『地平線通信』(第11回目)

2015年2月号より

4年目、11度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を前に

●まもなく「東日本大震災」から4年目の3月11日がやってきます。それに合わせて「鵜ノ子岬→尻屋崎」に旅立ちます。出発点の鵜ノ子岬は福島・茨城県境の岬で、東北太平洋岸の最南端になります。岩山が海に落ちる岬の北側には福島県の勿来漁港、南側には茨城県の平潟漁港があります。「奥州三関」の勿来関で知られる勿来は「東日本大震災」の特異地帯で、大津波の被害をそれほどは受けることはありませんでした。ところが岬をはさんだ茨城県側の平潟漁港は大きな被害を受けたのです。

●ゴールの尻屋崎は青森県下北半島北東端の岬で、ここが東北太平洋岸の最北端になります。「鵜ノ子岬→尻屋崎」というのは、東北の太平洋岸の全域を見てまわるカソリのバイク旅なのです。昨年も3月、6月、8月の3度走り、今回が11度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。なぜ東北の太平洋岸にそれほどまでにこだわるかというと、ぼくにとっては日本でも一番といっていいほどのフィールドで、震災前の10数年間でも何度、足を運んだかしれません。

●その東北太平洋岸が大津波の被害をモロに受け、壊滅的な状況になっている衝撃のシーンを見ると、いたたまれない気持ちでした。意を決して第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発したのは震災から2ヵ月後の2011年5月10日でした。このときは、ほんとうに福島県から青森県までバイクで走れるのだろうか、道は通じているのだろうか、ガソリンは手に入るのだろうか、宿泊施設あるのだろうか、食事は…といった不安を抱えての旅立ちでした。東京を出発。スズキの400ccバイク、DR−Z400Sを走らせ、

●常磐道で東北に入り、いわき勿来ICに着いたのは夜の8時でした。勿来の町中を走り抜けていきましたが、大地震、大津波の影響は見られませんでした。常磐線の勿来駅に立ち寄ってみると、いつも通りの勿来駅でした。勿来駅前から国道6号を南へ。国道沿いのコンビニで弁当を買って鵜ノ子岬に立ったのですが、そこへ地平線会議の仲間の渡辺哲さんが来てくれました。被災者の渡辺さんには「カンビール」や「バタピー」、「チーかま」などの差し入れをしてもらい、野宿宴会の開始とあいなったのです。

●渡辺さんは福島県の楢葉町に住んでいます。いや、住んでいたといった方がいいでしょう。楢葉町のみなさんは全員、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で強制的に退去させられました。大地震の被害を受け、大津波の被害を受け、それに追い討ちをかけるように原発の爆発事故の影響を受けた渡辺さんですが、三重苦、四重苦を吹き飛ばすかのように、いつも通りの元気さ、明るさでした。

●翌5月11日、鵜ノ子岬を出発し、北へ、北へとDR−Z400Sを走らせたのですが、福島第1原発の事故の影響で浜通りを貫く国道6号は通行止。4時間も5時間もかけて大きく迂回しなくてはなりませんでした。宮城県に入ると、町の全域がやられた閖上地区は立入禁止でした。多数の犠牲者を出した石巻で見たシーンは強烈なものでした。学校の校庭に無数の墓標が立ち並び、花が供えられていました。

●女川の惨状は目を覆うばかりで、町全体が瓦礫に埋まり、足の踏み場もないような状態でした。それでも幹線道路は走れました。気仙沼の海岸地帯には無数の船が乗り上げていました。その乗り上げ船の間をかいくぐってバイクを走らせたのですが、まるで迷路を行くようでした。岩手県に入ると、陸前高田のあまりにもすさまじい被害に声もありませんでした。高田松原は消え去り、海岸一帯には押し寄せた海水がそのまま残り、一大湿地帯のようになっていました。

●さらに大船渡、釜石、鵜住居、大槌、山田、宮古、田老、野田と、大津波で壊滅的な被害を受けた陸中海岸の町々を走り抜けていきました。久慈を過ぎると大津波による被害は減っていきました。青森県に入ると海沿いの県道1号を走ったのですが、海沿いの家々がまったく無傷で残っているのには驚かされました。被害が出たのは八戸漁港から三沢漁港あたりまでで、その北の白糠漁港はいつものような活況を呈していました。

●こうして10日あまりをかけて尻屋崎にたどり着いたのです。福島第1原発事故の立入禁止エリアはありましたが、幹線道路はほとんど復旧し、まったく問題なく走れたのが一番の驚きでした。

●大震災から1年目の3月11日に出発した「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、尻屋崎まであと100キロという地点で猛吹雪に見舞われ、尻屋崎を断念しました。東北の太平洋岸、とくに宮古以北の北東北は、この季節はまだ冬同然。大津波で助かったのに、朝を迎えられずに凍死した人たちが多くいたというのがよくわかる寒さでした。

●大震災2年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では遅々として進まない復興にいらだちをおぼえるほどでしたが、3年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では各地で本格的に始まった復興工事の現場を見ることができました。東北太平洋岸の全域にあった大量の瓦礫の山の撤去作業が終わり、完全に消え去ったのはすごいことだと思いました。被災者のみなさんにとっては、この瓦礫の山がどれだけ苦痛だったことか。膨大な台数の車の残骸もほとんどなくなっていました。

●鵜ノ子岬から尻屋崎までの何百キロという途轍もなく長い距離の間は今、すべてが工事現場といっても過言ではないのです。これは日本史上空前の大工事といえます。その中にあって復興の格差を強く感じてしまいます。原発事故に襲われた福島県の復興の遅れは目立っています。宮城県、岩手県でも復興の進む被災地とそうでない被災地がより鮮明になっています。同じ被災地でも、復興の遅れる町と復興の進む漁港のように、復興の格差がはっきりと見られるようになっています。

●大震災4年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、3月11日の夜はいわき市の四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まります。地平線会議の報告会を開いた宿です。当日は復興工事の長期滞在者のみなさんで満室だとのことですが、女将さんは大広間を用意してくれるといいます。渡辺哲さんが来てくれますが、一献傾けながら渡辺家の、楢葉町の、そして浜通りの現状を聞くのが今から大きな楽しみです。

●そしてその10日前の3月1日には、浜通りの大動脈になる常磐道が全線開通します。浜通りのみなさんがどれだけ期待したことか。これでいわきから相馬へ、大迂回する必要もなくなります。4年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」におおいなる期待を抱いてまもなく出発します。(賀曽利隆)

2011年5月11日、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発。鵜ノ子岬北側の勿来漁港(福島)で。この時はほんとうに尻屋崎まで走れるかどうか、大いなる不安を抱えながらの出発だった
2011年5月11日、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発。鵜ノ子岬北側の勿来漁港(福島)で。この時はほんとうに尻屋崎まで走れるかどうか、大いなる不安を抱えながらの出発だった