30年目の「六大陸周遊記」[037]

アフリカ東部編 13 エイラート[イスラエル] → テルアビブ[イスラエル]

地中海岸のガザ

 イスラエルの紅海の港町、エイラートからネゲブ地方の中心地ベルシェバを通り、地中海岸のガザへ。イスラエルでのヒッチハイクは楽だ。車の止まってくれる確率が極めて高かった。

 ガザで驚かされたのはユダヤ人の世界からパレスチナ人の世界にガラリと変わったことだ。町のいたるところにイスラム教のモスクがあり、道端では黒い布をすっぽりとかぶった女たちがオレンジを売っている。言葉もヘブライ語からアラビア語に変わり、道行く男たちもダラーンとたれさがったアラビア服を着ている。

 その日はサバット。ユダヤ教徒にとっては休息日となっている土曜日で、休日だ。そのためユダヤ人の町々の店はすべて閉まっていた。ところがガザに来ると、もうサバットなどはまったく関係ない。イスラム教徒にとっての休息日は金曜日だからだ。

 ガザはパレスチナの大きな紛争地点。そのため大型の無線機を背負い、腰には手榴弾をぶら下げ、機関銃を手にしたものものしい装備のイスラエル兵が町中をパトロールしている。そんなパトロールしている兵士の姿を町のあちこちで見かけるのだ。パレスチナ紛争の最前線にやってきたという緊張感が自分の体の中をピピピッと電気のように走っていく。

ネゲブ砂漠を貫く舗装路
ネゲブ砂漠を貫く舗装路
ネゲブ砂漠の標識
ネゲブ砂漠の標識
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ

シナイ半島に入る

 ガザからシナイ半島に入り、地中海沿いに西へ。できたらスエズ運河の見えるところまで行きたいと思った。西に進むにつれて緑は消え、砂地が広がっていく。乾燥した原野にはわずか4、5ヵ月前の第4次中東戦争の残骸が、無残な姿をあちこちでさらしていた。焼けただれた戦車、原型をとどめない装甲車、るいるいとつづく破壊された軍用トラック…。これでもか、これでもかといわんばかりに戦争の残骸を見せつけていた。

 いったいシナイ半島の荒涼とした原野は、どれだけ多くの人間の血を吸ったことか。ジッと耳をすますと、大地の底からは、あえぎ苦しんでこの世を去った兵士たちの、悲痛な声が聞こえてくるようだった。

シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
戦争の残骸をあちこちで見る
戦争の残骸をあちこちで見る

「戦争」を考える

 このような、すさまじいばかりの戦争の残骸を見せつけられると、「戦争」について、考えずにはいられなかった。

 戦争はなんて非人道的な行為なのだろう。戦争はよくないと、世界中の誰もがわかりすぎるくらいにわかっている。戦場で肉親や友人たちの命が奪われて喜ぶ人はいない。それなのに、どうして戦争をやめることができないのか。

 国と国との強烈なエゴがぶつかりあう国際社会。国というなんとも得体の知れない存在が戦争をなくさないのか。

 戦争で死ぬのはいつも一般の国民だ。戦争をひき起こした責任をとらなくてはならない政治家や高級軍人、さらには戦争で大もうけする経済人たちが戦場で死ぬことはめったにない。国家権力と結びついてぬくぬくと肥え太っていく人間たちが、彼らの利益を守るために戦争を引き起す。そして、その戦争で死んでいくのはいつも一般の国民だ。

 そんな一部人間たちのつくり出す大儀名分に踊らされ、「さー、敵を倒せ!」と繰り返し繰り返しいわれると、みんながそう思い込んでしまうのだろうか。戦争は1人1人の人たちに、強い意志、確固とした信念がないから引き起こされてしまうのだろうか。

 人間にとって一番楽な生きかたは抵抗しないことだ。何ものにも逆らわず、権力に従い、上の人間にいうようにすることだ。人は誰も自分が、子供が、家族が大事だ。しかし、時には勇気を持って大きな流れに逆らわなくてはならない。とくに独裁国家や全体主義の国では、権力に抵抗することは死を意味する。それでも各人が勇気をふるって自分の信念を貫いたとき、きっとこの世から戦争はなくなると、そんなことを考えながらシナイ半島を西に進んだ。

検問所で

 行く手にはあいかわらず、荒れた大地が広がっている。道路沿いには点々とイスラエル軍のキャンプがあり、何台もの戦車がこれみよがしに置かれている。それはシナイ半島を制圧した側の力の誇示のように見えた。

 シナイ半島をさらに西へ、西へと進み、スエズ運河まであと100キロという地点までやってきた。そこではイスラエル軍がバリケードを築き、通行車両を検問していた。そこから先はイスラエル軍兵士と軍から許可証をもらった人、この先の村に住むアラブ人以外は通行禁止だった。

 イスラエル軍の兵士たちはここまで来たのに残念だったなといって冷たいジュースをコップについでくれた。別に何しに来たのかとか、パスポートを見せろとか、一切、いわれなかった。スエズ運河まで行けないのはなんとも残念なことだったが、「まあ、ここまで来ればいいだろう」という満足できる気分でもあった。

バスが止まった!

 その検問所から再び、ヒッチハイクでガザに戻ることにした。しかし、このあたりは交通量がきわめて少なく、おまけに夕暮れが迫っていた。ヒッチハイクを諦め、イスラエル軍の兵士たちに頼んで検問所で野宿しようかと考えているときだった。1台のカラのバスが止まり、運転手が中から手招きしている。シュミエルフィールドさんという年配の人だった。テルアビブで兵士たちを乗せ、スエズ運河地帯まで行って兵士たちを下ろし、テルアビブに戻るところだった。なんともラッキーなことに、テルアビブまで乗せてくれるという。ぼくは運転席のわきに座り、シュミエルフィールドさんにもらったサンドイッチを食べながら彼の話を聞いた。

シュミエルフィールドさんの話

 シュミエルフィールドさんは第2次大戦後、ユダヤ人にとっての「約束の地」、パレスチナにドイツからやってきた。戦時中は大変な迫害を受けたに違いないのだが、あまりそのことにはふれたくないようだった。1948年にイスラエルが建国されたときは仲間たちと大喜びしたという。二千数百年にも及ぶ民族の流浪の歴史に終止符が打たれたのだ。

 パレスチナ戦争(1948〜1949年)の結果、イスラエルは領土を拡大し、国民は一丸となって新生イスラエルのために働いたという。しかし、このパレスチナ戦争のせいで100万人ものパレスチナ難民が発生し、そのことが後の中東情勢に大きな影響を与えるようになってしまった。
「中東の紛争はすでに私たちの手の届かないところにいってしまっている」
といってシュミエルフィールドさんは顔を曇らせる。イスラエルにとってもパレスチナにとっても、この果てしない戦いは必要なのだともいった。

 イスラエルには多様な人たちが集まり、ひとつの国家を形成しているが、たえずこのような緊張状態にないと国がバラバラになってしまう危険性があるという。

 一方、アラブにもそれなりの事情があるという。たとえばエジプトの場合だと、厳しい国内情勢が上げられる。ナイル両岸の、国土の数パーセントにも満たない狭い地域に3000万という膨大な数の人たちが住んでいるが、経済もドン底で、国民の不満は爆発寸前。国をも倒しかねない不満の渦をかわすためにも、「我らの敵、イスラエル」がどうしても必要なのだ。アラブ全体からいえば、イスラエルという天敵はてんでんばらばらなアラブ諸国をまとめる強力な接着剤になっているという。

「サラーム」と「シャローム」

 シュミエルフィールドさんの話を聞いて、ぼくは「国って、何なのだろう」と、あらためて考えてみた。「国益」だといって自己の利益しか考えず、自己の主張のみを押しつけようとするが国家なのではないかと思った。ユダヤ人とアラブ人は戦う必要などまったくないのだ。イスラエルの建国以前はパレスチナの地でお互いに仲よく暮らしていたではないか。

 アラブ人はあいさつに「サラーム(平和)」といい、ユダヤ人は「シャローム(平和)」という。朝から晩まで「サラーム」、「シャローム」といっている人たちが、何でお互いに銃を向けあわなくてはならないのか。

シュミエルフィールドさんの家に行く

 シュミエルフィールドさんは途中で何度となく兵士を乗せた。それは彼に限ったことではない。イスラエルでは兵士たちがいたるところでヒッチハイクしていたが、人を乗せる余裕のある車は、次々と彼らを乗せてあげていた。町の人たちが道端のテーブルを並べ、軍のトラックやジープなどが通るたびに、飲み物や果物をふるまっているのを見たこともある。イスラエルの国民がまさに一丸となって国を守っているといった印象を受けた。

 テルアビブの市街地に近づくと、シュミエルフィールドさんのバスは一転して市内バスに早変わりする。停留所ごとに止まり、乗客を乗せる。もちろん料金を取ってである。そこにユダヤ人の持つ合理性を見る思いがした。

 終点の車庫に着くと、シュミエルフィールドさんは事務所で報告し、料金箱を渡す。それが終わるとぼくを家に連れていってくれ、奥さんが用意してくれていた夕食をご馳走になった。

 食事がすむと、「さー、これからナイトクラブに行こう」といわれビックリ。何しろぼくの格好といったらひどいもので、ジーパンはすでにボロボロで、膝から下を切って半ズボンにしていた。ナイトクラブとは縁遠いものだ。

 奥さんは「お風呂がわきましたよ。さあ、どうぞ」とバスルームに案内してくれた。

「よーし、この格好で一緒にナイトクラブとやらに行ってやろう」
 と覚悟を決めて風呂に入らせてもらったが、ぼくが風呂から上がると、奥さんは「これを使って下さい」といってズボンとセーター、ソックスを用意しておいてくれた。

 ナイトクラブには熱気が充満していた。若い人たちに混じって夫妻は仲むつまじく音楽に合わせて踊っている。そこには戦争の匂いなどまったくなかった。ビールのグラスをかたむける男たち、踊りに夢中になっている若者たち、熱く語り合う恋人たち、そんな人たちを見ていると、「(中東全域に)一日も早く、真の平和が訪れますように!」と願わずにはいられなかった。

 ナイトクラブではほんとうに楽しい時間を過ごすことができた。そのあとシュミエルフィールドさんの家に戻ると、夫妻とビールを飲みながら語り合い、その夜は泊めてもらった。なんとも心に残るシュミエルフィールドさんとの出会いだった。

30年目の「六大陸周遊記」[036]

アフリカ東部編 12 テルアビブ[イスラエル] → エイラート[イスラエル]

テルアビブの無料ホテル

 ロッド空港からイスラエルの航空会社、エルアル航空のバスでテルアビブ市内へ。バスターミナルではツーリストインフォメーションでいわれた通り61番のバスに乗り、モノポールホテルに行った。キプロスのニコシアは東京とほぼ同緯度の北緯35度。イスラエルのテルアビブはそれよりも南の北緯32度。3度の緯度の差なのだろう、ニコシアに比べるとテルアビブは暖かく、寒さに震えることはなかった。

 モノポールホテルのフロントで空港内でもらった書類を見せると、ほんとうに宿泊も食事も無料だった。「やったねー!」という気分。部屋は2人用でオランダからやってきた小学校の先生と一緒になった。30過ぎの先生は半年間の休暇をもらい、イスラエルにやってきた。キブツの教育制度に興味を持ち、キブツで働きながらそれを研究するのがイスラエルに来た目的だという。

 翌朝、朝食を食べ終えたところで、モノポールホテル内にあるキブツのオフィスへ。そこでは「あなたはどのあたりのキブツがいいですか」と1人1人の希望を聞き、それに沿ったキブツを紹介してくる。

 いよいよぼくの番になる。場所はどこでもいいと思っていた。できることなら一番、辺境のネゲブ砂漠あたりがいい。

「あなたはキブツでどのくらい働きたいのですか」
 と最初に聞かれ、1ヵ月くらいと答えた。すると最低でも3ヵ月なのだという。

「3ヵ月か…」

 イスラエルからはギリシャのアテネに飛び、さらにイギリスのロンドンに飛び、ロンドンからヒッチハイクでアテネまで南下し、さらに中東の国々をめぐり、また、アフリカに戻るつもりにしていた。それだけに、キブツでの3ヵ月は長すぎる…。

「残念ながら3ヵ月は働けません」

「そうですか。ではまた次の機会に、ぜひとも来て下さいね」

 担当の若い女性はいやな顔ひとつしないで、そういってくれた。

 ぼくは恐る恐るホテルの宿泊代と食事代はどうしたらいいのか聞いてみたが、「一銭も払う必要はありませんよ」とありがたいことをいってくれた。

テルアビブの町歩き

 イスラエル最大の都市、テルアビブはおもしろいところだった。歩いても歩いても、すこしもあきない。このところしばらく忘れていた町歩きのおもしろさを思い出させてくれた。人々のさまざまな表情が見てとれる。世界のありとあらゆるところから集まってきたユダヤ人たち。町にはきわめてコスモポリタン的な空気が漂っていた。

 市内地図を片手に歩いていると、「どこに行くのですか。もし道がわからないのなら、教えてあげましょう」と、好意的な声を何度となくかけられた。その人がわからないと、ほかの人たちを呼んででも、教えてくれようとした。「どうして、みんがこうも親身になって道を教えてくようとするのだろう」と不思議でならなかった。苦労した人は他人の苦労がよくわかるからなのだろうか。ユダヤ王国滅亡後の二千数百年という気が遠くなるほどの長い年月、他民族から迫害されつづけてきた流浪の民、ユダヤ人の苦しみつづけてきた民族性がそうさせるのだろうか。

テルアビブの中心街
テルアビブの中心街
サイドカーを見る
サイドカーを見る

エルサレムへ

 テルアビブ南駅から列車でエルサレムに向かった。「テルアビブ〜エルサレム」間はバスがひんぱんに出ているので、列車の本数は多くはない。車内はすいており、ゆったりとしたシートには気持ちよく座れた。

 ジーゼルカーに引かれた列車は静かにテルアビブ南駅を離れていく。テルアビブの市街地を抜け出ると空港のあるロッドを通り、丘陵地帯に入っていく。岩肌の露出した山の斜面のあちこちで盛んに植林されている。ゆるやかに流れる小川の両側には、黄色い春の草花が咲いていた。

 ジーゼルカーはあえぎながら山の斜面を登っていく。丘陵地帯を登りきり、エルサレム駅に到着した。テルアビブから80キロほどの距離だ。

テルアビブ駅から列車でエルサレムへ
テルアビブ駅から列車でエルサレムへ
エルサレム行きの列車内
エルサレム行きの列車内
列車とすれ違う
列車とすれ違う
列車は丘陵地帯に入っていく
列車は丘陵地帯に入っていく

世界の聖地

 エルサレム駅から町を歩きはじめた。何か胸がワクワクしてくるような気分だ。エルサレムは首都の建設が急ピッチで進む新市街と城壁で囲まれた旧市街の2つに分けられる。エルサレムは世界の聖地。その中心となる旧市街は世界中から訪れる人たちでにぎわっていた。

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地である旧市街はジャファ門から入っていった。そこは「クリスチャン地区」、「モスレム(イスラム教徒)地区」、「ユダヤ教徒地区」、「アルメニアン(アルメニア人)地区」の4地区の分かれていた。このエルサレムの旧市街が最高におもしろい。たとえば休日ひとつをとってみても、それぞれに習慣が違うので、クリスチャン地区は日曜日、モスレム地区は金曜日、ユダヤ教徒地区は土曜日が休みになる。

 狭い迷路のような路地を歩いていくと、金色のドームが輝く「岩のドーム」に出る。ここはイスラム教徒にとってはメッカ、メジナに次ぐ第3の聖地になっている。階段を下っていくと、そこは「嘆き壁」。ユダヤ教徒にとっては一番の聖地。イスラムの聖地のすぐ下がユダヤ教徒たちの聖地なのである。

 キリスト教徒にとっても、イスラム教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても、エルサレムは一生に一度は巡礼したいという聖地。旧市街の雑踏の中を歩いていると、何百年、何千年と積み重ねられてきたこの地の歴史のずっしりとした重さが伝わってくるかのようだった。

 エルサレムからキリスト生誕の地のベスレヘムまではバスで行った。電撃的なイスラエルの勝利に終わった第3次中東戦争(1968年)以前は、エルサレムはイスラエル領とヨルダン領に二分され、ヨルダン川から死海にかけての西側はヨルダン領だった。ベスレヘムもヨルダン領内にあった。そのせいなのだろう、ベスレヘム行きのバスは旧市街のバスターミナルから出るアラブのバス。「エルサレム〜ベスレヘム」間はほんのわずかな距離で、町つづきのような感じだった。

 ベスレヘムでは「生誕教会」などの教会を見てまわったあと、アラブの市場に行く。エルサレムでは1ポンドで2個しか買えなかったオレンジが、ここでは50アゴルット(100アゴルットが1ポンド)で4個も買えた。

 ベスレヘムからエルサレムに戻り、ユースホステルに泊まる。その夜のことだ。近くの店に買い物に行った。そこで小さな女の子を連れた一家と出会い、2こと3こと、言葉をかわした。それだけのことだったのに、中年の夫婦には「よかったらウチに遊びに来ませんか」と誘われ、一緒についていった。

 その方はイスラエルの名門大学、ヘブライ大学で動物学を教えている先生だった。サソリとクモが専門だという。女の子はシーグルちゃんで、「英語だとカモメちゃんだ」といって先生は笑った。先生はエチオピアに行ったことがあり、ヘブライ語とアムハラ語がすごく似ているのには驚いたという。ヘブライ文字とアムハラ文字にも似ている点があるという。コーヒーを飲みながらの先生一家との話は楽しかった。

エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
イスラム教の聖地「ロック・オフ・ドーム」
イスラム教の聖地「ロック・オフ・ドーム」
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く

死海で浮んだ!

 エルサレムからは世界最古の町といわれるジェリコに寄ったあと、バスで死海に向かった。この道がすごい。何がすごいかというと、標高800メートル近い高原の町、エルサレムから、世界最低地点の海面下400メートルにもならんとする死海まで、下り坂が際限なくつづくのだ。まるで奈落の底に落ちていくような気分。シーレベル(海抜0m)の標識を過ぎると、エルサレムではヒンヤリしていたものが、ムッとする暑さに変わる。前方には巨大な壁が立ちふさがっている。ケニアのナイロビ近くで見られる大地溝帯(グレートリフトバレー)の風景とそっくりだ。

 ゴラン高原のヘルモン山を源とし、イスラエルとヨルダンの国境を流れるヨルダン川は、地溝帯の中を北から南へ、死海へと流れ込むが、このヨルダン河谷の地溝帯こそ、紅海からアフリカ大陸へとつづく大地溝帯の北端にあたるのだ。

 バスはヨルダンの首都アンマンに通じる道と分かれ、死海への道を南下する。バスの運転手の話ではヨルダン川にかかるアドバラッ橋を渡ってアンマンに通じる道は閉鎖されているとのことで、ジェリコからアレンビー橋を渡っていく道だけが開いているという。アンマンまでは手の届くような距離だが、イスラエルからヨルダンに入るのは容易なことではない。

 死海に到着。湖面の高さは海面下392メートル。渇水期になると、さらに水位は下がるという。死海の面積は1000平方メートル。琵琶湖の1・5倍といったところだ。最大水深は356メートル。地溝帯の中にできた地溝湖なのできわめて深い。

 いつの頃か、はっきりとはおぼえていないが、たぶん小学校の低学年の頃のことだろう。死海にプカプカ浮かびながら本を読んでいる、そんな写真か、マンガを見たおぼえがある。その時以来、「死海」が頭から離れず、いつの日か自分も同じように死海で体を浮かべてみたいと思うようになった。

 そんな長年の願いをかなえようと、死海の湖畔で服を脱ぎ捨て、湖に飛び込んだ。なるほどなるほど。じつによく浮かぶ。浮きすぎて泳ぎにくい。泳いだ拍子に水を飲んだが、まるで毒物でも飲んだかのような味の悪さ。塩分が濃すぎるのだ。舌には針かなにかで刺されたような感触が残り、気持ち悪くて吐きそうになった。死海に浮かぶのは決して気持ちのいいことではない、ということがよくわかった。

 湖から上がると、空気は乾ききっているので、おまけに猛烈に暑いので、濡れた体はあっというまに乾いてしまう。しかし塩が体にこびりつき気持ち悪い。湖面はコップの中で作った濃い塩水のようにトローンとしている。対岸には乾燥したヨルダンの山々が連なるている。

死海
死海
死海
死海

エイラート湾とアカバ湾

 死海の湖畔から紅海の港町、エイラートまではヒチイハイクで向かう。死海の西側の低地はネゲブ砂漠へとつづく砂漠地帯だ。イスラエルに入っている唯一の日本車のスバルに乗せてもらいエイラートへ。死海の南側では大規模な製塩がおこなわれている。

 死海を離れ、ネゲブ砂漠に入っていく。砂漠の中に一筋の舗装路がはてしなく延びる。所々に、砂漠を灌漑した農地が現れる。荒野と緑野が鮮やかな対比を成している。道路標識がおもしろい。最初にヘブライ語で書かれ、次にアラビア語、さらに英語で書かれてあった。

 紅海のアカバ湾に面したエイラートに着いたのは、夕暮れ時。海岸に出ると、ヨルダンのアカバの町並みがよく見えた。この「アカバ湾」もイスラエルの地図だと、当然だといわんばかりに「エイラート湾」になっている。日が落ち、町明かりが灯りはじめると、ヨルダンのアカバの町もキラキラと光り輝きはじめた。胸がジーンとしてくる風景だ。

 そんなアカバを見ていると、映画「アラビアのロレンス」のハイライトシーンが鮮明に蘇ってくる。イギリスの軍人ロレンスの率いるアラビア部族のラクダ部隊は、トルコ軍が支配する紅海の要衝のアカバを背後から奇襲攻撃した。不意をつかれたトルコ軍はひとたまりもなくやられ壊滅した。ラクダ部隊の叫ぶ「アカバ!」、「アカバ!」、「アカバ!」の声が聞こえてくるかのようだった。

 イスラエルとヨルダンの国境をはさんで隣り合うエイラートとアカバの2つの町。しかし、どんなに近くても、エイラートからアカバに行くことはできない。両者の間を切り裂く国境線というブ厚い壁の存在をあらためて強く感じるのだった。

ネゲブ砂漠を行く
ネゲブ砂漠を行く
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
エイラート湾
エイラート湾
エイラート湾
エイラート湾

30年目の「六大陸周遊記」[035]

アフリカ東部編 11 モヤレ[エチオピア] → テルアビブ[イスラエル]

なつかしのエチオピア

 エチオピアの首都、アディスアベバを歩きまわった。無性になつかしくなる。1968年にバイクで来たときは、ほんとうによくエチオピア国内をまわったものだと我ながら感心してしまう(というよりもまわらざるをえなかったのだが…)。

 1968年の「アフリカ大陸縦断」では、エチオピアはアディスアベバから北のアスマラに行き、そのままスーダンに抜けるつもりだった。ところがすんなりとはスーダンに入国できなかったためにそうなってしまった。

 アディスアベバからアスマラまでは2本のルートがある。1本はまっすぐ北上するもので、距離は1100キロ。もう1本は青ナイルの水源のタナ湖を経由するもので、距離は1300キロ。距離は長くなるが青ナイルの大峡谷を見たくてタナ湖経由のルートで行った。

 エチオピアの最高峰ラスダシャン(4620m)に近いシミアン山地には半月ほど滞在した。エチオピア北部の中心都市アスマラに着くと、すぐにスーダン領事館に行った。しかし、エチオピアのイミグレーションからの出国許可証がないと、スーダンのビザは発行できないといわれた。

 すぐさまイミグレーション・オフィスに行ったが、その出国許可証は得られなかった。エチオピア、スーダン間の不仲が理由だった。エチオピア北部のエリトリアはイスラム圏で、そんなエリトリアのエチオピアからの分離・独立にスーダンが力を貸しているというのがエチオピアのいい分だ。

 アスマラでだめならと、マイチョウ経由の直行ルートで首都アディスアベバに戻った。そしてエジプト航空で「アディスアベバ→ハルツーム」間の航空券を買い、飛行機でスーダンに入るということにし、アディスアベバにあるスーダン大使館でビザを取ることができた。

 アスマラに戻ると、北部エチオピアの国境の町、テッセナイに行き、スーダンのカッサラに抜けようとした。ところがテッセナイでは陸路でのエチオピア出国は認められないといわれ、このルートを断念しなくてはならなかった。再度、アスマラに戻ると、紅海の港町、マッサワに行ってみた。スーダンのポートスーダン港まで船で渡ろうとしたのだ。だが、これもうまくいかなかった。

 いよいよ困ってしまったが、タナ湖北側のアゼゾからならスーダンのゲダレフに抜けられるという情報をキャッチし、トライしてみた。すさまじくひどい道で決死の覚悟でエチオピアの高原地帯を下っていった。国境近くの平原地帯に降り立ったときは心底、救われた思いがした。その決死の覚悟が実ってエチオピア・スーダン間の国境を突破できた。そんな1968年のエチオピアの旅がなつかしく思い出された。

アディスアベバ
アディスアベバ
アディスアベバ駅前
アディスアベバ駅前
アディスアベバの街
アディスアベバの街
アディスアベバ、コプト教会
アディスアベバ、コプト教会

「パース→ロンドン」の航空券

 アディスアベバからはイスラエルのテルアビブに飛びたかった。次の日、航空会社のオフィスをまわる。オーストラリアのパースで買った「パース→ヨハネスバーグ→ナイロビ→ロンドン」のチケットのうち、未使用の「ナイロビ→ロンドン」をうまく使えば、一銭も払わずにテルアビブに行けるかもしれないと思った。どういうことかというと、アディスアベバからテルアビブ経由でのロンドン行きにし、テルアビブでストップオーバー(途中降機)するというものだ。

 まず最初はエチオピアエアーラインに行った。しかし、アディスアベバからテルアビブへの直行便はなかった。エチオピアエアーラインの場合だと、ギリシャのアテネ経由でのロンドン行きになり、「アテネ→テルアビブ」間の料金は別に払わなくてはならなかった。

 次にBOACに行った。BOACのロンドン行きだと、キプロスのニコシア経由があった。それで行こうと思い、チケットを「アディスアベバ→ニコシア→テルアビブ→アテネ→ロンドン」に変えてもらった。この方法だと「ニコシア→テルアビブ」間の割り増し料金を払えばいいとのことで、それはニコシアに着いてから払った方が安くなるといわれた。

画家の水野先生

 BOACのニコシア経由ロンドン行の便は週1便で出たばかり。1週間、待たなくてはならなかった。その間は1968年のときにもお世話になった日本人画家の水野先生のお宅に泊めてもらった。

 水野先生にはいろいろな話を聞かせてもらった。先生は戦時中、中国戦線で戦った。次々と病気で倒れていった戦友たち、戦闘で倒れていった戦友たちの話や水も食料も尽き、それでもつづけられた飲まず食わずの行軍の話などは、戦争のあまりのむごたらしさに胸が痛くなるほどだった。

「国家権力という抗しがたい巨大な力によって、人々は戦場へ、戦場へとかりたてられていったのだよ」という先生の言葉が強く印象に残った。

 水野先生はヨーロッパから起こった現代の物質文明に強い疑問を抱いていた。ヨーロッパを旅したときの体験が、より強くそう思わせたようだ。

「(ヨーロッパの)石造りの町々の冷たさは骨身にしみたよ」という。

「これからの世界において、今のような物質中心の文化はきっと行き詰まってしまう。それを解決できるのは東洋の精神文化しかない」と先生は熱い口調でそう話すのだった。

 水野先生のところでは何冊もの本を読ませてもらった。三島由紀夫の「金閣寺」や陳舜臣の「阿片戦争」全3巻も読破した。それが積もり積もった旅の疲れをどれだけ癒してくれたことか。

風雲急を告げるエチオピア

 エチオピアの情勢は急速に悪化していった。ゼネストが発生し、事態はより深刻になった。前年の第4次中東戦争後のオイルショックが、このゼネストの引き金になっている。オイルショックの荒波をまともにくらい、エチオピアの物価はいっぺんに上がった。1リットル50セント(約70円)だったガソリンが75セントに値上げされ、怒ったタクシー運転手たちがストライキに突入した。それをきっかけにして軍や警察がストライキに突入し、さらには大規模なゼネストへと発展した。労働者は1日3ドル(約420円)の最低賃金を要求し、内閣は総辞職に追い込まれ、ハイレセラシェ皇帝の権力も完全に失墜していた。

 だが、町行く人たちの表情はいつもとまったく変わらないように見えた。「暴動が起きようが、クーデターが起きようが、皇帝が倒されようが、そんなことはしったことではない。それよりも、毎日、生きていく方がよっぽど切実なんだ」

 人々の表情からはそんな無言の言葉を聞くような思いがした。

 そんな影響をモロに受け、アディスアベバからキプロスのニコシアに飛ぶ前日になっても、BOACでは「明日の飛行機が飛べるかどうかはわからない。そのときになってみないとわからない」というようないい方をした。

地中海のキプロス島へ

 キプロス島のニコシアに向かう当日は6時に起床し、7時には水野先生に別れを告げ、アディスアベバ国際空港に向かって歩き始めた。空港までは6キロほど。プラプラ歩き、9時前には着いた。町は平静だったのに、空港は軍や警察がものものしい警備をしている。どこの国でもそうだが、いったん事が起きると、軍とか警察はすぐに重要な拠点を押さえようとする。

 すごくラッキーなことに、BOAC機のニコシア経由ロンドン行きは予定通りに飛ぶという。しかし出発時間は1時間以上も遅れ、飛行機がアディスアベバの空港を飛び立ったのは12時過ぎだった。

 飛行機はエチオピアの山岳地帯の上空を飛ぶ。幾重にも重なり合った山岳地帯が眼下に広がっている。やがて山々はスーッと姿を消し、風景はスーダンの平原地帯に変わった。北に行くにつれ、まるでホウキで掃いたかのように、あっというまに緑が消えていく。ハルツームの上空を通過。白ナイルと青ナイルの合流点がよく見える。ナイルの両側には細長い帯のような緑の線がつづく。その両側は一面の砂漠だ。

 やがてナイル川の大人造湖、ナセル湖が見えてくる。飛行機はエジプトの首都カイロの手前でナイル川を離れ、エジプト西部の砂漠の上空を飛ぶ。地中海に出ると、じきにキプロス島のニコシア空港に着陸した。キプロス時間で午後4時。エチオピアとは1時間の時差があるので、アディスアベバからニコシアまでの飛行時間は5時間だった。

キプロスからイスラエルへ

 ギリシャ人とトルコ人の対立するキプロス島。1571年以来トルコ領だったが、1925年にイギリスの植民地になり、1960年に独立した。ギリシャ系住民とトルコ系住民の抗争は激しさを増し、ひとつの島の中に国境線があるかのような国なのだ。

 空港からニコシアの町までは歩いた。その間は4キロほど。夜のニコシアを歩き、食堂ではカバブーを食べた。羊肉を焼いたカバブーの味が「ここはもうアフリカではない」ということを強烈に実感させた。

 ひと晩、町中で野宿したあと、翌日はBOACのオフィスに行き、「ニコシア→テルアビブ」間の割り増し料金を払った。ニコシアでならアディスアベバよりもはるかに安くなるといわれたが、それでも80USドル(約21600円)。ぼくにとってはきわめて痛い出費となったが、どうしてもイスラエルは見ておきたかった。

 そのあとはバスで島を一周。ラルナカ、リマソル、バプホスと通ってトルコに近い海辺の町、キレニアまで行き、そしてニコシアに戻った。またしても町中での野宿だ。

 イスラエルにはキプロス航空機で向かった。19時30分発のテルアビブ行き。緊張のイスラエル行きの便ということで、空港での検査は厳重をきわめた。キリスト教の聖地巡礼をするというアメリカ人の団体客で混み合っていた。1席の空席もない、満員の乗客を乗せ、キプロス航空機は雨に濡れたニコシア空港を飛び立った。ギリシャ語のアナウンスがあり、軽食が出たと思ったら、もう飛行機は下降態勢に入っていた。

ニコシアの街
ニコシアの街
ニコシアの街
ニコシアの街
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
ニコシア郊外
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア
キレニア

イスラエルの第一歩

 飛行機の窓の外に目をやったとき、一瞬、我が目を疑った。イスラエル最大の都市、テルアビブのまばゆいばかりの夜景が目に飛び込んできたからだ。明る過ぎるぐらいの夜景を見て、イスラエルは大丈夫なのだろうかと思ってしまった。

 というのはイスラエルが占領しているゴラン高原ではイスラエル軍とシリア軍が激しい戦闘を繰り広げており、連日、新聞の一面記事になっていたからだ。イスラエルは臨戦体制に入り、当然、灯火管制を敷いているのに違いないと勝手に想像していたからだ。

 キプロス航空機がテルアビブ郊外のロッド空港に着陸してからも驚きはつづいた。入国手続きはじつに簡単なもので、荷物などまったく調べられなかった。フリーパス同然なのだ。これがほんとうに、世界中を動乱の渦に巻き込もうかという世界の火薬庫、イスラエルなのだろうかと信じられないくらいだった。

 驚きはさらにつづいた。テルアビブの地図でももらおうかと、空港内のツーリストインフォメーションに行った。すると受付の若い女性はニコッと笑って「いい話があるんですよ」というのだ。「ホテルにタダで泊まれて、食事もタダ。ね、いい話でしょ」と信じられないようなことをいう。

 まさか国の玄関口のツーリストインフォメーションで旅行者をだますはずがない。「でも、待てよ」と思った。ツーリストインフォメーションといったら、たいていは貧乏旅行者には冷たい。「それなのに、どうして彼女はこんなにも愛想よく、親切にしてくれるのだろう」と不思議でならなかった。

「ほんとうにタダでホテルに泊まれるんですか」

「ほんとうよ。だけど、そのかわりにキブツで働くのよ」

 それで納得できた。ぼくは彼女に即座に「OK!」の返事をした。イスラエルに来たからにはキブツ(集団農場)を見てみたかったし、短期間、どこかのキブツで体験労働もしてみたいと思っていたからだ。それだけに彼女の申し出はまさに一石二鳥といったところだ。

 ツーリストインフォメーションの美人受付嬢は「テルアビブに着いたら、61番のバスに乗りなさい」といって、ホテルの住所と簡単な地図を書いてくれた。彼女はほかに待っている人たちがいるのに、「キブツはきっと楽しいと思うわ。食事は食べ放題だし、洋服だって、靴だって、みんなタダ。お金も少しだけどくれるのよ」と、まるでずっと以前からの知り合いのような暖かさでキブツの話をしてくれるのだった。

 ツーリストインフォメーションが済むと、空港内の食堂に行った。そこでも驚きの体験をした。メニューはヘブライ語のみ。アラビア語と同じで右から左へと横書きされている。全く読めないが、じっと見ていると、なんとはなしにヘブライ文字がカタカナに見えてくる。

 読めないメニューを見ていても仕方ないので、ウエイトレスにサンドイッチを頼んだ。すると別なウエイトレスがソフトクリームを持ってきた。彼女に「サンドイッチを頼んだのだけど」というと、すぐさまサンドイッチを持ってきてくれ、さらに「よかったら、このソフトクリームも食べて下さい」といって置いていってくれた。

 これがイスラエルでの第一歩。驚きの連続だったし、うれしくなることの連続でもあった。「イスラエルって、きっとおもしろい国に違いない」と思わせる何かがあった。

30年目の「六大陸周遊記」[034]

アフリカ東部編 10 ナイロビ[ケニア] → モヤレ[エチオピア]

ケニア山の雪

 ナイロビを出発した最初の日のヒッチハイクはすごく楽で、シカ、フォートフォール、ニエリと通り、ケニア山北麓のナニュキに着いた。この町の入口では赤道を越え、南半球から北半球に入った。

 前年の1973年の8月にインドネシアのスマトラ島で赤道を越えて北半球から南半球に入ったが、それ以来の、半年ぶりの北半球ということになる。ナニュキに着いたのは夕方で、西日を浴びたケニア山の雪が赤々と染まっていた。目に残る光景だ。

 ケニア山は標高5202メートル。アフリカではキリマンジャロに次ぐ高峰で、正真正銘の赤道直下の雪山だ。赤道直下の雪山といえばアフリカにはもうひとつ、標高5119メートルのルウェンゾリーがある。

 ナニュキからはさらに夜のヒッチハイクをつづけ、その日のうちにケニア山北麓のティマウまで行った。ティマウの夜は高度のせいで寒かった…。警察でひと晩、泊めてもらったが、寒さに震えながら眠った。

 翌朝は快晴。昨夜以上の冷え込みで、おもわずギューッと首を縮めた。日本の冬枯れを思わせるような乾期のサバンナの向こうには、なだらかな裾野を引いてケニア山が聳えていた。朝日を浴びたケニア山の雪は神々しいほどにきれいだった。この寒さといい、ケニア山の雪といい、赤道のすぐ近くにいるとは思えなかった。赤道は寒いのだ。

ナイロビからシカへの道
ナイロビからシカへの道
ナニュキのメインストリート
ナニュキのメインストリート
ナニュキの道標
ナニュキの道標
ナニュキからケニア山を望む
ナニュキからケニア山を望む
ナニュキからケニア山を望む
ナニュキからケニア山を望む
ティマウから見るケニア山
ティマウから見るケニア山
ティマウから見るケニア山
ティマウから見るケニア山

灼熱地獄のヒッチッハイク

 ケニア山麓を下り、荒涼とした半砂漠地帯が広がるケニア北部への入口の町、イシオロまでは楽にヒッチハイクできた。ところがそこから先は大変だ。

 イシオロは小さな町。その町外れで道は2本に分かれる。2本ともエチオピア国境のモヤレに通じているが、右に曲がっていく道は旧道でワジールを経由し、まっすぐ行く道は新道でマルサビットを経由する。

 イシオロに着くと町中の市場でバナナ、トウモロコシ、マンゴーを食べ、そして町外れの分岐点に立って新道を行く車を待った。交通量はきわめて少ない。時間がたつにつれて強烈な日差しを浴びる。頭がクラクラしてくるほどだ。

 午前中はまったく乗れず、午後になってサンブル・ゲームリザーブ(動物保護地域)の入口にあたるアーチャーズ・ポストまで行くランドローバーに乗せてもらった。灼熱地獄から救われた。車にはソマリア人の家族が乗っていた。水を飲ませてもらい、ホッとひと息つくことができた。アーチャーズポストに着くと、食堂に飛び込み、たてつづけに冷えたコカコーラを2本、3本と飲んだ。そのあとで遅い昼食を食べた。

ケニア北部のサバンナ地帯
ケニア北部のサバンナ地帯
イシオロの町並みが見えてくる
イシオロの町並みが見えてくる
イシオロの郊外で出会った子供たち
イシオロの郊外で出会った子供たち

道を横切るサイに感動!

 アーチャーズポストでは、同じくエチオピアに向かう2人の黒人のアメリカ人と出会った。すっかり意気投合し、一緒に行くことにした。1人はカリフォルニア、もう1人はミシシッピーの出身で、ともにトルコ駐留の軍人。休暇を利用し、ヒッチハイクでアフリカをまわっていた。

 日が傾きはじめたころ、マルサビットまで行くトラックが止まり、乗せてもらえた。荷台に満載した積み荷のてっぺんに座り、広大なケニア北部の平原を一望。平原には所々でポコッ、ポコッと岩山が聳えている。ここでは野生動物を多く見た。シマウマやカモシカの類はたくさんいた。感動したのは1頭のサイが悠然と道を横切っていったときだ。

 イシオロからマルサビットまでは280キロ。道は舗装こそされていなかったが、路面はよく整備されていた。トラックは夜通し走り、真夜中にマルサビットに着いた。町中のガソリンスタンドの片隅で2人のアメリカ人と一緒に野宿した。

エチオピア国境に到着!

 マルサビットからエチオピア国境の町、モヤレまではより難しいヒッチハイクが予想された。そこでちょうどうまい具合にバスがあるというので、2人のアメリカ人と一緒に、そのバスに乗ることにした。マルサビットからモヤレまでは300キロ。バス代は20シル(約800円)。ほとんど待たずに乗れたそのバスには、我々のほかにイギリス人の男女、オーストラリア人、ニュージーランド人の旅行者が乗っていた。

 モヤレに着いたのは夕方。我々、旅行者の一団は一緒になって食堂に入り、「無事にエチオピア国境までやってきた!」ということでビールで乾杯し、そのあとで食事にした。その夜はケニア側のイミグレーション近くの無料のキャンプ場で泊まった。そこでも、ひきつづいての乾杯! 人種や国籍が違っても、同じ旅人同士ということで、こうしてすぐに仲良くなれるのが、我々の大きな強みだ。

マルサビットから乗ったバス
マルサビットから乗ったバス
バスの車中
バスの車中

アフリカの6年間の変化

 キャンプ場での宴会が終わるとシュラフにもぐり込んだが、ぼくはモヤレに着いて胸がいっぱいになった。1968年の「アフリカ大陸縦断」では、ケニアのナイロビからエチオピアのアディスアベバに行くまでが大変だったからだ。

 イシオロから先のケニア北部には、特別な許可証がないと入れなかったし、エチオピア側はモヤレからの陸路での入国を認めていなかった。ケニア、エチオピア内でのソマリア人のゲリラ活動が活発で、それによる治安の悪化が原因だった。

 ソマリア人は旧イタリア領と旧イギリス領のソマリーランドが一緒になって独立したソマリア以外にも、フランス領ソマリーランドとエチオピア南東部のオガデン地区、ケニア北東部に住んでいる。彼らの民族意識はきわめて高く、「大ソマリア国」をつくろうとケニア、エチオピア内でゲリラ戦をつづけていた。そのためケニアからエチオピアへ、陸路では入れなかった。

 で、どうしたかというと、ケニア北部のインド洋岸の島、ラム島からソマリア南部のキスマユ港に船で渡り、首都のモガデシオへ。そこからは灼熱の砂漠を2000キロ以上も走ってソマリアを横断し、フランス領ソマリーランドのジブチに出た。そしてジブチからエチオピアの高地に登り、アディスアベバまで行ったのだ。
 それから6年。ソマリア問題は解決された訳ではないが、表面上は小康状態を保っていて、こうして国境のモヤレまでやって来ることができた。モヤレでは過ぎ去っていった6年間のアフリカの変化を見る思いがした。

エチオピア国境近くの風景
エチオピア国境近くの風景
国境のモヤレ

暴動が起きた…

 翌日は朝一番でケニア側で出国手続きをし、エチオピア側に入る。そこではつい2、3日前に大規模な暴動が起きたことを知らされた。エチオピア北部のエリトリアで起きた暴動は首都のアディスアベバに飛び火し、さらに軍部が反乱を起こしたという。

 まったく収拾のつかないような状態に陥っているとのことで、町のあちこちで銃撃戦がつづき、相当数の死者が出ているという。イミグレーションの役人は事態が落ちつくまで、何日か、モヤレに滞在したほうがいいという。

 アディスアベバからバスでやってきたヨーロッパ人旅行者は「バスは武装した軍人や警官に護衛されていた。途中で何度か発砲したけれど、それが銃撃戦だったのか、威嚇したのかはわからない」といった。モヤレからアディスアベバまでの間も相当、混乱しているようだ。

 その暴動が連綿とつづいたハイレセラシェ皇帝をいだくエチオピア帝国の消滅にまで発展するとは、そのときはまだ考えが及ばなかった。

エチオピアの長い歴史

 エチオピア人(主にアムハラ族の意味で)というのは、話していると、よく「我々はアフリカ人とは違う」という。色は黒くても、白人種の血を引くエチオピア人なので、彼らのいうことも理解できる。しかし、「我々はアフリカ人とは違う」といういい方には、アフリカ人に対する差別感が多分にあった。

 エチオピア人のそのような意識、自分たちはアフリカ人よりも上だという意識を持たせる理由のひとつは、エチオピア独自の歴史にある。ソロモン王とシバの女王の間に生まれた伝説の始祖、メネリック1世によって3000年前には国が出来ていたというのが彼らの誇りなのだ。

 4000メートル級の山々がいくつも聳えるアビシニア高原は天然の障壁になり、外部からの進入を遮断し、長い間、エチオピアの独立は保たれてきた。それだけに皇帝のハイレセラシェは危ないという話は何度か聞いたことはあるが、まさか、ほんとうに王政が倒されるとは思いもしなかった。

アフリカを大きく2分する国境線

 国境の役人たちには「(首都の)アディスアベバに向かうのは、今はすごく危険だ」と強くいわれたが、ぼくたち外国人旅行者たちは「どうせ、たいしたことはないだろう」とたかをくくり、全員がアディスアベバに向かうことにした。

 ほかの旅行者たちは金を払って車に乗せてもらい、アディスアベバに向かっていった。ぼくはヒッチハイクするつもりなので彼らと別れ、エチオピア側のモヤレの町を歩いた。国境を境にしてケニア側のモヤレとエチオピア側のモヤレでは、ずいぶんと変わる。

 エチオピア側に入ると、ラクダが多く見られるようになり、家の造りや人々の服装も違ってくる。食堂に入り、エチオピアの主食の酸味のあるインジェラを食べると、「あー、エチオピアに入ったんだ!」と実感する。インジェラは雑穀のテフからつくる大きな平べったいパンで、ケニア以南にはないものだ。この国境線を境に南はトウモロコシや雑穀の粉を煮固めたものが主食になり、北は雑穀粉や小麦粉を焼固めたものが主食になる。ケニア・エチオピアの国境線はアフリカを大きく2分する線。その線を越え、「煮る」世界から「焼く」世界に入ったのだ。

30年目の「六大陸周遊記」[033]

アフリカ東部編 9 ムソマ[タンザニア] → ナイロビ[ケニア]

渋谷さんの旅の話

 ムソマで得た情報では明後日にセレンゲティー・ナショナルパークを通ってアルーシャまで行くバスが出るという。ぼくたちはそのバスに乗ってアルーシャまで行くことにし、その夜はシェルのガソリンスタンドの片隅にシュラフを敷かせてもらって寝た。星空を見上げながら渋谷さんの旅の話を聞いた。

「自分を確かめたい」、「自分を試してみたい」、「自分を高めていきたい」ということで旅に出た。アフリカの旅ならば、それができると思ったという。

 キゴマからタボラへの夜汽車の中で、渋谷さんは一番大事なバッグを盗まれた。そのとき、「えらいなあ」と思ったのは、渋谷さんがほとんど騒がなかったことだ。そのことについて聞いてみると、サハラでの出来事を話してくれた。

 そのときは3人でトラックに乗せてもらってサハラを縦断していたが、そのうちの1人がカメラをなくした。トラックが止まって野宿しているときのことだったという。「きっと誰かが盗んだのだ」とわめきちらしてトラック中を探したが、カメラは出てこなかった。その姿があまりにも醜くかったので、もし自分が同じような目にあったら、絶対にそのような態度をとるのはやめようと心に誓ったのだという。

セレンゲティーでの争い

 次の日は1日、ムソマの町をプラプラ歩いた。市場を歩きまわり、食堂で昼食を食べたあとは、ビクトリア湖の湖畔で昼寝した。午後も町を歩き、食堂で夕食を食べたあとは、前夜と同じ、シェルのガソリンスタンの片隅で寝かせてもらった。

 一夜明けると、アルーシャへのバスの出る日になる。乗り遅れないようにと、まだ暗いうちにソコニ(市場)前のバス乗り場まで行く。ところがアルーシャ行きのバスはユナイテッド・バスサービスの事務所前から出るとのことで、あわててバス会社の事務所まで行った。

 バスには一番前の座席に座れた。まわりの景色がよく見える特等席だ。午前7時、発車。ムソマからアルーシャまでは33シル30セント。その間ではセレンゲティー・ナショナルパークを通っていくのだ。道はあまりよくない。交通量も少ない。キリンやガゼル、ワイルドビーストなどの野生動物が見えてくると、セレンゲティー・ナショナルパークは近い。やがてイコマゲートに到着した。

 そこでは係官に外国人は20シル、払うようにといわれた。冗談じゃない。ぼくたちは20シルは払えないと言い返した。ぼくたちはなにもセレンゲティーにやってきたのではない、アルーシャに行くのだと説明した。ゲートの係官にそういっても聞き入れられず、規則だからの一点張りだ。どうしても20シル払わないのなら、ここでバスを下りるようにといわれた。だが、ぼくたちは20シルは払えないし、バスを下りることもしないと言い返した。

 いいかげんに腹が立ってきた。そのうち別な係官たちもやってきて、彼らと大声を張り上げてやり合った。「絶対に20シルは払わないし、バスを下りるつもりはない」と繰り返していってやった。ゲートのボス格の男は部下に何かを命じた。すると彼は事務所からライフルを持ってきた。彼はボスにいわれるままにライフルを構え、ぼくにねらいを定める。が、ガタガタ震えているのがよくわかる。ぼくはライフルを突きつけられてよけいに頭ににきて、「やれるものならやってみろよ!」ぐらいのことをいってやった。バスの運転手や大勢の乗客たちは、ただじっとなりゆきを見守っている。

 東アフリカのナショナル・パークやゲーム・リザーブ内を幹線道路が通っている所は少なくない。たとえばツッボ・ナショナルパーク内の「ナイロビ〜モンバサ」間の道や、アンボセリ・ゲームリザーブ内の「ナイロビ〜アルーシャ」間の道、ミクミ・ナショナルパーク内の「ダルエスサラーム〜ムベア」間の道、クイーンエリザベス・ナショナルパーク内の「フォートポータル〜ムバララ」間の道などだ。そこではナショナルパークの入園料はとられらない。このセレンゲティー・ナショナルパークにしても、その中を通っている道は「ムソマ〜アルーシャ」間の唯一の幹線道路で路線バスのルートにもなっている。

 ライフルを構えた係官とのにらみ合いはつづいた。その短い沈黙の時間のおかげで、すこしは冷静に考えられた。ここでナショナルパークの役人たちといい争っても、ぼくたちに勝ち目はない。彼らの上司を待って話し合ったとしても2、3日はかかるだろう。その間の食料はないし、彼らが出してくれるとも思えなかった。さらにバスの乗客たちをこれ以上、待たせたくないという気持ちが強かった。

 ぼくたちの負けだ。ゲートの窓口で20シル払い、チケットをもらった。1時間あまりのトラブルのあと、バスは何事もなかったかのように走り出した。運転手も乗客のみなさんも、ぼくたちに対して不快そうな目を向けることはなかった。それよりも、よくぞ役人たちに立ち向かったという表情で拍手してくれる人もいた。

ムソマからバスでセレンゲティーへ。牛の群れがバスの前を行く
ムソマからバスでセレンゲティーへ。牛の群れがバスの前を行く
セレンゲティー・ナショナルパークのイコマゲート
セレンゲティー・ナショナルパークのイコマゲート

ンゴロンゴロのクリエーター

 セレンゲティー・ナショナルパークを抜け出ると、リーキー博士らが発見した原生人類の祖先といわれるジンジャントロプスの化石で有名なオルドワイ渓谷の近くを通り、大地溝帯(グレート・リフト・バレー)内にあるンゴロンゴロ・クリエーターに近づく。またしてもバスはゲートで止まった。「ここでも20シル、取られるのか…」と気分が沈んだが、そこでは「ンゴロンゴロではひと晩、泊まりますか」と聞かれ、「ノー」と答えると、20シル取られないですんだ。

 ゲートを過ぎると、正面に大きな山が見えてきた。バスは山道を登っていく。登りつめると、眼下にはぱっくりと口をあけた巨大な火口が見えた。ンゴロンゴロ・クリエーターだ。ンゴロンゴロのクリエーター内にはさまざまな野生動物が生息している。すばらしい眺めで、ここは東アフリカのパック旅行の目玉的存在になっている。

 マニャラ湖の北側を通り、アルーシャとドドマを結ぶ幹線道路に合流し、終点のアルーシャには夜の9時過ぎに着いた。ムソマからアルーシャのルートというのは、変化に富み、東アフリカならではの雄大な風景をあちこちで見ることができる。20シル取られても仕方ないか…。

 アルーシャに着くと、まだあいている食堂で遅い夕食にする。店の主人はザイールのルブンバシから来た人で、ぼくがルブンバシを通ってきたというと喜んでくれ、鍋の底に残っていたものを全部、タダで食べさせてくれた。

ンゴロンゴロ・クリエーター
ンゴロンゴロ・クリエーター

ナイロビに戻ってきた…

 翌日、ぼくたちは別れた。ぼくはヒッチハイクでナイロビへ、渋谷さんはバスでナイロビへ、伊藤さんはモシからケニアに入り、モンバサに向かう。ここまでずっと一緒に旅してきたので、いざ別れるとなると、後髪を引かれるような思いがした。

 アルーシャからナイロビまでのヒッチハイクは楽なもので、ほとんど待つこともなく、国境を越え、昼過ぎにはナイロビに着いた。ナイロビ郊外の佐藤さんの家を目指して歩く。裸足なので1時間ほど歩いて佐藤さんのお宅に着いたときは、足の裏がヒリヒリと痛んだ。こうして佐藤さんのお宅を拠点にしての2回目のヒッチハイクの旅から戻ってきた。40日あまりの間に、ケニア→タンザニア→ザイール→タンザニア→ケニアと8300キロをまわり、その間では全部で67台の車に乗せてもらった。

 着ているものを全部、洗濯させてもらった。翌日は1日、ぐっすりと眠り、休ませてもらった。そのおかげで、どれだけ体の疲れがとれたかしれない。

道を横切るキリン。「アルーシャ→ナイロビ」間で
道を横切るキリン。「アルーシャ→ナイロビ」間で
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!

3度目のヒッチハイク行へ

 佐藤さんのお宅を拠点にさせてもらっての3度目のヒッチハイク行のルートは頭の中では固まっていたが、実際に地図を見ながら、そのルートを追ってみる。

 イスラエルをどうしてもまわってみたかった。

 それともうひとつの大きな目的は白ナイルの船旅だ。それをかなえるために、スーダンの首都ハルツームから南下し、白ナイル水運の起点のコスティに行き、そこからウガンダ国境に近いジュバまで船でさか上ろうと考えた。

 こうして次のような計画をつくり上げた。ケニアから陸路でエチオピアに入り、首都のアディスアベバから飛行機でキプロス経由でイスラエルのテルアビブに飛び、イスラエル国内をまわる。飛行機でギリシャのアテネへ。そこからトルコ、シリア、レバノンと地中海沿岸の国々をまわり、レバノンのベイルートからエジプトのカイロに飛ぶ。カイロからはナイル川沿いに南下し、スーダンからウガンダに入り、首都カンパラからナイロビに戻るというもの。

 佐藤さん、奥さん、よしこちゃん、りょうこちゃんに別れを告げ、佐藤さんにもらった靴をはいての出発だ。さー、行くゾ!

30年目の「六大陸周遊記」[032]

アフリカ東部編 8 カレミ[ザイール] → ムソマ[タンザニア]

タンガニーカ湖の船旅

 ザイールのカレミからタンザニアのキゴマまでのタンガニーカ湖の船は1ザイール7マクタ。日本円だと600円ほどだった。船には乗客のほかに荷物も積まれたが、その中には銅も見られた。キゴマから鉄道でダルエスサラームまで送られ、海外へと輸出される。

 ぼくと伊藤さんは乗船すると甲板にシュラフを敷き、自分たちの場所を確保した。そのあとで世界地図を広げ、ここにも行きたい、あそこにも行きたいと夢を広げた。

 出港間際になって、もう1人の日本人が乗り込んできた。東京の渋谷さん。彼はキサンガニから飛行機でカレミに飛び、幸運にもギリギリでこの船に間に合った。日本人旅行者のパワー爆発といったところで、外国人の乗客は我々、日本人だけだった。渋谷さんは1等船室。個室で4つのベッドがある。別に文句もいわれないだろうと、ぼくと伊藤さんは渋谷さんの部屋にもぐりこませてもらった。

 ジーゼルエンジンがうなりを上げ、「ウルンディ号」はカレミ港を出港した。1等船室の窓からタンガニーカ湖を眺めた。

 渋谷さんはヨーロッパからアルジェリアのアルジェに渡り、サハラ砂漠を越え、ナイジェリア→カメルーン→中央アフリカと通ってザイールに入った。中央アフリカの首都バンギからザイールのカレミまでが一番、きついルートだったという。渋谷さんの行き先はケニアのナイロビ。そこから日本に帰るという。3人とも目的地がナイロビなので一緒に行くことにした。

 翌朝は夜明けとともに目をさます。すぐさまタンガニーカ湖を見る。やがて朝日が昇り、湖面はキラキラと黄金色に輝く。タンザニア側にはゆるやかな丘陵がつづいている。反対のザイール側は水平線。陸地の影はなかった。

 10時、キゴマ港に到着。カレミから17時間の船旅だ。キゴマ港には大勢の乗客を乗せたCFLの「センドゥウェ号」が停泊していた。ブルンジのブジュンブラを出たあと、ザイールのカルンドゥに寄ってキゴマに来たもので、これからザイールのカレミに向かうという。

 タンザニアへの入国。税関ではけっこう厳しく荷物をチェックされたが、たいしたトラブルもなく、タンザニアの地を踏みしめた。

タンガニーカ湖を行く
タンガニーカ湖を行く
タンガニーカ湖を行く
タンガニーカ湖を行く
キゴマ港で見たタンガニーカ湖周航の船、「センドゥウェ」号
キゴマ港で見たタンガニーカ湖周航の船、「センドゥウェ」号

やられた…

 キゴマの町を歩きまわり、インド人の商店でザイールのザイールをタンザニアのシリングに両替してもらうと市場に行った。そこでトウモロコシの粉を練ったウガリと肉汁の食事。これで1シリング(約40円)だ。さらにバナナ5本と油で上げたタンガニーカ湖でとれた魚を買って食べた。

 腹が満たされたところでキゴマ駅に行く。タンザニアを横断してインド洋岸のダルエスサラームまで鉄道が通じている。キゴマは終着駅なのだ。

 タボラまでの切符を買った。22シル(シリング)50セント。ぼくたちはタボラで乗り換え、ビクトリア湖畔の町、ムワンザに向かうつもりだった。「キゴマ→タボラ」間の列車は1日1便。駅のホームは広々としている。

 18時45分発のダルエスサラーム行きの列車に乗り込んだ。座席に座り、まだまだ時間があると、のんきにかまえていたら、なんと定刻よりも1時間前にジーゼルカーは走り出した。びっくりしたが、何ということはない、ザイールとタンザニアの間には1時間の時差があった。つまり列車は定刻通りに出発したのだ。

 キゴマあたりの夕方の6時45分というと、まだ薄明るかった。列車の窓から顔をのぞかせると、遠ざかっていくタンガニーカ湖の輝きが見えた。

 外が暗くなった。景色が見えなくなり、退屈になると、ぼくたちはトランプをした。小額の賭トランプ。小額でも賭けると熱中するものだ。ぼくの隣には渋谷さんが座った。彼はバッグを足元に置いたが、ちょっぴり不思議そうな顔をしてぼくに、「今、バッグを蹴った?」と聞く。バッグが動いたような気がしたという。ぼくは「いや、べつに」と答えておいた。そんなささいな出来事はすぐに忘れ、我々はトランプに熱中した。

 車内の乗客は多かったが、それほどの混み方ではなく、デッキのそばに数人、通路に数人、座席に座れない人がいる程度だった。

 列車がカリウアという小さな駅に着いたとき、渋谷さんは「あ、バッグがない」と鋭い声を上げた。おまけにぼくの脱いでいた靴もなくなっていた。シートの下はがらんどうで、ぼくたちの座席の後ろはデッキだ。

「やられた…」
 と思ったが、もうあとの祭りだ。悔やまれてならなかったのは、渋谷さんが「バッグを蹴らなかった?」とぼくに聞いたとき。あのとき、もっと注意しておけばよかった…。そのバッグの中にはカメラと写しおわったフィルム、さらには旅日記が入っていたという。列車にはレールウエー・ポリスが乗っていた。寝ているのをたたき起こし、事情を話した。背の高い太った警官は親身になって渋谷さんのバッグを探してくれた。ぼくたちの座席のまわりにいた人たちに聞いてまわった。しかし盗んだ人を誰も見ていなかった。

 次に警官と一緒になって全車両を見てまわった。警官は不審と思える人に対しては荷物検査までしたが、渋谷さんのバッグは出てこなかった。きっと犯人は列車がカウリア駅に着いたとき、列車を飛び下りたのだろう。

 列車が次の駅に到着すると、警官は駅舎からカウリア駅に電話して、すぐにあたりを捜索するようにと命令した。列車が動きだすと、警官は渋谷さんからバッグを盗まれたいきさつを詳しく聞き、それを調書に書いてまとめた。

 翌朝、5時45分にタボラ駅に着いた。警官に連れられて駅舎に行き、カウリア駅に連絡をとったが、犯人らしき人物も渋谷さんのバッグも発見できなかったという。渋谷さんが気の毒でならなかったが、どうしようもない。また渋谷さんも諦めきったような表情でさばさばしていた。

タボラ駅のプラットホーム
タボラ駅のプラットホーム

日本青年協力隊の望月さん

 朝の8時ごろまでタボラ駅の片隅でごろ寝したあと、朝食にする。駅構内の売店でチャイ(お茶)を飲みながらサモサを食べた。タボラ駅を出ると、町をブラブラ歩いた。ぼくたちはビクトリア湖畔の町、ムワンザに列車で向かうことにしたが、出発時間は夕方の6時。それまでタボラで時間をつぶさなくてはならなかった。

 ぼくは列車の中で靴を盗まれ、裸足だったが、このままナイロビまで裸足で行くことにした。よけいな出費は1円でもしたくなかった。

 タボラは南緯5度。赤道に近いだけあって頭上の太陽はギラギラと照りつける。舗装路は焼けただれ、足の裏があっというまにヒリヒリと痛くなる。みんなでソコニ(市場)に行った。タボラ周辺は乾燥しているからなのだろう、市場にでまわっている農作物は少なく、また値段も高かった。

 ソコニを出、町の中心部を歩いていると、カーボーイハットのような帽子をかぶり、ホンダのオートバイに乗った日本人がぼくたちの前で止まった。日本青年海外協力隊の望月さん。彼はよかったら家に来ないかといってくれた。

 ムワンザ行きの列車が出るまで、まだかなりの時間があったので、ぼくたちは望月さんの家に行くことにした。望月さんはオートバイで帰り、しばらくすると車でぼくたちを迎えにきてくれた。ぼくたちは望月さんにいわれるままに、予定を変更した。ひと晩、やっかいになり、翌日の列車でムワンザに向かうことにした。

 夕食はぼくたちがつくった。ご飯を炊き、肉とジャガイモとキャベツを煮込み、中国製の醤油で味つけした。さらにキャベツを塩もみし、ピリピリ(唐辛子)を混ぜた。ぼくにとっては1週間ぶりの食事らしい食事だ。夜は遅くまでトウモロコシからつくったコニャギという酒をいただきながら話しつづけた。

 翌朝はタボラから40キロほど離れた農場に連れていってもらった。そこではトウモロコシやサツマイモ、キャッサバなどが栽培されていた。望月さんは農業技術者でいろいろとアドバイスをしていた。

 その農場はウガンダからの難民を収容していた。タンザニアはウガンダの前大統領のオボテを支持していたが、農場で働いているウガンダ人を近い将来、本国に送り返し、アミン政権を倒すのがタンザニアのねらいだという。

 夕方の6時、ぼくたちは望月さんの見送りを受け、ムワンザ行きの列車に乗った。蒸気機関車だ。夜汽車はビクトリア湖を目指して走りつづけた。翌朝7時にビクトリア湖畔の町、ムワンザに到着した。

望月さんと一緒にタボラの農場に行く
望月さんと一緒にタボラの農場に行く
望月さんと一緒にタボラの農場に行く
望月さんと一緒にタボラの農場に行く

ビクトリア湖の船旅

 ビクトリア湖はタンザニア、ケニア、ウガンダの3国にまたがる大きな湖。面積は6万9000平方キロでカスピ海、スペリオル湖に次いで世界第3位。九州と四国がすっぽりと入ってしまう。そのビクトリア湖を周航している船がある。タンザニアのブコバ、ムワンザ、ムソマ、ケニアのキスム、ウガンダのポートベル、ブカカタを結んで湖を一周している。

 ムワンザ駅に着いたぼくたちは、すぐさまビクトリア湖のムワンザ港に急いだ。ムワンザからムソマまでビクトリア湖の船で行くことにしたからだ。ムワンザ→ムソマ間は道路もあるが、アフリカ最大の湖を船で渡ってみたかったのだ。

 タンガニーカ湖のカレミの例があるので、息せき切って港に急いだが、船は翌日の午前中に出るという。それを聞いて拍子抜けしたが、それではと、ビクトリア湖の湖岸を歩いた。あちこちに大岩が見られるきれいな景色だった。

 そのあとで町をぶらついた。目抜き通りの商店は大半がインド人の店。インド人の経済力を見せつける光景だ。ソコニ(市場)で食事し、港に戻り、1等の待合室で昼寝した。ありがたいことに待合室を自由に使ってもいいよといってくれたのだ。

 2時間以上も、たっぷりと昼寝した。夕方、町に出て食事し、港に戻ると、1等の待合室で早々と寝た。翌朝、ソコニでウガリと汁の朝食を食べ、船内用のバナナを買って港に戻った。8時過ぎにはムソマに向かう「ビクトリア号」がブコバからやってきた。真っ白な船体。9時過ぎに3等の切符を買って乗船。ムソマまでは200キロほどだが、1人9シル30セント、日本円で400円ほどだった。

 10時過ぎに出港。ムワンザ港を離れ、「ビクトリア号」はビクトリア湖を進んでいく。とにかく大きな湖だ。まるで海を行くよう。日本の湖とは桁違いの大きさで、琵琶湖のちょうど100倍の大きさになる。

 甲板で上半身裸になり、日光浴。見下ろす湖の色は薄い緑色をしていた。「ビクトリア号」はビクトリア湖に浮かぶ島の中では最大のウケレウェ島のわきを通過していく。

 1日中、甲板で日光浴したので、日に焼けた肌がさらに焼けた。日差しの強さは強烈。空はきれいに晴れ渡っていた。夕日が見事だった。大きな太陽がビクトリア湖に浮かぶ島影に落ち、夕日を受けて、小さく波立つ湖面は紅に染まった。

「ビクトリア号」がムソマ港に着いたのは薄暗くなってからのことだった。港の出口にはずらりと露店が並んでいる。湖でとれた魚を油で揚げたものを売っている。1匹5セント。3円ほどだ。それを何匹か買い、別の露店のオバチャンからふかしたイモを買い、魚をおかずにして食べた。「ビクトリア号」はすっかり暮れたムソマ港に汽笛を残し、ケニアのキスム港に向かって出港していった。

ビクトリア湖を行く
ビクトリア湖を行く
夕日に染まったビクトリア湖
夕日に染まったビクトリア湖
夕日に染まったビクトリア湖
夕日に染まったビクトリア湖

30年目の「六大陸周遊記」[031]

アフリカ東部編 7 カミナ[ザイール] → カレミ[ザイール]

出発の日の朝…

 カミナでいろいろと情報を得た結果、ぼくは陸路でのキンシャサ行きを断念することにした。カミナからムブジマイ→カナンガ→イレボ→キクウィットと通ってザイールの首都キンシャサまで行くつもりにしていたが、コルウェジからカミナまでの道の状況からみて、ヒッチハイクはきわめて難しいとは思っていた。さらにカミナで得た情報ではイレボ→キクウィット間の道は通れないという。イレボ→キンシャサ間はカサイ川→コンゴ川の船で行くのが普通のコースなので、その間の道はひどい状態だという。そこで予定を変更し、カミナからタンガニーカ湖畔のカレミまで鉄道で行くことにした。

 出発の日の朝、クリスティーンとエラノールはパンや肉、バナナ、アボガド、オレンジ、キューリ、トマト…と食料を袋にどっさり詰めて、ぼくに持たせてくれた。つかのまの2人との出会いだったが、2人との別れには何ともいえない寂しさを感じた。

「また、いつの日か、どこかで会えるといいね」といって2人と握手をかわした。2人はアメリカでの住所を書いてくれ、さらに「ここも訪ねたらいい」といって何人かの友人たちの住所も書いてくれた。

時間の観念の違い

 午前中はカミナの町を歩いた。中心街は寂れている。ほとんどの大きな店はギリシャ人の経営だったが、モブツ大統領がギリシャ人の追い出しを決めてからというもの、ギリシャ人は店をたたんで、続々とカミナを離れていった。

 14時、カミナ着の列車に間に合うように、カミナ駅に行った。駅は列車を待つ人たちでごったがえしていた。カミナから終点のカレミまでは4ザイール66マクタ。日本円だと3000円近くにもなる。

 列車は午後2時になってもカミナに着かなかった。3時になっても4時になってもまだ来ない。日本だったら、1時間も2時間も待たされたら、乗客たちは怒りだし、きっと「おい、どうしたんだ」と駅長室に怒鳴り込むような人が出るだろう。しかし、ザイールのカミナ駅で列車を待つ人たちは違っていた。イライラしたり、怒っているような人は誰もいない。

 日本とザイールでは、常識が違うし、時間の観念が違うのだ。日本の常識では列車は時刻表通りに来るもの。誰もがそう思っているし、実際に時刻表通りに列車が来る。だからたまたま遅れると腹がたつのだ。さらに日本では「時は金なり」で、日本の社会が時間との競争の上に成り立っているという事情がある。

 ところがザイールは日本とは違う。カレミ行きの列車は2、3時間ぐらいの遅れは日常茶飯事なのだ。みんなが列車は遅れるものだと思っているので、遅れたからといって誰も怒ったりはしない。「時は金なり」ではない世界なのだ。

 カレミ行きの列車を待っている日本人はぼくだけではなかった。もう1人、伊藤勇二さんという福井の青年がいた。伊藤さんはヒッチハイクで東アフリカをまわっていた。ザンビアからザイールに入り、ルブンバシからカミナまでは列車で来た。これからケニアのモンバサまで行くというので、「旅は道連れ」で一緒に行くことにした。

ザイールの列車の旅

 予定よりも3時間も遅れ、夕方の5時にカレミ行きの列車がやってきた。降りる人が多くいたので座席に座れた。ぼくたちの前にはオバチャンが2人、座った。到着がさんざん遅れたので、すぐにでも出発するのかと思っていたら、今度はなかなか出ない。出発しないまま6時になり、7時になった。外はすでに真っ暗だ。8時になって列車が動きだしたときは伊藤さんと思わず「万歳!」を叫んだ。

 車内のあちこちでにぎやかな話し声や笑い声がしていたが、夜がふけるにつれて静かになっていった。車輪の振動が子守歌になり、深い眠りに落ちていった。

 目をさましたときは、まさに朝日が地平線から昇ろうとするときで、水分を含んだようなしっとりとした赤味の強い朝日の色だった。列車が駅に止まるたびに、ものすごい数の物売りが押し寄せる。「カランガ! カランガ!」と叫びながら南京豆を売る人。ナナス(パイナップル)、モコ(キャッサバ)売りの声も聞こえる。焼きトウモロコシも売っている。それらは列車の料金が高いのとは対照的に、どれもがきわめて安い。すべてリクタ(約6円)で買えた。両手いっぱいの南京豆がリクタ、小さなパイナップルがリクタ、焼きトウモロコシがリクタ…という具合。ここではまさにザイールの(というよりもアフリカの)二重構造の社会を目の当たりにした。ザイール(約600円)の世界とリクタ(約6円)の2つの世界だ。

 炭売りもやってきた。前の座席に座っているオバチャンたちは洗面器1杯の炭を買った。それを窓を通して受け取るものだからたまらない。炭の粉が目の前で舞い、いやっというほど炭の粉が目に入った。オバチャンたちはそのあと、袋の中から肉を取り出す。猿の肉だった。それをナイフで切ると、ぼくたちにもくれた。猿肉はこのあたりでは一番のご馳走で、鶏肉のようなさっぱりとした味わいだった。

カレミに到着!

 昼前に列車はコンゴ川上流のルアラバ川を渡り、カバロ駅に着いた。ここで鉄道は2本に分かれる。1本は東へ、タンガニーカ湖畔のカレミに通じている。もう1本は北へ、カンゴロを経由し、キサンガニの南のキンドゥに通じている。

 カバロを過ぎ、ニュンズ駅を過ぎると、夕暮れが迫ってきた。平原はゆるやかな起伏のつづく丘陵になり、西の空を茜色に染めて夕日が沈む。14夜の明る月明かりの中を列車は走った。列車はタンガニーカ湖から流れ出るルクガ川に沿って走る。月明かりに照らされたルクガ川の流れがキラキラと光り輝いていた。終点のカレミに着いたのは22時。カミナから26時間の列車の旅だった。

船が出た…

 カレミ駅で降りるとぼくたちはタンガニーカ湖畔の港に急いだ。船の出港時間は23時だと聞いていた。その船というのはタンガニーカ湖対岸のタンザニアのキゴマに寄港し、タンガニーカ湖北端近くのザイールのカルンドゥまで行くもの。ぼくはその船でカルンドゥまで行き、キブ湖南端のブカブからキブ湖北端のゴマへ、そこからはビルンガ火山群の活火山、ニーラゴンゴ(3470m)の山麓を通ってウガンダに入国するつもりでいた。

 ところが息を切って港に着くと、それらしき船はない。岸壁に横づけされている軍の船に明かりが灯っているので声を掛けてみると、軍人は「夜の7時に船は出たよ」という。次の船は10日後だという。張り詰めていた糸がプッツンと切れたかのようで、急に全身の力が抜け、ガックリときた。列車の5時間の遅れが痛かった…。

 声を掛けた軍人は親切な人で、ぼくたちに船に上がれという。こうしてひと晩、ザイール海軍(湖軍?)の船上で寝かせてもらった。船上で聞くタンガニーカ湖の打ち寄せる波の音が心地よかった。

世界第7位のタンガニーカ湖

 タンガニーカ湖は南北に細長い湖で、面積は九州をすこし小さくしたほどの3万2890平方キロ。世界ではカスピ海、スペリオル湖、ビクトリア湖、アラル海、ヒューロン湖、ミシガン湖に次いで世界第7位の大きさになる。じつに深い湖で最大深度は1435メートル。これはバイカル湖に次いで世界第2位になる。膨大な量の真水をたたえるタンガニーカ湖だ。

 タンガニーカ湖はザイール、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ザンビアの5ヵ国に囲まれている。主な港としてはザイールのモバ、カレミ、カルンドゥ、ブルンジのブジュンブラ、タンザニアのキゴマ、ザンビアのムプルングがある。湖岸最大の都市はブルンジの首都のブジュンブラ。タンガニーカ湖は大地溝帯内にある湖で北にアルバート湖、エドワード湖、キブ湖と大湖がつづく。

カレミの町で

 次の日はカレミの町を何するでもなしにぶらついた。船の件であれこれ聞いてみると、3、4日もすれば、タンザニアのキゴマ行きの船が出るという。その情報を得ると、ぼくは予定を変更し、タンザニアのキゴマに渡ることにした。

 カレミの町はすっかり寂れていた。目抜き通りのヤシ並木の両側は商店街になっているが、まるで廃墟のように空家になっている。開いている店でも、店先に商品はほとんど見られない。これもギリシャ人追い出しのせいなのだろう。町の中央には破壊され、ガラスの飛び散った動かない時計台があった。カレミはタンガニーカ湖の船運を支配するCFL(CHEMINS DE FER DES GRANNDS LACS)の本拠地だが、そんな感じをいだかせないほど、中心街は寂れていた。

 伊藤さんと朝食を食べに安食堂に行く。うれしいことに米の飯がある。ご飯に肉汁をかけたものが25マクタ(約150円)。肉を抜いてもらうと15マクタになるので、それを頼んだ。それでも1食約100円。これからカレミでは何食も食べなくてはならないので、1食に15マクタも使えない。ということで15マクタのご飯を1皿だけ頼み、それを伊藤さんと半分づつに分けて食べることにした。ジャンケンをし、勝った方が7マクタ、負けた方が8マクタを払うことにした。ジャンケンの結果はぼくの負けで8マクタ、払った。

 食堂の前の木陰ではオバチャンたちが露店を開いていた。道端に座り、大きな洗面器に南京豆やキャッサバの粉、タマネギなどを入れて売っていた。

 朝食のあと、タンガニーカ湖の砂浜に行った。何するでもなしに砂浜に座り、寄せては返す波を見ていた。湖を見ながら伊藤さんの旅の話を聞いた。彼は日本からヨーロッパに飛び、中近東を経てインドまで行き、ボンベイから船でケニアのモンバサに渡った。その途中、トルコでは忘れられない恋をし、そのままトルコに住み着いてもいいと思ったほどだという。

 砂浜に座っていると、雷が鳴りはじめ、雨がポツポツ降りだしてきた。あっというまに激しい雨足になり、稲妻が真っ黒な大空を駆けめぐる。大急ぎで町に戻り、店に飛び込み、雨宿りをさせてもらった。ものすごい雨で屋根からは滝のように雨水が流れ落ちた。

ディムとの出会い

 午後になると雨はやんだ。タンガニーカ湖を見下ろす高台に場所を移し、そこにある教会の石段でゴロゴロしていた。そこでオランダ人旅行者のディムに出会った。彼は3日前にタンザニアのキゴマから船でカレミに渡ったが、両替できず、列車にも乗れなかった。列車の切符どころか、ザイールのお金を一銭も持っていなかったので、まる3日間、何も食べられなかった。やっと今朝になって米ドルを替えてくれる人がいて、4日ぶりの食事をしたという。

 ディムは体の具合が悪いようで、真っ青な顔色をしている。口びるにも色はなかった。体の具合が悪いといえばぼくも同じで、のどが焼けるように痛み、せきがひどかった。足も鉛のように重く、体全体がだるかった。

 ディムの乗る列車は明後日の出発だという。お互いに時間を持て余している者同士なので、教会の石段に座りつづけ、タンガニーカ湖を眺めつづけた。夕暮れが迫ってきたところで、食堂に入る。夕食はキャッサバの粉を練り固めたブカディと汁で20マクタ。それを伊藤さんと半分づつ、10マクタづつ払って食べた。夜はタンガニーカ湖の砂浜にシュラフを敷いて寝た。ディムもやってきた。

 目をさますと夜が明けていた。何もすることがないので、日が高くなるまで寝ていた。起き上がると、朝食を食べに食堂へ。朝食は前日と同じようにご飯に肉抜きの汁をかけたもの。15マクタのものを半分づつ食べた。ジャンケンではまたしてもぼくが負け、8マクタを払った。

 道端の露店のオバチャンたちとはすっかり顔なじみになっていた。オバチャンに変わってぼくが南京豆を売ってあげた。「カランガ(南京豆)! カランガ! モヤ・リクタ(1杯、リクタだよ)」

 と、通りがかりの人たちに声をかける。まあまあの売り上げで、オバチャンは喜んでくれた。お礼だよといってごっそりと南京豆をくれた。伊藤さんは折り鶴を折ってあげ、子供たちに喜ばれた。

アフリカの妖しい魅力

 いよいよ明日、出発だ。港にキゴマ行きの船の「ウルンディ号」が入ったと町の人が教えてくれた。さっそく港に行き、「ウルンディ号」を見た。港から戻ると、また所在なさげに町をプラプラ歩いた。顔なじみの人が多くなった。なにしろ朝から晩まで同じ道を何度も歩いているのだから、それも当然のこと。一緒に酒を飲まないかと声をかけられ、ヤシ酒のマロフとキャッサバやトウモロコシから造ったアフリカンビアーのルトィクを彼らと一緒になって飲んだ。

 いつもの食堂で夕食を食べ、そのあとは雨が降りだしそうな天気だったので、港に行った。岸壁前の建物の屋根下で寝た。夜中から夜明けにかけて土砂降りの雨が降った。起きてもまだぶ厚い雨雲が垂れ込めていた。

 ディムは今日の列車でルアラバ川の河畔の町、カバロまで行くという。一緒に駅まで行った。すでに切符を買う人たちの長い列ができていたが、それほど待たずに切符を買うことができてひと安心だ。

 ディムの顔色はいっそう悪くなっていた。夕べは2度もはいたという。ぼくにしてもディムにしても、体が悪いからといっておいそれと病院には行けない。毎日、ギリギリまで出費を切り詰め、食べるものも食べないで旅をつづけているのだ。病院代や薬代を払う余裕などまったくなかった。悲しい宿命…。それでも旅をつづけたいのだ。旅の途中で命を落としても本望だと、そう思えるような妖しい魅力をアフリカは秘めていた。

 今日が最後だからと、いつもの食堂に3人で行き、25マクタの肉汁をかけたご飯を1人1皿ずつ食べた。食堂の前の露店のオバチャンに午後の船でキゴマに渡るというと、オバチャンは南京豆をゴソッとくれた。

 ディムと別れ、ぼくと伊藤さんは港へ。伊藤さんと「ディムはもう発ったころだね」と話していると、なんとディムは力のない足どりで港にやってきた。なんと列車に乗り遅れたという。列車はカレミ駅の駅舎のあるところではなく、その先、500メートルくらいのところから発車したという。次の列車は2日後だ。それまでの間、ディムは死ぬほ退屈な時間を自分一人で過ごさなくてはならない。おまけに立っているのがやっとという具合の悪い体でだ。ぼくたちはそんなディムを残してキゴマ行きの船に乗り込んだ。

30年目の「六大陸周遊記」[030]

アフリカ東部編 6 コルウェジ[ザンビア] → カミナ[ザイール]

ありがたい夜食

 ザイールの首都のキンシャサを目指し、南部の町、コルウェジを出発した。交通量はガクッと減り、舗装路も途切れ、ガタガタ道の悪路を歩いた。どこか村に着いたら泊めてもらうつもりでいた。後ろを振り返ると、コルウェジの銅山のまばゆいほどの明かりが望まれた。だが、前方には明かりひとつなかった。

 ぼくの前をオジサン、オバサンといった感じの年配の2人が歩いていた。その2人に追いつくと、一緒に歩いた。コルウェジの町から自分たちの村に帰るところだった。日も暮れたことだし、2人の帰る村はそんなには遠くないであろうと勝手に想像し、その村で泊めてもらうつもりでいた。ところが集落を2つ、3つと通りすぎたが、2人は立ち止まることもなく歩きつづける。

 オバサンは途中で街道を離れ、細道に入っていった。そこからはオジサンと一緒に歩く。時計を持っていないので正確な時間はわからなかったが、月の上り具合からみて10時ごろだろうか、とある村に着くと、オジサンの足はそこで止まった。道の両側には月明かりに照らされた草屋根の家々が並んでいた。ランプの灯がもれている家もあったが、大半の家はまっ暗だ。夜の早いアフリカの村はシーンと静まり返っている。

 ぼくが「ひと晩、泊めて下さい」と頼むまでもなく、オジサンはとある家の前で立ち止まると、手招きしてぼくを中に入れる。手づくりの折りたたみ式のイスを出し、油の入ったカンに芯を入れただけのランプに明かりを灯す。小さな明かりが土間に土壁の家の中を照らした。そこには木のベッドがあり、「今晩はここで寝なさい」というと、オジサンは家を出ていった。

 オジサンはじきに戻ってきた。手にはパイナップルを持っている。その後ろには数人の人たちがいる。その中の1人がコーヒーの入ったカップを、別な人がパンを差し出した。なにしろ腹ペコだったので、むさぼるようにパンを食べ、コーヒーを飲んだ。パンを食べおわると、オジサンはパイナップルを切ってくれた。なんともありがたい夜食だった。オジサンの名前はクフアさん。きっと、「珍しい客が来ている」ぐらいのことをいったのだろう、物珍しそうな顔をしてほかの人たちもやってきた。そんな村人たちとカタコトのスワヒリ語で話した。ザイール東部のスワヒリ語は東アフリカのそれとは、ずいぶん違うのだけはよくわかった。

 やがて1人、また1人と帰りはじめ、再び、クフアさんと2人だけになった。ぼくはベッドを借りて寝ようとした。するとクフアさんは土間にゴザを敷いて寝ようとしている。てっきり別の奥さんや子供たちと一緒の家に帰るとばかり思っていた。あわてて「寝袋を持っているのでぼくがここで寝ます」と身振り手振りを織りまぜてそう言ったが、結局、ベッドで寝ることになった。ありがたくそうさせてもらうことにした。長時間、歩きつづけた疲れもあって、あっというまに深い眠りに落ちていった。

トラックの荷台での酒宴

 翌朝は夜明けとともに出発。クフアさんの見送りを受けて歩きだす。村は朝もやに包まれている。道端の草の葉には露が溜まり、しっとりとしている。

 朝のうちは体も軽やかで、歩いていても浮き浮きした気分。道の左側には国境を越え、アンゴラの大西洋岸の港町、ロビトに通じる鉄道が通っている。1時間ほど歩いたころ、鈴なりの乗客を乗せた列車がアンゴラ国境のディロロに向かって通り過ぎていった。列車に向かって手を振ると、大勢の乗客たちが手を振り返してきた。

 不思議だったのは、大勢の乗客たちがどこに行くのだろうか…ということ。アンゴラ国境までは400キロ。途中に大きな町はない。国境の町、ディロロもそれほど大きな町だとは思えない。もしかしたらアンゴラに行くのだろうか…と、そんなことをも考えた。

 キンシャサに向かう道はほとんど交通量がなかった。苦しいヒッチハイクだ。陸路でキンシャサまで行くのは不可能だと何人もの人たちにいわれたが、なるほどと思わざるをえない。シャバ州のルブンバシからキンシャサに行くルートは鉄道でカミナ、カナンカを経由し、終点のイレボへ。イレボはコンゴ川の大きな支流、カサイ川に面した川港で、そこから船でキンシャサまで行くというのが普通のルートなのだ。

 2時間ぐらい歩いたところで、待ちに待った車のエンジン音が聞こえてきた。エンジン音は次第に大きくなり、やがてトラックの姿が見えてきた。手を上げるとトラックは停まり、運転手は「いいよ。乗りな」といったそぶりを見せる。ぼくは「ありがとう!」とお礼をいって荷台によじ登った。荷台には10人ほどの人たちが乗っていた。

 荷台に乗っていたのはオバサン連中が多かった。アフリカ人女性は働き者で、また商売上手で、女が男を食わしているのではないかと思ってしまうほど。そのオバサン連中はコルウェジで日用雑貨を仕入れ、それを村の市場で売るようだ。みんな底抜けに明るい。デコボコ道をガタンピシャンと跳ね上がりながら、そんなことはまったく気にならないかのように、地酒をくみかわしている。ペチャクチャしゃべりながら地酒を飲みつづける。地酒はぼくにも何度もまわってきたが、そのたびにありがたくいただいたせいで、けっこうほろ酔い気分になった。

 地酒のあいまにオバチャンたちはパイナップルを切ってくれた。トラックが激しく振動するのでうまく食べられず、顔中をベトベトにしてしまう。その顔がおかしいといってオバチャンたちは大笑いするのだった。

コルウェジ近郊の風景
コルウェジ近郊の風景
草原の中の蟻塚
草原の中の蟻塚

ルプエシ村での1日

 トラックが止まったのはルプエシという村。オバチャンたちはここで全員が下りた。トラックの運転手はロドリゲスさんというアンゴラ生まれの人。ポルトガル語をある程度、話せる。オバチャンたちに輪をかけて陽気な人で、彼にはとってもよくしてもらった。ロドリゲスさんは積み荷と乗客が集まったら、次の日、150キロ北の町、カミナに向けて出発するといった。ほとんど車の通らないところなので、カミナまで乗せてもらうことにした。

 ロドリゲスさんはルプエシでは一軒家を借りた。ぼくも一緒に泊めてもらい、夕食もご馳走になった。ロドリゲスさんの客人になったようなものだ。

 次の日、荷物の集まりも、乗客の集まりも悪く、出発できなかった。1日、ルプエシに滞在することになった。たっぷりと時間があるので、ロドリゲスさんにこの地方のスワヒリ語を教えてもらった。イモがビラーシ、キャッサバがモコ、トウモロコシがムインジ、米がムチェレ、バナナがンディンジ、肉がニャマ、レモンがシトロー、水がマイ…と、まずは食べ物から聞いた。

 その次は思いつくまま、手当たり次第に聞いた。ナイフがキス、タイコがンゴマ、木がムチ、ベッドがキタンダ…という具合だ。

 ロドリゲスさんはリンガラ語も話せる。スワヒリ語がザイール東部の共通語だとすると、リンガラ語はザイール西部の共通語。スワヒリ語講座の次はリンガラ語講座だ。1から10まではモコ、ニバレ、ミサト、ミネ、ミタノ、サンボ、サンバノ、モアンベア、ナイネ、ジュミ。スワヒリ語のあいさつの「ジャンボ」に相当するのがンボテ、「さよなら」がケンデマラム、「どうもありがとう」がルングニャミンギ、「ごきげんいかがですか」がオザリボニ、「たいへんけっこうです」がナザリマラム、「どこから来たのですか」がオイニ・ワピ、「日本から来ました」がナコミナ・ジャポン、「どこに行くのですか」がオケー・ワピ、「キンシャサに行きます」がオケイナ・キンシャサ…となる。

 昼になると、ロドリゲスさんは村の長老に招待された。その席にはぼくも呼ばれた。そこでは昼食が用意されていた。ブカディと肉汁。ブカディというのはこの地方の主食で、キャッサバの粉をこねたもの。洗面器のような器に入れ、みんなで手を伸ばし、肉汁につけて食べる。もちろん、スプーンやフォークは使わない。手づかみの食事だ。

 昼食のあとは借りた家に戻り、昼寝をする。目をさますと、村人たちはイモを持ってきてくれた。夕方、涼しくなると、夕風に乗って太鼓の音が聞こえてきた。広場まで行ってみる。そこでは太鼓の音に合わせて、村人たちが踊っていた。しばし、村人たちの踊りを楽しんだあと家に戻り、ロドリゲスさんの作った夕食をもらい、食後は2人でビールを飲んだ。こうしてルプエシ村での1日が過ぎていった。

カミナに到着!

 次の日もカミナに行く荷物と乗客は集まらなかった。ロドリゲスさんはカミナを諦めてコルウェジに戻ることにした。ぼくはもう1日、ルプエシ村に滞在し、夜明けとともに出発。ロドリゲスさんとは何度も握手をかわして別れた。カミナまでは150キロ。最悪の場合は歩き通さなくてはならない。それほどの交通量の少なさだ。

 朝のうちこそ気合十分で歩いたが、そのうち疲れてくると、やたらと水を飲みたくなるもう我慢できないくらいに「水、水、水」といってしまう。水筒はといえば、バイクでの「オーストラリ一周」のときに落として以来、持っていなかった。ついに水に我慢できず、道のあちこちにできている水溜まりの水を膝をつき、泥が口に入らないようにして飲んだ。

 昼ごろになって、やっと次の村に着いた。ここまで20キロ。次の村は40キロ先なので、「この調子だと、どこか途中で野宿だな」と、けっこう落ち込んだ気分になる。いっそのこと、この村で泊めてもらおうかとさえ思った。

 そんなときに、信じられないような幸運が訪れた。村人たちの「モトカー(車)だ」の声。彼らの聴力は信じられないほどいいが、耳をすますと、自動車の音がかすかに聞こえた。その音は次第に大きくなってくる。ぼくはあわてて村の中から道路まで走った。それはトラックで、ありがたいことに運転手は乗せてくれた。コルウェジから来たトラックでカミナまで行くという。

 おかげでまったく予期しなかったことだが、その日のうちにカミナに着くことができた。カミナの町に着いたときには、すでに日は暮れ、その夜は警察で泊めてもらった。疲れきっていたが、蚊と南京虫のダブルパンチを食らい、あまりよく眠れなかった…。

カミナへの道
カミナへの道

クリスティン、エラノールとの出会い

 翌朝は目覚めても気分は重かった。蚊と南京虫には徹底的にやられた。蚊はまだしも、南京虫のかゆみはいつまでも残り、足や首筋など、やられたところをかきむしった。警官たちにお礼をいって警察を出ると、鉄道の駅まで行く。駅前には露店があり、そこで紅茶を飲みながらマーガリンをつけたパンを食べた。

 すでにザイールのお金はほとんどなく、両替しなくてはならなかった。駅前には銀行がある。銀行はすでに開いていたが、USドルを20ドル、替えてもらおうとしたら、なんとカミナではできない、ルブンバシまで行かなくてはならないといわれた。銀行がダメならと、ホテルや大きな商店、ガソリンスタンドとまわったが、結果は同じだった。困りきっていると、ある店の主人が耳よりな情報をくれた。カミナにはアメリカ人がいる、彼らなら替えてくれるかもしれないというのだ。

 店の主人に地図を書いてもらい、そのアメリカ人を訪ねた。留守だったが、しばらく待つと、戻ってきた。まだ若い2人の女性で、彼女らはピースコー(平和部隊)の一員として、学校で英語を教えていた。

 2人はアメリカ人らしい陽気さと気さくさで、すぐに20ドルを両替してくれた。さらに2、3日、休んでいったらいいといって泊めてくれた。1人はクリスティーン、もう1人はエラノールで、2人ともカリフォルニアからやってきた。

 彼女らの自転車を借りてカミナの町中や郊外を走りまわったり、彼女らが英語を教えている高等学校を見せてもらったりした。夜は2人と夜遅くまで飲み明かした。クリスティーン、エラノールのおかげで、なんとも楽しいカミナでの滞在になった。

カミナのハイスクール
カミナのハイスクール
クリスティーン(左)とエラノール(右)。中央はベルギー人の先生
クリスティーン(左)とエラノール(右)。中央はベルギー人の先生

30年目の「六大陸周遊記」[029]

アフリカ東部編 5 ルサカ[ザンビア] → コルウェジ[ザイール]

世界最大級の産銅地帯

 ブルンスさん一家に別れを告げ、産銅地帯のコパーベルトに向かう。ルサカから最初に乗せてもらったのは、50キロほど北のカブエまで行くオランダ人の運転する車だった。カブエは旧名ブロークンヒル。鉱山町で鉛や亜鉛の鉱山がある。

 カブエからはほとんど待たずに70キロ北のカピリンポシへ。ここでタンザニアのダルエスサラームに通じる道とコパーベルトの町々に通じる道とが分岐する。

 タンザン鉄道もカピリンポシが起点になっている。ローデシア国境からリビングストン、ルサカと通る在来線とここで合流し、さらにコパーベルトのンドラ、キトウェからザイールのルブンバシに通じる鉄道もここで分岐している。カピリンポシはザンビアの道路、鉄道の要衝の地だ。

 コパーベルトはカピリンポシからさらに北に100キロほど行ったところから始まる。大きな銅鉱山がいくつもつづく。その名の通り、銅鉱石の鉱脈がザンビアとザイールの国境をまたぎ、200キロあまりの長さで延びている。

 1972年度の世界の銅鉱石の産出量を見ると、ザンビアはアメリカ、ソ連、チリについで第4位、ザイールは第6位だ。両国ともその大半はコパーベルトで産出されたもので、コパーベルトは世界最大級の産銅地帯といっていい。ザンビア側の開発はかなり進んでいるが、ザイール側はまだこれからといった感がある。

「ドクター・ヤマザキ」

 カピリンポシからキトウェへ。ここはザンビアのコパーベルトではンドラと並ぶ中心都市。ンドラには銅山はないが、キトウェにはンカナという大銅山が隣り合っている。ここでは日本人医師の山崎先生を訪ねた。先生の病院はキトウェの中心街にあり、たいへんなにぎわいだった。先生をひと目見たい、先生と握手したいというような人たちも多く、山崎先生の人気はきわめて高い。息子に「ヤマザキ」と名付けた人も何人もいるという。

 1968年の「アフリカ大陸縦断」のときはマラウィからザンビアに入ったが、国境の役人に「ドクター・ヤマザキを知っているか」と聞かれて驚いた。その当時、ザンビアには日本人は1人もいないと聞いていたからだ。国境の役人にドクター・ヤマザキはキトウェにいるから訪ねてみたらいいといわれ、山崎先生を訪ねたのだった。山崎先生は日本に6年ぶりに帰国する前日で、大忙しだったのにもかかわらず、快く迎えてくれた。

 それから5年。ザンビアには日本大使館ができ、日本企業が進出し、海外青年協力隊の隊員たちも各地で活躍していた。在留邦人は100人を超えた。変われば変わるものだ。その間の日本の高度経済成長とそれにともなう海外への猛烈な進出ぶりを目の当たり見る思いがした。

 その夜は山崎先生のお宅で泊めていただいた。奥様には夕食に日本料理をご馳走になった。ご飯と味噌汁がうまい。具だくさんのおでんもうまかった。もう大感動! 夕食後、海外青年協力隊のみなさんがやってきた。山崎先生夫妻、海外青年協力隊のみなさんと夜遅くまでおおいに語り合った。

ヒッチハイクの大きな魅力

 翌日は山崎先生夫妻に別れを告げ、キトウェからはザイール国境に向かった。ザンビアのコパーベルトは交通量も多く、楽なヒッチハイクだった。最初に乗せてもらった車でチンゴラまで行く。チンゴラの町に隣り合ってンチャンガの大銅山がある。

 チンゴラの町中からザンビア・ザイール国境を目指して歩いた。その道はてっきり国境に通じている道だとばかり思っていた。ンチャンガの露天掘り鉱山のわきを歩いていると、通り過ぎていった車が戻ってきてくれた。運転しているのは白人だ。

「この道は鉱山の道だよ」
 と、彼は教えてくれた。それだけではなく、ぼくが「国境に向かいたい」というと、わざわざ国境に通じる道まで乗せていってくれたのだ。彼はスコットランド人の鉱山技師で、すでに海外での生活は20年を超えるという。コロンビア、パキスタン、インドネシアなどが長く滞在した国。彼の息子がつい先日、ヨーロッパからアフリカ縦断のヒッチハイクの末、無事に家に帰り着いたということで、息子の無事な帰国を心から喜んでいた。

 国境に通じる道に出ると、そこからは国境近くのチリワボンブウェ(旧バンクロフト)まで、ザンビア人女性の車に乗せてもらった。彼女は1963年に政府が中国に派遣したミッションの一員で、ザンビアでは中国を訪ねた最初の女性なのだという。世界を股に掛けるスコットランド人の鉱山技師といい、ザンビアで初めて中国に行った女性といい、いろいろな人たちに出会えるのがヒッチハイクの大きな魅力だ。

国境通過

 どこの国でもそうだが、国境に近づくと、交通量はガクッと減る。チリワボンブウェから国境までは16キロあるが、その間は歩くつもりにしていた。30分ほど歩いたころだろうか、空のタクシーが通りがかり、なんともラッキーなことに運転手はただで乗せてくれるという。2時間以上も得をした。

 国境に着くと、ザイール人たちが20人以上並び、ザンビアからザイールに向かう旅行者を相手に両替をしていた。ザイールの通貨はザイールだが、ザンビアの通貨クワチャの方が強いようだった。残っていたザンビアのコイン、21ングウェを11マクタで替えてもらった。100マクタが1ザイールになる。1マクタだとリクタになる。

 露天の両替商のオバチャンには、ケニアのシリングも替えてもらえないかと頼んだが、断られた。ザンビア側のイミグレーションで出国手続きをし、国境を通過する。すぐにザイール側のイミグレーション。そこでザイールの入国手続きをする。ザンビアの出国手続き、ザイールの入国手続きともに簡単なものだった。

 ザイールの入国手続きを終えたところで、国境の役人に30ケニアシリングを両替してもらった。レートはひどく悪く、1ザイール20マクタだったが、替えてもらえただけでラッキーといっていい。

 こうしてザンビアからザイールに入った。ザイールのお金も手に入れたし、「さー、がんばってザイールでのヒッチハイクをしよう! ルブンバシを目指そう!」という気持ちになった。ルブンバシはザイール東部のシャバ州の中心地だ。

ザンビア・ザイール国境周辺の風景
ザンビア・ザイール国境周辺の風景

シャバ州の中心地、ルブンバシに到着

 ザンビアからザイールにかけてのこの一帯には、巨大なあり塚が点々とある。アフリカのほかの地方でもあり塚をたくさん見てきたが、コパーベルトのあり塚ほど大きなものはなかった。単に背が高いばかりでなく、幅もある。大きなものになると、高さも幅も人間2人分以上はあった。

 国境近くには日本が開発中のムソシ鉱山がある。きっとムソシ鉱山の人たちなのだろう、日本人とおぼしき人たちが運転する車が何台も通り過ぎていった。それはすべて、場違いなほどの新しい車ばかりだった。日本はすごい国だなあと思った。ザイールにとってははるか極東のかなたの島国に過ぎない日本が、膨大な資金と最新の技術でもってこの地の銅山を開発しようというのだから。

 国境からシャバ州(旧カタンガ州)の中心地、ルブンバシ(旧エリザベスビル)までは約100キロ。その間は小型トラックの荷台に乗せてもらった。途中で検問が2度、3度とあり、そのたびにパスポートを調べられた。

 ルブンバシに到着し、雑然とした町を歩いた。ルブンバシの町並みを見ていると、ぼくの予想に反してとでもいおうか、寂れかかったような印象を受けた。ルブンバシといえば、ザイールではキンシャサ、キサンガニと並ぶ三大都市。さらにはザイールの鉱物資源を独占するかのようなシャバ州の中心都市ではないか。それだけにすごく意外だった。

 独立以前のベルギー領の時代、エリザベスビルは白人好みの整然とした、きれいな町だったという。ここがコンゴの鉱物資源を独占したベルギー資本のユニオン・ミニエール社の本拠地。銅、コバルト、ウラン…と、ユニオン・ミニエール社が得た利益は莫大なものだった。とくにコバルトは世界の生産高の半分以上を占め、ユニオン・ミニエール社の一存で自由自在のコバルト相場をコントロールできたほど。また、広島、長崎に投下された原子爆弾の原料のウランもユニオン・ミニエール社の産出したものだ。

ルブンバシ近郊の銅鉱山
ルブンバシ近郊の銅鉱山
ルブンバシ近郊の銅鉱山
ルブンバシ近郊の銅鉱山
ルブンバシの中心街
ルブンバシの中心街
ルブンバシの中心街
ルブンバシの中心街

「コンゴ動乱」の地

 旧カタンガ州の豊かな鉱物資源は、コンゴの人たちを豊かにするのではなく、反対に不幸のどん底に陥れる結果となった。この地の豊富な鉱物資源があったばっかりに、コンゴ独立(1960年)後の、底なし沼のあの「コンゴ動乱」をもたらしてしまった。

 カタンガ州独立の問題が終結したあとも、コンゴ情勢はすこしもよくならなかった。モブツが1965年のクーデターで政権を握るまで、コンゴは激しく揺れ動いた。その間にどれだけ多くの人命が失われたことか…。その後、1967年にユニオン・ミニエール社は国に接収された。

「コンゴ動乱」の原因や推移は複雑だ。だがコンゴの膨大な資源に目がくらみ、コンゴの人々の幸せではなく、たえず自社の利益を追いかけた白人たちが、「コンゴ動乱」の原因のひとつになったことだけは間違いない。

 ルブンバシが見た目には汚らしい町になったことは、もしかしたらザイールの人たちにとっては喜ばしいことなのかもしれない。彼らにとってはベルギー人やギリシャ人などのヨーロッパ人やパキスタン人などのアジア人が住むきれいな町など、必要ではなかったのだ。ザイールではレオポルドビルがキンシャサに、スタンレービルがキサンガニに、そしてエリザベスビルがルブンバシに…というように、植民地時代の名前を徹底的に変えていったが、その気持ちがよくわかるような気がした。

検問、検問、検問…

 ルブンバシから125キロ北のリカシへ。その間には何ヵ所にも検問所があり、そのたびにパスポートを調べられ、荷物を調べられることもあった。何日か前にポルトガル人、ギリシャ人、パキスタン人のザイールからの追放を決めた大統領の演説があってからというもの、検問所での検問はいっそう厳しくなったという。リカシの町に着いても、警察で調べられた。こう頻繁に調べられると、気分はブルーになり、心も重たくなってくる。

 さらに悪いことに、ザイールでは英語はほとんど通じない。公用語はフランス語で、ぼくのフランス語といったらカタコト語。スワヒリ語の通用するエリアなので、カタコトのフランス語にカタコトのスワヒリ語を織りまぜて受け答えしたが、あまりにも連続する検問なので、それにも疲れはててしまった。

 しかし、リカシの警察ではぼくが怪しいものでないことがわかると、快くひと晩、泊めてもらった。陽気な警官たちに食事をご馳走になったり、バーでビールを飲ませてもらったりしたので、ブルーな気分もすこしはほぐれた。

将来の大銅山

 翌日はリカシから200キロ北のコルウェジに向かった。リカシの周辺にも銅やコバルトの鉱山がいくつもある。町の中心から歩き始めたのだが、道を間違えてしまった。それも10キロ以上歩き、鉱山のあるカンボベに着いてから道を間違えたことに気づいた。もう腹だたしいやら悔しいやら…。リカシに戻ったが、帰路ではあまり歩かずに車に乗せてもらえた。

 リカシの町の中心からもう一度、コルウェジを目指して歩き始める。今度は間違えないようにと、慎重に何人もの人に聞いて歩いた。なんのことはない、交差点で右に曲がるところをぼくは真っ直ぐ行ってしまったのだ。道路標識が1本あれば間違えなかったのに。

 リカシの町外れからフングルメまでトラックに乗せてもらった。その間は70キロほど。フングルメに着くと、露天の小さな市場で2マクタ(約12円)でバナナを6本買い、それを昼食にした。市場でフングルメにはジャポネ(日本人)がいるという話を聞いた。それもイネ(4人)だという。鉱山関係の人たちに違いないと思った。

 市場にいた子供たちが、ジャポネのところに連れていってくれた。そこはSMTFフングルメ銅山のキャンプ地で、近い将来、フングルメ周辺は世界でも最大級の露天堀り銅山になるという。キャンプ地には片桐さん、伊藤さん、相良さんの3人の日本人がいた。3人は鉱脈の探査をしていた。

 SMTFは日米英共同出資の会社で、鉱山が予定通り軌道に乗れば、フングルメは5000人を超える一大鉱山町になるという。突然、キャンプ地を訪ねたのにもかかわらず、片桐さんらにはすっかりお世話になった。

 午後はボーリングの現場を案内してもらった。雨が降りだすといったあいにくの天気だったが、天気にかかわらずボーリングは休みなくつづけるという。小高い丘の上に立つと、霞んで見えるコンゴ盆地の一角がまるで大洋のように茫洋と広がっていた。

 ボーリングの現場からキャンプ地に戻る途中ではテンケ駅に寄ってくれた。ルブンバシからの鉄道はテンケで分かれ、1本はカミナ、カナンカ(旧ルルアバーグ)を通って、カサイ川の川港、イレボ(旧ポールフランキー)に至る。そこからはカサイ川からコンゴ川本流の船で首都のキンシャサにつながっている。もう1本は国境のディロロを通ってアンゴラに入り、大西洋岸の港町、ロビトに至るもの。テンケで分岐する2本の鉄道はザイールにとってはともにきわめて重要なものだ。

 その夜は片桐さんらのキャンプ地に泊めてもらった。おいしい夕食をご馳走になり、そのあとは片桐さん、伊藤さん、相良さんらとビールを飲みながら夜遅くまで話した。

 翌日は銅鉱石が露出している一帯を案内してもらった。そこではコバルトフラワーという華麗な花が咲き、緑ががった純度の高い銅鉱石が地表に露出している。片桐さんによると、地質や岩石に興味のある人だったら、よだれを流すような光景だという。

 フングルメは銅だけでなく、コバルトの埋蔵量も大変なもの。ここからコバルトが生産されるようになると、世界のコバルト価格は暴落してしまうほどの量だという。

フングルメでのボーリング
フングルメでのボーリング
フングルメでのボーリング
フングルメでのボーリング
フングルメ鉱山の鉱山労働者
フングルメ鉱山の鉱山労働者
コバルトフラワー
コバルトフラワー
露出した銅鉱石
露出した銅鉱石
露出した銅鉱石
露出した銅鉱石
フングルメ銅山
フングルメ銅山
フングルメ銅山
フングルメ銅山
フングルメ銅山周辺の風景
フングルメ銅山周辺の風景

世界の大河コンゴ川

 片桐さんらSMTFのみなさんにお礼をいってフングルメを離れる。そしてコルウェジへ。その途中では、コンゴ川上流のルアラバ川をせき止めてできた人造湖を渡る。このあたりから南にかけての一帯がコンゴ川の源流地帯になる。すぐ南のザンビア、アンゴラにまたがる国境周辺の丘陵地帯がインド洋に流れ出るザンベジ川との分水嶺になっている。コンゴ川は全長4370キロ。流域面積はじつに369万平方キロで日本の国土が10あまりもスッポリと入ってしまう。コンゴ川はアマゾン川に次ぐ世界第2の大河だ。

 ナイル川、コンゴ川、ニジェール川がアフリカの三大河川。長さでいうと全長6690キロのナイル川は世界最長の河川だが、流域面積や水量ではコンゴ川の方が圧倒的に大きい。ニジェール川は全長4180キロ。

 さて、ルアラバ川だが、赤道を越えてキサンガニあたりまで北流し、コンゴ川となって大きく湾曲し、リサラ、ンバンダカと通って再び赤道をまたいで南西に流れ、キンシャサとブラザビル間のまるで海のように広いスタンレープールに達する。その後、渓谷に入り、下流のザイール最大の港、マタディを通って大西洋に流れ出る。

 コンゴ川の支流には何本もの大河川があるが、主なものは左岸側にロマニ川、ルロンガ川、イケレンベ川、ルキ川、カサイ川、クワ川、右岸側にはルブア川、ルクガ川、アルウィミ川、イティンビリ川、モンガラ川、ウバンギ川、サンガ川などがある。

 コンゴ川の大きな特徴は赤道をはさんで南から北に流れ、ふたたび北から南に流れるので、下流では雨期、乾期の別なく水量が一定していることだ。それにしてもザイールはすごい国。なにがすごいかというと、アンゴラ、ザンビア、タンザニア、中央アフリカ、コンゴから流れてくる川はあるにしても、コンゴ川という世界の大河の源流から河口までを1国に収めてしまう。

 アフリカ大陸は全体的に見ると、どこも水不足に悩まされている。それだけにコンゴ川のとてつもなく大きな水資源はきっと将来、ザイールの一番の資源になるに違いない。

 コルウェジまではトラックの荷台に乗せてもらった。あいかわらず警察や軍の検問所がつづく。そのたびにトラックは停められ、取り調べを受けた。運転手は彼らのご機嫌をとるために、そのたびにタバコをあげていた。ひどい話だが、積み荷のビールを巻き上げられることもあった。ぼくはといえば、そのたびにパスポートを調べられた。これがなんともわずらわしい。

 コルウェジに到着。ザンビアからずっとつづいたコパーベルトの端で、ここを過ぎると、もう銅山はない。

コンゴ川最上流部の人造湖
コンゴ川最上流部の人造湖
コルウェジへの道
コルウェジへの道

30年目の「六大陸周遊記」[028]

アフリカ東部編 4 ルサカ[ザンビア] → ルサカ[ザンビア]

ドイツ人のブルンスさんの家で

 ザンビアの首都ルサカでひと晩、泊めてもらったドイツ人のブルンスさんの家には、同じドイツ人の若いバッチマンさん夫妻が来ていた。1歳になったばかりのカオリナちゃんというかわいらしい女の子も一緒だった。バッチマンさんはザンベジ川の人造湖カリバ湖周辺での農業指導をしているとのことで、「見にきませんか」と誘われ、連れていってもらうことにした。

 その夜はブルンスさん一家、バッチマンさん一家と一緒の夕食をいただいた。夕食後はブルンスさんのインド滞在中の写真を見せてもらい、インドについての話を聞かせてもらった。寝る前にはザンビアの英字紙を見せてもらった。大きな扱いでサヘル地帯(サハラ砂漠の南側)とエチオピアからケニア、タンザニアへとつづく一帯の大旱魃が報じられていた。同じ紙面にはオーストラリアの記録的な洪水のニュースがのっていた。とくにブリスベーン川の氾濫によるブリスベーンの町の被害が大きいとのことで、ブリスベーンでは何人もの人たちにお世話になったので心配だった。

ルサカを出発

 翌朝、トーストと目玉焼きの朝食をいただいたあと、バッチマンさん一家の車でカリバ湖畔に向かった。車はドイツ車ではなくトヨタ。バッチマンさんは「トヨタはいい!」と絶賛していた。

 ルサカから40キロほど南に行くと、ザンベジ川の支流、カフエ川にかかる橋を渡る。橋の上からは、水面上に時々、プカップカッと頭を出すカバを見た。数頭のカバだ。川を渡ると、道は2本に分かれる。左の道はローデシア国境に通じている。だが、国境は閉鎖されているので、ローデシアに入ることはできない。右の道はビクトリアの滝に近いリビングストンの町に通じている。

 この分岐を右へ。マザブカ、モンゼと過ぎたところで左に折れ、カリバ湖畔のシナゾングウェに通じる道に入っていく。その途中にあるバッチマンさんらの宿舎の建つキャンプ地に着いた。夕食までの間、キャンプ地周辺をプラプラ歩いた。

 夕食時がおもしろかった。

 食卓にはザンビア製のパン、ソ連製のサディーンの缶詰、中国製のコンビーフの缶詰、ケニア製のバター、ケニア製のチーズ、イギリス製のマーマレードがのっている。バッチマンさんは「これがザンビアなんですよ。世界にせっせと銅を売って、そして食料を買っているんです。国はもっと真剣に食料の増産を考えなくては」という。食後のお茶はマラウィ製、コンデンスミルクはドイツ製、砂糖はザンビア製だった。

大人造湖のカリバ湖

 次の日はバッチマンさんとカリバ湖に行った。湖畔のシナゾングウェまでは前の晩の降った雨で、ひどい悪路に変わっていた。川の水はあふれ、あちこちに大きな水溜まりができていた。北のタンザニアからケニア、エチオピアにかけては大旱魃だというのに、そのすぐ南のザンビアは、例年以上に雨が多いという。

 湖の見えるところに出た。雨雲が垂れ込めていることもあって、対岸のローデシアは見えない。ザンベジ川のカリバダムによってできたカリバ湖は、ナイル川のアスワンハイダムのナセル湖、ボルタ川のアコソンボダムのボルタ湖と並ぶアフリカの3大人造湖で、長さが320キロ、幅が4、50キロもある。

 1968年の「アフリカ大陸縦断」では、ローデシア側から乾期のカリバ湖を見たが、日本の冬枯れのような風景の林の中を抜け出ると、突然、目の前にはブルーの湖面が広がっていた。目のさめるようなカリバ湖の青さだった。それが今回、ザンビア側から雨期のカリバ湖を見たわけだが、すべてが灰色一色に覆われていた。乾期のカリバ湖とは、まるで違う湖の風景だった。

ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
大人造湖のカリバ湖
大人造湖のカリバ湖
大人造湖のカリバ湖
大人造湖のカリバ湖

福本さんと村井さんの日本人カップル

 もうひと晩、バッチマンさんの家で泊めてもらった。バッチマンさんは日本のことをよく知っている。日本の歴史も勉強している。話が太平洋戦争に及ぶと、「日本軍の大陸侵攻から日本の敗戦までというのは、しょせん、日本の経済界に踊らされた結果でしかない。あの戦争は経済戦争。膨脹しすぎた日本経済が資源確保と市場の拡大に目の色を変えたからだ」と手厳しい。

 次の日、バッチマンさんのトヨタでルサカとリビングストンを結ぶ幹線ルート上のチョマの町まで乗せていってもらった。チョマの町中でバッチマンさん一家と別れた。奥さんもわざわざカオリナちゃんと一緒に見送りにきてくれた。

 チョマからはリビングストンに向かった。その間、190キロ。ヒッチハイクをはじめてすぐに、隣り町のカロモまで行くダットサンのピックアップに乗せてもらった。カロモから1時間ぐらい歩いただろうか、フォルクスワーゲンのビートルが止まってくれた。なんと驚いたことに、日本人の男女が乗っていた。後の座席には荷物をいっぱい詰め込んであるので、乗せてもらえるとは思わなかった。それなのに2人は荷物を無理矢理、片側に寄せ、1人がやっと座れるくらいのスペースをつくってくれた。男の人は福本義憲さん、女の人は村井マナさん。2人はビクトリアの滝まで行くところだった。2人は何ヵ月もかけてドイツを出発点にし、アフリカ大陸を縦断してここまでやってきた。

福本さん、村井さんのカップル
福本さん、村井さんのカップル
福本さん、村井さんのカップル
福本さん、村井さんのカップル

ワーゲンでのアフリカ大陸縦断

 福本さんも村井さんもドイツ語を勉強していたが、2人でアフリカ縦断を思い立ち、フォルクスワーゲンの中古車を買って旅立った。西ドイツのボンを出発し、ヨーロッパを南下し、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸へ。アルジェリアのアルジェからサハラ砂漠を越え、西アフリカからは赤道アフリカを横断して東アフリカに入り、ケニアのナイロビでしばらく滞在したという。

 途中、いろいろなことがあった。アルジェでは窓を割られ、荷物をゴッソリと盗まれた。カメラ、双眼鏡、衣類、本…と。腹が立つやら情けないやらで、ショックのため一時は旅するのをやめようと思ったほど。それを乗りこえてサハラ砂漠を縦断した。サハラ砂漠では深い砂との戦いの連続で、1人が車を運転し、1人が車を押した。ナイジェリアとカメルーンの国境では役人と大喧嘩し、ザイールの悪路では車が故障し、車輪がガタガタになってしまう。

 ルアンダのキガリではまたしても盗難にあった。そのときは命の次に大事な旅日記を盗まれた。ウガンダに入国しようとしたら、国境で30人ほどのイギリス人旅行団が逮捕されたというニュースを聞き、ウガンダを諦め、タンザニアに入国した。ケニアのナイロビでは村井さんがマラリアにかかり、入院。1日に150シリング(約6000円)も取られた。2人の旅は苦難の連続だったが、2人はそんな苦しかった体験を楽しそうに話してくれる。2人にとってアフリカがそれだけ魅力のある世界だったからだろう。

世界の大滝、ビクトリアの滝

 車の中で2人と話しているうちに、リビングストンに着いた。この町は探検家デビッド・リビングストンにちなんで名づけられた。ザンビアでは英語名の地名がどんどん変えられた。たとえばフォート・ジェームソンがチパタ、アバコーンがンバラ、ブロークンヒルがカブエという具合だ。その中にあって、リビングストンの名前だけは残された。政府が探検家リビングストンの業績を評価しているからだろう。

 リビングストンは人口が5万5000人。ザンビアでは3番目に大きな町だ。それとともに古い町でもある。1907年にはノース・ウエスタン・ローデシアの首都になった。1911年、ノース・ウエスタン・ローデシアとノース・イースタン・ローデシアが合併し、ノースローデシア(北ローデシア)になったときも、リビングストンが首都だった。

 ビクトリアの滝はリビングストンの町から南に10キロほど行ったところにある。福本さん、村井さんと一緒にビクトリアの滝へ。耳をつんざくような轟音。我々は滝の水しぶきでびしょ濡れになって歩いた。

 ビクトリアの滝をはさんでザンビアとローデシアは接している。ビクトリアの滝はローデシア側の方がザンベジ川の本流が流れているので、はるかに規模は大きい。ザンビア側は水量が少ないので、雨期に見るのに限るという。その意味では、ちょうどいい時期だ。反対にローデシア側は水量の減る乾期の方がよく見えるという。1968年の「アフリカ大陸縦断」のときには、ローデシア側で乾期のビクトリアの滝を見た。ぼくはこの滝を両側から、ローデシア側では乾期に、ザンビア側では雨期にと、それぞれ滝を見るのには一番いい時期に見ることができた。

 ザンビアからローデシアに通じる鉄道は、滝のすぐ下、ザンベジ川の幅狭い谷間を通っている。「あれ!」と目を疑ったのは、鉄橋の上に長い編成の貨物列車が止まっていたからだ。国境閉鎖にともない、ザンビアとローデシア間の鉄道も全面的に止められていたからだ。ところが、ザイールのルブンバシを中心とするカタンガ州から送られてくる鉱物資源に限り、ザンビア政府は列車の通過を認めているという。

リビングストンの「リビングストン・メモリアル」
リビングストンの「リビングストン・メモリアル」
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ザンビア、ローデシア国境のザンベジ川にかかる鉄橋
ザンビア、ローデシア国境のザンベジ川にかかる鉄橋

カズングラの4国国境

 ビクトリアの滝からリビングストンに戻る。福本さん、村井さんの2人は、リビングストンから国境のカズングラまで行き、ボツワナに入るという。ぼくもカズングラまで乗せていってもらうことにした。

 リビングストンから50キロほど西、ザンベジ川の上流に向かって走ったところがカズングラ。カズングラまでの道は全線が舗装されている。カズングラにはザンビア側の国境事務所とフェリー乗り場があるだけ。この地点で4つの国が接している。ザンベジ川対岸の正面がボツワナ、右側が南西アフリカ、左側がローデシアだ。

 福本さんと村井さんは出国手つづきをすませると、ザンベジ川のフェリーに車をのせた。お互いに元気な旅をつづけられるように祈って2人と別れた。2人のワーゲンをのせたフェリーはカズングラのフェリー乗り場を離れると、ゆっくりとザンベジ川を横切り、対岸のボツワナに向かっていった。2人はボツワナからローデシアを通って南アフリカに入り、アフリカ南端のケープタウンに向かっていく。

リビングストンからカズングラに通じる道
リビングストンからカズングラに通じる道

ルサカに戻る

 カズングラからリビングストンに戻ったのは夕方になってから。パンを買おうとしたのだが、どこにも売ってない。パン屋のみならず、食堂やレストラン、ホテルとまわったが、ついにパンを手に入れることができなかった。ザンビアは小麦粉不足がひどく、リビングストンの場合だと、朝の5時とか6時といったパンが焼き上がる時間にパン屋に並ばないと、パンは手に入らないといわれた。そのほかサラダ油と石鹸の品不足がひどい状態だという。結局、夕食を抜いて、夜のヒッチハイクでルサカに戻ることにした。

 リビングストンからカリバ湖近くにあるマーンバ炭鉱まで行く車に乗せてもらい、途中、チョンベとペンバの間にあるバトカで降ろしてもらう。マーンバ炭鉱への道はこのバトカで「ルサカーリビングストン」間の幹線道路を外れる。

 バトカの道路沿いに小学校があり、そこでひと晩、寝かせてもらった。床の上にシュラフを敷いて寝ようとするのだが、腹がペコペコでなかなか寝つけない。なんとも寝苦しい夜になった。次の日も空腹のせいで体に力が入らなかったが、そんな体にムチを入れてヒッチハイクをつづけ、どうにかこうにかルサカに戻ることができた。ルサカに着くなり、露店でポテトチップスとサンドイッチ、マンゴーを食べ、やっとひと息ついた。

 そのあとでドイツ人の農業技術者、ブルンスさんのところに電話した。ブルンスさんには、ルサカに戻ってきたら電話するようにといわれていたからだ。ブルンスさんはミニストリー・オフ・ルーラル・ディベロップメントという役所に属している。日本語に訳せば地方開発省とでもいうのだろうか。午後、役所を訪ねると、ブルンスさんは仕事を早々に切り上げ、車でルサカ郊外のお宅まで連れていってくれた。奥さんと4人の子供たちは家にいた。長男のエルク、次男のタンモ、長女のアンニャ、次女のハイレとはすでに仲よしになっていたので、なんともうれしい再会。日暮れまでは隣りのサワさんの家に行き、お互いの旅の体験談を語り合った。

 ブルンスさんの家に戻ると、ブルンスさん一家と一緒に夕食をいただく。夕食後はブルンスさんの家にやってきた同じ仕事をしているドイツ人やミニストリー・オフ・ルーラル・ディベロップメントの高級官僚たちと一緒にワインを飲んだ。

 ブルンスさんもすばらしい人だったが、奥さんもじつにすばらしい人。インドにいたときはインドの生活に適応し、ザンビアに来たら今度はザンビアの生活を楽しんでいる。4人の母親とは思えないような溌剌とした若さ、清々しさがあった。タンザニア国境近くからルサカまでブルンスさんに乗せてもらったというだけで、ぼくはまるで家族の一員であるかのような暖かなもてなしを受けたのだ。

ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ドイツ人のブルンスさん一家
ドイツ人のブルンスさん一家