青春18きっぷ de 東北列車旅[06]

2018年(6)8月3日 盛岡駅 → 青森駅

「ラッセラッセ・ラッセラー」

 盛岡から青森までは東北新幹線に乗る。18時37分発新青森行の「はやぶさ31号」。ここまで鈍行を乗り継ぎできたので、「速い!」と、新幹線の速さをよけいに感じる。「はやぶさ31号」は二戸、八戸、七戸十和田に停まり、19時37分、新青森に到着。

 新青森では19時51分発の奥羽本線青森行に乗りかえる。5両編成の電車に乗ると、ホッとした気分になった。

 新青森の次が終点の青森だ。

 青森駅に降り立つと、さっそく青森の「ねぶた祭」を見る。盛岡から新青森まで東北新幹線を使ったのは、ねぶた祭に間に合わせるためだった。

 青森はねぶた一色。

「ラッセラー・ラッセラー・ラッセラッセ・ラッセラー」
 と、大人も子供も旅行者も、大勢の人たちが跳ねている。

 太鼓の音が腹に響く。

 この日ばかりは、国道4号から国道7号にかけての青森一番の幹線道路も祭り会場になり、大群衆で埋め尽くされていた。

 21時にねぶたが終了しても、しばらくは余韻にひたった。

 青森駅に戻ると、我が定宿、青森駅前の「東横イン」に泊まり、部屋で祭りの缶ビールを飲むのだった。

30年目の「六大陸周遊記」[080]

[1973年 – 1974年]

ヨーロッパ編 3 バルセロナ[スペイン]

ジムとの出会い

 バルセロナ駅前のツーリスト・インフォメーションは9時になったら開くとのことだった。しかし9時を過ぎても開く気配はまるでなく、誰も来ない。いらいらしながら開くのを待っていたのはぼくだけではなかった。

 もう1人、年代物のザックを背負い、重そうなズタ袋を抱えた老人がいた。老人の頭はすっかり禿げ上がっている。それがぼくとイギリス人の旅人、ジムとの出会いだった。

「いったい、いつになったら開くんでしょうね」

「さっき、駅の案内所で聞いてみたけど、9時だといっていたよ。だけどスペインという国はすべてがこの調子で、このぶんだと10時頃ではないかな」

 ところが10時になっても誰も来ない。

 駅員に聞いてみると、
「おかしいですねえ。いつもだったら9時に開くのだけど…」
 というばかり。

「仕方ないな。もう1時間、待とう」
 ということになって、ジムと駅のカフェテリアに入った。

生涯旅人!

 バルセロナ駅のカフェテリアで聞いたジムの話はじつに興味深いものだった。

 彼の歳はなんと75歳。現役の旅人だ。

 ジムは60過ぎだろうとは思っていたが、70歳をはるかに過ぎているとは…。

 1年半ほどカナリア諸島に滞在し、船でバルセロナにやってきた。

 彼の使っているザックは第1次大戦中、イギリス軍が使ったものだという。彼の靴には大きな穴があき、ズボンも上着もほころんでいて、長旅を感じさせた。

 ジムは10代の頃から船乗りになり、船で世界各地の港をめぐった。それが彼の旅の第1歩。船乗りで旅の資金を貯めると、ザックを背負って2年、3年と大陸から大陸への旅をつづけ、お金がなくなるとまた船に乗るという繰り返しをしてきたという。

「これからもずっと、ずっと旅をつづけたい。一生涯、旅をつづけたいね。これほどおもしろいことはない。旅の空の下で死ねたら本望だ」
 という「生涯旅人」ジムの衰えることのない旅への情熱には胸を打たれた。

 ジムはバルセロナ発ロンドン行きの安いバスがあると聞いて、その詳しい情報を得ようとツーリスト・インフォメーションにやってきた。彼にとっては久しぶりのイギリスへの帰国となる。

旅は道連れ

 11時になっても開く気配のないツーリスト・インフォメーションにあいそうをつかし、ジムはバルセロナの旅行代理店をまわってみるという。我々は会った瞬間から気が合い、ぼくはジムについていくことにした。

 バルセロナの町を歩き、旅行代理店をみつけると、ロンドン行きの安チケットのバスを聞いてみたが、ジムが思っているほどの安いバスはなかった。

 ジムはロンドン行きのバスを諦めたようで、
「地中海のアレニスという町にユースホステルがある。5年ほど前に行ったことがあるのだけど、けっこう良かったよ」
 と言い出した。
「旅は道連れ」。

 ジムと一緒に電車に乗って、アニレスまで行くことにした。

青春18きっぷ de 東北列車旅[05]

2018年(5)8月3日 一ノ関駅 → 盛岡駅

東北本線の終点に到着

 一関から盛岡行の4両編成の電車に乗る。中尊寺のある平泉、前沢牛の前沢、南部鉄瓶の水沢と通っていくが、「北国にやってきた!」という実感を強くする。

 電車は北上川流域の水田地帯を走る。

 北上では北上線、花巻では釜石線が分岐するが、ともに乗り降りする乗客が多かった。

 石鳥谷、日詰、矢幅を通って盛岡へ。夕日が奥羽山脈の向こうに落ちていく。

 18時04分、盛岡に到着。電車は折り返しの一関行になり、大勢の乗客が乗り込んだ。

 盛岡は東北本線の終点だ。時刻表を見ると、東京駅から535キロの地点。この先の青森までは、岩手県内はいわて銀河鉄道、青森県内は青い森鉄道になる。

30年目の「六大陸周遊記」[079]

[1973年 – 1974年]

ヨーロッパ編 2 アルヘシラス[スペイン] → バルセロナ[スペイン]

バレンシア発の急行列車

 地中海の「コスタ・デル・ソール」(太陽の浜辺)からシエラネバダ山脈の山中を通り、スペインの地中海岸ではバルセロナに次ぐ第2の都市、バレンシアにやってきた。

 このときのぼくはというば、もう疲れきっていた。

 体の疲れもあるが、それ以上に、ヒッチハイクすることに疲れていた。あまりにも難しいスペインのヒッチハイクに、我慢できないくらいのいやけを感じていた。

 そこでバレンシアからバルセロナまでは鉄道で行くことにした。

 やりきれないほどの「敗北感」に打ちのめされてしまう。

 バレンシア駅に着いたのは夜の10時。駅の時刻表を見ると、23時45分発の急行バルセロナ行があった。さっそく2等の切符を買って急行列車に乗り込んだ。

 電気機関車に引かれた、くすんだ緑色をした列車は、2等といえども立派なもの。車内はコンパートメントになっていて、1部屋が4人用。窓越しにバレンシア駅のホームを見、行きかう人たちを眺めた。ホームのベンチには粗末な身なりの夫婦が腰をかけている。別のベンチには4人の男の子と3人の女の子の大家族がいた。

 こうして急行列車は定刻通りにバレンシア駅のホームを離れていく。

 バレンシアの町明かりがあっというまに後ろへと流れ去っていく。

夜汽車の旅

 何とはなしに寂しさの漂う夜汽車の旅になった。

 窓に顔をこすりつけるようにして、町や村の明かりを見ているうちに眠くなり、座席にシュラフを敷き、足を伸ばして眠りについた。途中の駅で、小さな女の子を連れた夫婦が入ってきた。女の子はよっぽど眠かったのだろう、座席に座るとすぐに眠りはじめた。その女の子にシュラフをかけてあげると、両親は「グラシア(ありがとう)」といってニコッとほほえんだ。

 列車は真夜中の地中海に沿って走っている。浜辺に打ち寄せる波がときどき白く浮かび上がって見える。女の子を連れた夫婦が降りると、ぼくはふたたび座席にシュラフを敷いて足を伸ばして眠った。

朝のバルセロナ駅

 バレンシア発の急行列車がバルセロナ駅に着いたのは朝の8時前。バルセロナ駅はドームで覆われた大きな駅だ。ちょうど通勤の時間帯なので、おびただしい乗客を乗せた郊外電車が次々とホームに入ってくる。長距離列車用のホームにはフランスや西ドイツ、さらには遥か遠い北欧の国々へ行く列車が停まっていた。

 バルセロナ駅の構内で、
「さーて、どうしようか…」
 と何するでもなしにぼんやりしていると、東アフリカで出会った日本人旅行者の言葉が思い出された。

「バルセロナのユースホステルはよかったな。なにしろ食べ放題なんだ」

 心身ともに疲れきっていたぼくは、
「よーし、そのユースホステルに泊まろう」
 と思い立ち、駅構内のツーリスト・インフォメーションに行った。場所を教えてもらおうと思ったのだ。だが、時間が早すぎたようで、まだ開いていなかった。

 仕方なく近くの公園で朝食のパンをかじり、日記をつけ、それだけすると芝生に寝転んで時間をつぶした。

 こうしてツーリスト・インフォメーションの開くのを待った。

青春18きっぷ de 東北列車旅[04]

2018年(4)8月3日 仙台駅 → 一ノ関駅

東京駅以来の大混雑

 仙台から14時35分発の小牛田行に乗る。4両編成の電車は満員。さすが仙台。東京駅を出発して以来、初めて見る大混雑の光景だ。それも小牛田に向かっていくにつれてすいてくる。

 15時20分、小牛田着。ここは鈍行乗り継ぎではきわめて重要なポイント。陸羽東線、気仙沼線、石巻線が分岐している。小牛田は鉄道の町だが、東北新幹線は古川を通っている。古川は陸羽東線の駅になる。

 東北本線の「仙台〜小牛田」間は本数が多い。しかし小牛田から先になると、本数はぐっと少なくなる。

 小牛田からは、ほとんど待たずに次の列車に乗れた。

 15時35分発の一関行。県境越えの2両編成の電車。石越までが宮城県で、油島になると岩手県。次の花泉は岩手県最南の町として知られていたが、今では一関市になっている。

 花泉の次の清水原も岩手県だが、その次の有壁は宮城県。有壁は奥州街道の宿場町で、ここには「東京〜青森」間の奥州街道で唯一の本陣が残っている。

 有壁からゆるやかな峠を越えて再度、岩手県に入る。

 16時23分、一関に到着。ここでは大船渡線が分岐している。

30年目の「六大陸周遊記」[078]

[1973年 – 1974年]

ヨーロッパ編 1 タンジール[モロッコ] → アルヘシラス[スペイン]

ジブラルタル海峡を越えて

 モロッコのタンジール港を出航したモロッコ船籍のフェリーは、アフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡に入っていく。さすが世界の海の「銀座通り」。大西洋から地中海へ、地中海から大西洋へと航行する船の数が多い。地中海から大西洋に向かってはタンカーと貨物船がまるで競争しているかのように並走していた。

 海峡東側入口の両側に見られる岩山は、ギリシャ時代に「ヘラクレスの柱」と呼ばれ、アトラスの神がこの柱で天を支えたとされた。

 そんなジブラルタル海峡を横切り、スペインのアルヘシラス港へ。

 モロッコの山々が遠ざかり、前方にはスペインの山々がはっきりと見えてくる。やがて英領のジブラルタルが海に浮かぶ島のように見えてくる。そしてタンジール港を出てから3時間後の10時10分、アルヘシラス港に到着。スペインの大地に降り立つと、イギリスのロンドンを目指して「ヨーロッパ編」のヒッチハイクを開始した。

難しいスペインでのヒッチハイク

 スペインでのヒッチハイクは難しかった…。

「スペインでのヒッチハイクは難しい。ヨーロッパでも一番、難しい国だ」
 といった話を何度か聞いたが、ほんとうにその通りだった。

 1日の大半を費やして道端に立ち、数え切れないほどの通り過ぎていく車に排気ガスを浴びせられると、自分自身が何とも情けなく惨めになってくる。

 それまでスペインは2度、1968年〜1969年の「アフリカ一周」と1971年から1972年の「世界一周」のときにバイクで走っているが、まさかヒッチハイクがこれほど難しい国だとは思わなかった。

 やっと乗せてもらったと喜んだのもつかのま、わずか10キロとか20キロといった短い距離で、町にたどり着くとビールでも飲まずにはいられない心境だ。

もういやだ…

 日が暮れる。ほとんど先に進めないまま、明かりの灯りはじめた町を歩く。石造りの家々が建ち並ぶ町中をさまよい歩いていると、ますますブルーな気分になってくる。

 家々からこぼれてくる明かりは、まるで針のようにチクチクと胸に刺さってくる。お父さんがいて、お母さんがいて、子供がいて…。楽しそうな一家団欒。そのような人間としての当たり前の営みが無性に恋しくなってくる。何の心配もなく、屋根の下で一晩眠れる、そのことがうらやましくて仕方なかった。

 鉛のように重い足をひきずって歩く。町を抜け出たところで野宿できそうな場所を探し、寝袋1枚で眠るのだが、雨が降り出したら真夜中でも飛び起きて逃げ出さなくてはならない。そのような毎日なので、旅の疲れがずっしりと重く溜まり、
「もういやだ…。何でこんなことをしているのだろう」
 と、そんな自分がたまらなくいやになってくる。

 しかしそこで自分を支える最後のものは、
「もっと旅をつづけたい。もっともっと世界を駆けまわりたい」
 という心の奥底からの叫び声。

 夜が明けると、
「よし、今日もガンバルぞ」
 と、寝袋をすばやくたたみ、そしてふたたび歩きはじめるのだった。

30年目の「六大陸周遊記」[077]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 7 カサブランカ[モロッコ] → タンジール[モロッコ]

ケニトラのキャンプ場

 モロッコ最大の都市、カサブランカを過ぎると、それまでは道路の右側にあったキロポストは、道路の左側になる。モロッコの道はすべてが「カサブランカに通ず!」か。

 モロッコの首都ラバトからアフリカの旅のゴール、タンジールまでは、ワーゲンのオンボロ車に乗せてもらった。タイという若者の運転する車。彼はタンジールまで行くという。

 ケニトラの町に近づくと、タイのオンボロ・ワーゲンは調子が悪くなった。

「今日はここに泊ろう」
 といってキャンプ場に行く。閑散としたキャンプ場で、旅行者の姿はほとんどない。ドイツやイギリス、フランスなどからの旅行者でにぎわっていたアガディールのキャンプ場とは大違いだ。

 タイは「明日、明るくなってから、車の修理をする」
 といっている。

麻薬の館

 ケニトラのキャンプ場ではシュラフのみで寝た。さんざん蚊にやられ、かゆくてかゆくて仕方ない。

 朝、シュラフを見ると、ノミが飛び跳ねている。クソッ。捕まえてつぶした。さらに下着にはびっしりシラミがついている。前の晩の「かゆみ」は蚊、のみ、シラミのトリプルパンチだった。

 キャンプ場のシャワーを浴び、下着をとりかえた。シラミにやられた下着は、もったいなかったけれど捨てた。

 タイは車の修理をはじめた。ポイントが原因だったようで、新しいのに替えると、エンジンはふたたび調子よさそうな音をたてる。

 さ、出発だ。

 タンジールを目指して北へ。道のわきではメロンやブドウを売っている。水田やサトウキビ畑、塩田を見る。

 タンジールの手前、40キロほどのところでは、
「いいところに連れていってあげる」
 といわれ、とある家に入った。そこはまさに「麻薬の館」。ヒッピー風の5人の若者たちがハッシーシを吸っている。5人ともイギリス人旅行者で、1人は女の子。1人はかなり重症で、ゲッソリとやせこけ、指は絶えず震えていた。

 タイはぼくにも吸わないかといったが、タバコも吸わないので断った。

タンジールに到着!

「麻薬の館」を離れ、タンジールへ。

 タイは車を運転しながら、ずっとハッシーシ入りのタバコを吸っている。「麻薬の館」で手に入れたハッシーシをタバコに混ぜ、紙で巻き、それを吸っているのだ。

「これはタバコに混ぜているから、強くはないよ」
 といってるが、車内にはハッシーシ特有のにおいが充満した。

「六大陸周遊・アフリカ編」のゴール、タンジールに到着。

 タイと別れ、町を歩く。感無量だ。

「とうとう、ここまで来たか…」

 タンジールからジブラルタル海峡を越えてスペインのアルヘシラスに渡るのだ。

 モロッコ領内に盲腸のようにくっついているセウタからアルヘシラスに渡れば、フェリー代は3分の1で済むが、どうしても「アフリカ編」の最後をここ、タンジールにしたかった。

 日が沈むと2度、「ドーン」、「ドーン」と大砲の音が響き渡った。この日からイスラム教の断食月「ラマダーン」が始まった。この砲声を合図に、1日の断食を終え、最初の食事をとるのだ。

モロッコを出られない…

 タンジールの町をひと歩きしたところで、港に行く。港前のエージェントでスペインのアルヘシラスまでの切符を買い、乗船口へ。19時発のフェリーに乗船する。

 まずは税関、つづいてパスポートチェック。

 ところがなんと乗船直前だというのに、
「(パスポートにモロッコへの入国印がないので)イミグレーション・オフィスに行くように」
 といわれてしまった。

 イミグレーション・オフィスに行くと、
「なぜ、モロッコの入国印がないのか」
 と、聞かれた。

「陸路でモロッコに入ったので、その地点にはイミグレーションがなたったんです」
 と、答えた。

 そうか、わかったということで、イミグレーションのオフィサーは一度はポンとパスポートに出国印を押してくれた。

 だが、そのあとがいけなかった…。

「ところで、どこからモロッコに入ったのかね」

「はい、スペイン領サハラからです」
 イミグレーション・オフィサーはそれを聞くと、急に怒り出し、
「サハラ・エスパニョールではない。サハラ・ド・モロッコだ」
 といって、出国を取り消され、イミグレーション・オフィスからポリス・フロンティア(国境警察)に連れていかれた。

 まずいことになった…。

 ポリス・フロンティアではコミッショナー(署長)に連絡が行き、彼が来るまで待つようにといわれた。その間に19時発のフェリーは出てしまった。

 コミッショナーが来るまでの間、警官のモハメッドさんと話した。彼はさんざんイスラエルの悪口をいったあと、ワールドカップのアフリカ代表がザイールになったことに腹をたて、
「アフリカ代表はモロッコでなくてはダメだ!」
 といって怒り心頭といった顔をする。

 やがてコミッショナーがやってきた。

 パスポートをチェックされ、いくつかの質問をされた。

「キミはイスラエルには入ったかね」
「いいえ」(ほんとうは入っている…)
「キミはレッド・アーミー(日本赤軍)のメンバーかね」
「いいえ」
「モロッコは好きかね」
「はい」

 それでフロンティア・ポリスでの取調べは終った。

 モハメッド警官に連れられてフェリーの待合室へ。そこでひと晩、寝られるようにしてくれた。さらに「明日の朝の便に乗れるようにしておくので」ということで、船会社のオマールさんを訪ねるようにといわれた。

 21時30分、最終のフェリーが到着。それからしばらくして待合室の電気は消えた。ベンチで寝たが、さんざん蚊にやられた。もう踏んだり蹴ったりだ。

タンジールの中心街
タンジールの中心街
タンジールの中心街
タンジールの中心街
タンジール港へ
タンジール港へ
さらば、アフリカよ!

 1974年9月18日。

 はたしてうまく7時10分発のフェリーに乗れるかどうか。一抹の不安をかかえてフェリー待合室で朝を迎えた。まずは船会社に行き、オマールさんに会うと、すでに話は通じていて、そのままのチケットで船に乗れるようにしてくれてあった。

 乗船手続きがはじまる。

 税関のあと、パスポートチェック。ここでは昨夜と同じように「モロッコの入国印がないではないか」で、とがめられたが、「ポリス・フロンティアのコミッショナーからの出国許可をもらっている」のひと言で出国OKになった。

 パスポートに再度、ポンと出国印を押された。

 だが…、何とも偶然なことに、それはイスラエルの入国印の隣りだった。

「もし、バレたら…」
 と、その瞬間、冷や汗が吹き出した。

 7時10分、モロッコ船のフェリーはタンジール港を離れていく。ソ連の客船、イタリアの客船が見える。

 離れていくタンジールの町並みに向かって、
「さらば、アフリカよ!」
 と、叫んでやった。

 オーストラリアのパースからインド洋のモーリシャス島に渡り、「アフリカ編」の旅を始めたのが1973年12月13日。それから280日目にアフリカを離れ、次ぎの大陸のヨーロッパへと向かっていく。

早朝のタンジール港
早朝のタンジール港
フェリーに乗船
フェリーに乗船
離れゆくタンジール
離れゆくタンジール
離れゆくタンジール
離れゆくタンジール

青春18きっぷ de 東北列車旅[03]

2018年(3)8月3日 福島駅 → 仙台駅

交通の要衝地「岩沼」で満員に

 福島からは12時40分発の仙台行に乗る。福島〜仙台間の列車だが、2両編成。県境越えなので、それほど乗客数は多くないからだ。福島を出ると、左手に吾妻連峰を見る。安達太良山と吾妻連峰の間の大きく落ち込んだところは土湯峠だ。

 貝田駅を過ぎると宮城県に入る。国見峠が県境なので、宮城県に入ったとたんに電車はスピードを上げ、峠を下っていく。宮城県側の最初の駅は越河。越河は奥州街道の宿場町。越河の次が白石で、白石を過ぎると、大河原、船岡、槻木と白石川沿いの町を通っていく。槻木では阿武隈急行鉄道が分岐する。

 槻木の次が岩沼。ここでは常磐線が分岐する。岩沼は国道4号と国道6号の分岐点にもなっている東北の交通の要衝地。かつての奥州街道と陸前浜街道(水戸街道)の追分だ。

 岩沼でほぼ満員になる、名取を通って仙台に到着。ここでは30分ほど時間があったので、駅構内の立ち食いの店で「肉うどん」を食べ、改札口を出て、仙台の駅前の風景を眺めた。

30年目の「六大陸周遊記」[076]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 6 アアイウン[スペイン領サハラ] → カサブランカ[モロッコ]

町全体が要塞のアアイウン

 スペイン領サハラのアアイウンは、町全体が要塞といった感じだ。モロッコとの国境が風雲急を告げているので、戦力を急速に増大させていた。新しい兵舎があちこちに続々と建てられ、軍用車が町中を頻繁に走りまわっていた。

 アアイウンの町を歩く。そしてまた歩く。自分の足で町をひとまわりした。

 日が暮れると、急速に気温が下がり、ヒンヤリとしてくる。砂漠気候の影響のほかに、大西洋の寒流も影響しているようだ。

 寒さに震えながら、白い教会前のベンチで寝る。寒いのに蚊にやられた…。

緊迫の国境越え

 1974年9月13日、アアイウンを出発。ヒッチハイクでモロッコとの国境を目指す。軍用トラックや戦車部隊が続々と北の国境方面に向かっていく。演習なのか、ドーン、ドーンと大砲の音が聞こえてくる。空には何機ものジェット戦闘機の銀翼が光っている。開戦間近を思わせる光景だった。

 アアイウンから国境までは80キロほど。その間は舗装路だ。途中、2ヵ所に検問所があったが、ピーンと張り詰めた緊張感が漂っていた。

 夕方、国境に着いた。

 スペイン領サハラ側で出国手続きをし、モロッコ領内に徒歩で入っていく。バラックが何棟か、建っている。我慢できないほどの冷たい風が吹いている。

 スペイン領サハラの車はモロッコに入れない。モロッコの車はスペイン領サハラには入れない。そのため両国間の物の流れは、ここ、国境の砂漠地帯で物の受け渡しをするようになっていた。

 戦争同然の状況下でも、両国間の交易はしっかりとおこなわれていた。

サハラ砂漠を抜け出た!

 入国手続きのないまま、モロッコに入っていく。

 荷物を積み込んでいる最中の3台のトラックに頼むと、幸運にも乗せてもらえた。モロッコ側のサハラの玄関口、タンタンまで行くトラックだった。

 積み込みが終ると、荷台の、うず高く積まれた荷物のてっぺんに登る。

 やがて3台のトラックは動き出す。一望千里のサハラの眺め。自分の心の中まで雄大な風景になっていく。

 砂深い道がつづく。トラックは砂にめりこみながら走った。

 小さな砂丘が連続する砂丘地帯。その中をトラックは縫うように走り、北へ北へと進んでいった。

 最後の難関はズボズボの砂道。そこでは何度もスタックしたが、そのたびにシャベルで砂をかき、サンドマットを使って砂地獄を脱出した。

 砂丘群が後に去ると、道は固くなった。砂がずいぶんと少なくなった。その夜、タンタンについた。ついにサハラ砂漠を抜け出たのだ。

 タンタンからは舗装道路になる。グルミン、アガディール、エサウェラ、マラケシュと通り、モロッコ最大の都市、カサブランカに到着した。]

モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
モロッコ南部のサハラを行く
タンタンからは舗装路
タンタンからは舗装路
タンタンからは舗装路
タンタンからは舗装路
グルミン近くの乾燥した風景
グルミン近くの乾燥した風景
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
アガディールに近づくとアトラス山脈が見えてくる
カサブランカに到着!
カサブランカに到着!
カサブランカに到着!
カサブランカに到着!

30年目の「六大陸周遊記」[075]

[1973年 – 1974年]

サハラ砂漠縦断編 5 ビルモグレイン[モーリタニア] → アアイウン[スペイン領サハラ]

サハラ越えのアフリカ人旅行者

 モーリタニア北部のオアシス、ビルモグレインでは警察に泊めてもらった。

 朝から暑い。警察の前が食堂で、パンとコーヒーの朝食を食べる。砂漠で飲むコーヒーはうまかった。

 バッグがとうとうダメになり、キューバ製の小麦粉を入れる布袋を買う。その中に荷物を突っ込んだ。

 その店は雑貨屋で、店の片隅は床屋になっている。そこで髪の毛をバッサリ切ってもらい、丸坊主同然にした。

 暑くて暑くてどうしようもない。強烈な暑さにやられ、郵便局の建物の影でゴロゴロしている。そこでは何人ものアフリカ人旅行者に出会った。

 セネガル人4人とモーリタニア人1人のグループ。ガンビア人6人のグループ。彼らは全員、アルジェリアのティンドウフに行くトラックを待っているのだ。アルジェリアからモロッコ、スペイン経由でフランスへ。全員がフランスで働きたいといっている。

 飛行機代を払うほどのお金は持っていないので、陸路、サハラ砂漠を越えてヨーロッパを目指すのだ。だが、ビルモグレインからティンドウフに行く車はきわめて少ない。もう1週間以上も待っているという。

 なぜスペイン領サハラ経由でモロッコに入らないのか、と聞いてみた。その方がはるかに交通量は多いのだ。すると、スペイン領サハラはアフリカ人旅行者の入国を認めていないからだという。

流砂を越えて

 その日の午後、スペイン領サハラの首都アアイウンに向かうトラックが、4台一緒になって出発した。そのうちの1台に乗せてもらったが、それらのトラックはアアイウンから来たもので、帰りは空荷だ。

 4台のトラックがサハラを突き進む光景は圧巻。長く延びる砂塵を巻き上げていく。

 流砂地帯を越える。まさに「砂の河」で、1本の川幅は100メートル前後はある。トラックは次々にスタックしてしまう。そのたびに砂を掘り、サンドマットを敷いて砂の河を渡っていく。

 夕日が地平線に近づき、やがて落ちていく。

 夜になると、突然、突風が吹き荒れる。トラックの荷台に乗っているので、小石まじりの砂がビシビシバシバシ顔に当る。

 前方にポツンと小さな灯が見えてきた。それはスペイン領サハラの国境守備隊の要塞だ。その夜は国境の町ゲルタゼムールで泊った。

ビルモグレインを出発。一望千里のサハラを行く
ビルモグレインを出発。一望千里のサハラを行く
木陰で小休止
木陰で小休止
スペイン領サハラの一筋の道を行く
スペイン領サハラの一筋の道を行く
スペイン領サハラの風景
スペイン領サハラの風景
アアイウンの町並みが見えてくる
アアイウンの町並みが見えてくる
首都アアイウンに到着

 夜が明ける。山がちな風景。国境の税関、イミグレーション、警察などはすべて白い建物。スペインを感じさせる洒落た建物だ。

 入国手続きをすませ、首都アアイウンを目指して出発。じきに山々は後方に去り、平坦な砂漠の風景に変わる。

 砂はそれほど多くない。その中に車1台分が通れるくらいの、幅の狭い舗装路が延びている。

 国境から260キロ、スペイン領サハラの首都アアイウンには、まだ日の高いうちに着いた。

 猛烈なのどの渇きにたまらず、店に飛び込み、冷えたコカコーラーをたてつづけに4本飲んだ。まさに生き返るような思い。それとともに、アアイウンに着いた喜びがジワジワと湧き上がってくる。

 このルートでのサハラ砂漠縦断の峠を越えたのだ。

アアイウンに到着
アアイウンに到着
アアイウンに到着
アアイウンに到着