2度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」

『地平線通信』2011年8月号より

●第2回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ってきました。いわき駅前から伊達市の国道4号までは国道399号を走りました。このルートは東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故20キロ圏スレスレのところを通っていきますが、全線が通行可です。いわき市からは川内村→旧都路村(田村市)→葛尾村→浪江町→飯舘村と通って伊達市に入ります。飯舘村の状況は新聞、テレビなどの報道でよく知られていますが、それ以上に惨憺たる状況なのが川内村です。国道沿いの店はすべてシャッターを下ろし、信用金庫は休業中、JAも休業中、村民憩いの「かわうちの湯」も休業中…。いつもの年だと田植えの終った水田の風景なのですが、今年は荒れ放題の田畑です。大地震の被害も、大津波の被害もまったく受けていない川内村なのに、放射能汚染で村は死んだかのようです。国道から原発事故20キロ圏に入る道はすべてが「立入禁止」で、通行止になっています。村のいたるところで「危険」の大看板を目にします。自分たちの故郷が「危険地帯」になってしまった悔しさ…。福島県内でも一番といっていいくらいに豊かな自然を誇る川内村をこのようにしてしまった東電の原発事故には、おさえようのない憤りがこみ上げてきます。

●浪江町の津島から赤宇木にかけては放射線量が最も高いところで、赤木宇に至っては放射線量が40・0マイクロシーベルトを超えているのです。桁違いの放射線量の高さです。それでも国道399号は通行止にもならずに通れました。峠を越えて飯館村に入りました。ここでは2度、バイクを止めましたが、2度とも通りがかった警視庁のパトカーに調べられました。口調こそ丁寧でしたが、まるで犯罪者あつかいです。免許証を無線で照会して無罪放免になりました。峠を下った長泥の掲示板には累積の放射線量の一覧が張り出されてましたが、右肩上がりの数字には背筋が冷たくなるほどでした。「このままだと、チェルノブイリを超える!」と思ったほどです。原発事故の直後、さかんに「このくらいの放射線量なら安全です」と安全を繰り返していた原子力の専門家たちの言葉が思い出されてなりませんでした。

●仙台では海沿いの幹線、県道10号(前回の鵜ノ子岬→尻屋崎では北半分が通行止)を走りました。仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜けていくのですが、その入口には小型の飛行機の残骸がそのままになっていました。小さな沼には車が折り重なっていましたが、ここからはまだまだ遺体が出てくるのではないかと思わせるような光景でした。地平線会議の報告会で衝撃の報告をしてくれた相沢さん父子の閖上は、許可書を持っている人のみが入っていけるような状況でした。名取川の左岸は壊滅状態。あまりのすさまじさに目を覆いましたが、名取川右岸の閖上も同じようなやられ方なのでしょう。今回の大津波では阿武隈川、名取川、鳴瀬川、旧北上川、北上川、気仙川、閉伊川と、大きな川の河口や下流沿いが大被害を受けたことがよくわかります。

●県道10号から仙台港を間近にする蒲生干潟に面した日和山まで行ってみました。標高6メートルの日和山は「元祖日本で一番低い山」で知られていたのですが、なんと山は大津波でえぐられ完全に消滅していました。自然の宝庫、蒲生干潟からも大半の植生が消えていました。その周辺はまるで爆撃をくらったかのようで、ほとんど手をつけられないような状況。全国から集結した警察が懸命の遺体の捜索をしていました。各地でつづけられている行方不明者の遺体捜索は、自衛隊から各都道府県から派遣された警察へと移っているようです。

●仙台以北では大震災から3ヵ月ということもあって、一番、目についたのはガレキの撤去が急ピッチで進んでいることです。全滅した町々のガレキが撤去されると、いままで見たこともないような光景が広がり、たとえば岩手県の大槌や山田、田老のように、「えー、こんなに広かったのか…」と驚かされてしまうのでした。

●陸前高田では前年(2010年)に泊まった民宿「吉田」を探してみました。夕暮れ時に飛び込みで行った宿なのですが、こころよく泊めてもらい、宿のご夫婦にはとってもよくしてもらいました。ぼくにとっては忘れられない宿なのです。時間がないなか、豪勢は魚料理の夕食を出してもらいました。前回の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、かろうじて国道45号は通れましたが、そこから南の海岸地帯に出る道は通行止(というよりも消え去っている状態)で、民宿「吉田」までは行けませんでした。今回は国道45号(その地点は以前は立体交差でしたが、高架橋が落下し、まったく様相が変っています)を右折し、民宿「吉田」まで行くことができました。しかし大津波に襲われた民宿「吉田」はもちろんのこと、周囲の家々は大津波に流され、きれいさっぱりとなくなっていました。目の前の海岸の堤防も破壊されていました。あのときはちょうど夏祭りだったのですが、神社も消え去っていました。茫然と立ち尽くしてしまったのですが、通りかかった人の話では民宿「吉田」のみなさんは全員が無事だとのことでした。大地震のあと近くの高台まで逃げたということですが、それを聞いて「ほんとうによかった!」と思いました。「命さえ助かれば!」。

●陸前高田の惨状は、今回の大津波を象徴するかのようなすさまじさです。町全体が絨毯爆撃されたかのような壊滅的な状態。長さ2キロあまりの高田松原は消え去っています。江戸時代に植林された7万本もの赤松黒松は、見事な松原をつくり出していました。「日本三大松原」に次ぐ高田松原でした。7万本もの松が根こそぎやられましたが、気仙川河口の水門近くには1本だけ生き残りました。「奇跡の松」です。この奇跡の松には何としても生き延びてもらいたいと心底、思いました。陸前高田では今回の大津波のすさまじさを改めて思い知らされました。というのは高田松原の後には大防潮堤が延々とつづいていたからです。大津波はあの大防潮堤を破壊し、松原を全滅させ、さらに高田の町を飲み込んだのかと思うと、鳥肌が立ってきます。高田松原の海水浴場は、その大防潮堤に何ヵ所かある城門のような頑丈な鋼鉄の門をくぐり抜けて行くのです。あの巨大な鋼鉄の門も破壊されたのです。岩手県南部の三陸海岸の海水浴場というと、高田、綾里、吉浜が知られていますが、それらは今回の大津波でことごとくやられてしまいました。

●吉村昭の『三陸海岸大津波』には、こんな一節があります。「防潮堤は一言にして言えば大袈裟すぎるという印象を受ける。中略。私が三陸津波について知りたいと思うようになったのは、その防潮堤の異様な印象に触発されたからであった」。ぼくはこの気持ちがよくわかります。三陸海岸の巨大防潮堤を見るたびに、「これって無用の長物」と、思っていました。昨年(2010年)の夏、陸前高田に行ったときは、この大袈裟すぎる防潮堤の鋼鉄の門をくぐり抜け、大勢の海水浴を楽しむ近郷近在のみなさんと一緒になって泳ぎました。それはきれいな砂浜で、それはきれいな海でした。あの海が牙をむいて巨大防潮堤を破壊し、高田松原を全滅させ、高田の町に襲いかかっていったのです。(賀曽利隆)