東北を行く[09]~3.11から3年~(2)

『バイク旅行』2014年夏号より

南三陸町に残る「防災対策庁舎」。ここから「みなさん高台に避難してください!」と命をかけて放送された
▲南三陸町に残る「防災対策庁舎」。ここから「みなさん高台に避難してください!」と命をかけて放送された
すさまじい量の瓦礫は、完全に消え去った

 2014年3月13日、蒲庭温泉を出発すると、松川浦から浜通り最北の新地町を通り、宮城県の山元町に入った。

 宮城県の復興のペースは福島県をはるかに上回る。山元町の海岸地帯ではビッグボーイを走らせながら「おー!」と驚きの声が出た。完成した防潮堤がまるで「万里の長城」のように延々と延びているからだ。所々には階段があり、幅広の防潮堤に上がれる。その上をどこまでも歩いて行けるようになっている。

 亘理町からは太平洋沿岸の県道10号を走り、阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した港町。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。震災直後は荒浜中学校の広いを校庭を自衛隊の災害復旧支援の大型車両が埋め尽くしていたが、あの光景がまるで幻だったかのように思える。跡地には新しい校舎が建設中だ。

 荒浜漁港に行くと岸壁はかさ上げされ、漁も再開されている。荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口南側の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設「鳥の海」がある。大改装して5階建にして間もなく大津波に襲われた。「もう、このまま廃業するのだろうか」と思っていたが、復旧工事が進み、秋には営業を再開するという。「鳥の海」の前にあった巨大な瓦礫の山は撤去された。これはすごいことだと思う。東北太平洋岸の全域にあったすさまじばかりの瓦礫の山は、大震災3年目で撤去作業が終わり、完全に消え去った。

石巻、市街地に比べ、漁港周辺は劇的に変わっている

 阿武隈川河口の荒浜から名取川河口の閖上へ。

 閖上は震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、ここだけで1000人近い犠牲者を出した。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望する。閖上の復興は遅れ、1年前の光景がそのまま残っていた。住民のみなさんの気持ちがなかなかまとまらないのが理由のようだ。それでも残っていた家々のコンクリートの土台が撤去され、海岸には朝市用のプレハブの建物ができていた。漁港の岸壁も修復工事もおこなわれていた。

 仙台から国道45号を北上。多賀城、塩竈、松島。東松島と通り、石巻の中心街へ。

 石巻駅の駅前でビッグボーイを停め、ひと息入れたところで。ゴーストタウン化した旧北上川の川沿いを走った。次に川岸から日和山に登り、展望台から旧北上川を見下ろした。山裾と海の間の瓦礫は撤去され、一面の更地になっている。しかし復興にはほど遠い、寒々とした光景だ。

 日和山からの眺めを目に焼き付けたところで石巻漁港へ。

 町中の被災地の復興はそれほど進んではいないが、漁港の周辺は劇的に変わっている。魚市場前には4車線の舗装道路ができ、水産加工の工場が完成している。「まるちゃん」(東洋水産)の新工場も稼働していた。

 石巻から国道398号で女川へ。万石浦沿いに走り、女川町に入る。万石浦沿いの女川は大津波の被害をまったく受けていない。ところがJR石巻線の浦宿駅前を過ぎ、ゆるやかな坂を登り、坂上の女川高校を過ぎると風景は一変し、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。被災地の瓦礫は撤去されていたが、倒壊してひっくり返ったビルはまだそのまま残されていた。女川の町の復興は遅々として進んでいないが、魚市場は復活し、漁港の周辺には活気があった。

小学校が次々と更地になるなか、大川小学校は残っていた

 女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行く。ふたたび石巻市に入り、雄勝へ。雄勝中学校跡は更地になっていた。その隣の新山神社は再建されていた。雄勝は復興の芽すら見えない状態だが、その中にあって新しい水産加工場が完成し、新しい漁協の建物の前に仮設の商店街ができたのを見て、ホッと救われたような気持ちになった。

 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出るが、そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので、長らく通行止がつづいたが、今はその区間に仮橋がかかっているので通行できるようになっている。

 新北上大橋のたもとには、大川小学校がある。ここでは78人の生徒と11人の職員が大津波に流され、そのうち助かったのは5人の生徒と1人の職員だけ。大川小学校の校舎はまだ残っていた。

 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。北上川の川沿いには吉浜小学校があった。この吉浜小学校にも大津波が押し寄せた。3階建校舎の3階までが浸水した。この時、吉浜小学校はすでに放課後で、49人の生徒のうち、卒業式の準備で残っていた6人の生徒と教職員は校舎の屋上に逃げて助かった。その吉浜小学校の校舎は取り壊されて跡形もない。吉浜小学校のすぐ近くには避難所になっていた石巻市北上総合支所がある。ここでは悲惨を極め、避難してきた57人の内、何と54人が亡くなった。その中には吉浜小学校の生徒が7人もいた。

 北上川の河口を見たあと、相川漁港に行く。ここには相川小学校がある。海岸のすぐ近くにあるのにもかかわらず、70余名の生徒、全員が無事だった。地震発生と同時に生徒たちは教職員と一緒に小学校の裏山を駆け登った。その3日前に相川小学校では津波の非難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山というのは、大川小学校の裏山よりもはるかに急な登りだ。その相川小学校の校舎も取り壊され、更地になっていた。

三陸は世界有数の大漁場、志津川も漁港周辺の復興が先行していた

 国道398号を北へ、石巻市から南三陸町に入る。三陸屈指の海岸美を誇る神割崎の真っ二つに割れた「神割伝説」の大岩を見る。大津波を連想させる地名の「波伝谷」を通り、国道45号に合流。志津川湾を見ながら走る。志津川湾の養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまったが、震災3年目でかなりの数の養殖筏が見られるようになった。

 国道45号沿いの南三陸温泉「観洋」の湯に入る。大浴場と露天風呂につかりながら、「海の畑」のような志津川湾を見下ろした。湯から上がるとレストランで「イクラ丼」を食べた。ここは絶景ポイントで、志津川湾に浮かぶ荒島が目の前に見える。

 国道45号で志津川の町中に入っていくと、震災からすでに3年が過ぎたというのに、復興にはほど遠い光景が広がっている。その中にポツンと鉄骨むき出しの「防災対策庁舎」が残っている。南三陸町では800人以上の犠牲者が出たが、大津波は高さ12メートルの「防災対策庁舎」を飲み込んだ。ここでは若い女性職員が命の尽きるまで、「みなさん、逃げてください。高台に避難してください」と、防災無線のマイクを握りしめて放送しつづけた。そのおかげで助かった人も多い。

 志津川漁港に行くと大津波によって破壊された防潮堤はそのままだが、廃墟のままの町中とは対照的に、急ピッチで復興が進んでいる。魚市場にはカモメが群れ飛んでいる。石巻、女川、志津川とどこも町中の復興は遅れているが、漁港周辺の復興は進んでいる。あらためて三陸の海が世界有数の大漁場であることを思い知らされた。

 志津川湾に浮かぶ荒島に歩いて渡る。常緑樹のおい茂る島。山道を登ったところにまつられている荒嶋神社に参拝した。

線路が流された気仙沼線は、BRTに変わっていた

 志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態のままだ。海沿いを走る国道45号の落下した高架橋は撤去されていた。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線の歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線は、BRT(バス高速輸送システム)に変わっていた。

 国道45号で南三陸町から気仙沼市に入っていく。気仙沼では潮吹岩で知られる岩井崎を歩いた。国道45号から岬までの道沿いは大津波にやられ、すさまじい惨状を見せている。岩井崎の食堂や土産物店、旅館はすべて大津波によって破壊され、根こそぎ流されたが、何とも不思議なことに岬の突端に建つ第9代横綱の秀ノ山像は無傷で残った。そんな岩井崎に食堂が1軒、新しくできた。「塩づくり体験館」もできていた。

 岩井崎をあとにし、気仙沼の中心街に入っていく。

 気仙沼湾は奥深くまで切れ込んだ海。大津波の直後は何隻もの大型漁船が陸地に乗り上げた。最後まで残った「乗り上げ船」も昨年(2013年)、撤去されて今は更地になっている。今回の大津波のすさまじさを後世に伝える3・11の記念碑的なものは、こうして震災3年目にしてほとんどが消えた。

 気仙沼から唐桑半島に入り、半島突端の御崎の国民宿舎「からくわ荘」に泊まった。大浴場の湯から上がると夕食。刺身、カレーの煮魚、味噌鍋、焼売、豆腐、おからといった夕食を食べた。