2013年夏の東北行

『地平線通信』2013年9月号より

●みなさ〜ん、お元気ですか。今年の夏は猛暑&豪雨の連続でしたが、みなさんはいかがお過ごしでしたか。カソリの「2013年夏の東北」は6月11日に始まり、8月13日に終わりました。第1弾目は「福島一周」(6月11日〜6月17日)で、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせ、浜通り→中通り→会津と福島県を反時計回りで一周しました。7日間での走行距離は1851キロでした。

●浜通りでは、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で分断された国道と県道のすべてを走り、どこが通行止め地点になっているのかを確認してきました。一番の幹線の国道6号は南側はいわき市から広野町、楢葉町と通って富岡町に入り、富岡消防署の交差点まで通行できるようになっていました。北側は南相馬市から浪江町に入り、双葉町との境まで行けました。浪江町内はすさまじい状況で、国道6号と交差する道はすべて通行止。入口で封鎖されています。

●しかし分断された浜通りのかなりの地域に、自由に行けるようになったのは何ともうれしいことで、光が差し込んできたような思いがしました。それを象徴するのが阿武隈山地の山麓を通る県道35号です。いわき市から広野町、楢葉町と通って富岡町に入ると、さらに大熊町との町境を越え、大熊町の中ほどのゲートまで行けるようになっていました。バイクに乗りながら、「おい、おい、ほんとかよ、これって!」と、驚きの声を上げたほどです。各地の放射線量が大幅に低下しているのがその理由ですが、2013年夏の時点で一歩も入れないのは双葉町だけになりました。

●阿武隈山地を東西に横断するルートですが、国道288号は田村市と大熊町の境、県道253号は葛尾村と浪江町の境、県道50号は葛尾村と浪江町の境、国道459号は二本松市と浪江町の境、国道114号は川俣町と浪江町の境が通行止地点になっています。南北縦貫の国道399号は葛尾村と浪江町の境の登館峠が通行止地点になりました。この国道399号は東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故以降、高濃度の放射線量にもかかわらず、まったく問題なく通り抜けられたルートなのです。

●登館峠を下った津島地区では何度となくバイクを止め、「これが日本一の放射線量!」などといって思いっきり深呼吸したものです、放射線量が極めて高い頃は通行可で、低くなった今頃になって通行止にするというのは、もう笑い話のようなものです。南相馬市から浪江町に入るルートは国道6号を除けば、県道34号、県道120号、県道255号、県道391号と、すべての県道が浪江町との境が通行止地点になったままです。まるで浪江町をぐるりととり囲むような包囲網が築き上げられたかのような感があります。

●第2弾目は「東北一周」(6月27日〜7月12日)です。スズキの250ccバイク、GSR250で16日間、5224キロを走りました。反時計回りでの東北一周でした。地平線通信の4月号では「3・11から2年後の東北を行く」と題して東北太平洋岸南端の鵜ノ子岬(福島)から尻屋崎(青森)までの現状をお伝えしましたが、それから4ヵ月後に、大津波発生から8度目になる「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走りました。そのわずか4ヵ月の間で、福島県最北の新地町は劇的に変わっていました。

●3月の時点では大津波によって壊滅状態になった海岸一帯では、何ら復興の芽を見ることができませんでした。それが7月の時点では、海岸地帯に次々とピラミッドを半切にしたような土盛りをした造成地ができているのです。まるで日本中からダンプカーが集まってきたかのような凄まじさで、北海道ナンバーや鳥取ナンバーなどの県外ナンバーのダンプカーが動きまわっていました。千葉県ナンバーの真っ白な新車のダンプ数台が勢ぞろいしている光景も見ました。宮城県側に入った山元町の海岸一帯でも、「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっていました。

●地平線会議の報告会で、大津波の被害を生々しく語ってくれた相沢さん親子の閖上(宮城県名取市)は、その反対に復興が遅々として進んでいないようでした。住民のみなさんの気持ちがなかなかまとまらないのが大きな理由のようです。名取川河口の閖上は震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていました。高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上はまるで絨毯爆撃をくらったかのように町は全壊し、ここだけで1000人近い犠牲者を出しています。

●瓦礫はすでに撤去され、町跡には何も残っていません。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望するのでした。日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、東北では酒田や石巻の日和山がよく知られています。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明しているのです。

●もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていました。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流されました。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流されました。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで日和山に両神社の2本の神籬が立てられたのです。そこに今回、新しく両神社の祠が建てられました。木の香がまだプンプン漂ってくるような祠でした。

●石巻漁港も復興が遅れたところですが、ここへきて一気に復興が進んでいるように見えます。漁港の岸壁が修復され、仮設の魚市場ができ、なんともうれしいことに市場食堂の「斎太郎食堂」も営業を再開していました。瓦礫が散乱し、荒れ放題だった漁港の周辺には、次々に水産加工の工場が完成しています。同じ石巻市内では、悲劇の大川小学校の校舎はまだ残っていましたが、生徒全員が助かった奇跡の相川小学校の校舎はすでに取り壊されていました。

●雄勝の公民館の屋根に乗り上げた大型バスはすでに撤去されていましたが、その公民館も取り壊され、跡形も残っていません。雄勝湾の一番奥の雄勝の町はまったく見捨てられたかのようで、復興のカケラも見られませんでした。気仙沼に乗り上げた大型漁船「第18共徳丸」(330トン)は保存か撤去かで大もめにもめましたが、結局、船主の意向通り、撤去されることになりました。大津波のシンボル的な「爪痕」は次々に消え去り、今ではもうほとんど残っていないのが現状です。

●岩手県に入ると、陸前高田の復元された「奇跡の一本松」には大勢の観光客が押し寄せていました。ここも残す残さないで町を二分する議論が起きましたが、この現状を見ると、「残ってよかった!」と思うのでした。大船渡の漁港には見違えるほどの活気が戻っていました。漁港に隣接した観光施設も完成に近づいていました。

●釜石市の鵜住居は同市最大の被災地です。ここだけで1000人もの犠牲者を出しています。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した200人近い人たちが亡くなったことです。廃墟と化した町並みの中にポツンと残っている防災センターは取り壊されることになりました。

●釜石市の鵜住居から峠の短いトンネルを抜けると大槌町です。ここでは、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になっています。町役場はまだ残っていますが、「平成三陸大津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、ここでも町を二分しました。その結果、一部を残すことに決まったとのことです。

●町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようです。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」ができていました。そんな大槌町の北隣りが山田町です。ここも大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上の犠牲者が出ています。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで何と3000人以上もの命が奪われているのです。想像を絶する数字です。鵜住居から山田まではわずか20キロ。バイクで走れば30分もかからない距離なのです。

●宮城県の気仙沼から青森県の八戸までの三陸海岸が「三陸復興国立公園」になりました。それを祝って新しい国立公園の看板があちこちに立ち始めています。宮古では宮古漁港の一角にある道の駅「みやこ」の「シートピアなあど」が7月6日にオープンしました。巨大防潮堤4本のうち2本が破壊され、町が全壊した田老では季節外れの鯉のぼりを上げている人たちがいました。ところがそれは鯉のぼりではなく、「鮭のぼり」でした。田老はかつては東北でも一番、サケの遡上するところだったといいます。田老の復興の願い、想いをサケにたくした「さけ幟り」の会のみなさん方でした。

●第3弾目は「林道編・東北一周」(8月7日〜8月13日)です。スズキの250ccバイク、ビッグボーイで7日間、2602キロを走りました。「東京〜青森」間を林道経由で往復したのですが、往路編では10本の林道、復路編では9本の林道を走りました。19本の林道のダート距離の合計は303・2キロになりました。お洒落な街乗りバイクで定評のあるビッグボーイですが、20キロ超、30キロ超のロングダートをものともせずに走ってくれたました。

●「林道編・東北一周」では大雨に泣かされました。空が抜け落ちるかのような豪雨をついて林道を走っていると、いいようのない不安にかられてしまいますが、無事に走り抜けられてほんとうによかったです。この豪雨で岩手県内では東北道(花巻〜紫波間)が通行止めになりました。そのときの東北道沿いの一般道(県道13号)の大渋滞は、それはすさまじいものでした。秋田県内では大河、米代川が大氾濫し、流域は一面水浸しになりました。田沢湖の東側、国道341号沿いの先達の集落は大規模な土石流に見舞われ、何人もの方々が亡くなりました。国道はまったく普通に走れましたが、そのすぐ脇の先達の集落は自衛隊や警察、消防の車両で埋め尽くされ、騒然としていました。

●このようなカソリの「2013年夏の東北行」でしたが、30日間で9681キロを走りました。東日本大震災2年目の「鵜ノ子岬〜尻屋崎往復」(3月8日〜3月18日)の3670キロを合わせると、全走行距離は1万3351キロになります。10月には再度、「福島一周」を走りますので、最終的には1万5000キロ超になります。そのあとは「アフリカ大陸縦断」に旅立ちます。(賀曽利隆)

2014年1月15日、「アフリカ大陸縦断」のゴール、喜望峰に到着。喜望峰の突端で雄叫びを上げるカソリ!