30年目の「六大陸周遊記」[005]

[1973年 – 1974年]

アジア編 05 レオ[インドネシア]→ エンデ[インドネシア]

フローレス島を歩く…

 カリンディ港からレオの町までは約6キロ。ぼくたちは早足で歩いた。重いザックを背負っているので大汗をかいた。レオには中国人の店が多かった。中国人の食堂に入り食事をした。それがエリッヒとの最後の食事。ぼくとデビッドはエリッヒとここで別れた。

「元気でな、エリッヒ」

 ぼくたちはレオに来れば、あとはもう楽だろうとふんだのだが、それは大間違いで、ここからが困難をきわめる旅になった。小スンダ列島も、フローレス島あたりまで来ると、もう車はほとんど走っていない。エンデに行くバスはもちろんのこと、スンバワ島で乗ったトラックバスもここにはなかった。

 レオからエンデまでは100キロぐらいだろうか。ぼくたちは「歩こう!」と決めた。車が来たら停めて乗せてもらうつもりだった。

 レオの町並みを抜け出ると、山中に入り、川沿いの道を登っていった。ぼくにとってもデビッドにとっても、やっとエリッヒと別れられてホッとした気分。そのため足取りも軽かった。

 強い日差しの中、デビッドはこわれかかったトランクとズダ袋を両手に持って歩いている。そのトランクが持ちづらそうだったので、1時間ほど歩き、木陰で休憩したあと、ザックを背負っているぼくがズタ袋を持つことにした。デビッドはトランクを両手でかかえたり、頭の上にのせて歩いた。

 やがて天気が崩れ、ザーッと雨が降りだしてくる。あっというまにズブ濡れになってしまう。ぼくたちの前を歩いていたおばちゃんは集落に着くと、「家に寄ってらっしゃい」という素振りで、手招きする。おばちゃんの言葉に甘え、階段を登り高床式の家に入り、雨が小降りになるまで雨宿りさせてもらった。

 雨が小降りになったところで、ふたたび歩き始める。日が暮れかかったところで、村に着いた。ちょっとした店があり、そこでココヤシをひとつ、買った。1個25ルピア(約20円)。ヤシの実に穴をあけ、中のココヤシジュースを飲む。その甘味が疲れた体をいやしてくれた。そのあとヤシの実を斧で割ってもらい、実の内側の白い、脂肪分の多い果肉を食べた。

 店の夫婦はまだ若く、20代の前半ぐらいに見えた。奥さんが「中で休んでいきなさい」といってくれる。店内のイスに座らせてもらうと、奥さんはコーヒーを、旦那はバナナを持ってきてくれた。ぼくたちが奥さんにコーヒー代とバナナ代を払おうとすると、「いいのよ」という仕種で受け取ろうとはしない。ぼくもデビッドも「トリマカシー(ありがとう)」と何度もお礼をいった。

 店には村の子供たちが集まり、外からぼくたちの一挙手一投足を興味深そうに眺めた。まるで珍しい動物でも見るかのような目つき。子供たちは動こうとはしない。ぼくたちがイスから立ち上がったり、バナナを口に入れたりすると、「ワー!」といって歓声を上げた。ぼくたちが何をしても、それがおもしろいようだった。

教会が一夜の宿

 店の外の子供たちが、何かを叫んでいる。ぼくは道に飛び出した。すると車の音が聞こえる。デビッドに「カーイズ カミング(車だ)!」と大声で叫んだ。ぼくは若夫婦に別れを告げ、道端で車が来るのを待った。トラックがやってきた。中国人のトラックで、ルーテンの町まで行くところだった。ぼくたちはそのトラックの荷台にのせてもらった。大人も子供も、村人たちはぼくたちに手を振ってくれる。ぼくたちも精一杯、手を振りかえした。

 日が暮れ、あたりはすっかり暗くなる。そのころから雨が降りだす。雨は激しさを増し、やがて土砂降りになる。ぼくたちはすこしでも濡れないようにと、荷台のシートの中にもぐり込み、じっとしている。シートの中は猛烈な蒸し暑さで、吹き出した汗で全身がズブ濡れになった…。これでは雨に濡れるのと、まったく同じだ。

 ルーテンの町に着くと、カトリックの教会で泊めてもらった。インドネシアの宗教はイスラム教だが、キリスト教も奥地まで広まっている。とくに小スンダ列島を東に来るにつれてキリスト教の影響が大きくなっている。

 ルーテンの町の教会は立派なもので、ぼくたちはふらりといったのにもかかわらず、インドネシア人のジョン神父は快く迎え入れてくれた。夕食はとっくに終わっていたのにもかかわらず、ぼくたちのために用意してくれた。ありがたくいただき、そのあとは、ジョン神父とお茶を飲みながら夜遅くまで話した。

「英語は最近、ほとんど使っていないので…」
 というジョン神父だったが、会話にはほとんど不自由しなかった。

 翌朝は盛大な朝食をいただいた。チャーハンに野菜スープ、ミートボール…と、食べきれないほどだった。さらに「お昼にしなさい」といって、サンドイッチまで手渡された。ジョン神父に見送られ、ぼくたちは教会をあとにした。胸が熱くなるような思いだった。

居候の日々

 ルーテンは山あいのこじんまりとした町。空気がひんやりとしていた。町外れまで歩いたところで、トラックが来た。ボロンの町まで行く中国人のトラック。その荷台にのせてもらった。運転手は林(リン)さんという人だ。

 途中の高原の村では、週1度の市が立っていた。大露天市。布や食器、魚、塩、バナナ、イモなどが売られ、大勢の人たちが集まっていた。トラックはこの大露天市で3時間近く停まった。

 午後になってトラックは動きだす。ガタガタの山道を行く。山々の緑が濃い。フローレス島中央部の山地の峠を越え、曲がりくねった峠道を一気に下っていくと、島の南側のサブ海が見えてきた。ボロンはサブ海の海岸近くの町だった。

 このボロンから先は、ほとんど交通量のない道だった。デビッドとただひたすらに歩いた。日の暮れたころ、ココヤシの林にすっぽり包まれたような村に着いた。そこで泊めてもらったが、ひと晩中、蚊の猛攻を受け、ほとんど眠れなかった。

 次の日は1日中、歩いた。車は1台も通らなかった。フローレス島の中心地、エンデへの道は遠い。日の暮れたころに、アイメレという村に着いた。ぼくもデビッドも疲れ切っていた。

 すごくありがたいことに、このアイメレでは、村で一番大きな店で泊めてもらった。陽気で色黒のカレルおばさんの店。

「ここを通る車は、みんなウチの前で停まるのよ。それにのせてもらってエンデまで行けばいい」
 と、カレルおばさんはいってくれた。こうしてぼくたちのカレルおばさんの店での居候の毎日がはじまった。1日3度の食事もいただいた。

 アイメレの浜は遠浅で、黒っぽい砂浜に無数の小石が散らばっている。引き潮になると薄紫や薄紅色のサンゴが見える。

 カレルおばさんの旦那は香港に水牛を輸出している。仕事でジャワ島のスラバヤに行っており留守だった。一番上の息子は20代の後半でアドリアヌスという。彼は学校で英語を習ったので、辞書を持っている。それを頼りに、アドリアヌスにインドネシア語を教えてもらった。

 カレルおばさんとカタコトのインドネシア語で話していると、太平洋戦争当時の話になることが多かった。戦争中は大勢の日本兵がこの島に来たという。まだ小さかった彼女は日本兵にかわいがられ、「コーラン」という名前をつけられたという。「コーラン」は日本名だという。カレルおばさんに、「コーラン」はどんな意味なのかと聞かれて困ってしまった。

 スマトラ島からフローレス島に来るまでの間、何度となく太平洋戦争中の話を聞いた。よく聞いたのは「日本兵はすぐに、オイ、コラといって怒る」という話だった。カレルおばさんの「コーラン」が、日本兵たちが面白半分でつけた「オイ、コラ」のたぐいでなければいいのだけどと、おばさんのためにも、祈るような気分でそう思った。

 カレルおばさんはインドネシア人と中国人の混血。そのせいで、ほんのわずかだが、漢字も知っている。そこでぼくは、「コーランって、日本語だとこう書くのですよ」と、紙きれに「香蘭」と書いた。「その意味はね、とってもいい匂いのする花なんですよ」というと、おばさんは顔を崩して喜んだ。

 アイメレで3日間、車を待ったが、1台も通らなかった。

 アイメレでの4日目。ぼくたちはなんともラッキーだった。アドリアヌスが急にエンデまで行く用事ができたという。カレルおばさんの店には車が2台あった。ジープとオンボロトラック。そのうちのジープで行くという。

 その日は日曜日。アイメレの朝はいつものようにおだやかで、やわらかな水色の海には波もない。カレルおばさんの一家はキリスト教だが、おもしろいことにおばさんはプロテスタントでアドリアヌスはカトリック。2人、別々の教会に行く。2人が教会から戻ると、いよいよエンデに向けて出発だ。

 カレルおばさんは「タカシとデビッドが行ってしまうと、寂しくなるね」と、しんみりとした口調でいうと、ぼくとデビッドにそれぞれ1000ルピアづつ手渡すのだ。ぼくたちはカレルおばさんにはさんざんお世話になったので、「お気持ちだけで十分です」と断ったが、最後には断りきれずにありがたくいただいた。

 ドラムカンから抜いたガソリンをジープに入れ、出発だ。ジープが走り出す。カレルおばさんはいつまでも手を振ってくれている。やがてその姿も小さくなり、アイメレも遠ざかり、ジープはきつい山道に入っていく。

 エンデに着いたのは夜の10時過ぎ。アドリアヌスは港に直行し、沖に停泊している大型船の明かりを指さし、「あの船が明日、(ティモール島の)クーパンに行く」といった。ぼくたちは港で車を下り、アドリアヌスと固い握手をかわして別れた。ぼくはそのとき、彼は別に用事があってエンデまで来たのではないなと推測した。ティモール島のクーパン行きの船が明日出るという情報をキャッチし、大変な難路を越えて、わざわざぼくたちをエンデまで送ってきてくれたんだなと思った。カレルおばさんがそのように取り計らってくれたのかもしれない。そんなことを考えながら、エンデの港の片すみで、ひと晩、野宿した。

 翌朝、エンデ港の朽ちかけた桟橋に、ティモール島のクーパンに行く船が接岸した。ペルニーラインの貨客船「ワタンボネ号」(3000トン)で、帆船とは比べものにならないくらいの大型船だ。ジャワ島のスラバヤ港からやってきた。クーパンまでの乗船券を買い、10時、「ワタンボネ号」に乗船。だが、船はなかなか出港しない。昼には出港する、午後には出港する、夕方には出港する…と次々に予定は変更された。結局、エンデ港の桟橋を離れたのは乗船してから12時間後の22時だった。

フローレス島横断の道
高原の露天市
高原の露天市
フローレス島の南側、サブ海沿いの村。ココヤシがおい茂る
家のまわりにはバナナ
エンデ港
エンデ港
エンデ港周辺の露店群
エンデ港からティモール島のクーパンに行く「ワタンボネ号」
ワタンボネ号にて

カソリング38号 2003年6月発行より