東北を行く[03]~3.11から1年~(3)

『バイク旅行』2012年夏号より

気仙沼の乗り上げ船はひときわ目立った。3・11から1年たっても撤去されずに残っていた
▲気仙沼の乗り上げ船はひときわ目立った。3・11から1年たっても撤去されずに残っていた
相川漁港ではワカメの水揚げ再開した

 2012年3月13日。石巻の民宿「小滝荘」の朝食を食べ、7時に出発。V−ストロームを走らせ、相川漁港へ。そこでは震災後、初めてという三陸産ワカメの水揚げが始まっていた。みなさんの生き生きとした表情が印象的。やっとワカメを採れるようになったという喜びが満ちあふれていた。
「写真を撮らせてくださ〜い!」と声を掛けると、漁師の奥さんは「兄さん、ちょっと待っててね。私、家に帰ってツケマツゲしてくるから」という。何という明るさ、何という茶目っ気。その一言で全員、大爆笑だ。

「あそこの大鍋でさっと茹でて食べなさい」
 といって、漁師の奥さんは採れたてのワカメをポンと投げてくれた。

 いわれたとおり、グラグラ煮立った大鍋にワカメを入れると、ワカメはその瞬間、きれいな緑色に変った。それをむさぼるようにして食べた。じつにうまい。

 相川漁港のみなさんに別れを告げ、漁港近くの相川小学校に行った。3階建の校舎は3階まで大津波に襲われて全壊していたが、民宿「小滝荘」で聞いたように、70余名の生徒は全員無事だった。地震発生と同時に学校の裏山に駆け登り、一人の犠牲者も出さなかったのだ。

 国道398号を北上し、石巻市から南三陸町に入った。

 神割崎の真っ二つに割れた「神割伝説」の大岩を見た。

 国道45号に合流すると志津川湾を見ながら走った。以前は「海の畑」を思わせる志津川湾の光景だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまった。そんな志津川湾に養殖筏が少しづつだが、増えはじめていた。

目を覆おうような光景の中、復興の息吹が芽生えている

 志津川の町中に入っていくと、震災から1年が過ぎたというのに目を覆うような光景が広がっている。その中にバス・ラーメン屋の「蔵八ラーメン亭」があった。ここで昼食。「広東麺&餃子」を食べたが、バス旅行気分で食べられた。これも小さな復興の息吹。

 志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態。海沿いを走る国道45号の歌津大橋は落下したままだ。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線の歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線の開通の見込みはまったくたっていない。「ウタツギョリュウ」の化石が展示されていた「魚竜館」も大きな被害を受けたまま閉鎖されていた。南三陸町というのは2005年10月に志津川町と歌津町が合併して誕生した町。今回の東日本大震災で知られていなかった「南三陸町」の町名は日本中に広まった。

 南三陸町から気仙沼市へ。気仙沼の市街地に入ると、JR気仙沼線の南気仙沼駅に行った。駅の周辺は大津波に激しくやられ、1年たって、やっと水が引きはじめていた。遅れていた瓦礫撤去が始まったばかりという状態だ。それが気仙沼駅の周辺になると、まったく大津波の被害を受けていない。ほんのわずかな高さの違い、地形の違いによって、これほどまでに大きな差が出るのが津波被害なのだ。

 気仙沼では仮設の商店街「復幸マルシェ」が完成し、その中にある食堂「団平」で昼食。「釜あげうどん」を食べた。漁港近くには仮設の「復興屋台」も完成している。

 気仙沼から国道45号で県境を越え、宮城県から岩手県に入った。

 陸前高田の気仙川の河口にかかる気仙大橋は、大津波で流された。そのため対岸に渡るのには気仙川沿いにさかのぼり、国道343号→340号と大きく迂回しなくてはならなかった。大変な時間のロスだった。それが仮橋の完成で、今では震災以前と同じように国道45号を走れるようになっている。このように大震災から1年が過ぎ、東北太平洋岸では走れない道はない。ただ1ヵ所、爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の20キロ圏を除いて。

 それにしても陸前高田のやられ方はすさまじい。ここでは復興の芽すら見られないというのが現状だ。高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」。しかしそれも枯れた。地形が変わり、高田松原海水浴場の長い砂浜は消えた。家族連れで賑わった夏の海水浴場のシーンが目に浮かぶ。

「元通りになるまでに50年、その頃には次の大津波…」と漁師は笑う

 陸前高田からは広田半島の広田崎、黒崎、末崎半島の碁石岬と岬をめぐり、大船渡へ。国道45号から海沿いの道に入り、漁港でV−ストロームを停めた。魚市場は再開されている。魚市場前にはコンビニの「ヤマザキ」が新しくオープンした。

 JR大船渡線(運休中)の線路に沿って走り、大船渡の中心街へ。大船渡駅の周辺が大船渡のかつての中心街だったが、町は壊滅状態。さらに大船渡線の線路に沿って走り、盛駅へ。そこが大船渡線の終点だが、盛駅の駅前通りは大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる被害の有無、被害の濃淡を見せつけられた。

 大船渡では石巻につづいて「スズキきずなキャリイキャラバン」に合流し、国道45号と国道107号の交差点にあるバイクショップ「オートランドリッキー」を訪問した。ここは新しい店で、元の店は大津波で流された。三条社長はそれに屈することなく、すぐさまこの新しい店を立ち上げた。お客さんの所有していた土地と建物を借り、それを新店舗にした。震災1年を前にして借りていた土地と店舗を買い取り、名実ともに自分の店にしたのだ。隣接した土地には何年か後にはビルを建て、立派なショールームにしたいと熱をこめて語ってくれた。

 大船渡から県道9号で綾里へ。綾里漁港では漁師の話を聞いた。地震直後、間髪を入れずに船を沖に出して逃げたという。このあたりの海はすぐに深くなるので、港外に出れば高波にやられることはないという。何度となく大津波に襲われてきた綾里の漁師ならではの話だ。

 地盤沈下した綾里漁港の岸壁は70センチ、かさ上げされた。それでも復興はまだまだ先のことだという。

「2年、3年ではどうしようもない。20年、30年でも無理だな。元通りになるまでに50年はかかる。その頃にはまた次の大津波がやってくるよ」
 といって笑ったが、綾里の漁師のその言葉は胸に残った。

大槌、山田と通り過ぎる。復興とは程遠い風景が続く

 国道45号で釜石へ。国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。鍬台峠を越えると吉浜湾が唐丹湾になる。唐丹湾の小白浜の海岸は巨大防潮堤がなぎ倒された現場だが、高台下の瓦礫はきれいに撤去されていた。この破壊された巨大防潮堤を見ると、大津波のすさまじさを実感できるが、その反面、半分はきれいに残っているので工事に手抜きはなかったのか…という思いにもとらわれる。

 国道45号で鵜住居(釜石市)、大槌、山田と通り過ぎていくが、どこも大津波で町は壊滅的な被害を受けている。復興とはほど遠い状況は、1年たってもそのままだ。

 夕暮時に宮古に到着。天気は崩れ、雪が降ってくる。

 宮古からは雪の国道45号を行く。気温が急激に下がり、あっというまに路面は真っ白になる。そんな恐怖の雪道を走り、田老の「グリーンピア三陸みやこ」に泊まった。

 翌朝、「グリンピア三陸みやこ」の朝湯に入り、朝食を食べて出発。国道45号を北上。路面にはかなりの雪が積もっている。下り坂が恐怖。速度をガクッと落として走った。国道45号の最高所にもなっている閉伊坂峠を越えると路面の雪は消えた。

 普代、野田、久慈と通り、青森県に入った。

 11時30分、八戸に到着。八戸から国道45号→国道338号で下北半島に向かっていく。三沢を過ぎると天気は急変。空はあっというまに鉛色に変わり、雪が降り出し、激しさを増す。猛烈な西風が吹き、吹雪になった。V−ストロームがフワッと舞い上がりそうになるほどの風の強さ。

 ラムサール条約の登録地にもなっている仏沼まで行ったところで走行を断念。ここを最後に来た道を戻ることにした。尻屋崎まであと100キロ。ゴーゴーと吹き付ける吹雪の中で茫然と立ち尽くし、尻屋崎まで行けなかった悔しさをかみしめた。

 3月の北東北は厳し過ぎたが、これからの季節は絶好だ。もう一度、V−ストロームを走らせ尻屋崎を目指そうと思った。三陸海岸は日本一の海岸美。人と自然の織り成す魅力を求めてカソリ、これからも東北を走りつづけるつもりだ。