賀曽利隆の観文研時代[45]

常願寺川(13)

 2度目の常願寺川は翌年(1976年)の3月。最初の常願寺川で一番心に残ったのは芦峅寺だ。そこで聞いたり見たりした「立山信仰」にきわめて日本的なものを感じ、芦峅寺と並ぶもうひとつの立山信仰の拠点の岩峅寺にも行きたくなった。

 岩峅寺に行きたくなったもうひとつの理由は野田泉光院である。

 野田泉光院は日向の修験者で、6年2ヵ月という長い期間、日本中を旅した。日本の霊山9峰をまわろうとしたもので、その途中では各地の名山、神社、寺や西国33番、坂東33番、秩父34番の札所をめぐった。

 野田泉光院は『九峰修行日記』を残しているが、それによると文化13年(1816年)に信州から越後の糸魚川に出て、親不知を通って越中に入り、岩峅寺の「南泉坊」に泊っている。そんな野田泉光院の足跡を追ってみたかった。

 2度目の常願寺川は列車で行った。鉄道の時刻表を見ながら感じたのは、「富山は遠いなあ」ということだった。

 東京の上野駅から富山まで行く列車の本数は少ない。ところが関西からだと特急、急行が何本も出ている。大阪駅から富山駅までは347キロ、上野駅から富山駅までは414キロ。67キロしか違わないのに、実際の距離以上に遠く感じられた。時刻表を見て、富山は東京よりもより強く大阪と結びついていることがわかった。

 富山までは夜行の「急行能登」に乗った。上越線経由の列車。どことなく寂しさの漂う発車のシーン。

 東京の華やいだネオンが後ろに去って、点々とした灯りが見られるだけになった。

 流れゆく暗闇を見ながらぼくは、観文研で何日か前に、みなさんと話した「越中」を思い出していた。

 なぜ越中というのだろう、なぜ北陸というのだろうという話だ。何気なく越中や北陸と言っているが、聞かれてみるとよくわからない。

 そこですぐに調べた。

 若狭湾から阿賀野川以北の日本海側は「こしの国」と呼ばれていた。「こし」には高志とか古志、越の漢字が当てられた。

 7世紀の後半になると、「こしの国」は越前、越中、越後の3国に分れた。

「こし」の由来には、いくつかの説があることもわかった。

 都から琵琶湖の北岸を通って中央分水嶺の峠を越えていく国だからという説、越後の古志郡という郡名に由来するという説、アイヌ語に由来するという説、海を渡ってきた渡来民族に由来するという説などである。

 飛鳥時代から奈良時代にかけて日本は、律令制のもとで中央集権国家になり、都と地方を結ぶ官道が整備されていった。

 日本は「五畿七道」に分けられた。

 五畿は都とその周辺の大和、山城、河内、摂津、和泉の5国、七道は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の7道で、この道というのは地域名であり、なおかつ街道名にもなっていた。

 北陸道は七道のひとつで、「北陸」は北陸道の略称。北陸道には若狭、越前、越中、越後、佐渡があり、さらに越前から分かれて加賀、能登ができ、全部で7国になった。

 そんな「越中」、「北陸」の話を思い返しているうちに、「急行能登」は清水トンネルを抜けて新潟県に入っていた。

 宮内駅から信越本線になり、直江津駅からは北陸本線になる。

 新潟県から富山県に入り、滑川駅に着く頃に夜が明けた。

 滑川駅を出ると、常願寺川を渡った。川面は夜明けの空を映してほんのりと白く光り、立山連峰には紫色の雲がかかっていた。

「急行能登」は上野駅から8時間ほどかかって富山駅に到着。駅を出ると、1時間ほど駅の周辺をプラプラ歩いた。

富山駅前
富山駅前