30年目の「六大陸周遊記」[025]

アフリカ東部編 1 スプリングス[南アフリカ] → モシ[タンザニア]

ナイロビに到着!

 1974年1月15日、南アフリカのヨハネスバーグから18時45分発のBOACの024便に乗り、ケニアのナイロビに飛んだ。ナイロビ到着は23時22分。入国手続きが終わったのはあと2、3分で日付が変わるというときで、空港内の両替所はまだ開いていた。急いで窓口にかけつけると、インド人の中年女性はパタンと窓を閉めてしまった。

「12時でお終いです」
「だけどまだ、12時前でしょう」
「両替していたら12時を過ぎてしまいます」

 そう言われたら返す言葉もなく、すごすごと空港のターミナルビルの外へ出た。別にそれほどのお金が必要だったわけでもないが、その国のお金を一銭も持っていないというのは何とはなしに不安なものだ。

 ナイロビに通じる道を歩き、その夜は、空港ターミナルビルからはそれほど遠くないガソリンスタンドのすみで寝かせてもらう。寝袋を敷いて横になったが、これからケニア、タンザニア、ザンビア、ザイール、ウガンダのヒッチハイクでの「東部アフリカ一周」が始まると思うと、胸のときめきが抑えられない。

 夜が明けるると、ナイロビに向かって歩き始める。車が通るようになったところでヒッチハイクを開始する。ほとんど待つこともなく、ナイロビの中心街まで乗せてもらった。

『極限の旅』

 ナイロビの中心街に着くなり、中央郵便局に行った。そこでぼく宛の1冊の本を受け取る。それは『極限の旅』(山と渓谷社)。自分で書いた本なのに、食い入るように読みふけった。1971年から翌72年にかけて「サハラ砂漠縦断」をメインにした「世界一周」を書いたもので、最後の原稿を渡したのは日本出発の当日だった。

「山と渓谷社」の阿部正恒さんが編集してくれたものだが、阿部さんは原稿を受け取ると、わざわざ羽田空港まで車で送ってくれた。原稿を渡すだけ渡して校正もしていないので、阿部さんの苦労が容易に想像できた。

 郵便局近くの歩道にしゃがみ込んで読み、3時間以上かけて読みおえた。その間、ザックをわきに置き、その隣りにオーストラリアで買ったずた袋を置いていた。だが、本を読みおわって気がつくと、ずた袋の中に入れてあった地図やメモ帳、小銭入れがなくなっていた。

「やられた!」
 と、地団駄ふんで悔しがったが、もう後の祭。夢中になって『極限の旅』を読んでいたので、抜き取られたのに気がつかなかった。小銭入れにはたいしたお金は入っていなかったし、地図はまた買えばすむものだったが、メモ帳をとられたのが痛かった…。それには「南部アフリカ一周」の細かなメモが書かれてあった。さらにはお世話になった人や出会った旅人たちの名前と住所が書かれていた。

佐藤さんとの再会

 ナイロビでは、どうしても会いたい人がいた。佐藤芳之さん。日本人がまだほとんどアフリカには目を向けず、大半の人が「暗黒大陸」ぐらいにしか思っていなかった1960年代に佐藤さんは西アフリカのガーナ大学に留学した。それ以来、佐藤さんはアフリカに情熱をぶつけてきた。ぼくが初めて佐藤さんに会ったのは5年前。1968年の「アフリカ大陸縦断」のときのことだった。

 その時、佐藤さんは日本とケニアの合弁会社に勤めていた。

「今日はスト破りをしてきたぞ」
 と、笑い飛ばす佐藤さんの笑顔が目に焼きついている。英語はもちろん、スワヒリ語も上手で、絶えずアフリカのことを考えられる佐藤さんだからこそ、アフリカ人労働者の信頼を得ることができたのだろう。

 そのときはお宅に3日ほど泊めてもらったのだが、夜になると、ビールを飲みながら佐藤さんのいろいろな話を聞いた。若々しくて、情熱的で、知識が豊富で、視野が広くて、それでいて文学青年を思わせる感性を持ち合わせた佐藤さんには、ずいぶん心ひかれた。

 日本大使館に行き、佐藤さんのことを聞くと、すでに独立しているという。日本の資本とケニアの資源を結び付け、製材工場や鉛筆工場を建設中だとのことだった。オフィスの住所を聞くと、さっそく佐藤さんを訪ねた。

「おー、カソリか。お前、まだアフリカをうろうろしていたのか」

 佐藤さんはぼくの顔を見るなり驚きの声を上げた。ぼくはといえば、佐藤さんとのなつかしい再会に、もう顔がくしゃくしゃ状態。

 佐藤さんはお宅の住所と地図を書いてくれ、先に行ってるようにといった。ナイロビ郊外の高級住宅街にあり、緑の濃い木立と色とりどりの草花に囲まれていた。佐藤さんの奥さんも、ぼくを見るなり、「まあ、カソリクン」と、ビックリした顔をする。

 佐藤さんの奥さんはとってもきれいな方。5年前には出産間近だったが、いまではよしこちゃん、りょうこちゃんの2人のお母さんになっていた。

 夕方になって佐藤さんが帰ってきた。夕食のあと、ウイスキーを飲みながら話した。佐藤さんは農業プロジェクトに強い関心を持っていて、
「アフリカ人が腹いっぱい食べられるような社会、そんな社会の建設に自分自身の力を役立てたい」
 と熱い口調で語った。

「白ナイル流域のあの広大なサッド(大浮草地帯)をなんとか農地に変えたいものだ」
 と、佐藤さんはスケールの大きな夢のような話もしてくれた。

メカニック・ベンソン

 ほんとうにありがたいことなのだが、佐藤さんのお宅を拠点にさせてもらい、ヒッチハイクで「東部アフリカ一周」をまわることにした。

 翌朝、佐藤さんは日本政府派遣の調査団のメンバーを空港まで送っていくことになっていた。ぼくも一緒にナイロビまで乗せていってもらう。車が市内に入り、中心街のヒルトンホテルの前まで来る。すると突然、車は止まってしまった。その時、汚れたヨレヨレの服を着た人が、
「私はメカニック・ベンソンだ。車を見てあげよう」
 と押し売りのような感じで声をかけてきた。どう見ても車を修理できそうな風ではなかったが、スルスルッと車の下にもぐり込むと、「クラッチケーブルが切れている」という。

 佐藤さんは調査団のメンバーを空港まで送っていかなくてはならなかったので、タクシーで空港に向かった。ぼくが車をまかされ、キーと部品代をあずかった。メカニック・ベンソンとタクシーに乗って部品を買いにいく。佐藤さんの車はフォード。最初の店、2番目の店と行ったが、ともに部品は手に入らない。3軒目の店で、やっと部品をみつけ、手に入れた。

 佐藤さんの車には、たいした工具は積んでなかった。メカニック・ベンソンはそんなことはおかまいなしに、器用な手つきでクラッチケーブルを交換する。佐藤さんは空港から戻ると、車が直っていたので驚きの声を上げた。まさかメカニック・ベンソンに直せるとは思っていなかったのだ。

 佐藤さんはメカニック・ベンソンに修理代プラスお礼をあげた。メカニック・ベンソンは「また、なにかあったら呼んでくれ」といって紙きれに住所を書いた。

「東部アフリカ一周」の第一歩

 佐藤さんはオフィスに行き、ぼくは東部アフリカ各国のビザ取りを開始する。「東部アフリカ一周」の第一歩だ。

 まずはタンザニアとウガンダのビザだ。ともにケニアのイミグレーションオフィス(出入国管理事務所)で、その場で発行してもらった。両国のビザ代は合わせて47シリング。次がザンビア。ザンビア大使館はヒルトンホテルに近いインターナショナルハウス内にある。ザンビアのビザ代は25シリング。1ケニアシリングは日本円の40〜50円。ザンビアのビザもその場で発行してもらった。

 その次はザイールのビザだ。ザイール大使館でビザを申請すると、日本大使館からの書類が必要だという。何の書類かというと、「このパスポートは確かに日本政府から発行されたものです」という証明書だという。なんともバカバカしい話だが、ビザを取るためにはそんなことはいってられない。すぐさま日本大使館に行き、ザイール大使館が必要だといっている証明書をタイプしてもらった。それを持ってザイール大使館に戻る。ビザの受け取りは明朝だという。ザイールのビザを受け取り次第、ナイロビを出発することにした。

ヒッチハイク開始

 翌朝、佐藤さんの車でナイロビ市内まで乗せてもらい、ザイール大使館でビザを受け取ると、ヒッチハイクを開始。「東部アフリカ一周」の前に、アフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロに登るのだ。ナイロビからタンザニア国境へと向かっていく。気温はそれほど高くはないが、赤道直下の太陽光線は強烈。

 最初に乗せてくれたのは、かなりガタのきたモーリス。その車でナイロビから30キロほどのアティリバーまで乗せてもらった。ここにはセメント工場がある。工場内の食堂でパンとソーセージの昼食を食べた。

 タンザニア国境を目指し、南に向かって歩いていくと、マサイ族の中心地、カジアドまで行く車に乗せてもらった。シンガーミシンの営業車で3人が乗っていた。乾ききった草原の風景がどこまでもつづく。このあたりは2月から5月にかけての大雨期と10月から12月にかけての小雨期がある。今は大雨期前の乾期で、乾ききった草原地帯は砂漠といってもいいような風景。車の運転手に聞いてみると、小雨期にほとんど雨が降らなかったので、これほどまでに乾燥してしまった。ひどい旱魃に見舞われたマサイ族。水不足、草不足でかなりの頭数の牛が死んだという。カジアドに着くまでの間では、シマウマ、ダチョウ、トムソンガゼル、グランガゼルなどの野生動物を見た。

 カジアドからタンザニア国境まではアメリカ人アルクワークさんのランドローバーに乗せてもらった。タンザニア国境に近づくにつれて緑が増え、野生動物も多く見られるようになった。道路のすぐわきで数頭のキリンを見る。ワイルドピッグやワイルドビーストなども見る。その中を赤い布をまとい、槍を持ったマサイ族が牛や羊、山羊の群れを追っていく。

 国境に着くと、「もし、ケニアのお金を持っているのなら、見つからないように隠したほうがいいよ」と忠告してくれたアルクワークさんと別れ、ケニアを出国した。タンザニア国境では「ケニアのお金は持っていますか」と聞かれただけで、別に調べられることもなく、タンザニアに入国することができた。

5年間の大きな変化

 ケニアもタンザニアも通貨は同じシリングで同じ価値だったが、タンザニアの経済事情の悪化により、ケニアシリングの方がタンザニアシリングよりもはるかに強くなっている。そのためにタンザニアは自国の通貨防衛策としてケニアシリングの持ち込みを厳しく制限している。

 ぼくには信じられないことだった。5年前の1968年に東アフリカ3国をまわったときは、ケニアシリングもタンザニアシリングもウガンダシリングも、紙幣だったら銀行で両替しなくても使えたのに…。

 当時はまだ、東アフリカ3国は合体し、より大きな国をつくろうという気運が残っていた。しかし今となっては、金の切れ目が縁の切れ目ではないが、「もう東アフリカ連邦も無理だな」と思った。5年の間にケニアはより大きな経済力を持ったが、タンザニアもウガンダも経済力は反対に落ちてしまった。

アルーシャからモシへ

 タンザニアに入ると、メルー山麓のアルーシャへ。国境からは100キロほどで、1台の車に乗せてもらった。アルーシャに着いたときにはすでに日は暮れていた。町を歩き、食堂に入った。パンと肉の入ったスープを食べる。タンザニアシリングは持っていなかったが、ケニアシリングでもいいという。店の主人には「もっとケニアシリングを持っていないのか、持っていれば、率よく交換してあげるよ」と、しつこいくらいにいわれた。その夜は食堂の裏庭でゴロ寝させてもらった。

 翌日はキリマンジャロ山麓のモシへ。70キロほどの距離で、交通量もけっこうあるのだが、なかなか乗せてもらえない。そのため、歩きに歩いた。メルー山の南側の一帯は雨が多く、豊かな農地になっている。バナナやコーヒーの農場がつづく。

 半日以上も歩いたところで、やっと乗せてもらえた。ノルウェー人の運転するフォルクスワーゲン。アルーシャは標高1309メートルの高原の町だが、モシになると標高809メートルと、かなり低くなる。モシに向かって下っていくと、緑したたる農地は消え、乾燥した荒野に変わっていく。それにしても乾燥の度合いがすこし異常すぎると思ったら、すでに18ヵ月間も、雨らしい雨がないという。

 フォルクスワーゲンのノルウェー人はノルウェー政府から派遣された農業技術者で、すでに50を過ぎている。ぼくが「これからキリマンジャロに登ろうと思っているんですよ」というと、「私もついこの間、登ってきたけど、高山病には気をつけたほうがいい」と忠告してくれた。

 モシへの途中では、わざわざ新しくできた飛行場に寄ってくれた。イタリアの援助で完成した国際空港で、観光客を目当てにしたのだが、空港全体はガラーンとしていた。ケニアのナイロビに大半の観光客がとられてしまうからだという。雄大なキリマンジャロの裾野を見ながらモシに到着。アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(5895m)の山頂は雲の中だった。