30年目の「六大陸周遊記」[042]

アフリカ東部編 18 カイロ[エジプト] → ベニスエフ[エジプト]

ナイル川の流れ

 ベイルート発ハルツーム行きのスーダン航空機はエジプトのカイロ空港に着陸した。戦時下の空港は暗く、なんとも陰気な空気が漂っていた。入国手続きを終え、外に出る。執拗な客引きの手を振り切り、市内バスの乗り場に急ぐ。

 バスが到着する。乗ろうとする人たちは、降りようとする人たちをまったく無視し、我先にと喧嘩ごしで車内に殺到する。窓から車内に飛び込む人も何人もいる。かなりガタのきているバスで目で見てわかるほど車体は傾いている。ぼくはなんとか車内に入れたが、車内に入れなかった人たちはバスの外側にぶらさがっている。

 ぎゅうぎゅう詰めのまま終点まで行く。料金は安かった。2ピアスタ。日本円で10円ほど。そこで市電に乗り換え、またバスに乗ってカイロの中心街にあるヒルトンホテルの前まで来た。ナイル川の河畔にあり、はやる心を抑えられず、走って川の見えるところまで行った。

「ナイルだ!」
「これから、このナイル川に沿ってスーダンからウガンダまで行くんだ」

 そう思うと、胸の中が熱くなってくる。ナイル川の流れを見ていると、今、自分は確かにアフリカ大陸に戻ってきたという実感がするのだった。

カイロの中心街
カイロの中心街
カイロの中心街のバスターミナル
カイロの中心街のバスターミナル
カイロを流れるナイル川
カイロを流れるナイル川

列車でアスワンへ

 ひと晩、ユースホステルに泊まり、翌日、スーダン大使館に行く。ビザを申請したら、日本大使館からの書類が必要だといわれた。

「あなたの名前、スーダンに入国する目的、いつスーダンに行くのか、また何日ぐらい滞在するのか、それくらいのことを書いてもらいなさい」

「そんなこと、全部、ビザの申請用紙に書くでしょ。なんのためのパスポート、ビザの申請用紙なのですか」といいたい気持ちをグッと抑え、ひと言もいわず、いわれたままに日本大使館に行った。

 幸いなことに日本大使館はスーダン大使館のすぐ近くにあった。さらに館員の方はじつにてきぱきとその場で書類をつくってくれた。それを持ってスーダン大使館に引き返す。午前中に申請を終えたおかげで、午後にはスーダンのビザを手に入れた。スーダンのビザさえ取ってしまえば、カイロにもう用はない。夕方の急行列車で南のアスワンに向かうことにした。

 エジプトでは鉄道の料金が安いので、2等の切符を買った。「カイロ→アスワン」間は1000キロ近い距離だが、料金は2ポンド15ピアスタ。日本円で1000円ちょっと。当然、3等だったらもっと安くなる。

 2等に乗ったのだから、すこしはゆったりと座っていけるだろうと思ったのだが、それはなんとも甘い考えだった。地中海のアレキサンドリアからやってきた急行列車には、軍人たちがドドドドッと乗り込んだ。そのため車内はあっというまに超満員になる。2等でこの状態だから、3等はさらにすさまじいことになっているのだろう。

 16時30分、急行列車はカイロ駅を出発した。ナイル川にかかる橋を渡り、ギザ駅を過ぎる。ピラミッドが見えてくる。日が暮れかかったころ、ベニスエフ駅に着いた。ベニスエフ…。ぼくにとっては一生、忘れられない所だ。

エジプトでの思い出(その1)

 1968年から69年にかけて、友人の前野幹夫君とスズキTC250でアフリカ大陸を南から北へと縦断した。スーダンからエジプトに入ったのは、日本を発ってから1年あまりたった1969年3月のことだった。

 トラブル続きのエジプトの旅。その第一歩がアスワン。国境でいわれた通り、アスワンの交通警察に出頭した。

「キミたちの予定のコースは?」
「はい、北に向かいます。アレキサンドリアからは地中海に沿ってソロウムまで行ってリビアに入ります」
「そうか、それでは、これはソロウムに送っておこう」

 そういうなり、警官は勝手にバイクの国際ナンバープレートを外し、そのかわりに2まわりも、3まわりも大きいアラビア文字のナンバープレートを取り付けた。

「ところでキミたちは許可をとったのかね」
「なんのですか?」
「アスワンからルクソールまでは、外国人は列車以外での移動は禁止されている。それだから許可証がないと、キミたちはバイクでは走れないのだよ」
「いえ、まだ、その許可証はもらっていません」
「それではアスワン警察の本部に行きなさい」

 なんともめんどうな話になり、ぼくたちは交通警察からアスワン警察の本部に行った。すると担当の警官がいないからといって「夕方の6時に来なさい」といわれた。アスワンの町のあちこちをまわって時間をつぶし、約束の6時にアスワン警察の本部に戻った。しかしその担当の警官はやって来ない。

 1時間以上も待たされてやっとその警官が来ると、なんと、
「警察でその許可証を出すことはできない。それは軍が発行するものなので、明日の10時に来なさい。軍に連れていってあげよう」

 ぼくたちはその夜、警察の一室を借りて泊まったが、コンクリートの床の上に寝たのにもかかわらず、南京虫にやられた。かゆくてかゆくてどうしようもない。掻きむしりながらやたらと腹が立った。

 翌朝、アスワンの町をぶらつき、10時に警察本部に戻った。またしても昨日の警官は来ていない。1時間以上も過ぎたところで、彼は「やー、ごめんごめん」といいながらやって来た。彼は何通かの書類をつくり、ぼくたちを軍の事務所に案内した。そこは敵(イスラエル)をあざむくためなのだろう、まったく普通のアパートの中にあった。灯火管制で窓には明かりがもれないように青い塗料がベタッと厚く塗られていた。

 肩に星をいくつもつけた位が上の軍人は、またしても書類を何枚もつくり、「これを持って行きなさい」と、別な建物にぼくたちを連れていく。ぼくたちは気短な日本人だ。「なんでこんなことぐらいで、こんなに時間をかけるんだ」とイライラしてくる。だが、それぐらいでイライラするのはまだ早かった。

「別な建物」というのは道ひとつぐらいかと思ったら、なんとアスワンの町をはさんで反対側にあった。やっとの思いで、その軍の事務所にたどり着くと、またしても長時間待たされた。ぼくたちのパスポートと束になった書類は何人もの軍人の手に次から次へと手渡されていく。そして最後に高官がいった。

「45キロ、北に行くと、コモンボというところがある。そこの軍の事務所で許可証をもらいなさい。それを持ってここに戻ってきなさい。そうすればルクソールまでバイクで走れる許可証を発行しよう」

 ぼくはこのひと言で切れた。
「もうよして下さい。あなた方はこんな事ひとつも処理できないのですか」
と、声を荒らげていった。

 軍人たちはぼくの剣幕にたじたじとなり、
「それでは軍の車でコモンボまで護衛しよう」
 ということになった。

 コモンボに着くと、許可書などくれなかった。もっと驚いたのは「行ってもよろしい」といわれたことだ。同行した軍人たちもさっさとアスワンに戻っていった。ぼくたちはやっと理解できた。ここまでがアスワンの軍の管轄地域なのだ。ここを出たら、あとはもう、どうなってもかまわないのだ。

 ナイル川に沿って北上すると、川の両側には狭い農地がつづく。そこではサトウキビや小麦、野菜などが栽培されていた。ナツメヤシの林が目についた。その狭い細長い耕地を一歩離れると、岩がゴロゴロしている不毛の砂漠がはてしなく広がっていた。

エジプトでの思い出(その2)

 ルクソールまではなんの問題もなく走れた。古代エジプト文明の花開いたテーベの都、ルクソールを見てまわったあと、さらにナイル川に沿って北上をつづけた。ナグハマディという町に近いナイル川にかかる橋にさしかかったときのことだ。橋の手前には検問所があり、そこでは徹底的に荷物を調べられた。ところがそれだけでは終わらずに、なんとパスポートを取り上げられた。30分以上も待たされ、「町の警察に行こう」といわれた。

 町の警察に着くと、またしてもいろいろと調べられ、そのあとで警察署長は、
「荷物を全部、見せろ」
 という。今、全部、調べられたばかりではないか…。

 ぼくたちはもうふてくされた態度で、「勝手にしやがれ」という気分で、警察署前の路上にすべての荷物をばらまいてやった。大勢の町の人たちが、かたずをのんでなりゆきを見守っている。どの窓も鈴なりの人。調べ終わると警察署長はふんぞりかえっていった。

「これは私たちの義務でな。気を悪くしないでくれ。ところで、いいかね、いかなるところでも写真をとってはダメだ。汚いところは見てもダメだ。軍の施設があったら、そのまま通り過ぎるんだ。いいか、わかったか」

 その夜はソファッグという町で泊まることにした。食堂で夕食を食べていると、あたりの様子がおかしくなってくる。どうも原因はぼくたちにあるようだった。そのうちに自動小銃を肩にかけた警官たちが何人もやってくる。誰もが険しい顔つきをしている。せかされるようにして夕食を食べ終わると、警官たちはまるで犯人を連行するかのような態度で、ぼくたちを警察に連れていく。

 何が起きたというのだ。大勢の人たちがぞろぞろついてくる。石がつぶてのように飛んでくる。警察に連れていかれて、初めてその理由がわかった。何人もの市民たちが「バイクに乗ってイスラエルからやってきたスパイがいる」と警察に通報してきたというのだ。ぼくたちはそれを聞いて開いた口もふさがらなかった。

エジプトの思い出(その3)

 ソファッグからベニスエフに向かう途中の小さな町で、パンを買うために店屋の前で止まった。するとたちまち黒山の人だかり。パンを買って走り出そうとすると、前野のバイクのキーが盗まれていた。ぼくの軍手もなくなっていた。さらに信じられないことだが、スパークプラグのコードがあやうく引きちぎられるところだった。それをぼくたちの目の前で、それも大人たちがやるのだからもう呆れ果ててしまう。

 ベニスエフではカイロに通じる街道を左に折れ、砂漠のオアシス、ファイユームに向かった。すでに日は落ち、暗くなりかかっていた。軍の検問所があり、停車を命じられた。そこでさんざん調べられ、その挙げ句に、「新しい軍事施設ができたので、この道は通行できない」といわれた。彼らはファイユームに通じる迂回路を教えてくれたが、それは道幅の狭い田舎道だった。

 ぼくたちは途中で道に迷い、村にたどり着くと、
「ファイユームはどっち?」
 と男に聞いた。するとその男は「パスポートを見せろ」という。道を聞いたのにパスポートを見せろとは何事だという気分で、
「ふざけるな。道を聞いているんだ。パスポートは見せられない」
 といい返した。するとなんと男はやにわに、「イスラエル、イスラエル」と大声で叫びはじめたのだ。

 あっというまに、びっくりするほど大勢の村人たちが集まってきた。前野はバイクのライトで自分の顔を照らしながら、
「オレたちは日本人だ」
 といった。

 あたりには不穏な空気が漂っていた。ぼくたちは何人もの男たちにとり囲まれ、両腕をとられ、どこかに連れていかれる。村人たちは「イスラエル、イスラエル」と叫びつづけている。やがて後ろから飛びかかってきたり、殴りかかってきたり、石を投げてきたりする。彼らはすでに暴徒と化していた。

 気がつくと、前野の姿が見えなくなっている。2人、別々に引きはなそうというのか。このとき、「リンチにあって、殺されるかもしれない」というなんともいえない恐怖感がわきあがってきた。しかし、まだ、そのあたりまでは余裕があった。

 両側から腕をつかんでいた男たちは、ぼくをつかんだまま走り出した。路地から路地へと猛烈な勢いで駆け抜け、引っ張りまわす。もうどうしようもない巨大な渦、熱気の渦のようなものを感じた。群衆の憎しみと怒りがその熱気で加速され、途方もないものにふくれ上がっていくのが見えるようだ。

 ぼくはその渦の中にどんどん沈んでいく。意識も遠くなっていく。頭をかすめるのは「殺される」ということ。このエジプトの片田舎の闇の中で、賀曽利隆は消される…。こうやって消息を絶った旅行者がどれだけいることか。

 後ろから飛びかかってきた男にギューッと首を締められる。両腕をつかまれているので、その手をふり払うことができない。息がつまる。
「苦しい、助けてくれ!」

 そんな声もかすれて、うまく出ない。やっとぼくの両腕をつかんでいた男たちが、首に巻きついている手をふりほどいてくれた。早く死なせてはいけないのだろうか。首の手が解かれると、両腕をつかんでいる男たちは一段と速くなった。

 何度もころびそうになる。だが、ころんだら最後だ。圧倒的な群衆に踏み殺されてしまう。ものすごい長い時間、引っ張りまわされたような気がするのだが、突然、薄暗い建物の中に連れ込まれた。なだれ込んできた群衆に、いやというほど殴られた。そのとき頭を壁にぶつけ、あたりはボーッと霞んでしまう。ついに最後が来たと観念した。

 するとぼくの腕をつかんでいた男たちは懸命に群衆を外に追い出そうとしている。群衆に向かってライフル銃を振りまわしている人もいる。それを見て、「助かるかもしれない…」という淡い望みもわいてきた。前野が心配だ。もうすでに別のところで殺されてしまったのではないか…と、そんな不安でいてもたってもいられない。

「おー、前野!」

 しばくして前野もその建物に連れてこられた。眼鏡をこわされ、「見えないんだよ」とか細い声でいう。建物の外では群衆が一段と音量を上げて叫んでいる。バイクのことも心配だ。メチャクチャにされたスズキTC250が目に浮かんだ。

「軍と警察が来る」
 といわれたときは、これで助かるかもしれないという希望がわいた。
「パスポートを見せろ」
 といわれたときは、軍が来たら見せるといって2人でがんばった。しかし、誤解を招くといけないので、お互いに話はしなかった。日本語で話したら、また何をいわれるかわからない。

 過ぎていく時間が非常に長く感じられた。建物に連れ込まれてから1時間ほどたったころだろうか、軍隊がやってきた。英語を話すチーフの前に引き出されたが、調べは思ったよりも簡単に終わった。彼の話でぼくたちを守ってくれたのは民兵だったことがわかった。彼らが無線で軍に連絡してくれたのだ。おまけにてっきりメチャクチャにされたと思っていたバイクも彼ら、銃を構えた民兵たちが守ってくれていた。

 その夜、ベニスエフの軍の基地で泊まったが、神経が異常なほど昂っているので、どうしても寝つけない。前野とは「オレたち、生きていてよかったなあ!」と同じことばかりを繰り返していい合った。

 軍のチーフの言葉が胸に残る。
「日本でも、戦時中はこうだったと思う」

夜明けのナイル川

 そんな強烈な思い出のベニスエフを過ぎても、車内には空席はできない。ざわついた話し声があちこちから聞こえてくる。すっかり暗くなった車窓の風景をぼんやり見ていると、あのときのエジプトでの出来事がまるで走馬灯のように、クルクルクルクル頭の中でまわり、かけめぐっていくのだった。

 夜もふけると、話し声は途絶え、車内には寝息がもれてくる。体を横にして寝たくなった。何人かの軍人たちがしているように、ぼくも荷物棚に上がり、体をギューッと縮め、下に落ちないように気をつけて横になった。

 目がさめると、列車はナイル川の流れのすぐそばを走っていた。夜明けの空は次第に色づき、やがて華やかな色合いになり、その色がナイル川の川面に映る。やがて砂漠の岩山の向こうから朝日が昇った。雲ひとつない快晴の空。ルクソール駅に着くと降りる人が多く、軍人たちもゴソッと降り、やっと座席にゆったりと座れるようになった。