カソリの20余年「田中雄次郎牧場」訪問記

『地平線通信』2011年10月号より

●先月号の「地平線通信」で江本さんが紹介している北海道の酪農家、田中雄次郎さんには感銘を受けた。「田中雄次郎は歴史に残る人物!」、ぼくは行間に漂う江本さんのそんな気持ちを読み取った。さらに「地平線通信」のRQ登米本部に送った新ジャガの話には胸が熱くなってしまった。その間をとりもった江本さんはエライと思う。それに添えられた田中家のみなさんのコメントがまたいいではないか。きっとみなさんも同じように思ったのではないだろうか

●ここからは「田中雄次郎さん」ではなく「田中雄次郎君」にさせてもらう。ぼくは昨年の「林道日本一周」(全部で313本の林道を走った)で、道北・豊富町の田中雄次郎君の牧場に寄った。突然の訪問で雄次郎君はビックリしたような顔をしたが、仕事の手を休め、家にいた子供たちを呼んでくれた。長女のあおさんは結婚し、出産を間近に控え、里帰りしていた。長男の雄馬さんはすっかりたくましくなっていて、オーストラリアの旅を終えて帰ったところだった。3男の中学生の寛大(かんた)君、4男の小学生の晴大(はるた)君は元気一杯だ。奥さんの典子さんは出かけていたが、田中家にはそのほか次男の真生(さねいき)さん、次女のそらさんがいる。田中家は4男2女の大家族なのだ。

●ぼくが初めて雄次郎君に出会ったのは、彼がまだ高校生のころ。三輪主彦先生に呼ばれて都立清瀬高校に行ったときのことだ。雄二郎君は三輪先生の教え子。一緒にサッカーをしたり、マラソンをした。「徹歩会」といって、夜通し歩いたこともある。雄次郎君は東京農業大学の大学生のときに、宗谷岬から佐多岬までの「徒歩日本列島縦断」を成しとげた。67日間の徒歩旅。そのときの旅の様子を日本観光文化研究所の月刊誌『あるくみるきく』(第138号)に「日本縦断徒歩旅行」と題して書いている。「宗谷岬出発は九時頃。青空が見えだし、日本縦断徒歩旅行が始まった。気がのらなかったので、気分を変えるためにスタートして二キロの道の真中で短パン姿に。白い足が早く陽に焼けないかなあ。増幌川を渡ったところで、朝の残りのアルファ米に梅干を混ぜた弁当。」ではじまる「徒歩日本列島縦断」を読んだ所長の宮本常一先生は、「日本にもこういう青年がいるのか!」といって激賞された。その時の宮本先生はお顔を紅潮させていた。地平線会議の祖といってもいいような宮本先生は、若者たちの冒険的な活動、行動が大好きで、それを高く評価してくださる方だった。

●田中雄次郎君は大学を卒業すると北の大地での酪農に憧れ、数々の苦難を乗り越え、北海道にしっかりと根を下ろした。ぼくはいままでの何度かの「日本一周」では、それがまるで定番でもあるかのように、「田中雄次郎牧場」を訪問している。まずは1989年の「日本一周」。そのときは音威子府(おといねっぷ)村の咲来(さっくる)に田中雄二郎牧場はあった。突然の訪問で、日が暮れてから訪ねたのだが、雄二郎君は乳しぼりに忙しく、乳をしぼる手を休めずに5年あまりの音威子府での話しを聞かせてくれた。家も牛も何もなかった。手探りではじめた酷寒の地での酪農。冬は氷点下37度まで下がったという。そのような厳しい北国の自然の中で奥さんの典子さんと2人で手造りの家を建て、牧舎を建て、3頭の乳牛でもって酪農をはじめた。それが5年の間に牛は30頭以上に増えた。増えたのは牛だけではない。家族も増えた。あおちゃん、雄馬クン、真生クンと、次々に3人の子供たちが生まれた。幼い3人の子供をかかえての毎日は、それは大変なことであったろう。だが典子さんは、3人の子供たちの母親には見えないほど少女の面影を残し、5年間の血のにじむような苦労を顔に出さなかった。

●8時過ぎになって20頭のホルスタインの乳しぼりが終ると、田中家の夕食をいただいた。自家製ハムがメチャクチャうまかった。さらに自家製の肉とレバーを焼いてくれた。焼肉を食べながら酒をくみかわし、夜遅くまで夫妻と話した。「オレ、30を過ぎましたよ」という雄次郎君は、東京にいたときよりもはるかに腕が太くなり、まっ黒に日に焼けていた。この時カソリ40歳。

●次はそれから10年後(1999年)の「日本一周」だ。田中雄次郎牧場は現在地の豊富町に移っていた。音威子府村では借物の牧場だったが、ここは80ヘクタールもの自前の牧場。牛の数も大幅に増えていた。子供たちの数も増え、次女のそらちゃんと3男の寛大クンが生まれていた。長女のあおさんは中学3年生になっていた。その時も突然の訪問だったが、ひと晩、泊めてもらった。典子さんがつくってくれた料理をつまみながら雄次郎君とビールを飲んだ。10年ぶりの再会なのでいろいろと話がはずんだ。

●田中家の朝は早い。5時、起床。冷たい牛乳をキューッと飲み干したところで仕事の開始。田中夫妻のあとについて2人の仕事ぶりを見せてもらう。まずは牧草地にいる牛たちを集めることからはじまる。スキーのスティックを持って牛の後にまわり込み、牛舎の方へと牛を追っていく。牛たちを牛舎に追い込むと、牛に配合飼料を食べさせながら、1度に8頭の搾乳をする。60頭の搾乳が終わると牛舎の掃除。牛糞は堆肥になる。それを1年とか2年寝かせ、黒土のようになったところで牧草地に戻す。牧草には春から夏にかけて刈る1番草と夏から秋にかけて刈る2番草がある。1番草の方がはるかに良い牧草で、草に勢いがあるという。その牧草をロールにして蓄え、長く厳しい冬の間の飼料にする。自家製牧草だけで足りなくなると、牧草を買わなくてはならない。これがかなりの出費になるという。「牛の頭数を(これでも)減らしたんです。そうすることによって、余裕が出てきましたよ」。頭数が多いと、忙しいだけでなく、牧草や配合飼料を大量に買わなくてはならないからだ。

●朝の仕事を終え、ひと息ついたところで朝食になる。あおさんら、子供たちはすでにスクールバスに乗って中学校や小学校に行った。朝食には田中雄次郎牧場産の牛乳をベースにしたシチューが出た。これがじつにうまいもので、中に入っているジャガイモやニンジンも自家製。朝食後、牧場の一番高いところに連れていってもらった。牧草地の向こうには利尻富士が見えた。田中夫妻は新しい家を建築中でその完成が間近だった。あおさんたちも新しい家の完成を心待ちにしていた。

●それから8年後の2007年には「温泉めぐり日本一周」(このときは1年間で3063湯の温泉に入り、ギネスの世界記録になっている)で田中雄次郎牧場を訪ねた。新しい家は完成し、4男の晴大君が生まれていた。このときは温泉めぐりだったので近くの豊富温泉に泊まり、翌朝、田中家に電話してから行った。典子さんは何種類ものパンを焼いて待ってくれていた。そんな手造りパンをいただき、コーヒーを飲みながら田中夫妻と話した。長女のあおさんは士別のカトリック系幼稚園の先生になっていた。長男の雄馬さんは札幌のJOMOに勤務していた。次男の真生さんは十勝の農大生。次女のそらさんは室蘭でおこなわれている陸上の全道大会に参加中。高校1年生ながら中長距離では宗谷地方のトップ選手だという。

●田中雄次郎牧場訪問は、そして昨年(2010年)の「林道日本一周」につづくのだが、別れぎわに雄次郎君にはいわれてしまった。「(子供たちがみんな大きくなったら)オレもカソリさんみたいに、世界中を旅してまわりたいですよ!」。雄次郎君、おおいにやってくれ。君の無限のパワーをもってしたら何でもできるよ。今年もカソリ、夏にバイクで稚内まで行ったが、残念だったのは田中雄次郎牧場に寄れなかったことだ。先月号の「地平線通信」にあるように、田中家の長男、雄馬さんと、次男の真生さんは今、ともにフィリピンで活躍している。雄馬さんは「JLMM」(日本カトリック信徒宣教者会)の支援活動でルソン島に、真生さんは日本青年海外協力隊の農業技術指導でセブ島に行っている。雄馬さんはこのあと東チモールかカンボジアで支援活動をする予定だという。長女のあおさんは無事、男の子を出産し、今は名寄に住んでいる。お子さんは1歳の誕生日を迎え、すこやかに成長しているという。田中家のみなさんに幸多からんことを!

●江本さん、田中雄次郎さんの報告会を1日も早くお願いします。それと雄次郎さんの原点ともいえる『日本縦断徒歩旅行』の復刻の価値は大です。(賀曽利隆)

これは「林道日本一周」(2010年)の時の田中雄次郎牧場訪問。田中裕次郎さんと子供たちは元気だ。初めて行った「40代編日本一周」(1989年)の時から20年以上がたっている。「70代編日本一周」(2017年)の時にも田中雄次郎牧場を訪ねた