奇跡の「中国ツーリング」顛末

『地平線通信』2010年1月号より

●「広州→上海」の中国ツーリングから帰ってきました。今回の中国旅はいろいろな意味で、すさまじいものでした。それを成しとげたことによって、自分が新たなステップを踏み、別な世界に昇っていったような気もします。

●12月2日、広州に到着。人口1500万の広州上空はすさまじいばかりの大気汚染。息をするのも苦しいほどでした。世界第2の工業生産地帯、珠江デルタの中心都市だけあって、町は車の洪水、いたるところで大渋滞を起こしていました。そんな広州を出発。125ccスクーターのスズキ・アドレスV125Gを走らせ、上海を目指しました。驚いたことに国道324号沿には途切れることなく市街地がつづくのです。ちなみに国道324号は福建省の福州から広東省の広州を経由し、雲南省の昆明に至る全長2600キロの国道です。

●福建省に入るとわずかに田園風景を見ましたが、すぐに厦門へとつづく市街地に入っていくのです。さらにそれが泉州から省都の福州へとつづきます。広州から福州までは1220キロ。福州からは国道104号→国道320号で上海まで行くのですが、その間もほぼ同様で、なんと「広州→上海」2200キロ間がメガロポリスになっています。「ボストン→ワシントン」、「東京→大阪」などを上回る世界最大のメガロポリスといっていいでしょう。人口1600万の上海は世界一の工業生産地帯、長江デルタの中心都市です。広州からつづいた大気汚染も途切れることはなく、ついに中国では抜けるような青空を一度として見ることはありませんでした。民族の存亡にもかかわるようなすさまじい大気汚染なのですが、それをあまり気にも留めない中国人には驚きを感じるほどでした。

●福建省でひとつうれしかったのは、空海の中国上陸地点である霞浦に行けたことです。郊外の赤岸には「空海大師記念堂」が建っています。それにしても空海は強運です。804年の第17次遣唐使船に乗ったのですが、4隻のうち2隻は嵐で沈没。空海の乗った船は沈没をまぬがれ、この地に漂着。空海は上陸の許可が下りるまでの40日間、霞浦に滞在しました。4隻のうち1隻だけは予定通り、寧波港に到着。その船には最澄が乗っていました。アドレスでは4月、5月にかけて「四国八十八ヵ所めぐり」をしたので、ぼくの頭の中では四国と中国がつながったような気がしました。次ぎの機会には、ぜひとも霞浦→福州→長安(西安)と空海の足跡をたどってみたいと思いました。

●福建省から浙江省に入り、楽清でひと晩、泊まりました。その翌日(12月10日)のことです。朝から雨が降っていました。50キロほど走ったところで峠にさしかかりました。時速60キロぐらいで2車線の峠道を上り、ブラインドになった左コーナーにさしかかった時のことです。何と雨で滑り、スピンしたトラックが自分の目の前に飛び込んできたのです。絶対絶命のピンチ。「あ、やったー!」。その瞬間、次ぎ次ぎに頭の中から指令が飛んできました。「目をつぶるな!」、「ここでは死ぬな!」、「どうすれば助かるか考えろ!」。トラックが自分の目の前で横向きになって止まるのと、アドレスで衝突するのは、ほぼ同時でした。すさまじい音とともにアドレスは吹っ飛ばされました。

●衝突の瞬間、ぼくは一瞬たりとも目を閉じることなく、目をカーッと見開いたままトラックに突っ込んでいったのです。そのときどうすれば助かるか、それだけを考えていました。トラックの中央部には人間が滑り込めるくらいのスペースがありました。そこに賭けたのです。転倒し、右手、右膝で受身をとりながら、ものすごい勢いで滑り込んだのです。その結果、スペースにすっぽり入り込むことができました。トラックを降りてきた運転手はぼくの姿が見えないので、顔が青ざめるくらいの恐怖心を感じたといいいます。そのあとトラックの下からぼくが這い出してきたので、さらに恐怖心は増し、ガタガタ震えていました。

●それにしてもラッキーでした。トラックが止まるのと、トラックに衝突するのはほぼ同時でしたが、ほんの1秒、2秒という、わずかな時間差がありました。トラックの方が先に止まったのです。この「1秒、2秒」でいろいろなことが見えるし、いろいろなことが考えられるし、いろいろなことが実行できるのです。そのおかげで助かったようなものです。それともうひとつラッキーだったのは、トラックの側面には日本のような巻き込み防止のバーがついていないことでした。百戦練磨のカソリ、全身を強打したのにもかかわらず、右手で防御し、頭だけは打たないようにしたのです。

●すさまじい痛みの中で道路上に立ち尽くし、警察が来るのを待ちました。その間にいろいろなことを考えました。12月10日が自分の命日になってもおかしくないような状況でしたが、こうして生き延びられたことに感謝しました。「生きている!」という実感。しかし、すぐに考え直しました。「いや、生かされているんだ!」。ぼくは何か、目に見えない大きな力によって守られ、「オマエはまだ生きていろ!」と言われたような気がしたのです。「自分にはまだまだ、やりたいことがいっぱいある。よし、次は中国一周だな」と、事故現場で「中国一周計画」を夢見るのでした。

●中国警察の動きはじつに素早いものでした。10分もたたないうちに2台のパトカーがやってきて、事故現場を調べ、すぐに楽清市の市民病院にぼくを連れていきました。右手、右膝をやられましたが、骨には異常ナシ。右膝を2針縫う程度で済みました。次に警察署で事故調書がとられました。トラックの運転手は「すべて、私の責任です」と最初から言っているので、ここでもまったく問題ナシ。まるで警官が裁判官でもあるかのように、運転手に賠償金として5000元(約75000円)を払うようにと命令しました。調書に右手の人差し指で捺印すると、運転手は「私には子供が4人いまして…」と泣きついてくるのです。一人っ子政策の中国で、何で4人も子供がいるのか?といいたかったのですが、まあ、仕方ないですね、病院代の2000元を払うということで和解しました。

●事故でメチャクチャになったアドレスですが、それは前面のみ。エンジンのある後部はまったく無傷でした。エンジンもかかります。何ともタフなアドレスに乗って出発。グローブのように腫れあがった右手でハンドルを握り、天台、紹興、杭州と通り、12月11日14時45分、上海に到着しました。広州から2252キロでした。(賀曽利隆)

空海が40日間、滞在したという霞浦の町