30年目の「六大陸周遊記」[048]

[1973 – 1974年]

アフリカ東部編 24 モカ[北イエーメン] → ケリッシュ[北イエーメン]

北イエーメンの3大都市

 モカの町はずれまで歩き、そこで車を待った。そしてじきにタイーズまで行くタンクローリーに乗せてもらえた。タンクローリーは乾ききった灼熱の荒野の中を突っ走る。

 前方に山並みが見えてきた。やがてその山地に入っていく。いっぺんに緑が多くなり、ラクダやロバを見かけるようになる。

 タイーズとホデイダを結ぶ道にぶつかった。そのT字路を右折し、北イエーメン南部の中心地、タイーズへ。登り坂がつづく。タンクローリーは唸りを上げて登り、村に着いたところで停まった。村の食堂で運転手に昼食をご馳走になった。

 腹がふくれたところで、タイーズに向けて出発。その村はずれでのことだった。道幅がギュッと狭くなったところで、赤十字のマークをつけた救急車がやってきた。車はトヨタのランドクルーザー。すれ違える道幅ではないので、当然、救急車は停まって待っていると思った。ところが救急車は停まるどころか、そのまま突っ込み、あっというまに「ガシャーン!」とタンクローリーにぶつかった。頑丈なタンクローリーはほとんど無傷だったが、ランドクルーザーの救急車はフロントがグシャグシャ状態になってしまった。乗せてもらった車が事故を起こすと、運転手にはものすごく申し訳ない気持ちになる。自分を乗せたせいで、事故を起こしてしまったのではないか…と思ったりする。

 タンクローリーの運転手も救急車の運転手も、お互いに「オマエが悪いんだ」と、激しい口調でののしりあっている。事故が起きてすぐ、偶然にも、警察の車が通りかかった。警官をまじえての話し合いになり、しばらくつづいた。警官はえばりくさっている。どのような結論になったのか、よくわからなかったが、タンクローリーの運転手は警官に腕時計を取られた。運転手は警官にくってかかったが無駄だった。

 タンクローリーの運転手は諦めた表情でタンクローリーを走らせる。最初は怒ったような表情だったが、そのうち何事もなかったかのようなケロッとした表情に変わった。

 道はますますきつい登り坂になり、タンクローリーはあえぐようにすこしずつ登っていく。谷間にはナツメヤシがおい茂っている。夕方になってタイーズに到着。運転手にお礼をいってトラックを下りる。タイーズは大きな町。首都のサナー、港町のホデイダとともに北イエーメンの3大都市になっている。エアーフランスやシリア航空、クウェート航空などの航空会社のオフィスがあった。

 北イエーメンには日本車が多かった。タイーズの町を走る車の多くは日本車。日本製のバイクも多く見かけた。おもしろかったのはバイクタクシー。客が手を上げると、スーッと近寄ってきて止まり、客を後ろに乗せると、爆音を残して走り去っていく。雨などほとんど降らないので、バイクタクシーは1年中、営業できるのだ。その夜はベッドひとつという超安宿に泊まったが、南京虫にさんざんやられ、ひと晩中、かきむしっていた。

厳しい砂漠でのヒッチハイク

 翌日はタイーズから紅海の港町、ホデイダに向かう。夜明けとともに出発。タイーズの町はずれまで歩く。そこには検問所があり、パスポートを調べられた。検問所からさらに歩いたところで、ランドローバーに乗せてもらった。ホデイダへの道は途中まではモカへの道と同じ。ホデイダとモカへの道の分岐点には食堂があって、運転手には食事をご馳走になった。ご飯と焼肉、それと肉汁。目一杯食べて満腹になった。

 その分岐点から先は舗装路になる。ソ連の援助で完成した砂漠を貫くハイウエー。ランドローバーは交通量の少ないハイウエーを時速100キロ以上で突っ走り、タイーズとホデイダのほぼ中間点のザビッドへ。ザビッドからホデイダまではトラックに乗せてもらった。荷台に乗せてもらったのだが、強烈な直射日光をまともにくらうので、頭がクラクラし、そのうちガンガンと割れるように痛んだ。砂漠でのヒッチハイクはきつい…。ホデイダに着いたときは心底、ホッとした気分だった。

 ホデイダは大きな町。さっそく町を歩く。まずは市場に行き、べつに買い物をするわけでもなかったが、あっちをウロウロ、こっちをウロウロと市場内を歩きまわった。次に町外れの砂浜に行く。夕暮れの浜辺は散歩する人たちでにぎわっていた。やがて紅海に夕日が沈む。その夜はホデイダ港近くで野宿した。

ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの町で
ホデイダの海岸
ホデイダの海岸

首都サナーの夜景

 ホデイダから首都のサナーへ。中国の援助でつくられた山岳ハイウエーだ。北イエーメンではヒッチハイクが楽だった。交通量が少ないので待つ時間は長かったが、車が来れば、たいてい乗せてくれた。

 アラビア半島の西側には南北に長い海岸山脈が走っている。とくに南西部は標高が高くなっているが、そこがイエーメンなのだ。北イエーメンには標高3000メートルを超える山々がいくつもある。最高峰のハドール・シュアイ山が3760メートル、ジハフ山が3269メートル、マナール山が3219メートル、タカール山が3094メートル、ダウラン山が3049メートル、サビール山が3009メートル…といった具合だ。

 この海岸山脈の西側は紅海沿岸の砂漠地帯になっている。イスラム教の聖地メッカがそうだった。1971年にペルシャ湾から紅海へと、アラビア半島を横断したが、首都のリャドを過ぎ、タイフを過ぎるとこの山脈の峠にさしかかる。峠の下り坂は恐ろしいほどの急坂で、つづら折りの峠道がはるか下の方までつづいていた。その峠を下ったところから砂漠がはじまり、その中にメッカはあった。

 ホデイダからサナーに向かっていくと、海岸山脈に入っていく。すると不毛の荒野はあっというまに緑豊かな農地に変わり、驚かされた。川が流れている。ぼくにとってはアラビア半島で見る初めての水の流れている川だった。

 山々が次第に高く、険しくなってくる。イエーメン人の農民の勤勉さを物語るかのように、段々畑が山頂近くまでつづいている。そのような海岸山脈の峠をひとつ、またひとつと越えていく。

 この中国の援助でつくられた山岳ハイウエーを走っていると、同じく中国の援助でつくられたネパールのカトマンズとチベットのラサを結ぶ通称チャイニーズ・ロードを思い出す。1971年にカトマンズから国境のコダリに向かった。モンスーン期の豪雨に見舞われて山崩れがひどく、残念ながらコダリの手前までしか行けなかったが、「中国って国はすごいことをする国だな」と実感した。ホデイダからサナーへの山岳ハイウエーを走っていると、同じような実感をいだくのだった。

 最後に標高3000メートル以上の峠を越えた。その峠をグングン下っていくと、やがて首都サナーの夜景が目の中に飛び込んできた。感動的な眺めだった。サナーに着くと、夜の町を歩きまわり、町中で野宿した。

首都サナ-への道
首都サナ-への道
紅海沿岸の砂漠地帯
紅海沿岸の砂漠地帯

北イエーメンを一周!

 夜明けとともに出発。首都サナーから今度は南下し、タイーズに向かう。タイーズ→ホデイダ→サナー→タイーズと、3大都市を結んで北イエーメンを一周しようというプランなのだ。サナーはまわりを山々に囲まれた盆地の町。標高は2300メートル。サナーからタイーズへの道は工事中の区間が多かった。この道はアメリカの援助でつくらた。

「タイーズ・ホデイダ」間はソ連、「ホデイダ・サナー」間が中国、そして「サナー・タイーズ」間がアメリカの援助ということになる。アメリカとしては当然、ソ連、中国に張り合う気持ちが強かったに違いない。ところが北イエーメンとアメリカとの関係が急速に悪化し、アメリカは途中で手を引いてしまった。そのあとは東ドイツがみていた。

 なんともおもしろかったのはソ連の道、中国の道、アメリカ&東ドイツの道を走っている車の多くは日本車だった。まるで日本の姿を象徴しているかのようだった。

 サナーの町外れには検問所があった。そこまで歩いていった。道には3本のドラムカンが並べられ、すべての車はそこで止まり、検問を受けるのだ。検問をしている警官は「ここで待ってなさい。車が来たら私が運転手に頼んであげよう」と、なんともうれしいことをいってくれる。イスを持ってきてくれ、さらにお茶までサービスしてくれた。じきにランドローバーがやって来たが、検問所の警官のおかげで乗せてもらうことができた。

 舗装路はダマールの町までつづいていた。その先は工事中。ランドローバーは途中の村までだったが、運転手は今度はそこに駐屯している軍に頼んでくれ、そのおかげでまったく待たずに次の車に乗せてもらえた。そして標高2600メートルという高地の町、ヤリムまで行った。

 ヤリムからはハムードさんの車に乗せてもらった。かなり高い峠を越えていく。ハムードさんはサウジアラビアの石油会社アラムコの社員だった。ペルシャ湾岸のダーランで何年も勤務した。給料がすごくよかったとのことで、お金が貯まると故郷への思いがつのり、アラムコを辞めて北イエーメンに帰ってきたという。ハムードさんは同じアラビアといっても、サウジアラビアとイエーメンでは人々の気質も文化も全く違うのだという。

 ハムードさんは「サナー・タイーズ」間の道路建設の現場監督をしていた。峠を越えた村に着くと、ハムードさんには「いっぱい食べなさい」といわれて食堂でご馳走になった。パンにオムレツ、焼肉、デザートの洋梨と遠慮なくいただき満腹になった。ハムードさんと別れたあとは何台かの車に乗り継ぎ、その夜、タイーズに到着。モカに上陸して最初にタイーズに来たので、これで「タイース→ホデイダ→サナー→タイーズ」と北イエーメンの心臓部ともいえる三角地帯をぐるりとひとまわりしたことになる。

 ここからいよいよ南イエーメンのアデンに向かうのだ。北イエーメンと南イエーメンは水と油、犬猿の仲なので、はたしてうまく国境を通過できるかどうか、うまくアデンまで行けるかどうか…と不安はつきない。が、とにかくやってみるのだ。こうしてアデンを目指してタイーズを出発した。

「サナー→タイーズ」間の風景
「サナー→タイーズ」間の風景
「サナー→タイーズ」間の風景
「サナー→タイーズ」間の風景
サナーからタイーズへの道
サナーからタイーズへの道

出国拒否の3つの理由

 北イエーメンから南イエーメンへの国境通過は大きな賭だった。両国間の陸路での国境通過はほとんど不可能だといわれていたからだ。おまけにぼくは南イエーメンのビザは持っていなかった。エチオピアの首都アディスアベバの南イエーメン領事館で、「国境でビザを発行してもらえるだろう」といわれたのを口実にして、南イエーメンの国境のイミグレーションでビザをトライするつもりだった。それ以前に、北イエーメン側が出国を許可してくれるかどうかが大きな問題だった。

 タイーズの町の中心地から東に向かって歩きはじめる。2時間ほど歩いたところで大きな分岐点に出る。まっすぐ行く道が首都のサナーへ、右に曲がる道が南イエーメンに通じている。しばらく歩いたところで、国境近くまで行くトラックに乗せてもらえた。

 そこから国境へと歩いていく。汗だくになって北イエーメン側の国境事務所に到着した。だが、北イエーメンのイミグレーションは想像したとおりで、なかなか出国の許可を出してはくれなかった。そしてさんざん待たされた挙げ句、「キミの出国は認められない」といわれた。その理由は3つ、あった。

 第1の理由はレジストレーションの問題。北イエーメンには古い港町のモカに上陸したが、モカで押された入国印の下にはアラビア語で「3日以内に警察でレジストレーションすること」と書かれてあった。「キミはそれをしなかった」といわれた。

 第2の理由はこの国境のイミグレーションを管理するイミグレーション・オフィスがタイーズにあるとのことだが、国境に来る前に、「(まずは)そこで出国手続きをしなくてはいけない」といわれた。

 第3の理由は南イエーメンへの入国の可能性だという。イミグレーションの係官がいうには、北イエーメンは原則として南イエーメンへの出国を認めているという。しかし、南イエーメンは絶対に陸路での外国人の入国を認めないだろうという。

 これら3つの理由で出国は認められない、だからタイーズに戻りなさいとイミグレーションの係官は繰り返しいうのだ。

タイーズから南イエーメンへの道
タイーズから南イエーメンへの道

ついに出国許可が出る

 ぼくとしてはタイーズに戻る気持ちなど毛頭なかった。なんとしてもこのまま北イエーメンを出国し、南イエーメンに入国したかった。だが、ここで国境の役人を怒らせてしまったら万事休す。役人を怒らせないようにし、なおかつ自分を主張する。

「どうしてもこのまま南イエーメンに入りたいのです。行かせて下さい」

「3日以内のレジストレーションの件ですが、ぼくはアラビア語は聞いたり話したりはすこしできますが、文字はほんとうに申し訳ないのですが、全然読めません。いま、そのことをいわれるまで、まったく知りませんでした。モカでもっと注意すればよかったのですが、モカのイミグレーション・オフィサーはそのことについては何もいいませんでした」

「タイーズで出国手続きをしなくてはいけなかったとのことですが、どこの国でも国境での出国手続きだけです(実際には2度、3度としなくてはならない国が何ヵ国もあったが)。ですからタイーズで出国手続きをしなくてはならなかったとはまったく考えもしませんでした」

「南イエーメンへの入国ですが、エチオピアのアディスアベバにある南イエーメンの領事館は陸路での入国は可能だといってました」

 これだけのことをいうと、あとは「お願します。どうか出国を認めて下さい」と、選挙前の立候補者のようにひたすら平身低頭し、「お願いします」を連発した。

 イミブレーションの係官は態度をやわらげ、コーヒーを入れてくれた。こうなったらしめたもの。北イエーメンでは何度となく日本について聞かれた。北イエーメンには日本に興味を持っている人が多く、そのほとんどの人たちが日本に好感をいだいていた。国境の役人も同様で、彼に聞かれるままに日本について話した。それがよかった。しばらく彼との雑談がつづいたあと、出国許可が下りた。

「やったー!」
 と、飛び上がりたいほどの喜びだった。そんな気持ちをぐっと抑え、イミグレーションの係官と握手をかわし、お礼をいって北イエーメン側の国境事務所をあとにした。

南イエーメンへ

 まずは最初の難関を突破。「なんとしても、南イエーメンに入ってやる!」といった気分で南に向かって歩いた。小さな丘を越えたところに警察があり、呼び止められた。パスポートを調べられたが、それが終わると警官はジュースを出してくれた。ジュースでのどの渇きをいやしたところで、再び南に向かって歩く。

 水を積んだタンクローリーが通りがかり、国境まで乗せてもらう。谷間に入り込んでいく。水の流れていない川が道になる。そして北イエーメン側の最後の地点にやってきた。そこでタンクローリーを降り、運転手に別れを告げ、南イエーメン側の国境事務所に向かって歩いていく。さー、南イエーメンに入れるかどうか…

 ゴムゾウリで歩いていたが、それがダメになってしまい、裸足で川原の道を歩いていく。砂が熱く焼けているので、足の裏はヒリヒリしてくる。高地から低地に下ってきているので、頭がクラクラするほどの強烈な暑さに見舞われる。すべてを焼き尽くすような太陽は全く色がないかのように真っ白く見えた。

 ありがたいことに雲が出てきた。風も吹いてきた。そのおかげですこしは楽に歩けるようになった。国境から南イエーメン側の国境事務所までは歩いて2時間ぐらいだといわれた。その間は無人ではない。遊牧民たちの生活の舞台で井戸があり、そこでは女たちが話をしながら水をくんでいた。まさにイエーメン版の「井戸端会議」だ。

 頭から火が噴き出しそうなあまりの暑さに我慢できず、彼女たちに頭からバサーッ、バサッーと水をかけてもらった。ホッとひと息ついたところでガブガブと水を飲ませてもらった。服はビショビショに濡れたが、なにしろ暑くて乾燥しているので、歩き出すとあっというまに乾いてしまう。

 道は川を離れ、丘の上に出る。前方には家並みが見えている。そこが南イエーメン側の国境事務所のあるケリッシュの町だった。ケリッシュに着いたときはすっかり暑さにやられ、フラフラ状態だ。おまけに何も食べていないので、目がまわるほどの空腹。しかし、そんなことはいっていられない。南イエーメンに入れるかどうか、これからが勝負なのだ。