30年目の「六大陸周遊記」[056]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 5 キンシャサ[ザイール] → ドジル[コンゴ]

ブラザビルへ!

 ザイールの港町マタディから首都のキンシャサに戻ると、すぐに外務省内のCNDに行く。するとうれしいことに、ブラザビルに渡るための許可証は出ていた。それを持って、さっそくコンゴ大使館に行く。すでに顔なじみになっている一等書記官は、その場でビザを発行してくれた。これでザイール川の対岸のブラザビルに渡れるのだ。

 キンシャサ港のフェリー乗り場に行く。米や粉ミルク、雑貨などの商品をかかえたおばさんたちの姿が目につく。国境を越えての行商だ。

 ザイールの出国手続きを済ませ、フェリーに乗り込む。フェリーはじきに動き出す。ザイール川がグッと川幅を広げ、まるで大湖のように見えるスタンレープールをブラザビルへと渡っていく。

 ブラザビル港に到着。コンゴの入国手続きを終え、町を歩く。ブラザビルは人口30万人のこじんまりとした町。キンシャサとは規模が違う。

日本人の教会?

 ブラザビルでは信じられないような体験をした。ブラザビルの中心街から大西洋の港町ポアント・ノアールに通じる街道を歩いている途中で夜になった。満月の夜だった。町外れのガソリンスタンドのすみにでも寝かせてもらおうと考えながら歩いていると、高校生に話しかけられた。彼といろいろな話をしながら歩いたのだが、突然、「この近くに日本人の教会がある」という。最初は信じられなかった。高校生はフランス語は自由自在に話せるが、英語はそれほど得意ではない。我々は英語を主にし、フランス語を混ぜて話していたが、高校生のいい間違いではないかと、聞きなおした。だが、彼は間違いなく日本人の教会だという。

「あれがそうだ」
 と、彼が指差す方向を見ると、なるほど日本風の神社を思わせるような建物が月明かりに浮かび上がっていた。

ブラザビルの天理教

 高校生に手を引っ張られるままに、その建物に入っていった。すると彼のいった通りで、そこは日本の天理教のブラザビル教会だった。突然の訪問にもかかわらず、教会長の高井さんをはじめ、日本人のみなさんには大歓迎された。

 それにしてもすごいのは、いかにも日本的な天理教がアフリカ大陸の、それも日本から遠く離れたコンゴに進出していることだった。ザイール川をはさんだ対岸のザイールは「資源大国」なので、相当数の日本人が滞在している。だがコンゴには天理教のみなさんを除いたら、日本人は一人もいない。そのような地で布教活動をしている。

 その夜は日本式の風呂に入り、日本食の夕食をいただいた。食後は夜、遅くまで高井さんたちと話した。みなさんの話によると、北米や中南米にも、かなりの数の天理教信者がいるという。

恐怖の悪路を行く

 翌日は天理教のみなさんにお礼をいって出発。次の国、ガボンへ。いつものようにヒッチハイクするつもりでいた。ところが井口さんという方が途中まで車で送ってくれるという。80キロ先のキンカラまでは舗装路だったが、その先はひどい道。砂が深く、急な坂道では登れずに車の後ろを押した。これが首都ブラザビルと港町ポアント・ノアールを結ぶコンゴでは一番の幹線道路なのである。まさか、これほどの悪路だとは思ってもみなかった。まさに「恐怖の悪路」だ。

 井口さんには「もういいですから」と何度もいったのだが、「行けるところまで行きましょう!」とのことで、そのまま乗せてもらった。

 ブラザビルから西に150キロのミンドゥリに到着。その途中では1度、パンクした。

 ミンドゥリを過ぎると、砂は少なくなったが、そのかわりデコボコが激しくなる。トラックが泥の中にめり込んだ跡が生々しく残っている。乾期だからいいようなものの、これが雨期だったら乗用車ではまず通れない。

 この道で2度目のパンク。つづいて3度目のパンク。そこはミンドゥリから20キロほどの小さな村だった。もう予備のタイヤはない。幸いミンドゥリまで行く小型トラックが通りがかり、井口さんのコンゴ人の助手はパンクしたタイヤを持って、ミンドゥリに戻っていった。

 コンゴ人の助手がミンドゥリに向かっていったのは昼の12時過ぎ。だが、助手はいくら待っても戻ってこない。とうとう日が暮れてしまう。我々はどうすることもできず、車の中で寝た。助手が戻ってきたのは真夜中。車に乗れず、ブラザビルとポアント・ノアールを結ぶ列車に乗り、近くの駅から歩いてきたという。

 さっそく懐中電灯で照らしながらタイヤをとりつけ、助手が降りたという駅まで行く。駅前にシートを広げ、井口さん、助手と一緒にビールをくみかわした。明るい月夜だった。満月に近い大きな月を見上げながら飲むビールの味は格別だ。ヤシの葉が夜風にざわついている。ひとしきりビールを飲んだところで、シートの上で3人が川の字になって眠った。

首都ブラザビルから大西洋の港町ポアント・ノアールへの道
首都ブラザビルから大西洋の港町ポアント・ノアールへの道
ブラザビルとポアント・ノアールを結ぶ鉄路を渡る
ブラザビルとポアント・ノアールを結ぶ鉄路を渡る
車はまったく通らない…

 井口さんは何度も「もっと先まで乗せていってあげよう」といってくれたが、もうこれ以上、迷惑はかけられない。

「ほんとうに大丈夫です。ここからはヒッチハイクで行きます」
 といって、翌朝、鉄道の駅前で井口さん、助手と別れた。

 井口さんにとっては、1時間に車が1台通るかどうかといったようなこんな道で、ヒッチハイクなどできるはずがないと思ったのに違いない。

 山がちの風景の中を歩いた。車は1時間に1台どころか、まったくといっていいくらいに通らない。乾期のサバンナ、乾燥した風景がつづいた。

 半日以上、歩いた。やっと午後になって車が来た。なんともラッキーなことに、その車に乗せてもらった。ブラザビルの西400キロのドジルまで行く車だった。

 マディングの手前で道は大分よくなり、サトウキビ栽培の中心地ジャコブを通り、夕方、ドジルに着いた。

 ドジルで道は2本に分かれる。1本は西の大西洋の港町ポアント・ノアールに通じる道、もう1本は北のガボン国境に通じる道だ。

コンゴからガボンへ

 ドジルからはガボンに通じる道を歩いていく。真っ赤な夕日が山の端に落ちていく。すっかり暗くなったころ、街道沿いの集落にたどり着き、そこで泊めてもらった。夕食をご馳走になり、そのあとは焚き火を囲みながらヤシ酒を飲ませてもらった。

 ガボン国境への道は悪くはない。路面はけっこう整備されている。原木を積むシャシだけの大型トラックがひんぱんに通ったが、それにはよく乗せてもらった。

 街道沿いには点々と集落があり、夜になると、ふらりと集落内に転がり込み、泊めてもらった。身振り手振りと現地語のカタコト語で村人たちと話したが、とくにコミュニケーションで不自由することはなかった。

 ガボン国境までのヒッチハイクは楽だった。車が来れば、たいてい乗せてくれたのだ。ドジルから200キロほどで国境に到着。コンゴ側の出国手続きも、ガボン側の入国手続きも簡単に終わり、熱帯雨林の国、ガボンに入った。

ガボン国境周辺の丘陵地帯
ガボン国境周辺の丘陵地帯