行ってくるからな」と言い残して旅立ちました。全費用10万円の日本一周なので、全泊野宿でした。「40代編日本一周」は出発直前に胸の腫瘍がみつかり、「あー、我が人生もこれで終わりか…」と、暗い気分で旅立ちました。

●それからの10年間は「死の恐怖」に怯える毎日。40代の後半になって胸の腫瘍を除去してもらったときは、「これでまだ大丈夫!」と生き返るような思いでした。「50代編日本一周」の出発は1年、送らせました。何と50代に突入してまもなく心臓発作に見舞われ、家の階段も登れなくなってしまったのです。なんとかバイクに乗れるくらいまで回復したあとは、重度の不整脈に見舞われました。医師にはまるで人ごとのように、「よくこれで普通の生活が送れますね」といわれたほど。

●そんな不整脈を抱えての旅立ちでしたが、日本橋を旅立ってから13日目、四国の四万十川沿いの道を走っているときに、不整脈はピタッと止まったのです。病院では治せなかった不整脈がバイクで治ったのです。それから20年間、不整脈は一度も出ていませんし、心臓発作の再発もありません。

●「60代編日本一周」は「還暦」との戦い。還暦が重い重圧となって、のしかかってきました。それを乗り越えたとき、新たな地平が目の前に開けていました。「そうだ、還暦だから元に戻れるのだ、自分の原点は20歳。20歳に戻ろう!」と思ったときの気持ちの軽さは今でも忘れられません。そして「70代編日本一周」ですが、まさに「老いとの戦い」。日々、迫りくる老いとの戦いの連続を乗り越えたとき、「よーし、これでまだできる、今度は80代編日本一周を目指そう!」という気持ちになるのでした。みなさん、ぜひとも1月29日の地平線会議の報告会にはおいでください。カソリの「日本一周」を語り尽くしたいと思っています。(賀曽利隆)

2018年12月31日、東京・日本橋に到着。これにて「70代編日本一周」、終了。2年間で93391キロを走った
2018年12月31日、東京・日本橋に到着。これにて「70代編日本一周」、終了。2年間で93391キロを走った

■賀曽利隆の「日本一周」一覧■
[01]30代編日本一周
   1978年8月28日〜1978年11月16日(64日)
   「東日本編」「西日本編」の2分割
   スズキ・ハスラーTS50(空冷) 18981キロ
[02]40代編日本一周
   1989年8月17日〜1989年11月16日(92日)
   スズキ・ハスラーTS50(水冷) 18984キロ
[03]50代編日本一周
   1999年4月1日〜1999年10月29日(122日)
   「西日本編」「東日本編」の2分割
   スズキDJEBEL250GPS 38571キロ
[04]島めぐり日本一周
   2001年3月22日〜2002年4月22日(154日)
   「伊豆諸島・小笠原諸島編」「本州東部編」「北海道編」
   「本州西部編」「四国編」「九州編」「沖縄編」の8分割
   スズキSMX50、スズキ・バーディー90 23692キロ
[05]温泉めぐり日本一周
   2006年11月1日〜2007年10月31日(296日)
   「関東編」「甲信編」「本州西部編」「四国編」
   「九州編」「本州東部編」「北海道編」「伊豆諸島編」の8分割
   関東編   スズキGSR400
   甲信編   スズキST250
   本州西部編 スズキDJEBEL250XC
   四国編   スズキスカイウェイブ400
   九州編   スズキ・バンディット1250S
   本州東部編 スズキDR−Z400S
   北海道編  スズキDR−Z400SM
   伊豆諸島編 スズキ・アドレスG125V
   60719キロ
[06]60代編日本一周(第1部)
   2008年10月1日〜2008年12月27日(80日)
   「西日本編」「東日本編」の2分割
   スズキ・アドレスV125G 19961キロ
[07]60代編日本一周(第2部)
   2009年4月1日〜2009年10月28日(151日)
   「四国八十八ヵ所めぐり」 スズキ・アドレスV125G
   「日本百観音霊場めぐり」 スズキ・アドレスV125G
   「奥の細道紀行」     スズキST250
   「東北四端紀行」     スズキDR−Z400S
   「奥州街道を行く!」   スズキDR−Z400S
   「北海道遺産めぐり」   スズキDR−Z400S
   41609キロ
[08]林道日本一周
   2010年5月12日〜2010年9月10日(78日)
   「西日本編」「東日本編」の2分割
   スズキDR−Z400S、スズキ・ビッグボーイ 28208キロ
[09]70代編日本一周(第1部)
   2017年9月1日〜2017年12月17日(93日)
   「東日本編」「西日本編」の2分割
   スズキVストローム250 25296キロ
   「日本一周プレラン」
   2017年8月1日〜2017年8月31日
   スズキVストローム250 4174キロ
[10]70代編日本一周(第2部)
   2017年12月20日〜2018年12月31日
   テーマ編の日本一周
   スズキVストローム250 63648キロ

『地平線通信』(第17回目)

2017年9月号より

「70代編日本一周」にスタート!!!

●みなさん、お元気ですか。今年の夏はどのようにお過ごしでしたか。ぼくはバイクで東北を走りまわってきました。明治初期に日本を旅したイギリス人女性イサベラバードの書き残した『日本奥地紀行』の足跡を追って、栃木・福島県境の山王峠を越え、新潟、山形を経由し、羽州街道で青森まで行きました。「ダムめぐり」では、70あまりのダムカードを配布している東北のダムに行きました。「岬めぐり東北一周」で全部で92岬に立ちました。「東京→青森・林道走破行」では全部で18本の林道を走りました。と、おもしろい夏でしたよ。

●ところでぼくは9月1日で70歳になります。いや〜、まさに光陰矢の如しで、まさか自分が70歳になるとは夢にも思いませんでした。それを嘆いていても始まらないので、9月1日には「70代編日本一周」に出発します。「30代編日本一周」(1978年)を皮切りにして、「40代編日本一周」(1989年)、「50代編日本一周」(1999年)、「60代編日本一周」(2008年)と、ほぼ10年ごとに年代編の日本一周を繰り返してきましたが、それにひきつづいての「70代編日本一周」になります。

●そのほかにも「島めぐり日本一周」(2001年〜2002年)、「温泉めぐり日本一周」(2006年〜2007年)、「林道日本一周」(2010年)とテーマ編の日本一周もおこなってきましたので、今回の「70代編日本一周」は8度目の日本一周ということになります。

●今回の「70代編日本一周」は「東日本編」と「西日本編」の2分割でまわります。「東日本編」は9月1日から10月10日までの40日間、「西日本編」は11月1日から12月10日までの40日間、合計80日を予定しています。「生涯旅人!」をモットーにしているカソリですので、「70代編日本一周」を新たなスタートにして、70代もトコトン、バイク旅をつづけていきたいのです。

●今回の「70代編日本一周」では、日本の47都道府県に足を踏み入れます。メインコースは日本列島の海岸線で、自分の走ったルートで日本地図を描くようなものにします。その間では何本ものループのコースをつくり、内陸部をまわります。

●ぼくのバイク旅の二大テーマは峠と温泉。2017年1月1日現在、1689峠を越え、1927湯(1湯1温泉地の数え方をしています)の温泉に入っていますが、今回の日本一周でもより多くの峠を越え、より多くの温泉に入るつもりでいます。さらにできるだけ多くの岬にも立つつもりにしています。

●我が「日本一周」の原点は「30代編日本一周」です。今から40年も前のことになりますが、今回の「70代編日本一周」では同じようなコースも走るので、この40年間の日本の変化をしっかりと見ようと思っています。

●使用するバイクは7月6日から国内での販売が開始されたスズキのニューモデル、V−ストローム250です。今年の「東京モーターサイクルショー」で衝撃の出会いをした瞬間、「日本一周はV−ストローム250で走ろう!」と心に決めていました。自分の心の中にひそむチャレンジ精神をおおいに刺激してくれるようなアドベンチャーツアラーのバイクです。日本のどこかでぼくを見かけたら、ぜひともお声をかけてください。お願いしますね。最後に我が「日本一周」のデータをぜひともご覧になってください。

■賀曽利隆の「日本一周」一覧■
[01]30代編日本一周
   1978年8月28日〜1978年11月16日(64日)
   「東日本編」「西日本編」の2分割
        スズキ・ハスラーTS50(空冷) 18,981キロ
[02]40代編日本一周
   1989年8月17日〜1989年11月16日(92日)
        スズキ・ハスラーTS50(水冷) 18,984キロ
[03]50代編日本一周
   1999年4月1日〜1999年10月29日(122日)
   「西日本編」「東日本編」の2分割
        スズキDJEBEL250GPS 38,571キロ
[04]島めぐり日本一周
   2001年3月22日〜2002年4月22日(154日)
   「伊豆諸島・小笠原諸島編」「本州東部編」「北海道編」
   「本州西部編」「四国編」「九州編」「沖縄編」の8分割
      スズキSMX50、スズキ・バーディー90 23,692キロ
[05]温泉めぐり日本一周
   2006年11月1日〜2007年10月31日(296日)
   「関東編」「甲信編」「本州西部編」「四国編」「九州編」
   「本州東部編」「北海道編」「伊豆諸島編」の8分割
   関東編   スズキGSR400
   甲信編   スズキST250
   本州西部編 スズキDJEBEL250XC
   四国編   スズキスカイウェイブ400
   九州編   スズキ・バンディット1250S
   本州東部編 スズキDR−Z400S
   北海道編  スズキDR−Z400SM
   伊豆諸島編 スズキ・アドレスG125V
                         60,719キロ
[06]60代編日本一周(第1部)
   2008年10月1日〜2008年12月27日(80日)
   「西日本編」「東日本編」の2分割
   スズキ・アドレスV125G 19961キロ
[07]60代編日本一周(第2部)
   2009年4月1日〜2009年10月28日(151日)
   「四国八十八ヵ所めぐり」 スズキ・アドレスV125G
   「日本百観音霊場めぐり」 スズキ・アドレスV125G
   「奥の細道紀行」     スズキST250
   「東北四端紀行」     スズキDR−Z400S
   「奥州街道を行く!」   スズキDR−Z400S
   「北海道遺産めぐり」   スズキDR−Z400S
                          41,609キロ
[08]林道日本一周
   2010年5月12日〜2010年9月10日(78日)
   「西日本編」「東日本編」の2分割
   スズキDR−Z400S、スズキ・ビッグボーイ   28,208キロ

■賀曽利隆の「日本一周」の著作等一覧■
[01]30代編日本一周
   『50ccバイク日本一周・上下巻』
       (1984年5月15日・交通タイムス社)
[02]40代編日本一周
   『50ccバイク日本一周2万キロ』
       (1990年11月15日・JTB)
[03]50代編日本一周
   『日本一周 バイク旅4万キロ 上下巻』
       (2000年4月1日・昭文社)
[04]島めぐり日本一周
   『50ccバイク 島めぐり日本一周』
       (2005年7月1日・小学館)
[05]温泉めぐり日本一周
   『300日3000湯めぐり日本一周 上下巻』
       (2008年9月1日・昭文社)
[06]60代編日本一周(第1部)
   『カソリング』(連載385回)
[07]60代編日本一周(第2部)
   「四国八十八ヵ所めぐり」 『カソリング』(連載169回)
   「日本百観音霊場めぐり」 『カソリング』(連載150回)
   「奥の細道紀行」     『カソリング』(連載83回)
   「東北四端紀行」     『カソリング』(連載40回)
   「奥州街道を行く」    『カソリング』(連載23回)
   「北海道遺産めぐり」   『カソリング』(連載56回)
[08]林道日本一周 
                『カソリング』(連載213回)

■賀曽利隆の旅の記録・2017年1月1日現在■
 旅の日数      7,273日
 バイクで走った距離 1,519,518キロ
(この通算の日数と距離は1968年4月12日に「アフリカ大陸一周」に旅立った以降のものです)

我が日本一周の原点、「30代編日本一周」(1978年)。スズキ・ハスラーTS50(空冷)で1万8981キロを走った。その途中ではスズキの本社を表敬訪問。当時は可美村だった。今では浜松市になっている
我が日本一周の原点、「30代編日本一周」(1978年)。スズキ・ハスラーTS50(空冷)で1万8981キロを走った。その途中ではスズキの本社を表敬訪問。当時は可美村だった。今では浜松市になっている

『地平線通信』(第16回目)

2017年5月号より

九州、いや”十一州”一周5000キロ

●スズキの150ccバイク、ジクサーを走らせ、「中国一周3000キロ」(3月2日〜3月9日)にひきつづいて、「九州一周5000キロ」(4月20日〜5月1日)を走ってきました。

●さて九州一周ですが、普段、我々が使っている「九州」は「ちょっと違いますよ」といいたいのです。九州本土の旧国、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、薩摩、大隅の9国に由来しての九州ですが、じつはそのほか壱岐、対馬の島国2国があるのです。ですから「十一州」と正確に呼ぶか、もしくは「五畿七道」のうち、九州の11ヵ国は西海道なので、「西海道」と呼ぶのがいいと思います。しかし今さら、「九州」を「十一州」とか「西海道」には変えられないでしょう。「九州女の深情け」が「十一州女の深情け」になったら、何が何だか、さっぱりわからなくなってしまいますよね。

●なぜ冒頭からこういうことを言うかというと、ぼくは日本を県単位で見るのではなく、旧国を強く意識して、旧国単位で見る方がはるかにおもしろいと思っているからです。我々日本人のDNAには千何百年間もの旧国の歴史がしみついているのです。たとえば静岡県は伊豆、駿河、遠江の3国から成ってますが、とくに大井川をはさんだ駿河と遠江は似ても似つかない世界です。隣の愛知県は三河と尾張ですが、三河生まれの世界企業のトヨタは長い間、国境をはさんだ尾張側には一切、工場を造りませんでした。その隣の岐阜県は美濃と飛騨ですが、「飛山濃水」といわれるように、ここも2つの国はまるで別世界です。

●ということでカソリ、「九州一周5000キロ」では徹底的に旧国を意識してまわりました。といってもこれがけっこう難しいのですよ。今の旧国には国府跡はあっても国府は残っていないし、国分寺跡はあっても国分寺は残っていないし…。そこで一宮に目をつけたのです。一宮は日本全国68ヵ国のすべてに残っています。2社以上の国もあるので、全部で110社(そのうち5社は新一宮)あります。

●一宮の千何百年という生命力のすごさ、その寿命の長さには驚かされてしまいます。おまけにどの一宮にも豊かな鎮守の森があり、それぞれの国では一番の自然の宝庫になっています。こうして「一宮めぐり」をしながら「九州一周5000キロ」を走ったのですが、魅力満載のスタンプラリーを楽しみながら九州を走るようなものでした。

●4月20日10時、東名の東京料金所を出発。150ccバイクというのは高速道路を走れる最小のバイクなのです。東名から名神→中国道→九州道と高速道路を走りつづけ、関門海峡を渡った門司港ICには24時30分に到着。1100キロを14時間30分で走ったことになります。それにしても痛いのは16900円の高速代。日本の高速道路は高すぎますよね。

●門司港の「ルートイン」に泊まり、翌日からは一宮めぐりを開始。まずは福岡市内の筑前の一宮、筥崎宮と住吉神社を参拝。つづいて筑後の一宮の高良大社へ。久留米郊外の高良山の中腹にあります。九州一の大河、筑後川を渡り、肥前の一宮、千栗神社と與止日女神社の2社をめぐりました。その中間に吉野ヶ里遺跡の吉野ヶ里歴史公園があります。

●筑前、筑後、肥前の一宮をめぐりを終えると、唐津東港からフェリーで壱岐の印通寺港に渡りました。壱岐の一宮は天手長男神社。じつは20年前の「50代編日本一周」で日本全国の一宮をめぐったのですが、68ヵ国の中ではこの壱岐の一宮が一番、消滅の危機にあると感じました。しかしそれは杞憂に過ぎなかったようで、社殿は新しく建て替えられ、境内も整備されていました。

●壱岐の郷ノ浦港から対馬の厳原港にフェリーで渡ると、あふれかえる韓国人旅行者の多さに圧倒されました。厳原に新しくできた「東横イン」に泊まったのですが、宿泊客の大半は韓国人。館内には韓国語が飛び交っていました。厳原から国道382号で北の比田勝に向かったのですが、韓国人サイクリストの車列は途切れることはありませんでした。国道から離れた対馬の一宮の海人神社はまったくの別世界で、まるで忘れ去られたかのように人一人、いませんでした。

●厳原港からフェリーで博多港に戻ると、熊本から鹿児島へ。熊本では肥後の一宮の阿蘇神社を参拝。熊本地震で社殿がつぶれた阿蘇神社ですが、拝殿の奥にある一の神殿(左)と三の神殿(中)、二の神殿(右)の本殿は残っていました。鹿児島では薩摩の一宮、川内の町中にある新田神社と開聞岳を目の前にする枚聞神社の2社、つづいて大隅の一宮の鹿児島神宮をめぐりました。鹿児島県というと誰もが薩摩を連想しますが、じつは薩摩と大隅の2国から成っているのです。

●日本本土最南端の佐多岬に立ったあと、九州の東側を北上し、日向、豊後、豊前の一宮をめぐりました。日向の一宮は都農神社、豊後の一宮は柞原神社と西寒田神社の2社です。柞原神社も西寒田神社も大分の市街地を間近にするところにありますが、境内の自然林のすごさには驚かされてしまいます。とくに柞原神社はまるで深山幽谷の地に入り込んだかのようで、入口の南大門の脇には樹齢3000年といわれる大楠が空を突いています。

●「九州一周」の一宮めぐりの最後は、豊前の一宮の宇佐神宮です。朱塗りの大鳥居に朱塗りの社殿。宇佐八幡で知られる宇佐神宮は、全国に2万4000社ある八幡神社の総本社なのです。宇佐神宮を最後に北九州に戻り、門司港の「ルートイン」に泊まりました。帰路は山陰道の国道9号で京都まで行き、京都から名神→東名と高速道路で東京へ。十一州にとことんこだわった「九州一周5000キロ」でした。(賀曽利隆)

壱岐の郷ノ浦港から九州郵船の「フェリーきずな」に乗り、対馬の厳原港に到着。ここから対馬最北の地に向かっていく
壱岐の郷ノ浦港から九州郵船の「フェリーきずな」に乗り、対馬の厳原港に到着。ここから対馬最北の地に向かっていく

『地平線通信』(第15回目)

2017年3月号より

35年前の新聞記事

●2月24日(金)の地平線会議の報告会、大西夏奈子さんの「むきだしモンゴル!」は、おもしろく聞かせてもらいましたよ。大西さんの前向きな姿勢、モンゴルへの熱い気持ちには胸を打たれました。人間、やっぱり「熱」ですよね。また、花田磨公さんにお会いできてよかったです。花田さんの母校が福島県いわき市の「大野第1小学校」だということがわかって嬉しかったです。

●以前、花田さんが地平線通信に書いてくださった故郷のお話の中で「大野」が強く心に残り、いわき市に行くたびに四倉から県道41号で大野を走り抜けていました。大野には大野第1小学校と大野第2小学校があるのです。これで胸のつかえがとれました。

●翌2月25日(土)はモンベル品川店の2Fサロンで「風間親子で挑んだダカール・ラリー2017」と題して、風間さん親子の報告会がありました。会場を埋めつくした参加者のみなさんの熱気がすごかったです。1月2日にスタートし、1月14日にゴールした南米大陸を舞台にした「ダカール・ラリー」で、風間深志さんの3男の晋之介さんが見事、8800キロを走りきって完走しました。風間さんは監督という立場での参戦でしたが、親子での「ダカール・ラリー」の走破を成し遂げ、風間さんの顔には安堵の色が浮かんでいました。

●報告会の最中に風間さんは1枚のコピーを取り出し、みなさんに見せました。それは今から35年前の第4回「パリ・ダカールラリー」の新聞記事です。1982年2月5日の「読売新聞」の夕刊で、一面、ブチ抜きの大きな記事です。「道なきサハラ越え1万キロ」、「疾走!日本のオート男」、「世界一過酷なレース」、「サッチャー首相子息不明騒ぎで脚光」、「ルートはどっちだ!」、「恐怖の闇、砂のアリ地獄」といった大見出し、小見出しが新面に踊っているのです。

●「巻き込まれた少年や婦人記者を含め、4人が死に、40人が重傷を負って空路ヨーロッパに運ばれたという。サッチャー英首相の子息遭難騒ぎで、一躍名をはせたパリ・ダカール1万キロラリー。世界でもっとも過酷なレースといわれるサハラ越えのこのラリーに日本から参加した2人のオートバイ男が帰国した」という書き出しで始まるこの記事には、「江本嘉伸記者」の署名があるのです。そうなのです。この記事を書いてくれた読売の記者は、地平線会議の江本嘉伸さん。2人のオートバイ男というのは風間深志さんと賀曽利隆なのです。

●この読売の記事をあらためて読んでみると、過ぎ去った35年の歳月が走馬灯のように頭をよぎり、胸がジーンとしてきます。賀曽利&風間の「パリ・ダカールラリー」のすぐあとのことですが、1982年2月26日に「地平線会議」の報告会で我々は「パリ・ダカールラリー」の話をしました。そのときの地平線通信が残っています。当時はハガキ通信で、『地平線通信』の第28号になります。「こんにちは。梅がポッカリ咲いていますがまだ寒いですね。ことし1月1日、パリのコンコルド広場を約400台の自動車、オートバイ、トラック、サイドカーなどが次々にスタートしました。セネガルの首都ダカールまで、1万キロに及ぶ大ラリーのはじまりです。オートバイ131台の中に2人の日本人がいました。地平線会議世話人の賀曽利隆さん(34)と友人の風間深志さん(31)。私たちの地平線会議の名をとって『チーム・ホライゾン』がエントリー名です」とハガキいっぱいに書かれています。

●青山のアジア会館でおこなわれた2月26日の報告会は大盛況で、部屋に入れなかった人が大勢、出たほどで、地平線会議内ではしばらくは語り草になっていました。

●南米大陸を舞台にする「ダカール・ラリー」の前身は、このサハラ砂漠越えの「パリ・ダカールラリー」なのです。風間晋之介さん、完走おめでとう。お父さんの風間深志さんは報告会の最後を締めくくるかのように、「来年は監督としてではなく、一選手として走りたい!」といってました。(賀曽利隆)

賀曽利隆と風間深志は「チーム・ホライゾン(地平線)を結成し、1982年の「第4回パリ・ダカールラリー」に参戦。日本人ライダー、初の参戦だ。バイクは40リッタータンクを搭載したスズキのDR500。ゼッケン81番が風間号、ゼッケン82番が賀曽利号。サハラ砂漠のグラン・エルグ・オリエンタル(東方大砂丘群)の砂丘前で
賀曽利隆と風間深志は「チーム・ホライゾン(地平線)を結成し、1982年の「第4回パリ・ダカールラリー」に参戦。日本人ライダー、初の参戦だ。バイクは40リッタータンクを搭載したスズキのDR500。ゼッケン81番が風間号、ゼッケン82番が賀曽利号。サハラ砂漠のグラン・エルグ・オリエンタル(東方大砂丘群)の砂丘前で

『地平線通信』(第14回目)

2017年2月号より

旅は、記録だ!

●2017年も早いもので2月になりました。あっというまに過ぎ去った1月ですが、みなさんはどのように過ごしましたか。ぼくは「冬もバイクの季節!」とばかりに、バイクを走らせていましたよ。1月1日の「初日の出ツーリング」では相模湾に昇る初日の出をみました。1月3日は「富士山一周」。御殿場を出発点にして、反時計回りで富士山を一周しました。富士五湖や朝霧高原、十里木高原ではきれいな富士山を見ることができました。その間では須走の富士浅間神社(東口本宮)、富士吉田の富士浅間神社(北口本宮)、富士宮の浅間大社を参拝しました。

●1月5日は箱根です。箱根峠から芦ノ湖スカイライン→箱根スカイラインと走りました。芦ノ湖スカイラインの杓子峠、三国峠からはやはりきれいな富士山を見ることができました。翌1月6日も箱根です。箱根峠から今度は箱根新道経由で椿ラインに入り、湯河原に下りましたが、大観山から見る富士山はすばらしいものでした。この時期は富士山を見るのには最高の季節なのです。1月10日は箱根峠から伊豆スカイラインに入り、伊豆半島をまわりました。

●1月11日は山梨県の道志村です。道志川沿いの国道413号は何とか走れましたが、一歩、脇道に入るといたるところがツルンツルンのアイスバーン。そこで見事にステーンと滑り、腰を強打しました。今年の初滑り。アイスバーンで転倒すると、自分の足もツルツル滑るので、バイクを起こすのが大変なのです。それでも何とかバイクを起こすと腰の痛みに耐えて走りつづけ、最後は山伏峠を越えて山中湖畔に出ました。

●最強寒波襲来の1月14日から1月16日までは大雪の信州を走りました。中央道の須玉ICから国道141号で野辺山峠を越えて信州に入ったのですが、時間は午前11時を過ぎているというのに気温は氷点下8度。強烈な寒さでした。佐久では路面に積もった雪が凍り、路肩の雪溜まりの中を両足ベタ着きで走りました。大雪の上田でひと晩泊り、翌日は長野から国道19号で松本へ。その間で一番、雪に降られました。

●ボソボソと降りつづく雪の中を走りつづけたのです。ヘルメットのシールドに雪がベタッと張り付いてしまうので、左手で雪をはらい除けながら走るのです。それでもすぐに前方が見えなくなってしまいます。そこでシールドを上げて裸眼で走ることが多くなるわけですが、雪がブスブスと目に突き刺さり、あまりの痛さに耐えかねてまたシールドを下すといった繰り返し。松本に到着したときは心底、ホッとしました。松本でひと晩泊り、塩尻峠を越えて諏訪に入ると抜けるような青空。諏訪の午前10時の気温は氷点下6度。それでも暖かく感じられるのだから不思議です。路面に雪はまったありませんでした。同じ信州でも北信と南信では、これだけ違うのです。

●1月21日は房総半島の「林道走破行」。三浦半島の久里浜から東京湾フェリーで内房の金谷に渡り、そこから金谷元名林道(ダート6・9キロ)→山中林道(ダート3・5キロ)→大山林道(ダート1・2キロ)→横尾林道(ダート8・7キロ)→高山林道(ダート1・5キロ)→柚の木林道(ダート6・4キロ)と6本の林道を走りつないで房総半島を横断。外房海岸の鴨川に出ました。

●1月24日〜1月25日は、3月11日に出発する東北太平洋岸の「鵜ノ子岬→尻屋崎」(今回で第17回目になります)の前哨戦で、「洲崎→鵜ノ子岬」を走ってきました。房総半島西端の洲崎は東京湾と太平洋を分ける岬。そこから太平洋岸を北上し、房総半島最南端の野島崎、勝浦の八幡岬、九十九里浜が始まる太東崎と岬をめぐり、九十九里浜が尽きる飯岡の刑部岬の展望台から飯岡の町並みと飯岡漁港を見下ろしました。真っ赤な夕日が太平洋に落ちていくと、その右手の水平線上には何と富士山がチョコンと見えているではないですか。驚きの光景。

●夕日が沈むと飯岡温泉「いいおか潮騒ホテル」に泊まりました。翌日は犬吠埼に寄って銚子へ。銚子からは利根川を渡って茨城県に入り、大洗、日立と通って福島県境へ。大津波で大きな被害を受けた大津漁港の復興はかなり進んでいました。そして最後に関東と東北を分ける鵜ノ子岬に立ったのです。関東側の平潟漁港は水揚げされた魚介類が仕分けされ、運びだされているところで大にぎわい。ここでは若い女性の姿を多くみかけました。東北側の勿来漁港に行くと、まったく人影はなく閑散としていました。あまりにも対照的な光景。鵜ノ子岬を後にすると、いわき勿来ICから常磐道に入り、高速道で東京に向かうのでした。

●こうして1月もバイク旅をつづけましたが、この時期は我がバイク旅の記録の整理で忙しいのです。まずは1年間(2016年)の旅のメモ帳を見て旅した日数とバイクで走った距離を出します。昨年の旅した日数は163日で、通算すると7273日になりました。バイクで走った距離は5万1307キロで、通算すると151万9518キロになりました。この通算の記録というのは、20歳の時に「アフリカ大陸縦断」に旅立った1968年4月12日以降のものです。

●旅の日数の7273日ですが、そのうちの国内の旅の日数が4075日と「4000日」を超えました。これはぼくにとってはすごくうれしいことなのです。というのは日本観光文化研究所をおつくりになった民俗学者の故宮本常一先生の、生涯をかけて日本を旅された日数が4000日だったからです。「先生、カソリも4000日を超えましたよ」というと、「なぁ、カソリ君、中身が大事じゃよ」という先生のお言葉が聞こえてくるようでした。ぼくの旅の日数が4000日を超えたのは1994年。46歳の時のことでした。その時の日本を旅した日数は1616日でした。

●日数と距離の次は、我が旅のメインテーマである温泉と峠の記録の整理です。昨年は128湯の温泉に入り、そのうち39湯が初めての温泉なので、通算すると1927湯(2006年〜2007年の「温泉めぐり日本一周」で入った3063湯は含まれていません)になりました。ぼくの温泉のカウント方法は1温泉地1湯。この通算の記録というのは、温泉めぐりを始めた1975年2月21日以降のものです。

●峠は153峠を越え、そのうちの11峠が初めての峠で、通算すると1688峠になりました。この通算の記録というのは峠越えを始めた1975年3月28日以降のものです。温泉も峠も、何回その温泉に入り、何回その峠を越えたかを記録しています。一番多く入っているのは福島県の木賊温泉で26回になります。一番多く越えている峠は栃木・福島県境の山王峠で37回になります。なお神奈川県伊勢原市の我が家に近い善波峠、津古久峠、土山峠、牧馬峠、御殿峠の5峠は、カウントする峠には含めていません。

●ぼくは旅は記録だと思っています。こうして旅の記録をまとめると、自分のいままでにやってきたことを振り返ることができるだけでなく、これから先も、ますます「旅をつづけたい!」という気持ちが強くなってくるのです。(賀曽利隆)

※2020年度までの「カソリの旅の記録」をまとめました。旅した日数は8119キロ、バイクで走った距離は173万8264キロになりました。

1月3日の「富士山一周」。三国峠の峠道から見る富士山。山中湖のはるか向こうに南アルプスの雪山も見えている
1月3日の「富士山一周」。三国峠の峠道から見る富士山。山中湖のはるか向こうに南アルプスの雪山も見えている

『地平線通信』(第13回目)

2016年10月号より

イスタンブールへ1万5000キロ

●7月23日、鳥取県の境港に日本全国から9台のバイクが集まりました。1台は2人乗りのサイドカーなので、総勢10名。「道祖神」主催のバイクツアー「賀曽利隆と走る!」シリーズの第18弾目、「目指せ、イスタンブール! シベリア横断&シルクロード横断50日間」に参加するみなさんです。我々は境港からフェリー「イースタンドリーム号」でロシアのウラジオストックに渡り、シベリア横断→カザフスタン縦断→シルクロード横断の1万5000キロを走り、トルコのイスタンブールを目指すのです。我が相棒はスズキの400ccバイクのDR−Z400S。これまでに「ユーラシア大陸横断」、「サハラ砂漠縦断」、「南米アンデス縦断」などを走っています。

●7月27日、ウラジオストックを出発し、M60(国道60号)を北へ。雄大な風景の中を時速100キロ超で走ります。ぼくのDRが先頭を走り、その後に参加者のみなさんのバイクがつづくのですが、バックミラーに映る後続のバイクのきれいなラインには胸がジーンとしてきます。

●ハバロフスクからはM58(国道58号)でアムール河畔の町ブラゴベシチェンスクへ。2002年にもこのルートを走ったのですが、その時は100キロ以上の区間がダートで、雨に濡れたツルツルの路面にはおおいに泣かされました。それが今では2車線の舗装路。交通量が格段に増え、どの車も時速100キロ以上の高速で走っています。車はトヨタが圧倒的に多いのですが、高級車レクサスの新車も多く見かけます。シベリアの発展を象徴しているかのようなシーンです。ブラゴベシチェンスクからチタまでは2002年当時は、まだ道もなかったのですが、今では2車線のハイウエイが延びています。

●チタからはM55(国道55号)でイルクーツクへ。モンゴルへとつづく大草原が地平線の果てまで広がっています。天も地もとてつもない大きさ。地球がまるで円板のように見えてきます。その中をバイクで突き進む解放感、自由感。草原からはハーブの香りが漂ってきます。天然の大ハーブ園といったところです。ウランウデを過ぎると、右手にはバイカル湖が見えてきます。思わず「おー、バイカルよ!」と感動の声を上げました。シベリア鉄道の線路を越え、バイカル湖畔でバイクを止めると、ウエアを脱ぎ捨ててバイカル湖に飛び込みました。湖水は思ったほど冷たくはなく、全身でバイカル湖を感じ、シベリアを感じ取るのでした。

●イルクーツクからはM53(国道53号)でクラスノヤルスクを通り、西シベリアの中心都市ノボシビルスクへ。「シベリア横断」は世界の「大河紀行」でもあります。クラスノヤルスクではエニセイ川(全長5550キロ)、ノボシビルスクではオビ川(全長5568キロ)に出会います。クラスノヤルスクにしてもノボシビルスクにしても、北極海の河口からは4000キロも離れているのに、滔々と流れるエニセイ川やオビ川の川幅は1キロ以上もあるのです。日本の川とは比較にならない大きさです。いつの日か、これらの大河の船旅で北極海まで行ってみたいものです。

●ノボシビルスクからカザフスタンを縦断し、最大の都市アルマトイに到着。ここでは「アルマトイ」という高層ホテルに泊まりましたが、夜明けとともに起きると、6階の部屋のベランダからは天山山脈がきれいに見えました。BMW1200GSに乗る同室の鈴木さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら、天山山脈の雪山を見つづけるのでした。それはまさに至福の時でした。

●天山山脈はまさにシルクロードのシンボル。その北側を天山北路、南側を天山南路が通っています。アルマトイを通っているのは天山北路になります。カザフスタンとキルギス、中国の3国国境に聳える天山山脈のハン・テングリ山(7010m)はカザフスタンの最高峰です。そのすぐ南に聳えるキルギスと中国の国境に聳えるポペーダ山(7439m)は天山山脈の最高峰になっています。

●8月19日、アルマトイを出発。シルクロード横断ルートを西へ西へと走ります。天山山脈の山裾を行くのですが、天山山脈の山並みは低くなり、やがて視界から消えていきました。ウズベキスタンに入ると、シルクロードの中心都市として2000年以上、栄えてきたサマルカンドに到着。ここでは町の中心のレギスタン広場を歩き、チムール帝国の霊廟グリ・アミール廟を見ました。

●それらの世界遺産以上に心に残ったのは、旧市街の町歩きでした。迷路のような小道をひたすら歩き、多くの人たちに出会いました。サマルカンドからはシルクロードの聖地ブハラを通り、中央アジア最後の国のトルクメニスタンへ。国境を越えたところでウラジオストックからの走行距離は1万キロを突破。トルクメニスタンの首都シュハバートからイランに入りました。

●イランに入って最初の食事は「チェローカバブー」です。羊肉を串焼きにしたカバブーに長粒米の白飯が添えられています。白飯がチェロー。国境を越えるごとに食べ物が変わっていきますが、その食べ歩きは「アジア大陸横断」の大きな楽しみです。イランではカスピ海沿岸の町々を通ってシルクロード要衝の地タブリーズに向かいましたが、この道はA1。「アジアハイウエー」の一番の幹線です。トルコ国境までが「アジアハイウエイ」で、トルコに入ると「ヨーロッパハイウエー」になります。

●トルコの国境の町ドーバヤジットはクルド人の町です。トルコとイラン、イラクの3国にまたがって住むクルド人の人口は約3000万人。その半数がトルコに住んでいます。クルド人は国を持たない世界最大の民族です。独立を目指すクルド人とトルコ軍の争いは絶えることがありません。町外れの軍の基地にはおびただしい数の戦車が並んでいましたが、砲身はドーバヤジットの町に向いていました。

●ドーバヤジットからはトルコ中央部のアナトリア高原を横断し、奇岩が林立する「世界の奇景」のカッパドキアへ。その中心のギョレメの町に泊まりましたが、我々の宿は「岩窟ホテル」。イスタンブール到着の前日はシルクロード要衝の地サフランボルに泊まりました。ここにはキャラバンサライ(隊商宿)が残っているのですが、我々の宿はそのキャラバンサライでした。

●9月6日、欧亜を分けるボスポラス海峡をフェリーで渡ってイスタンブールに到着。ウラジオストックを出発してから42日目のことでした。1万5000キロを走り切ってのイスタンブール到着です。ウラジオストックで泊まった「赤道ホテル」の前で、「目指せ、イスタンブール!」と全員で大声を張り上げて走り出したシーンが、無性になつかしく思い出されてくるのでした。(賀曽利隆)

ロシアのウラジオストックから1万5000キロを走ってトルコのイスタンブールに到着。「アジア大陸横断」、終了!
ロシアのウラジオストックから1万5000キロを走ってトルコのイスタンブールに到着。「アジア大陸横断」、終了!

『地平線通信』(第12回目)

2015年10月号より

カソリは走った!

●みなさ〜ん、お元気ですか。報告会にも行けず、バイクで走りまわっています。4月18日、19日の「福島・浜通りを巡る移動報告会」を終えたあとのカソリをお伝えします。カソリの活動報告書といったところでしょうか。いわき駅前でみなさんを見送ると、渡辺哲さんと駅前の「ホルモン焼き」の店に入り、宴会開始。「渡辺君、いや〜、ご苦労さまでした!」。さんざん飲んだあとは中華料理店で2次会。2次会が終わると渡辺さんと別れ、いわき駅前の「東横イン」に泊まりました。

●翌日からはスズキの650ccバイク、V−ストローム650XTを走らせ、東北の太平洋岸を北へ。東北太平洋岸最北端の尻屋崎と本州最北端の大間崎に立ち、大間港から津軽海峡フェリーで函館に渡り、反時計回りで北海道を一周しました。北海道は寒かった。釧路を出発した朝は氷点下4度。冬の装備もしていないのでガタガタ震えながらバイクを走らせました。「北海道一周」を終えると、函館港から青森港に渡り、今度は東北の日本海側を南下。4月28日に東京に戻りました。

●5月から6月にかけては「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走りました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。これが13度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になりますが、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見てまわりました。女川も志津川(南三陸町)も気仙沼…も盛土の工事が進み、風景が一変していました。

●下北半島を一周したあと、青森駅前の「東横イン」でひと晩泊り、翌日は青森港を4時15分に出発。青森港は冷たい濃霧のヤマセに覆われ、何も見えませんでしたが、この時間が青森港の日の出なのです。青森からは東北道→磐越道→日本海東北道→北陸道→能越道と高速道をひた走り、能登半島突端の禄剛崎に立ったあと、18時50分、青森港から1222キロを走って羽咋市の千里浜にゴールしました。

●これは風間深志さんが主宰するSSTR(サンセット・サンライズ・ツーリング・ラリー)。日の出とともに太平洋岸をスタートし、日の入り前に日本海の千里浜にゴールするというツーリングラリーです。全国各地から1000台以上のバイクが参加しましたが、カソリの「1222キロ」は断トツの1位でした。

●千里浜からは日本海の海岸線を西へ。下関まで走り、今度は下関からの「一人ぼっちのSSTR」。4時15分に下関港を出発。中国道→山陽道→舞鶴若狭道→北陸道と高速道を走りつづけ、最後は能登半島突端の禄剛崎に立ち、18時20分に千里浜に到着。走行距離は1108キロでした。そのあとは能登半島を一周し、神奈川県伊勢原市の我が家に戻るのでした。

●6月14日(日)の南会津町南郷で開催された「ひめさゆりバイクミーティング」に合わせ、福島県を一周しましたが、まずは浜通りを北上。こうして繰り返し、繰り返し福島県の太平洋側の浜通りを見ています。四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まりましたが、ここも地平線会議の面々と一緒に泊まった宿。女将さんは元気ですよ。宿の前の堤防の工事が始まり、大津波で流された隣の「なぎさ亭」は新たに建て直されて開業しました。

●南会津町南郷での「ひめさゆりミーティング」には民宿「田吾作」の女将、というよりも地平線会議メンバーの酒井富美さんがご主人、息子さんと一緒に来てくれました。その夜は木賊温泉の民宿「若松屋」に泊ったのですが、渡辺哲さんも来てくれて、女将のえみ子さんをまじえての飲み会は深夜までつづくのでした。

●6月24日からは1ヵ月をかけての『ツーリングマップル東北』(昭文社)の実走取材。東北全域を1万キロ以上にわたって縦横無尽に走りまわりました。「東北はおもしろい!」を実感する毎日。この間、東北各地の「道の駅」をめぐりました。東北には全部で146ヵ所の「道の駅」がありますが、その全部をスタンプラリーで制覇したのです。

●残念ながら福島県楢葉町の道の駅「ならは」と岩手県陸前高田市の「高田松原」の2ヵ所は休業中のままです。楢葉町は全町域の避難指示が解除されたので、道の駅「ならは」の一日も早い復活を願うばかりです。

●1993年に誕生した道の駅ですが、最近の日本での数少ない成功例。今や日本各地に増えています。車やバイクで旅する者にとって道の駅の存在は大助かり。それだけに大勢の人たちが集まります。地元のみなさんの熱意が伝わってくる道の駅なのです。きれいなトイレを利用できるだけでなく、地元産の食材が買えるし、郷土料理を食べられるレストランも多くあります。今年も東北には3ヵ所、新たな道の駅ができましたが、地方活性化の切り札になるような勢いです。

●8月にはスズキの1000ccバイク、V−ストローム1000で台湾を走りました。標高3275メートルの峠、「武嶺」を越えられたのが何ともうれしいことでした。スズキの250ccバイク、グラストラッカーでは「東京→青森」の「林道走破行」の第1弾目。全部で14本の林道を走りつないで東京から青森まで走りました。9月から10月にかけては、V−ストローム1000での「123109874」を走りました。

●この「123109874」って、何だかわかりますか。東京から国道1号→国道2号→国道3号と走りつないで鹿児島へ。日本本土最南端の佐多岬で開催された風間深志さん主宰の「最南端バイクミーティング」にゲスト参加したあと、鹿児島から国道10号→国道9号→国道8号→国道4号で青森へ。青森からは国道4号で東京に戻ったのです。日本の幹線道路を走って「日本が見えた!」といった気分です。

●この暗号のような「123109874」を走り終えて昨夜(10月10日)、伊勢原市の自宅に帰ってきました。このあと石巻で開催される「東北復興バイクミーティング」に参加します。そして福島県の白河から会津若松を通って新潟まで会津街道を走ります。この会津街道は佐渡金山の金銀が江戸に運ばれた「佐渡三道」のひとつ。「白河〜新潟」間の全宿場に立ち寄っていくつもりです。最後に「東京→青森」の「林道走破行」の第2弾目を走ります。第2弾目では全部で16本の林道を走破する予定です。ここまでを10月中に走り終えたいのです。頑張れ、カソリ!(賀曽利隆)

一緒に走った台湾のみなさんと。全員がVストローム1000に乗っている。台湾の最高所峠、標高3275mの「武嶺」で

『地平線通信』(第11回目)

2015年2月号より

4年目、11度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を前に

●まもなく「東日本大震災」から4年目の3月11日がやってきます。それに合わせて「鵜ノ子岬→尻屋崎」に旅立ちます。出発点の鵜ノ子岬は福島・茨城県境の岬で、東北太平洋岸の最南端になります。岩山が海に落ちる岬の北側には福島県の勿来漁港、南側には茨城県の平潟漁港があります。「奥州三関」の勿来関で知られる勿来は「東日本大震災」の特異地帯で、大津波の被害をそれほどは受けることはありませんでした。ところが岬をはさんだ茨城県側の平潟漁港は大きな被害を受けたのです。

●ゴールの尻屋崎は青森県下北半島北東端の岬で、ここが東北太平洋岸の最北端になります。「鵜ノ子岬→尻屋崎」というのは、東北の太平洋岸の全域を見てまわるカソリのバイク旅なのです。昨年も3月、6月、8月の3度走り、今回が11度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。なぜ東北の太平洋岸にそれほどまでにこだわるかというと、ぼくにとっては日本でも一番といっていいほどのフィールドで、震災前の10数年間でも何度、足を運んだかしれません。

●その東北太平洋岸が大津波の被害をモロに受け、壊滅的な状況になっている衝撃のシーンを見ると、いたたまれない気持ちでした。意を決して第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発したのは震災から2ヵ月後の2011年5月10日でした。このときは、ほんとうに福島県から青森県までバイクで走れるのだろうか、道は通じているのだろうか、ガソリンは手に入るのだろうか、宿泊施設あるのだろうか、食事は…といった不安を抱えての旅立ちでした。東京を出発。スズキの400ccバイク、DR−Z400Sを走らせ、

●常磐道で東北に入り、いわき勿来ICに着いたのは夜の8時でした。勿来の町中を走り抜けていきましたが、大地震、大津波の影響は見られませんでした。常磐線の勿来駅に立ち寄ってみると、いつも通りの勿来駅でした。勿来駅前から国道6号を南へ。国道沿いのコンビニで弁当を買って鵜ノ子岬に立ったのですが、そこへ地平線会議の仲間の渡辺哲さんが来てくれました。被災者の渡辺さんには「カンビール」や「バタピー」、「チーかま」などの差し入れをしてもらい、野宿宴会の開始とあいなったのです。

●渡辺さんは福島県の楢葉町に住んでいます。いや、住んでいたといった方がいいでしょう。楢葉町のみなさんは全員、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で強制的に退去させられました。大地震の被害を受け、大津波の被害を受け、それに追い討ちをかけるように原発の爆発事故の影響を受けた渡辺さんですが、三重苦、四重苦を吹き飛ばすかのように、いつも通りの元気さ、明るさでした。

●翌5月11日、鵜ノ子岬を出発し、北へ、北へとDR−Z400Sを走らせたのですが、福島第1原発の事故の影響で浜通りを貫く国道6号は通行止。4時間も5時間もかけて大きく迂回しなくてはなりませんでした。宮城県に入ると、町の全域がやられた閖上地区は立入禁止でした。多数の犠牲者を出した石巻で見たシーンは強烈なものでした。学校の校庭に無数の墓標が立ち並び、花が供えられていました。

●女川の惨状は目を覆うばかりで、町全体が瓦礫に埋まり、足の踏み場もないような状態でした。それでも幹線道路は走れました。気仙沼の海岸地帯には無数の船が乗り上げていました。その乗り上げ船の間をかいくぐってバイクを走らせたのですが、まるで迷路を行くようでした。岩手県に入ると、陸前高田のあまりにもすさまじい被害に声もありませんでした。高田松原は消え去り、海岸一帯には押し寄せた海水がそのまま残り、一大湿地帯のようになっていました。

●さらに大船渡、釜石、鵜住居、大槌、山田、宮古、田老、野田と、大津波で壊滅的な被害を受けた陸中海岸の町々を走り抜けていきました。久慈を過ぎると大津波による被害は減っていきました。青森県に入ると海沿いの県道1号を走ったのですが、海沿いの家々がまったく無傷で残っているのには驚かされました。被害が出たのは八戸漁港から三沢漁港あたりまでで、その北の白糠漁港はいつものような活況を呈していました。

●こうして10日あまりをかけて尻屋崎にたどり着いたのです。福島第1原発事故の立入禁止エリアはありましたが、幹線道路はほとんど復旧し、まったく問題なく走れたのが一番の驚きでした。

●大震災から1年目の3月11日に出発した「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、尻屋崎まであと100キロという地点で猛吹雪に見舞われ、尻屋崎を断念しました。東北の太平洋岸、とくに宮古以北の北東北は、この季節はまだ冬同然。大津波で助かったのに、朝を迎えられずに凍死した人たちが多くいたというのがよくわかる寒さでした。

●大震災2年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では遅々として進まない復興にいらだちをおぼえるほどでしたが、3年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では各地で本格的に始まった復興工事の現場を見ることができました。東北太平洋岸の全域にあった大量の瓦礫の山の撤去作業が終わり、完全に消え去ったのはすごいことだと思いました。被災者のみなさんにとっては、この瓦礫の山がどれだけ苦痛だったことか。膨大な台数の車の残骸もほとんどなくなっていました。

●鵜ノ子岬から尻屋崎までの何百キロという途轍もなく長い距離の間は今、すべてが工事現場といっても過言ではないのです。これは日本史上空前の大工事といえます。その中にあって復興の格差を強く感じてしまいます。原発事故に襲われた福島県の復興の遅れは目立っています。宮城県、岩手県でも復興の進む被災地とそうでない被災地がより鮮明になっています。同じ被災地でも、復興の遅れる町と復興の進む漁港のように、復興の格差がはっきりと見られるようになっています。

●大震災4年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、3月11日の夜はいわき市の四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まります。地平線会議の報告会を開いた宿です。当日は復興工事の長期滞在者のみなさんで満室だとのことですが、女将さんは大広間を用意してくれるといいます。渡辺哲さんが来てくれますが、一献傾けながら渡辺家の、楢葉町の、そして浜通りの現状を聞くのが今から大きな楽しみです。

●そしてその10日前の3月1日には、浜通りの大動脈になる常磐道が全線開通します。浜通りのみなさんがどれだけ期待したことか。これでいわきから相馬へ、大迂回する必要もなくなります。4年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」におおいなる期待を抱いてまもなく出発します。(賀曽利隆)

2011年5月11日、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発。鵜ノ子岬北側の勿来漁港(福島)で。この時はほんとうに尻屋崎まで走れるかどうか、大いなる不安を抱えながらの出発だった
2011年5月11日、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発。鵜ノ子岬北側の勿来漁港(福島)で。この時はほんとうに尻屋崎まで走れるかどうか、大いなる不安を抱えながらの出発だった

『地平線通信』(第10回目)

2013年9月号より

2013年夏の東北行

●みなさ〜ん、お元気ですか。今年の夏は猛暑&豪雨の連続でしたが、みなさんはいかがお過ごしでしたか。カソリの「2013年夏の東北」は6月11日に始まり、8月13日に終わりました。第1弾目は「福島一周」(6月11日〜6月17日)で、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせ、浜通り→中通り→会津と福島県を反時計回りで一周しました。7日間での走行距離は1851キロでした。

●浜通りでは、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で分断された国道と県道のすべてを走り、どこが通行止め地点になっているのかを確認してきました。一番の幹線の国道6号は南側はいわき市から広野町、楢葉町と通って富岡町に入り、富岡消防署の交差点まで通行できるようになっていました。北側は南相馬市から浪江町に入り、双葉町との境まで行けました。浪江町内はすさまじい状況で、国道6号と交差する道はすべて通行止。入口で封鎖されています。

●しかし分断された浜通りのかなりの地域に、自由に行けるようになったのは何ともうれしいことで、光が差し込んできたような思いがしました。それを象徴するのが阿武隈山地の山麓を通る県道35号です。いわき市から広野町、楢葉町と通って富岡町に入ると、さらに大熊町との町境を越え、大熊町の中ほどのゲートまで行けるようになっていました。バイクに乗りながら、「おい、おい、ほんとかよ、これって!」と、驚きの声を上げたほどです。各地の放射線量が大幅に低下しているのがその理由ですが、2013年夏の時点で一歩も入れないのは双葉町だけになりました。

●阿武隈山地を東西に横断するルートですが、国道288号は田村市と大熊町の境、県道253号は葛尾村と浪江町の境、県道50号は葛尾村と浪江町の境、国道459号は二本松市と浪江町の境、国道114号は川俣町と浪江町の境が通行止地点になっています。南北縦貫の国道399号は葛尾村と浪江町の境の登館峠が通行止地点になりました。この国道399号は東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故以降、高濃度の放射線量にもかかわらず、まったく問題なく通り抜けられたルートなのです。

●登館峠を下った津島地区では何度となくバイクを止め、「これが日本一の放射線量!」などといって思いっきり深呼吸したものです、放射線量が極めて高い頃は通行可で、低くなった今頃になって通行止にするというのは、もう笑い話のようなものです。南相馬市から浪江町に入るルートは国道6号を除けば、県道34号、県道120号、県道255号、県道391号と、すべての県道が浪江町との境が通行止地点になったままです。まるで浪江町をぐるりととり囲むような包囲網が築き上げられたかのような感があります。

●第2弾目は「東北一周」(6月27日〜7月12日)です。スズキの250ccバイク、GSR250で16日間、5224キロを走りました。反時計回りでの東北一周でした。地平線通信の4月号では「3・11から2年後の東北を行く」と題して東北太平洋岸南端の鵜ノ子岬(福島)から尻屋崎(青森)までの現状をお伝えしましたが、それから4ヵ月後に、大津波発生から8度目になる「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走りました。そのわずか4ヵ月の間で、福島県最北の新地町は劇的に変わっていました。

●3月の時点では大津波によって壊滅状態になった海岸一帯では、何ら復興の芽を見ることができませんでした。それが7月の時点では、海岸地帯に次々とピラミッドを半切にしたような土盛りをした造成地ができているのです。まるで日本中からダンプカーが集まってきたかのような凄まじさで、北海道ナンバーや鳥取ナンバーなどの県外ナンバーのダンプカーが動きまわっていました。千葉県ナンバーの真っ白な新車のダンプ数台が勢ぞろいしている光景も見ました。宮城県側に入った山元町の海岸一帯でも、「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっていました。

●地平線会議の報告会で、大津波の被害を生々しく語ってくれた相沢さん親子の閖上(宮城県名取市)は、その反対に復興が遅々として進んでいないようでした。住民のみなさんの気持ちがなかなかまとまらないのが大きな理由のようです。名取川河口の閖上は震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていました。高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上はまるで絨毯爆撃をくらったかのように町は全壊し、ここだけで1000人近い犠牲者を出しています。

●瓦礫はすでに撤去され、町跡には何も残っていません。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望するのでした。日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、東北では酒田や石巻の日和山がよく知られています。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明しているのです。

●もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていました。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流されました。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流されました。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで日和山に両神社の2本の神籬が立てられたのです。そこに今回、新しく両神社の祠が建てられました。木の香がまだプンプン漂ってくるような祠でした。

●石巻漁港も復興が遅れたところですが、ここへきて一気に復興が進んでいるように見えます。漁港の岸壁が修復され、仮設の魚市場ができ、なんともうれしいことに市場食堂の「斎太郎食堂」も営業を再開していました。瓦礫が散乱し、荒れ放題だった漁港の周辺には、次々に水産加工の工場が完成しています。同じ石巻市内では、悲劇の大川小学校の校舎はまだ残っていましたが、生徒全員が助かった奇跡の相川小学校の校舎はすでに取り壊されていました。

●雄勝の公民館の屋根に乗り上げた大型バスはすでに撤去されていましたが、その公民館も取り壊され、跡形も残っていません。雄勝湾の一番奥の雄勝の町はまったく見捨てられたかのようで、復興のカケラも見られませんでした。気仙沼に乗り上げた大型漁船「第18共徳丸」(330トン)は保存か撤去かで大もめにもめましたが、結局、船主の意向通り、撤去されることになりました。大津波のシンボル的な「爪痕」は次々に消え去り、今ではもうほとんど残っていないのが現状です。

●岩手県に入ると、陸前高田の復元された「奇跡の一本松」には大勢の観光客が押し寄せていました。ここも残す残さないで町を二分する議論が起きましたが、この現状を見ると、「残ってよかった!」と思うのでした。大船渡の漁港には見違えるほどの活気が戻っていました。漁港に隣接した観光施設も完成に近づいていました。

●釜石市の鵜住居は同市最大の被災地です。ここだけで1000人もの犠牲者を出しています。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した200人近い人たちが亡くなったことです。廃墟と化した町並みの中にポツンと残っている防災センターは取り壊されることになりました。

●釜石市の鵜住居から峠の短いトンネルを抜けると大槌町です。ここでは、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になっています。町役場はまだ残っていますが、「平成三陸大津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、ここでも町を二分しました。その結果、一部を残すことに決まったとのことです。

●町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようです。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」ができていました。そんな大槌町の北隣りが山田町です。ここも大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上の犠牲者が出ています。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで何と3000人以上もの命が奪われているのです。想像を絶する数字です。鵜住居から山田まではわずか20キロ。バイクで走れば30分もかからない距離なのです。

●宮城県の気仙沼から青森県の八戸までの三陸海岸が「三陸復興国立公園」になりました。それを祝って新しい国立公園の看板があちこちに立ち始めています。宮古では宮古漁港の一角にある道の駅「みやこ」の「シートピアなあど」が7月6日にオープンしました。巨大防潮堤4本のうち2本が破壊され、町が全壊した田老では季節外れの鯉のぼりを上げている人たちがいました。ところがそれは鯉のぼりではなく、「鮭のぼり」でした。田老はかつては東北でも一番、サケの遡上するところだったといいます。田老の復興の願い、想いをサケにたくした「さけ幟り」の会のみなさん方でした。

●第3弾目は「林道編・東北一周」(8月7日〜8月13日)です。スズキの250ccバイク、ビッグボーイで7日間、2602キロを走りました。「東京〜青森」間を林道経由で往復したのですが、往路編では10本の林道、復路編では9本の林道を走りました。19本の林道のダート距離の合計は303・2キロになりました。お洒落な街乗りバイクで定評のあるビッグボーイですが、20キロ超、30キロ超のロングダートをものともせずに走ってくれたました。

●「林道編・東北一周」では大雨に泣かされました。空が抜け落ちるかのような豪雨をついて林道を走っていると、いいようのない不安にかられてしまいますが、無事に走り抜けられてほんとうによかったです。この豪雨で岩手県内では東北道(花巻〜紫波間)が通行止めになりました。そのときの東北道沿いの一般道(県道13号)の大渋滞は、それはすさまじいものでした。秋田県内では大河、米代川が大氾濫し、流域は一面水浸しになりました。田沢湖の東側、国道341号沿いの先達の集落は大規模な土石流に見舞われ、何人もの方々が亡くなりました。国道はまったく普通に走れましたが、そのすぐ脇の先達の集落は自衛隊や警察、消防の車両で埋め尽くされ、騒然としていました。

●このようなカソリの「2013年夏の東北行」でしたが、30日間で9681キロを走りました。東日本大震災2年目の「鵜ノ子岬〜尻屋崎往復」(3月8日〜3月18日)の3670キロを合わせると、全走行距離は1万3351キロになります。10月には再度、「福島一周」を走りますので、最終的には1万5000キロ超になります。そのあとは「アフリカ大陸縦断」に旅立ちます。(賀曽利隆)

2014年1月15日、「アフリカ大陸縦断」のゴール、喜望峰に到着。喜望峰の突端で雄叫びを上げるカソリ!
2014年1月15日、「アフリカ大陸縦断」のゴール、喜望峰に到着。喜望峰の突端で雄叫びを上げるカソリ!