30年目の「六大陸周遊記」[047]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 23 ナイロビ[ケニア] → モカ[北イエーメン]

エチオピアのアディスアベバへ

 1974年5月9日、ナイロビ発の第4弾目に旅立った。佐藤さんの車でナイロビ国際空港まで送ってもらい、10時00分発のEC(東アフリカ航空)974便に乗り込み、エチオピアのアディスアベバへ。飛行機はDC9。機内はガラガラだった。

 東アフリカ航空機は定刻通りにナイロビ国際空港を出発。離陸すると雲の中に突っ込み、やがて雲の上に出る。眼下には一面の雲海。その雲海を突き破ってケニア山が見える。赤道直下の雪山。山頂周辺の雪の白さがまぶしい。

「赤道を通過します」
 と、機長のアナウンスがあった。

 ケニア山を過ぎると、フーッと吹き飛ばしたかのように、雲がきれいに消え去った。ケニア北部の砂漠地帯に入ったのだ。飛行機の窓から見下ろす大地は一面、茶褐色。「ルドルフ湖が左に見えます」
 と、再び機長のアナウンスがあった。

 また、雲が出てくる。エチオピアに入ったのだ。雲の切れ目からは濃い緑に覆われたエチオピアの山岳地帯が見えた。

 東アフリカ航空機はアディスアベバ空港に着陸。エチオピア国内の混乱のせいなのか、空港はガラーンとしていた。広々としたエプロンにはアリタリア航空機とエチオピア航空機、それと米軍機のわずか3機が見られるだけだった。

機上から赤道直下の雪山、ケニア山を見下ろす
機上から赤道直下の雪山、ケニア山を見下ろす
画家の水野先生との再会

 アディスアベバでは、この前に来た時と同じように、画家の水野先生の家で泊めてもらった。先生はいつ見ても若々しい。とても60過ぎには見えない。考え方も若者以上に若々しかった。

「中国の戦線では戦友が大勢、死んだ。戦闘よりも病気で死んだ人が多かったね。苦しい行軍だった。疲労と空腹で体をくの字に曲げて歩いたよ。泥水をすする毎日で、1尺流れた水は大丈夫、溜まり水はあぶないといわれたものだ。もう、地獄だったね」

「今の日本の現状は、あまりにもひどい。心をすっかりなくしている。ほんとうの文化というものをなくしてしまったね。車を買って、家を買って、それが男の一生の目的になってしまった…。女が日本をものすごく悪くしている」

 そんな先生の話が印象に残った。

佐藤家のあるナイロビ郊外の高級住宅街
佐藤家のあるナイロビ郊外の高級住宅街

 アディスアベバでは北イエーメンと南イエーメンのビザを取らなくてはならなかった。まず最初は北イエーメンの大使館に行った。

「サラーマ・アレクン」

 アラビア語でビザ担当の書記官にあいさつすると、すごく喜んでくれた。そのせいでもないだろうが、簡単にビザを発給してもらった。次に南イエーメンの総領事館に行った。しかしビザの発給は本国照会になるので、1ヵ月ぐらいはかかるだろうといわれた。アディスアベバでビザ待ちで1ヵ月も滞在できないので、国境でトライすることにした。というのは北イエーメンのビザ担当の書記官が「南イエーメンのビザは国境で取れるかもしれない」と、なんともうれしいことをいってくれ、それに一縷の望みをたくすことにした。

「ハイレセラシェは悪の根源だ!」

 アディスアベバを離れる日は、町はずれまで水野先生に送ってもらった。そこから歩く。ユーカリ林が広がっている。その中の道を荷をつけたロバが列をなして、近郊の村々からアディスアベバを目指してやってくる。

 オンボロトラックに乗せてもらい、乗用車に乗せてもらい、全部で4台の車に乗り継いで夕方、デブレベルハンに着いた。アディスアベバから北東に150キロほどの町。エチオピアにはデブレベルハンやデブレゼイト、デブレマルコス、デブレリバノスなどのように「デブレ」のついた地名が多くある。「聖なる」という意味があると聞いたが、はっきりとしたことはわからなかった。

 デブレベルハンで一泊し、翌日はケンボルチャを目指す。その途中では高い峠を越える。峠のトンネルを抜け出ると、大パノラマが開けた。

 峠を越えたところで、ケンボルチャまで行くトラックに乗せてもらった。運転手はマハリさんというティグレ族の人で、北部エチオピアの中心地、アスマラまで行くという。マハリさんはアムハラ族のことをぼろくそにいう。

「(エチオピアを悪くしているのは)アムハラ族がこの国を支配しているからで、(皇帝の)ハイレセラシェは悪の根源だ!」という。とある村で停まったとき、マハリさんは道の両側に群がる物乞いたちを指さし、「これもハイレセラシェが悪いからだ」と皇帝を非難する。非難しながらも、何人もの人たちに10セントずつあげた。

 カラコレを通り、夜遅くにケンボルチャに到着。マハリさんにお礼をいってトラックを降りた。マハリさんは夜通し、トラックを走らせるといった。街道はここで大きく2本に分かれる。北に行く道はデシエを経由し、アスマラに通じている。東に行く道はダンキル砂漠を越え、紅海の港町、アッサブに通じている。ぼくは東への道でアッサブまで行くのだ。

ダンキル砂漠を行く

 ケンボルチャの飯屋の片隅で寝かせてもらい、次の朝早く、アッサブに向かう。アッサブへの道を歩きながら、「おかしいなあ…」と思った。アッサブは北部エチオピアのマッサワと並ぶエチオピアの2大港で、そこには精油所があると聞いていた。それだからきっと大型トラックやタンクローリーなどが頻繁に通るのではないかと想像したのだ。ところがアッサブへの道の交通量はきわめて少ない。

 それでもトラックに乗せてもらい、バティという村に着いた。村のマルカート(市場)を歩いていると、英語を話せる若者に出会った。この若者に「アッサブに通じる新しい道が完成した」と知らされた。彼の話によると、アッサブへのニューロードはアワッシュ川の河畔の町、アワッシュが出発点だという。アワッシュというと、アディスアベバから東のディレダワ、さらにはジプチに通じるルート上にある。ぼくは交通量の少ない旧道に入り込んでしまったのだ。そのためアッサブへのヒッチハイクはきわめて厳しいものになった。

 炎天下、ゴムゾウリをペタペタいわせながら歩きつづける。強烈な太陽光線に焼き尽くされ、目がくらくらしてくる。のどが渇き、ひきつりそうだ。山岳地帯を下っていく。グレート・リフト・バレーの西側の壁を下っているのだ。

 やっとトラックに乗せてもらった。アッサブまで行く大型トラックで、荷台にはトレーラーをのせてある。ちょうど親ガメの背中に子ガメがのっているような格好。トラックは低地に下り、アッサブに通じるニューロードに合流し、やがてダンキル砂漠に入っていった。強烈な暑さ。トラックは何度か停まったが、そのたびに運転手にはお茶を入れてもらったり、エチオピアの主食のインジェラ(薄パン)と肉や豆の入ったワット(汁)の食事をご馳走になったりした。

 高度はどんどん下がっていく。日が落ちてもムッとする暑さが残った。ダンキル砂漠は世界でも有数の低地。世界で最も低い低地はイスラエル・ヨルダン国境の死海(海面下392m)、次がイスラエル・シリア国境のガリラヤ湖(海面下212m)、そして3番目がダンキル砂漠のアッサール湖(海面下174m)。つまりダンキル砂漠はアフリカ大陸の最低地点になる。第4位は中国・トルファン盆地のアイディン湖(海面下133m)、第5位はダンキル砂漠のアサル湖(海面下116m)、第6位はアメリカ西部のデスバレー(海面下85m)となる。

 トラックは夜通し走りつづけ、明け方にアッサブに着いた。アディスアベバから900キロあまり。アッサブは北のマッサワと並ぶ紅海の重要な港。ここから紅海を越え、アラビア半島の北イエーメンに渡るのだ。

エチオピア中部の山岳地帯を行く
エチオピア中部の山岳地帯を行く
紅海の港町、アッサブで

 トラックの運転手と別れ、アッサブの町を歩く。ダンキル砂漠を走り抜けてきたので、体中がほこりまみれ。海岸に行き、海で体を洗った。さっぱりしたところで、対岸の北イエーメンのモカに行く船を探しに港に行った。

 大型船の接岸できる埠頭には、日の丸を掲げた日本郵船の貨物船が接岸していた。一瞬、胸をギューッとつかまれるようななつかしさを感じた。帆船など小型船の船溜まりには、何隻かの船が入っていた。アデンとかジプチに行く船が多かったが、モカに行く船は見当たらなかった。しかし、船乗りたちに「もうすこし待っていれば、すぐに来るよ」といわれ、おおいに心強くした。

 モカに行く船を聞くために、港を管理する事務所に行った。驚いたことに、そこでは黄川田さんという日本人に会った。青年海外協力隊の方で、アッサブ港の整備が仕事だという。黄川田さんはホテルの一室を宿舎にしていて、彼の部屋に連れていってもらった。ホテルのレストランで食事をご馳走になり、食後のお茶を飲みながら黄川田さんの話を聞かせてもらった。

「なかなか自分の思いどおりには仕事ができない。毎日やっていることが、どれだけエチオピアの人たちのためになっているのか考えると、自信がなくなることもありますよ」
 といった悩みをも語る黄川田さんは生真面目な人だった。

 アッサブの日中の暑さは言葉では表現できないほど。大地のあらゆるものが焼き尽くされたかのようで、町は死んだかのように静まりかえっている。日が落ちると、やっと気持ちのいい夕風が吹きはじめる。

 黄川田さんには「モカに行くまでは、家に泊まっていったらいい」といわれ、その日から泊めてもらい、何冊もの本を読ませてもらった。強く印象に残ったのは高橋和己の『邪宗門』。昼寝をするのも忘れて読みふけり、夜も遅くまで読みつづけた。

アッサブの町並み
アッサブの町並み
アッサブ港
アッサブ港
モカに渡る帆船の乗組員
モカに渡る帆船の乗組員
いよいよ出港!

 何日かして、アッサブの港にモカに行く帆船が入った。アラビアのダウだ。船長には「モカまでの切符はエージェントで買うように。モカまでは35ドル(エチオピアドル)だ。明日の昼過ぎには出航するだろう」といわれた。

 いよいよ、モカに向けて出発する日になった。エージェントで切符を買い、イミグレーションで出国手続きをし、税関で荷物の検査を受ける。そして黄川田さんに別れを告げ、炎天下、じっと帆船のそばに座り、出港を待った。ところがいつになっても、出港する気配がない。とうとう夕方になってしまい、
「今日は出ない。明日だ」
 と、船長の老人にいわれた。

 その夜は黄川田さんのところに戻り、もう1晩、泊めてもらった。翌朝、もう1度、黄川田さんに別れを告げ、港に行った。だが、帆船には木材が盛んに積み込まれ、なかなか出港しそうにない。

 昼近くになると、黄川田さんが様子を見にきてくれた。「約束はあんまりあてにならないので、もし今日も船が出ないようなら、また家に来たらいい」といってくれた。

 昼過ぎになると、木材の積み込みも終わり、エージェントの人がやってきて「出港だ」という。やれやれという気分で胸をなでいおろした。

モカに上陸!

 船は帆船だが、エンジンもついている。日本製のエンジンだ。出発するときは帆を下ろし、エンジンだけで港を出ていく。アッサブ港が遠くなったところで帆を上げた。

 季節風を利用して紅海、アラビア海、インド洋と自由自在に帆船のダウで駆けめぐってきたアラビア人だが、時代の流れは帆船からエンジンつきの船へと変わり、帆はすでに補助的な手段でしかなかった。

 帆だけの帆船だとアッサブからモカまでは24時間かかるとのことだが、さすがは文明の利器、エンジンつきの帆船だと5時間ほどだという。

 ダウは紅海の南側の出口、バベルマンデブ海峡を快調に進み、夕方にはモカの沖合に着いたが、ひと晩、船で明かすことになった。乗客はぼく1人。モカに来る途中で釣った魚を焼いてくれ、さらにパンと魚の入ったスープの夕食を出してくれた。

 翌朝、ダウはモカの港に入っていく。モカに上陸。イミグレーションの役人がやってきて、「ついてこい」という。町中のナショナルの看板のかかった店の2階がイミグレーション・オフィスだった。

 入国手続きには1時間ほどかかるといわれた。その間、別な役人が両替屋に連れていってくれた。そこでアメリカ・ドルを北イエーメンの通貨、リアルに替えた。そのあと食堂で朝食。ぼくが食べおわるまで、イミグレーションの役人は店の外で待ってくれていた。イミグレーションの役人にモカを案内してもらっているようだった。

 モカはアフリカ大陸とアラビア半島の間にあるバベルマンデブ海峡の北側にある町で、古くから港町として栄えた。モカといえば、「モカ・コーヒー」で有名だが、その名が今でも残るくらいに栄えた。ちなみにコーヒーは大半がエチオピア産で、それがモカ港から世界に送り出されたので「モカ・コーヒー」の名前がある。

 今では北のホデイダ港が主要な港になっているので、モカ港はダウが入港する程度のひなびた小さな港に変わっている。イミグレーションでの入国手続きが終わると、そんなモカから北イエーメン南部の中心地、タイーズに向かった。