東北を行く[07]~3.11から2年~(4)

『バイク旅行』2013年夏号より

大槌町の旧町役場はまだ残っていた。「東日本大震災」のメモリアルとして、役場の一部を残そうと決めた(しかしその後、取り壊されて今は更地になっている)
▲大槌町の旧町役場はまだ残っていた。「東日本大震災」のメモリアルとして、役場の一部を残そうと決めた(しかしその後、取り壊されて今は更地になっている)
釜石、目抜き通りはずいぶんときれいになった

 2013年3月15日。大船渡から県道9号で綾里へ。綾里漁港では漁民総出といった賑わいで収穫したワカメを岸壁に揚げていた。活気に満ちあふれた漁港の光景だ。

 三陸鉄道南リアス線の綾里駅前には明治三陸大津波と昭和三陸大津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。

 綾里は今回の大津波でも30メートル超の大津波に襲われたが、「津波教育」が徹底しているおかげで死者は30人ほどですんだ。ちなみに明治三陸大津波(1896年6月15日)では、旧綾里村では1269人もの死者を出している。

 越喜来で国道45号に合流し、羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入る。

 震災2年後の釜石の目抜き通りは、ずいぶんときれいになった。釜石の中心街を走り抜け、釜石港へ。ここでは港の防潮堤を突き破って3000トン級の大型貨物船が乗り上げた。その船は日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻されたが、船が突き破ってできた防潮堤の破壊箇所はそのまま残っていた。

 釜石を出発。国道45号で大槌へ。その手前が鵜住居で、ここまでが釜石市になる。

 鵜住居は釜石市最大の被災地で、1000人もの犠牲者を出した。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。その防災センターは、廃墟と化した町並みの中にまだ残っていた。

大槌、犠牲者を悼む「慰霊1344広場」が開設されていた

 釜石市から大槌町に入る。大槌町では、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になった。すさまじい数字だ。町役場はまだ残っていたが、「平成三陸大津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、町を二分した。結局、一部を残すことに決めた。町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようだ。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」が開設されていた。

 大槌から山田へ。山田も大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上もの犠牲者が出た。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの人命が奪われた。鵜住居から山田までは20キロほど。ビッグボーイで走れば30分ほどの距離でしかない。

 壊滅的な被害を受けた山田だが、隣合った2つの町、大槌と山田には大きな違いがある。それは町役場だ。大槌の町役場は津波の直撃を受けて全壊。それに対して山田の高台にある町役場は残った。司令塔を失った大槌と、司令塔の残った山田、この隣合った2つの町はあまりにも対照的だ。

 山田の町役場の隣には八幡宮があり、参道の入口には「津波記念碑」が建っている。それは1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられた。

 山田の「津波記念碑」には次のように書かれている。
 1、大地震のあとには津波が来る
 1、地震があったら高い所に集まれ
 1、津波に追われたら何所でも此所位高い所へ登れ
 1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け
 1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな

 山田の町役場は「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無事だった。それに対して山田の町並みは「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町並みを再建したので、明治三陸大津波、昭和三陸大津波にひきつづいて今回の平成三陸大津波でも、町が壊滅状態になってしまった。

 山田湾の青い海には、養殖用の筏が見られるようになった。山田の海が回復している。山田漁港に行くと、ずいぶんと活気が戻っていた。おびただしい数のカモメが、山田漁港に水揚げされる漁獲量が増えていることを証明していた。

田老、「世界最強の防潮堤」すらも一瞬のうちに崩壊した

 山田を出発。国道45号でブナ峠を越え、宮古の中心街に入っていく。

 今回の大震災で一番の衝撃的な映像というと、ぼくにとっては宮古を襲った大津波のシーンだ。閉伊川は押し寄せる津波であっというまに増水し、あふれ出た膨大な水は滝となって道路に流れ落ち、走っている車を次々に飲み込んだ。漁船が木の葉のように流れ、国道45号の閉伊川をまたぐ宮古大橋に激突した。そんな映像が目に焼きついて離れないのだが、この映像は川岸の宮古市役所の屋上から撮られたものだという。

 国道45号で閉伊川をまたぐ宮古大橋を渡り、T字路を右折。国道106号との分岐点を右折し、宮古市役所前の閉伊川の川岸にビッグボーイを停めた。抜けるような空の青さ。空の色を映して閉伊川の河口も吸い込まれそうになるほど青い。この川を巨大津波が押し寄せた。

 宮古から国道45号で田老へ。ここでは大津波は万里の長城を思わせるような巨大防潮堤を破壊し、乗り越えた。

 田老は総延長2433メートルという巨大な防潮堤で囲まれていた。「世界最強の防潮堤」といわれ、旧田老町(現宮古市)は「津波防災の町」を宣言したほど。この巨大防潮堤が大津波から町を守ってくれるものと、誰もが信じきっていた。

 それが今回の「平成三陸大津波」では、まったく役にたたなかった。高さ30メートルを超える大津波は海側の巨大防潮堤を一瞬のうちに破壊し、内陸側の巨大防潮堤を軽々と乗り越え、185人もの犠牲者を出したのだ。

 田老の防潮堤は二重構造で、中心点から東西南北の4方向に延びるX字型をしていた。そのうち残ったのは内陸側の2方向だけ。 田老の町は「明治三陸大津波」、「昭和三陸大津波」につづいて、「平成三陸大津波」でも全滅した。

 田老の町跡を走り過ぎ、道の駅「たろう」を過ぎたところで国道45号を右折すると、「グリーンピア三陸みやこ」がある。隣接して大規模な仮設団地があるが、そこに田老の人たちは住んでいる。太平洋の海岸に下ったところが小堀内漁港。今回の「平成三陸大津波」では最大波高37・9メートルを記録した。小堀内漁港にはまったく人影はなかった。

北緯40度線を越える。まだまだ津波の傷跡は続く

 宮古市から岩泉町を通り、田野畑村に入る。田野畑村から普代村は海沿いの県道44号を行く。北緯40度線上の黒崎では、地球儀型をした北緯40度線のモニュメントを見、カリヨンの鐘を鳴らし、高さ140メートルの断崖上から太平洋を見下ろした。

 海岸に下った漁港は巨大な防潮堤に守られ、その内側の集落には、まったく被害は出なかった。各地で防潮堤や水門が破壊されたり、大津波が防潮堤を乗り越えたりして大きな被害の出た現場を見てきたので、ここではホッと救われるような思いがした。

 とはいっても、ここでも相当な高さまで津波が押し寄せている。漁港を過ぎた川沿いの山肌には、20メートルぐらいの高さまで樹木がなぎ倒され、津波の駆け上った痕跡がはっきりと残っていた。

 普代からは国道45号で野田へ。ここは大きな被害を受けた。海岸の防潮堤は崩壊し、海岸からかなり内陸に入った町でも、多くの家が倒壊した。野田では押し寄せた津波よりも、引き波によって激しくやられたという。すべてを海に持っていかれ、何も残らなかったほどのすごさだったという。町の中心にある愛宕神社の見上げるような大鳥居は残った。そのすぐ近くには仮設の商店街がオープンした。

 野田からは海沿いの県道268号を行く。野田村から久慈市に入り、小袖海岸へ。ここは日本最北の海女漁の里。小袖海岸のきれいな海岸線を行く。狭路のカーブ、トンネルが連続する。断崖が海に落ち込む海岸線を抜け出ると久慈の町に入っていく。久慈はそれほど津波にはやられなかった。30メートル超の大津波が押し寄せたが、人的被害は死者・行方不明者6名。これは奇跡的な数字といっていい。

下北半島は冬景色。今年は、尻屋崎まで走ることができた

 久慈を過ぎると、津波の被害は急速に薄れてくる。そして国道45号で岩手県から青森県に入った。

 八戸から国道45号→国道338号で下北半島へ。

 三沢の「三陸温泉」(入浴料250円)の湯に入り、湯から上がると館内の食堂で「イカ刺丼」(850円)の夕食。国道338号沿いにある「三陸温泉」は湯量が豊富で、湯船も広い。おまけに食事ができるのでカソリの下北ツーリングには欠かせない温泉だ。

「三陸温泉」から三沢市内に入り、「太郎温泉」に泊まった。素泊まりで3300円。

「太郎温泉」の湯につかり、尻屋崎を夢みて眠りについたが、心配事はただひとつ、雪。3月中旬の下北半島はまだ冬同然の寒さなのだ。

 翌朝は6時、起床。朝湯に入り、7時に出発。国道338号を北へ。ビッグボーイで切る風は真冬と変わらないような冷たさ。三沢を過ぎると、あたりは一面の雪景色になったが、ありがたいことに路面に雪はなかった。

 ガソリンスタンドで給油したときに、言われた。

「いやー、ラッキーだったね。2、3日前だったらアイスバーンでとてもではないけど、バイクでは走れなかったよ」

 ラムサール条約登録地の仏沼や小川原湖から流れ出る高瀬川を見たあと、六ヶ所村から東通村に入っていく。物見崎が村境。岬の突端には灯台が立っている。そこから南側は連続する断崖の風景、北側は活況を見せる白糠漁港と、岬をはさんで南と北ではガラリと風景が変わる。

 尻屋崎への快走ルート、県道248号を北へ。下北半島特産のヒバ林の中を行く。ビッグボーイを走らせながら、ほのかに漂うヒバの香をかぐ。これがバイク旅の良さというもの。五感を鋭くさせてバイクを走らせながら、その土地特有の匂いをかぐことができるのだ。

 最後は県道6号で津軽海峡沿いに走る。対岸の北海道がはっきりと見えている。そして下北半島北東端の尻屋崎に到着した。

「着いた!」
 と、感動したのもつかの間、岬へのゲートが閉まっているではないか。

 尻屋崎は3月末まで冬期閉鎖。それではと尻屋の集落を走り抜け、太平洋側の尻屋漁港を通り、もう一方のゲートまで行ったが、やはり冬期閉鎖でゲートは閉まっていた。歩いて尻屋崎の灯台まで行こうかとも思ったが、それはやめにした。我が相棒のビッグボーイと一緒に立たなくては意味がないと思ったからだ。

 来た道を引き返し、尻屋漁港の岸壁にビッグボーイを停めた。そこを「鵜ノ子岬→尻屋崎」のゴールにした。