東北を行く[02]〜3.11から1年〜(2)

『バイク旅行』2012年夏号より

▲石巻漁港近くの「鯨大和煮」の広告塔は、東日本大震災の大津波のすさまじさを伝えるものだったが、3・11の1年後にはまだ残っていた
松川浦の砂嘴はズタズタ、津波は地図をも変えてしまった

 2012年3月12日。蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、塩ジャケ、温泉卵、のりといった朝食を食べ、8時に出発。いったん相馬市内に入り、県道38号で松川浦に向かう。

 松川浦漁港は「東日本大震災」から1年たって、ずいぶんと変わった。折り重なるようにして陸地に乗り上げた無数の船はもう1隻も見られない。目抜き通り沿いのホテルや旅館、食堂の何軒かは営業を再開していた。新しいビルの建設も始まっていた。漁港には数多くの漁船が集結していた。

 風光明媚な松川浦は北側の原釜と南側の磯部との間にある長さ7キロの潟湖。北端が海への出口で、そこには全長519メートルの斜長橋、松川浦大橋がかかっている。

 松川浦大橋を渡ったところが鵜ノ尾岬。そこから南へ、松川浦東岸の砂嘴が磯部まで延びている。砂嘴上の道は大洲松川浦ラインと呼ばれる快適な2車線の海浜道路。「日本の渚100選」にも選ばれている大洲海岸を通っていく。大洲海岸には大洲公園もある。大津波の直撃を受けた大洲海岸の一帯だけで500人近い犠牲者が出た。

 今回の大津波は松川浦東岸の砂嘴をズタズタに寸断してしまった。ものすごい津波の破壊力。津波は地図をも変えてしまった。砂嘴沿いに今、仮設の道路が造られている。

 松川浦から太平洋岸を北上。新地町に入ると、海沿いの町並みは消え去り、JR常磐線の新地駅は跡形もない。高さ21メートルの大津波に襲われた新地の海岸一帯には家一軒、残っていない。まさに荒野の風景。その中に立つと、もう言葉もない。

 新地からは国道6号で宮城県に入り亘理へ。

松島を過ぎると復興とは程遠い光景が広がっていた

 亘理からは県道10号を行く。

 まずは阿武隈川河口の荒浜でV−ストロームを停めた。阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した荒浜は、伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港。その荒浜が大津波に直撃されて壊滅的な被害を受けた。荒浜漁港に行くと、港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。ちょうど漁を終えた漁船が戻ったところで、スズキが水揚げされていた。

 漁港の前には仮設の「鳥の海ふれあい市場」がオープンした。マイクロバスでやってきた「津波ツアー」の観光客たちが海産物を買い求めていた。「東日本大震災」から1年、今ではこのような津波ツアーの大型バスやマイクロバスが、かなり見られるようになっている。

 荒浜から東北第2の大河、阿武隈川を渡り、仙台空港の滑走路下のトンネルに入っていく。震災直後のこのあたり一帯はすさまじい状況で、車の残骸が散乱しているだけでなく、折り重なった飛行機の残骸も見られた。それがきれいさっぱりなくなっていた。

 県道10号をさらに北上し、次に名取川河口の閖上でV−ストロームを停めた。

 20メートルの大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われたかのような印象を受ける。瓦礫がきれいに撤去されているので、今では人々の生活の匂いはまるでしないし、ここで人々が営々として築き上げてきた歴史も文化も、すべてが消え去ったかのようだ。

 仙台で国道45号に合流し、塩竃を通り、松島へ。日本三景の松島は大津波の被害はそれほど受けていない。国宝の瑞厳寺や五大堂には、ほとんど被害は見られない。国道45号沿いの土産物店はいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航している。

 松島から海沿いの県道27号を行く。松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みもまったく無傷で、大津波の痕跡はまったく見られない。その次が「東名」。ここには東名駅がある。「大塚−東名」間は2キロほどでしかないが、そのわずかな間で、松島湾岸を天国と地獄を分けている。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状だ。大津波から1年になるが、復興とはほど遠い光景がいまだに広がっている。

 県道27号から鳴瀬川の堤防上の道を走り、国道45号に合流。東松島市の中心、矢本を通り、石巻市に入った。旧北上川の河口をまたぐ日和大橋を渡り、石巻漁港へ。

 漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられたが、震災から1年がたったというのに、まだ瓦礫がそのまま残っている。

「もう再開しているのではないか…」
 と期待した魚市場の「斉太郎食堂」だが、魚市場には近づくことさえできなかった。

「俺は日本一の借金大魔王」と豪快に笑い飛ばす

 石巻では「スズキきずなキャリイキャラバン」に合流し、「山口輪業」を訪ねた。ここは石巻の海岸から4キロ近くも離れているのに、大津波に襲われて店は全壊した。社長の山口さんは目の前の合同庁舎に逃げ込み、その後は5、6キロも離れた避難所暮らしがつづいた。山口さんのバイク店にかける情熱はすごいもので、避難所から毎日通い、店のあとかたずけをした。全国から駆けつけてくれたボランティアにはずいぶんと助けられた。

 すべてを流されてしまったので、一からの出直しになったが、
「俺は日本一の借金大魔王」
 といって豪快に笑い飛ばす。

 山口さんは借りられるだけのお金を借りて、被災後、何と1ヵ月で仮店舗をオープンさせたという。まさに大津波にも負けない「不屈の男」だ。

 石巻から女川へ。

 全滅した女川の中心街ではひっくり返ったビルを何棟も見る。JR女川駅や駅舎温泉の「ゆぽっぽ」は、今ではどこにあったのかすら、わからないような状態だ。

 女川では仮設住宅を訪ねた。

 ここではいろいろな話を聞けた。女川の尾浦の漁師さんの話は興味深かった。銀ザケ、ホタテ、カキ、ホヤの養殖が尾浦の漁業の4本柱だったが、大津波ですべてを失った。とくに出荷直前の銀ザケの被害が痛かった。残ったのは莫大な借金だけだという。

 同じ尾浦の漁師の奥さんは、「海は怖くて見られない、松島の遊覧船も怖くて乗れない、瓦礫の山を見ると気持ちが暗くなってしまう、この1年は毎日のように泣いていた」という。

 そのほか、日本中から来てくれたボランティアの人たちに助けられた、家が流されたとたんに親戚の人たちがすーっと離れていった、1日も早く以前のような家に住みたいという話も聞いた。

 身につまされる被災者のみなさんの声だった。

大津波から逃げたのに、何人もの人が夜の寒さで凍死した

 女川から「リアスブルーライン」の国道398号で三陸のリアス式海岸を行く。

 雄勝の公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、雄勝湾奥の雄勝の町には何も残っていない。女川同様、町が消え去った。瓦礫が撤去されているので、よけい異様な光景に見える。まるで古代遺跡の中をバイクで走るかのようだ。

 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので、長らく通行止がつづいたが、今は通行できるようになっている。

 新北上大橋たもとには、今回の大津波の悲劇の現場になった大川小学校がある。残された校舎の壁には、全校生徒と先生方の集合写真が張られていた。涙をさそう写真だ。ここでは80人以上の生徒や先生方が亡くなった。大川小学校は北上川河口から約5キロの地点。ここまで大津波がさか登り、押し寄せてくるとは、誰もが想像していなかった。

 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。2005年4月、平成の大合併で石巻市と雄勝町、北上町、牡鹿町、河南町、河北町、桃生町の1市6町が合併し、今の石巻市が誕生した。広域化した石巻市は、「東日本大震災」では最大の被害を出した。

 その夜は国道398号沿いの民宿「小滝荘」に泊まった。飛び込みで泊めてもらったのだが、夕食も用意してくれた。

 夕食後、宿で話を聞いた。

 1年前の3月11日も寒い日だった。ズブ濡れになって大津波から逃げた何人もの人たちは、その夜の寒さを乗り越えることができずに凍死したという。

 北上川河口の堤防上では大勢の人たちが津波見物をしていた。「どうせ4、50センチぐらいの津波だろう」とタカをくくっていた。それが20メートルを超える大津波に車もろとも流された。

 北上川沿いの旧北上町の庁舎は避難所になっていた。避難してきた人たちの中には吉浜小学校の生徒たちもいた。大津波はその庁舎を呑みこみ、80名近くが死亡した。

 民宿「小滝荘」は高台にあるので無事だったが、ここには相川小学校3年生の空君がいる。相川は海辺の集落。相川小学校も海岸のすぐ近くにある。

 それにもかかわらず、空君を含めて70余名の生徒、全員が無事だった。地震発生と同時に生徒たちは先生方と一緒に小学校の裏山を駆け登った。すぐ後まで迫る大津波の恐怖といったらなかったという。その3日前に、相川小学校では津波の非難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山は、大川小学校の裏山よりもはるかに急だ。生徒たちは励ましあい、草の根につかまって山肌をよじ登った。同じ石巻市内の大川小学校と相川小学校は、あまりの明暗を分けてしまった。