30年目の「六大陸周遊記」[051]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 27 ロドワール[ケニア] → ナイロビ[ケニア]

キクユ族の警官

 ケニア最北の町、ロキタングからケニア北西部の中心地、ロドワールに戻ってくると、夜の町を歩いた。のどが乾いたところでバーに入り、キューッとビールを飲み干した。うまい!

 ここではすっかり酔っぱらったキクユ族の警官と仲良くなった。彼は辺境の地での生活の厳しさを酔いにまかせて語りつづける。肥沃なハイランドに住む農耕民のキクユ族にとっては、ルドルフ湖西岸の乾ききった酷熱の地での生活は耐えがたいものなのだろう。

「ヒアー、ノーベジタブル、ノーフード。ホット!(ここには野菜も食べ物もない。ただ暑いだけだ)」

 警官は1日も早く故郷に帰りたいと、そればかりを繰り返す。ふらついた足どりの警官とバーを出ると、一緒に夜の町を歩き、その夜は丘の上にある警察で泊めてもらった。

ピンクに染まったルドルフ湖

 翌朝は夜明けとともに出発。どうしてもルドルフ湖を見てみたかった。ロドワールからルドルフ湖までは50キロ以上ある。もし車に乗れなかったら、湖まで歩くつもりでいた。ロキタングへの道を戻り、ルドルフ湖への道との分岐点まで行く。そこからルドルフ湖への道に入っていった。日が高くなるにつれて強烈な暑さに見舞われる。そんなときになんともラッキーなことにトラックが通りがかり、乗せてくれた。

 ロドワールからルドルフ湖までの道はノルウェーの援助で完成したばかり。ルドルフ湖の水産資源の開発を目的としてつくられた通称「魚道」。草がまばらにはえ、アカシアの木がポツン、ポツンとはえている乾燥した荒野の中をトラックは疾走する。

 なだらかな山道を下っていくと、前方にルドルフ湖が見えてきた。トラックは湖岸の漁民の集落で停まった。湖でとれた数十センチくらいの魚が干されていた。トラックはこの干し魚を積み込んだらロドワールに戻るということで、帰りも乗せてもらえることになった。湖畔を歩く。漁民の集落の先は湖面が一面にピンクに染められていた。無数のフラミンゴ。ジリジリ照りつける太陽のもとでピンクに染まったルドルフ湖をしばらく眺めるのだった。

ルドルフ湖周辺の風景
ルドルフ湖周辺の風景
フラミンゴが群れるルドルフ湖
フラミンゴが群れるルドルフ湖
フラミンゴが群れるルドルフ湖
フラミンゴが群れるルドルフ湖
濁流の川渡り

 夕方、ロドワールに戻ると、キターレまで行くトラックが出るというので、20シル払ってそれに乗せてもらった。夜になると、星空を見上げながら、荷台でガタガタ揺られながら眠った。ところが夜中になると、雨が降りだし、あっというまにたたきつけるような激しい降り方になる。積み荷の干し魚を覆うシートの中にもぐり込んだが、シートの穴からは雨水が流れこんでくる。全身ずぶ濡れになってしまい、とてもではないが寝てはいられない。

 夜が明けたころでやっと雨はやみ、ほっとひと息ついた。ところが国境を越え、ウガンダ領内に入ったところで、足止めを食らってしまった。来るときはチョロチョロ流れる程度だった小川が、夜中の大雨で濁流が渦巻く大きな流れに変わってしまったのだ。なすすべもなく、水位が下がるのをじっと待ちつづける。増水した川にさしかかったのは早朝だったが、2時間たっても3時間たっても、昼が過ぎても水位は下がらなかった。その間にあとから来たトラックが5台、6台と列をつくった。

 水位はほとんど下がらないまま、とうとう夕方になってしまった。列をつくっていたトラックの1台が、もう待ちきれないといわんばかりに、強引に川の中に突っ込んでいった。川の中央あたりではトラックの荷台に届くほどの水の深さ。トラックはそれでもエンジン全開で激しく水しぶきを巻き上げながら走り、反対側の岸を登る。エンジンからは白煙がたち昇る。そしてついに川岸に登った。成功だ。トラックの乗客たちからは、「ワーッ!」と、大きな歓声が上がった。

 そのトラックの成功に力を得て、ほかのトラックも次々に川を渡っていった。無事、全トラックがその川を渡り終えた。「一難去ってまた一難」ではないが、川を渡ってその先のウガンダ領内の道はものすごい悪路に変わっていた。大きな水溜まりがあちこちにでき、ちょっとした登り坂はグチャグチャの泥道に変わりはてていた。水溜まりはまだしも、グチャグチャの上り坂では何度もスタックし、そのたびに助手や乗客たちはタイヤの下に木の枝などを入れてトラックを押した。

 ウガンダ領内を走り抜け、ケニアに入ると、道はグッと良くなった。トラックはキターレに向けて夜通し走り、夜明け前にはキターレに着いた。

ウガンダ領内の悪路を行く
ウガンダ領内の悪路を行く
川に水が流れ通行止
川に水が流れ通行止
川に水が流れ通行止
川に水が流れ通行止
キターレの町に戻ってきた
キターレの町に戻ってきた
「トムソンの滝」を見た!

 キターレの町に着いたときは体中、魚くさかった。なにしろロドワールからトラックの荷台でずっと干し魚と一緒だったからだ。市場に行って、顔、頭、手足を洗ってさっぱりしたところで、バナナとパイナップルを買い、それで朝食をすませた。

 キターレからはふたたびヒッチハイクを開始し、エルドレットからナクールへと、来たときと同じ道を戻る。

 ナクールではシークテンプルに泊めてもらい、次の日、ナイロビに向かった。「ナクール→ナイロビ」間はまっすぐナイロビに戻るのではなく、トムソンズ・フォールスに行き、そこからナニュキ、ニエリ経由でナイロビに戻ろうと、地図を見ながらそう決めた。

 ナクールからトムソンズ・フォールスに通じる道との分岐点まで歩いていく。そこからナイロビへの道はひっきりなしに車が通るが、トムソンズ・フォールスへの道になると、ガクッと交通量が減る。だが、それほど待たずに女性の運転する車で4キロほど乗せてもらい、そのあとすぐに陸軍のランドローバーに乗せてもらった。舗装路は途切れ、ガタガタの山道に入っていく。やがてギルギルからの舗装路に合流。赤道を越えたところがトムソンズ・フォールスの町。乗せてくれた陸軍の将校には町のレストランで昼食をご馳走になった。そのあとで、町名の由来にもなっている「トムソンの滝」を見に行った。見上げるほどの高さなのだが、流れ落ちる水量は乾期のせいもあってそれほどでもなかった。だがこうしてトムソンの滝を目の前にしていると、「一度は見てみたい!」と思っていた滝なので満足感はあった。

ナク-ル湖を望む
ナク-ル湖を望む
乗せてもらった車にサルが来る
乗せてもらった車にサルが来る
トムソンの滝
トムソンの滝
ケニア山から昇る満月

 トムソンズ・フォールスからは赤道に沿ってナニュキに向かう。ほとんど待たずにダットサンの小型トラックに乗せてもらい7、8キロほど先の村まで行った。この分なら簡単にナニュキまで行けるなと思っていたら、そのあとのヒッチハイクはまったくダメ。交通量は少なく、たまに車が来ても乗せてくれない。
「よーし、こうなったら歩くゾ!」
 と、正面にケニア山、右手にアバデア山と雄大な風景を眺めながら平原の中に延びる道を歩いた。車に乗せてもらえないまま、とうとう夕暮れになってしまった。おまけに天気も崩れ、雨が降ってくる。近くには家もなかった。

「こうなったら、なるようになれだ」

 日が暮れる直前、GKのナンバーをつけた政府のランドローバーが通りがかり、ありがたいことに乗せてくれた。「助かった!」と、思わず胸をなでおろす。これで雨の心配はいらない。ランドローバーは暮れゆくケニア山に向かって突っ走ったが、激しい夕立になり、大粒の雨をフロントガラスにたたきつけてくる。だがそれもつかのまのことで、雨が通りすぎると雨雲は消え、きれいな夕焼けの空に変わった。ケニア山は沈もうとしている夕日を浴びてパーッと明るく輝く。山頂周辺の雪がオレンジ色に変わる。日が沈むと、残照に照らされたケニア山の主峰群の北側から満月が昇った。

 ナニュキに到着すると、ローカルガバメントの中庭で寝かせてもらった。赤道の真上だというのに、なんとも寒い。朝起きると、空には一片の雲もなく、きれいに晴れ渡っている。寝袋は夜露でぐっしょりと濡れていた。

 ナニュキからナイロビへ。町外れに立つ赤道の標識の下で車を待ったが、すぐにニエリまで行く車に乗せてもらった。ニエリからもほとんど待たずにナイロビまで行く車に乗せてもらった。ナイロビの中心街から歩き、佐藤さんの家には昼前に着いた。

アバデア山
アバデア山
ケニア山
ケニア山
ナニュキの赤道
ナニュキの赤道
佐藤さん一家との別れが迫る…

 いよいよ佐藤さん一家と別れ、ナイロビを離れる日が迫ってきた。

 ナイロビを拠点に最初はキリマンジャロ、次は「タンザニア→ザンビア→ザイール→タンザニア」の東部アフリカ一周、3度目はエチオピアから地中海沿岸諸国、そしてナイル川流域、4度目はアラビア半島南西部の南北イエーメン、5度目はケニア北西部のルドルフ湖西岸地方と、思う存分にまわれた。これというのも佐藤さんと奥さんのおかげだった。ナイロビに戻ってくるたびに、十分な休養と栄養をとらせてもらった。物理的な栄養だけでなく、内面的な栄養もたっぷりととらせてもっらた。というのはナイロビに戻ってくるたびに佐藤さんからはいろいろな話を聞かせてもらったからだ。ぼくはウィスキーを飲みながら聞く佐藤さんの話が大好きだった。

「なあ、カソリ君、どうも日本の女っていうのはよくないね。この前パーティーで日本人の婦人を紹介されたのだけど、『私は三菱の○○でございます。ケニアにはモンバサの飛行場の建設でやってきましたのよ』なんていうんだ。だからいってやったよ。『奥さんは三菱にお勤めですか。空港の建設とは大変なお仕事ですね』って」

 そんな佐藤さんなのだ。

 佐藤さんはガーナ大学に留学したが、スーダンのハルツームに行ったときは、この国の英雄、マハディの孫娘と世紀(!?)の大恋愛をした。ガーナ大学同窓の美貌のイギリス人女性を追ってイギリスのノーザンプトンまで行ったこともある。
「私は世界を駆けめぐる恋をしたんだ」
 といって笑い飛ばす。

「コスモポリタン」という言葉がぴったりする佐藤さんだが、
「あれはロンドンの地下鉄に乗っているときのことだったかなあ。なんの気なしに、窓ガラスに映っている自分の顔を見たんだ。その瞬間、ハッとしたね。そこにはまぎれもなく日本人の顔があった。あの時ほど自分が日本人だということを意識したことはないね」
 ともいった。

「旅しているといろいろな人たちに出会い、話し合う機会があるだろう。環境や立場の異なる人たちの率直な意見は貴重なものだ。カソリ君、それをしっかりと心にとめておくといい。それが君にとっての大きな財産になる日がきっとやってくる」

「ナイロビ→タンジール」は不安だらけ…

 ナイロビからの計画ルートは次のようなものだ。

 まずは「赤道アフリカ横断」。ナイロビからカンパラ(ウガンダ)、キサンガニ(ザイール)経由でザイールの首都キンシャサへ。ザイール川を渡り、コンゴ、ガボン、赤道ギニア、カメルーンと赤道アフリカの国々をめぐる。つづいて「西アフリカ横断」。カメルーンからナイジェリアに入り、ニジェール、オートボルタを通ってガーナへ。そこからはギニア湾岸、大西洋岸の国々のコートディボアール、リベリア、シエラレオネ、ギニア、ポルトガル領ギニア・ビソー、ガンビアを通り、アフリカ大陸の最西端、セネガルの首都ダカールに出る。最後が「サハラ砂漠縦断」。セネガルからモーリタニアに入り、スペイン領サハラ経由でモロッコへ。ジブラルタル海峡に面したタンジールがアフリカの旅のゴールになる。タンジールを目指しての長い長い旅になる。

 ウガンダからザイールへと、陸路での国境越えができるかどうか…、ザイールのキンシャサからコンゴのブラザビルへと、ザイール川を渡れるかどうか…、鎖国同然のギニアに入れるかどうか…、ポルトガル領のギニア・ビソーでは激しい戦闘がつづいているが、それに巻き込まれずにすむだろうか…。スペイン領サハラとモロッコの国境地帯は一触即発の緊張状態だが、うまく国境を越えられるだろうか…と、不安の種は尽きない。だが、考えていても仕方ない。そうと決めたからには、やるしかないのだ。

 ナイロビではウガンダとザイールのビザを取り、そのあとフランス大使館でガボン、カメルーン、ニジェール、オートボルタ、コートディボアールと旧フランス領赤道アフリカ、西アフリカの国々のビザをまとめて取った。それ以外の国々のビザは行った先々で取ることにする。これですべての準備は整った。

「さー、行くゾー!!」