東北を行く[05]~3.11から2年~(2)

『バイク旅行』2013年夏号より

3・11から2年後の日和山から見る閖上。瓦礫はきれいに撤去されたが、きれいさっぱりと何も残っていない。復興とはほど遠い光景だ
▲3・11から2年後の日和山から見る閖上。瓦礫はきれいに撤去されたが、きれいさっぱりと何も残っていない。復興とはほど遠い光景だ
宮城県に入ると、おびただしい数のダンプカーが走り回っていた

 2013年3月13日。国道6号で宮城県の山元町に入り、JR常磐線の坂元駅まで行ってみる。坂元駅は高くなっているので、ホームは残った。ホームが防波堤の役目をしたからなのだろう、駅前の案内板も残っていた。

 この一帯では「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっている。福島県よりも宮城県の方が、はるかに海岸線の復興工事が進んでいるように見えた。

 坂元駅につづいて次の山下駅にも行ってみる。山元町は山下村と坂元村が昭和30年(1955年)に合併してできた町。山下駅が旧山下村の駅、坂元駅が旧坂元村の駅ということになる。山下駅の周辺のかさ上げした宅地造成はかなり進み、すでに次々と新しい家が建ち始めていた。それは目に見える東北の復興の姿だった。

 国道6号に戻ると、北へとビッグボーイを走らせ、亘理町に入る。ここからは太平洋沿岸ルートの県道10号を行く。

 亘理駅前から阿武隈川河口の荒浜へ。伊達藩の時代は塩竃と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。震災直後は荒浜中学校の広いを校庭を自衛隊の災害復旧支援の大型車両が埋め尽くしていた。それがまるで幻だったかのように今は何もない。校舎も取り壊されて広々とした更地になっている。

 荒浜漁港に行くと港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口南側の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して5階建にして間もなく大津波に襲われた。建物は残っているが、再開の見込みはまったくないという。「鳥の海」の前にあった巨大な瓦礫の山はきれいに撤去されていた。

 県道10号で阿武隈川を渡り、名取市に入る。そして仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜けていく。震災直後はこの区間は通行止になっていたが、周辺はすさまじいほどの惨状だった。大津波によって破壊された軽飛行機が何機も折り重なり、沼のような水溜りには何台もの車が沈んでいた。それもまるで幻だったかのように、今では痕跡すら見ることもできない。

瓦礫だらけの被災地は、無人の荒野に変わっていた

 名取川河口の閖上へ。震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。

 高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われた跡のようだ。ここだけで1000人近い犠牲者を出した。そんな閖上だが、瓦礫はきれいに撤去され、今では何も残っていない。

 港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望した。日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、酒田や石巻の日和山はよく知られている。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明している。

 江戸時代の閖上は、伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を通して、阿武隈川河口の荒浜と七北田河口の蒲生の中継地として栄えた。ちなみに蒲生にも標高6メートルの日和山があった。「元祖・日本で一番低い山」として知られていたが、今回の大津波で蒲生の日和山は根こそぎ流され、山が消えた。ところで閖上(ゆりあげ)の地名だが、伊達政宗は豊臣秀吉から贈られた門を船で運び、ここで陸揚げしたことに由来しているという。

 そんな閖上の日和山には高さ2・5メートルの木柱が2本、立っている。1本には富主姫神社、もう1本には閖上湊神社と書かれている。これは2つの神社の、神が宿るための神籬だ。もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていた。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流された。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流された。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで、日和山に両神社の仮設の社ということで2本の神籬が立てられたのだ。

 閖上の貞山堀にかかる橋にはカーネーションの白い花が並べられていた。

 貞山堀の橋を渡ったところには、
「ふるさと閖上 大好き」
 と大きく書かれた看板が立っていた。

 閖上漁港に行くと、仮設の魚市場が完成していた。漁港の岸壁は工事中。対岸では瓦礫処理の焼却場が大きな音をたてて稼動していた。その音は「閖上復興」への音のようにも聞こえた。

石碑に刻まれた子供たちの年齢が、胸にグサッと突き刺さる

 閖上を出発。県道10号で名取川を渡り、仙台市に入り、荒浜に寄った。

 東日本大震災当日の2011年3月11日、ぼくは家にいた。超巨大地震の発生後はテレビの画面に釘付けになった。大津波による被害の情報が次々にもたらされる中で、ものすごいショックを受けたのは「浜に200人ほどの死体が打ち上げられている」というニュースが流れた時だ。「これはとんでもない災害になってしまった…」と実感したが、それがここ、仙台市若林区の荒浜だった。

 県道10号沿いの荒浜小学校の4階建の建物はまだ残っていたが、それ以外には家一軒見られない。一面の荒野の中に貞山堀が一直線になって延びている。日本最大の運河、貞山堀は伊達政宗の夢の跡。海岸には大津波から2年後の3月11日に開眼供養が行なわれた聖観音像が立っている。石碑には荒浜の全犠牲者の名前と年齢が彫り刻まれているが、2歳とか4歳、5歳…といった子供達の名前が胸にグサッと突き刺さってくる。あまりにも酷い現実だ。

 県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。多賀城では陸奥の国府、多賀城跡を見る。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。

 今回の大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」と、日本史上、最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るものだといわれている。「貞観の大津波」では、陸奥の国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということがいえるのだろう。

 多賀城から七ヶ浜半島に入っていく。半島全体が七ヶ浜町になっているが、海岸地帯は大津波に襲われて大きな被害を出し、100人近い犠牲者を出した。

 七ヶ浜から塩竃へ。塩竃漁港は東北太平洋岸の漁業基地だが、震災のすぐ直後から魚市場は再開された。松島湾に位置する塩竃は、七ヶ浜半島や松島湾の湾口に連なる桂島や野々島、寒風沢島といった浦戸諸島の島々に守られたおかげで、それほど大きな被害を受けずにすんだ。

 塩竃から松島へ。松島も大津波の被害はそれほど受けていない。シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺は無傷で残った。国道45号沿いの土産物店もいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航している。復興一番乗りを果たした松島は、大津波から2年後ということもあって、観光客もかなり戻ってきているように見受けられた。

架線の垂れ下がった野蒜駅は、まだ震災直後の姿で残っていた

 松島からは海沿いの県道27号を行く。松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みも無傷。大津波の痕跡はまったく見られない。

 その次が「東名」で、ここには東名駅がある。「大塚ー東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けた。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状に変わる。大津波から2年になるが、依然として復興とはほど遠い光景をそのまま残している。

 東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線の野蒜駅前でビッグボーイを停める。駅前の県道27号の倒れた信号は撤去されているが、架線の垂れ下がった野蒜駅はそのまま残っている。錆びた線路もそのままだ。駅前のコンビニも店内が足の踏み場もないようなメチャメチャの状態で残っている。

 野蒜駅前からさらに県道27号を行く。鳴瀬川河口の堤防上のT字路を右折し、野蒜海岸を行く。大きな被害を受けた防潮堤は仮の修復工事が行なわれていた。東名、野蒜を襲った大津波はこの防潮堤を乗り越えた。

 野蒜海岸から短い橋を渡って宮戸島に入る。よほど気をつけていないと、気がつかないような短い橋だ。震災ではこの橋が落下し、宮戸島は孤立した。松島四大観の筆頭、「壮観(大高森山展望台)」の下を通り、里浜から月浜、大浜と通って室浜へ。「日本三大渓」のひとつ、嵯峨渓のある室浜が県道27号の終点になっている。

 宮戸島の集落は松島湾の内海に面した里浜と太平洋の外海に面した月浜、大浜、室浜の4つの集落から成っている。人口はほぼ1000人。月浜、大浜、室浜はかなりの被害を受けている。

 大津波の直後、東名や野蒜で大きな被害が出たこともあり、宮戸島に入る橋が落下したこともあり、宮戸島の状況が東松島市の市役所に届かなかったこともあって、一時は1000人の島民全員が絶望視された。ところが実際には1人の犠牲者も出さなかった。これはすごいことだ。まさに「奇跡の島」。大地震の直後、「津波が来る!」ということで、島民のみなさん全員がすばやく避難したからだ。

 宮戸島の島民のみなさんは、小さい頃から、「地震が起きたら津波が来る!」と頭にたたき込まれていた。避難してからがすごい。残った家々に島の米を集め、すぐに炊き出しが始まった。そのため島は孤立したが、救援隊が入ってくるまでの何日間かを島民のみなさんは励ましあい、助け合って全員が生き延びたのだ。

 宮戸島では民宿「桜荘」に泊まった。窓を開けると、目の前には絵のように美しい松島湾が広がっている。この海が大津波の後は瓦礫の海と化した。一面に埋め尽くされた瓦礫のせいで、海なのか陸なのか、わからないほどだったという。

「桜荘」の夕食は大変なご馳走だ。刺身の盛合わせ、カニとツブ貝、キンキ(金目)の焼き魚、しめ鯖、サーモンの和え物、ワカメの辛し味噌和え、貝やエビなどの海鮮鍋と海の幸三昧。さらにそのあとカキの殻焼き、ホタテの貝焼き、カレーの唐揚げが出た。