30年目の「六大陸周遊記」[057]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 6 ドジル[コンゴ] → カメルーン国境[ガボン]

ランバレネへ

 コンゴからガボンに入ると、南部ガボンの中心地ンデンデに向かった。国境からは税関のランドローバーに乗せてもらった。

 国境から100キロほどのンデンデに着くと、さらにムイラへ。ガボンでのヒッチハイクは楽だ。交通量は少ないが、車が来るとたいてい乗せてくれた。ムイラはガボン最大の河川オグエ川の支流、ングニエ川を渡ったところにある。

 ムイラからはランバレネまで行くトラックに乗せてもらえた。フガモを過ぎると、密林地帯に入っていく。夕方、トラックは故障し、密林の中で止まってしまった。ランバレネまであと20キロほどの地点。

 トラックが止まると、まるで空気にふれてそうなるかのように、肌が出ているところが無性にかゆくなる。小さな、ほんとうに小さな虫が肌にまとわりついてくるのだ。日暮れの頃が一番ひどく、夜遅くなってくると、それほどやられない。

 トラックの故障は直らず、ひと晩、荷台で寝た。トラックの荷台には、ぼくのほかにもう4人、乗客が乗っていた。夜が明けるやいなや、全員でランバレネに向かって歩き出す。トラックの故障はそう簡単には直らないとみたからだ。

シュバイツアー病院

 コンゴとの国境から370キロ、昼前にオグエ川の岸辺に着く。水量の豊かな川だ。密林地帯を滔々と流れている。ランバレネの町はそのオグエ川の中島にある。フェリーボートでランバレネに渡った。

 ランバレネ。シュバイツアー病院の所在地として、世界中にその名をとどろかせている。さっそくランバレネの町を歩きまわり、シュバイツアー病院はどこかと聞いてまわった。すると町中ではなく、オグエ川の対岸にあるという。

 島の北側まで歩き、そこからカヌーで病院に渡った。25フラン(約30円)取られた。病院前の岸辺には、タクシーがわりとなるカヌーが何艘も並んでいた。

「密林の聖者」といわれたシュバイツアーはフランス人。1875年生まれ。1913年にキリスト教の布教で旧フランス領赤道アフリカのガボンにやってきた。ランバレネでの医療活動に生涯をかけ、1952年にはノーベル平和賞を受賞。1965年にこの地で死んだ。ぼくはシュバイツアーの死後10年ほどでランバレネにやってきたことになる。

 シュバイツアー病院に入っていく。ヤシの木陰に何棟かの病棟が建っている。一見すると粗末なバラック風。

「えー、これがあのシュバイツアー病院!?」

 ちょっと驚きだった。もっと大きな、近代的な病院を想像していたからだ。オグエ川には大きな橋が建設中で、巨大な鉄パイプが川中に次々に打ち込まれていた。古いアフリカと日一日と変わっていく新しいアフリカの対比を見る思いがした。シュバイツアー病院はそんな古いアフリカの象徴のようだった。

 シュバイツアー病院からふたたびカヌーでランバレネに戻ると町を歩いた。といっても、ちょっと歩けば町の端から端まで歩けてしまうようなランバレネの町だった。

ランバレネを流れるオグエ川
ランバレネを流れるオグエ川
岸辺では子供が魚を釣っている
岸辺では子供が魚を釣っている
オグエ川にかかる橋を建設中
オグエ川にかかる橋を建設中
対岸にシュバイツアー病院を見る
対岸にシュバイツアー病院を見る
これがシュバイツアー病院
これがシュバイツアー病院
シュバイツアー病院近くの岸辺
シュバイツアー病院近くの岸辺
これがアフリカ最後の赤道…

 ランバレネからカメルーン国境に向かう。フェリーで対岸に渡ると、あとはひたすら歩いた。10キロほど歩いたところで、乗り合いのタクシーが止まってくれた。何と60キロ先のビフォンまでタダで乗せてもらった。

 ビフォンで道は大きく2本に分かれる。左に曲がっていく道は大西洋岸の首都リーブルビルに通じている。北に直進する道はカメルーン国境へと通じている。

 ビフォンから北へ。夕方、ンジョレに着いた。オグエ川の河畔の町だ。

 町中のキリスト教の教会で泊めてもらった。神父さんにはよくしてもらい、一緒にビールを飲み、夕食をご馳走になった。

 翌日は赤道を通過。これがアフリカでは最後の赤道になる。ケニアの赤道、ウガンダの赤道、ザイールの赤道と、アフリカの各地で越えた赤道のシーンを思い返した。

「コンニチワ!」

 赤道を越え、大密林地帯の中の道を歩く。時々、鉄道の建設現場を見るが、これは首都のリーブルビルの外港、オゥエンド港と内陸を結ぶ鉄道だ。ンジョレの先、ブーエで2本に分かれ、1本は北東のベリンガへ、もう1本は南東のフランスビルに通じる予定なのだという。ともにコンゴ国境に近い町。1980年頃の開通を目指している。

 大密林地帯の道を疾走する原木運搬用の大型トラックに乗せてもらい、アレンベという村に着いた。食堂に入ると、
「コンニチワ!」
 と日本語で挨拶された。トーゴ人のジョゼフ。

 彼はガーナの日系企業で働いたことがあるのでカタコトの日本語を話した。30代前半のジョゼフは鉄道建設の技術者としてガボンに来たそうだ。彼とはしばらく話したが、食堂の女将に米と魚の缶詰を手渡すと、「これで料理して、あの日本人に食べさせてほしい」といって仕事に戻っていった。しばらく食堂で待ったが、ジョゼフのおかげでうまい飯をたらふく食べることができた。

原木を積んだトラックが走り過ぎていく
原木を積んだトラックが走り過ぎていく
赤道ギニアのリオムニ

 ガボンの密林地帯はとてつもなく広く大きい。行けども行けども深い森がつづく。大木が空を突き、密林内は「昼なお暗い」世界になっている。密林内の道を土煙を巻き上げて原木を運搬する大型トラックが走り過ぎて行く。そんな原木運搬用の大型トラックもラララ(LALARA)を過ぎると、パタッと姿を消した。その先は交通量はグッと減り、道も悪くなった。苦しいヒッチハイクになり、歩く距離が長くなった。

 ミジックを過ぎると道幅が狭くなり、密林の大木が覆いかぶさってくる。その中を歩きに歩いた。

 この一帯は赤道ギニアとの国境に近い。旧スペイン領のリオムニだ。1968年にスペインから独立した赤道ギニアは大陸側のリオムニとギニア湾最奥のビオコ島(旧フェルナンドポー島)から成っている。首都はビオコ島のマラボ(旧サンタイサベル)。国境一帯の村々ではカタコトのスペイン語を話す人が多かった。残念ながら赤道ギニアはキンシャサでもブラザビルでもビザを取ることができず、諦めなくてはならなかった。

「六大陸周遊」ではそれまでの2度の旅と合わせ、アフリカ大陸内のすべての国に入るつもりでいたのだが、これでパスした国はボツワナにつづいて赤道ギニアが2国目…。

もう満身創痍…

 赤道ギニアとの国境近くの村でひと晩、泊めてもらった。

 翌朝は日の出前から歩きはじめる。なにしろ交通量がほとんどないので、徹底的に歩くしかなかった。

 何ともラッキーなことに、歩きだしてまもなく、オイエムの町まで行く車に乗せてもらえた。まさに「早起きは三文の得」。車を運転しているのはナイジェリアのハウサ族の商人だ。ハウサ族はナイジェリア北部に住む民族。商才のあるハウサはナイジェリアのみならず、周辺のサハラ砂漠のオアシスや密林地帯の村々まで、広範囲なエリアで商売をしている。そのためハウサ語というのは西アフリカから赤道アフリカにかけての広い範囲で通用する言葉になっている。

 赤道直下とはいえ、早朝の密林内の空気は冷え冷えしている。窓から入ってくる風は寒さを感じるくらいだった。

 オイエムも赤道ギニアの国境に近い町。ここから西に行く道はリオムニの中心地バータに通じている。

 ハウサ商人と別れると、オイエムから北へ、カメルーン国境に通じる道を歩いていく。オイエムから次の町ビタムまでは75キロ。オイエムには午前中に着いたので、ビタムまでは楽に行けると思った。しかし、通る車はほとんどなく、さらに歩きに歩いた。ヒッチハイクは苦しい。とうとうビタムに着けないまま、途中の村で泊めてもらった。

 その夜は辛かった。朝の寒さにやられたのか体は熱っぽい。ガタガタと震えがくるほど。おまけに虫刺されがひどく、かきむしった跡はすでに何ヵ所も膿んでいる。ザイールの密林地帯でトラックから落ちたときの痛みも依然として強く残っている。もう満身創痍…。

カメルーン国境へ

 翌朝、村人たちのお礼をいって別れ、カメルーン国境に向かって歩いていく。国境近くのビタムに到着。ここでガボンの出国手続きをする。国境まではあと15キロ。車はまったくといっていいくらいに通らない。懸命に歩く。熱っぽさはとれず、鉛のように重い体をひきずって歩きつづけた。

 夕方、ついにカメルーンとの国境のンテム川の岸辺にたどり着いた。密林の中を悠々と流れる川だった。