30年目の「六大陸周遊記」[069]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 18 コナクリ[ギニア] → クンダラ[ギニア]

信じられない出来事

 ギニア高地の町ラベから首都コナクリに強制送還され、内務省内の秘密警察本部に連れていかれた。そこでしばらく待たされたが、やがて40過ぎの長官がやってきた。強面の人を想像していたが、やさしいオジサンタイプの人だった。

 長官に連れられ、彼の部屋に入る。

 何をいわれるのか…、心がすこしも落ち着かない。

 ところがそのあと、信じられないことが起きた。

 長官は封筒に入れられたぼくのパスポートに目を通し、英語でひととおりのことを聞くと、
「キミはもう、クンダラに行くつもりはないのかね」
 というではないか。

 驚いて聞きなおすと、
「ラベの知事から電報が入った。キミをどうしたらいいだろうか…と。そこで私は考えた末に、その日本人旅行者をクンダラまで行かせるように、そしてセネガルとの国境を越えてよいという許可証を出すようにと、今朝、返電したところだった。残念ながらひと足違いだったね。いやー、ほんとうにびっくりしたよ。日本人はカミカゼで知っていたけど、カミカゼ通りの命知らずだ」
 といって笑う。

 ぼくはもううれしさを隠すことができなかった。

「どうもありがとうございます。どうかクンダラに行かせてください。クンダラからはセネガルに向かいたいと思います」
 といって、長官と固い握手をかわした。

内務省の賓客になる!

 その日は土曜日だったが、月曜日になったら、クンダラまで行く許可証、そこから国境を越えてセネガルに行く許可証を出してくれるという。

 そのあと長官はぼくを彼の家に連れていき、
「アピエ! トゥールドゥモンデ!(歩いて世界一周してる!)」
 といって奥さんに紹介する。

「この日本人青年はクンダラからセネガルに入ろうとしたんだ!」

 奥さんの手料理の昼食をご馳走になったあと、コナクリで一番立派なホテル「インディペンダンス」に連れていってくれた。

 長官は「(ホテル代もホテルのレストランでの食事代もすべて内務省が払うので)何も心配することはない」といった。

 これではギニア内務省の賓客になったようなものだ。

ラベに戻る

 月曜日、内務省の係官がホテルにやってきて、長官の部屋に連れていかれた。

 そこでパスポートに1ヶ月のビザをもらい、それとは別にギニア全土を自由に旅してもよい、クンダラに行ってもよい、国境を越えてセネガルに行ってもよいといった内容の許可証を発行してもらった。

 長官がサインしたこの許可証の威力は絶大なものだった。

 長官にお礼をいって、握手をかわし、ラベへ。

 ラベまでは内務省が用意してくれたタクシーだ。それもオンボロタクシーではない。新車並みのタクシーで、ラベまでは高速で一気に突っ走り、昼過ぎには着いた。

 前に来たときとはうってかわって、VIP並みの扱いを受ける。

 警察のオートバイの先導で知事の公舎に連れていかれた。大広間ではこのエリアの重要人物が集まり、食事をしていた。

 ぼくにも一緒に食べるようにと席を与えられた。

 大広間にはマルクス、レーニン、スターリン、ゲバラ、エンクルマ、PAIGC(ギニア・ビサウ解放戦線)の党首、ギニア反植民地闘争の勇士の写真がセク・トーレギニア大統領の写真とともに飾られていた。

 その夜は賓客用のガバメント・ハウスに泊めてもらった。

クンダラに到着

 翌早朝、クンダラまで行くトラックに乗せられた。それも荷台ではなく助手席だ。クンダラまでのトラック代も1銭も払わなかった。ラベの知事がすべてやってくれたことなのだ。

 岩肌の露出した山道を行く。トラックは激しく揺れた。山地から平地に下りると、雨期の影響であたり一面、水をかぶっていた。まるで湖の中を行くようだ。盛土した道なのでかろうじて走れた。

 クンダラには夜になって到着。ラベと同じように知事公舎に連れていかれ、知事と一緒に夕食を食べた。その夜はやはりラベと同じように、賓客用のガバメント・ハウスに泊めてもらった。これらはすべて内務省の長官のサインの入った許可省のおかげなのだ。