賀曽利隆の観文研時代[41]

常願寺川(9)

 芦峅寺のぷらぷら歩きを終えると、ドライブイン「ふるさと」で昼食にする。おばあちゃんが一人でやっている店で、客はぼく一人。「山菜そば」を頼み、食べ終わってもほかの客は来なかった。

 おばあちゃんは暇そうにしていたので、
「昔の話をちょっと聞かせてもらえませんか?」
 と頼んでみた。

 するとおばあちゃんは「いいですよ」と気軽に答えてくれた。

 おばあちゃんが子供の頃は、まだ立山に参拝する人は多かったという。

「マイレンシュウ、ドウシャシュウ、財布の銭に手をつけて、パラリパラリまかしゃんせ」

 子供たちは参拝者を見ると、そうはやしたてながら後についていったという。

 おばあちゃんは過ぎ去った昔の日々がなつかしいのか、子供の頃のいたずらがおかしかったのか、顔をくずして笑い、目じりに涙を浮かべた。

 マイレンシュウというのは「参連衆」のことで一般の参拝者、ドウシャシュウというのは「道者衆」のことで、立山信仰の檀家のことだという。

 道者衆は寄付奉納をしてくれる人たちで、立山衆徒が檀那場廻りをするときには世話になるので、立山参拝に来ると宿坊では特別にていねいにあつかったという。

「おじいさんなら仲語(ちゅうご)をやっていたので、いろいろなことを知っていますよ」

 そう言って、奥の部屋にいたおじいちゃんを呼んできてくれた。

 おじいちゃんは佐伯豊治さんという明治43年生まれの人だった。

 仲語というのは立山信仰特有のもので、立山参拝者を案内し、立山の各所に伝わる伝説や立山信仰についての話を聞かせた。仲語は芦峅寺の人でないとやることができなかったという。

「仲語はドホウという縄で編んだ籠のようなものを背負い、だいたい10人くらいの参拝者と立山登山をしたよ。芦峅寺をまだ暗いうちに出発してね。

 常願寺川に沿って歩き、藤橋を渡って、材木坂を登った。そして美女平から弥陀ヶ原を通って、立山の山頂のすぐ下にある室堂の小屋に泊った。

 次の日も朝早く起きて、浄土山、雄山、別山の三山をまわるんだよ。

 仲語は荷物を担がないんだ。それはボッカの仕事。荷物は馬車で藤橋まで運び、そこからはボッカがセータ(背負子)で30貫(約110キロ)ぐらいを背負い、室堂まで登った。ボッカは山向こうの座主坊や目桑、白岩の人が多かったね」

 立山信仰が衰えると、仲語は山岳ガイドに変わっていく。芦峅寺の山岳ガイドは優秀なガイドとして日本山岳界に知れ渡るようになり、「日本のシェルパ」のような存在になっていった。佐伯豊治さんも金沢四高の専属ガイドを長くやったという。

 佐伯豊治さんには立山連峰のひとつひとつの名前を聞いた。それまでは地図を見ながら見当をつけていたのだが、ドライブイン「ふるさと」の前から見えるすべての山の絵を描いてもらい山名を教えてもらった。

芦峅寺から見る立山連峰
芦峅寺から見る立山連峰

 そこから見える一番手前の山は与四郎兵衛山(620m)。その後方に立山連峰の峰々が連なっている。

 与四郎兵衛山の右側に見えるのは獅子岳(2714m)、獅子岳山頂から右側に大きく下った鞍部がザラ峠(2353m)、ザラ峠から右側に上がったところが鷲岳(2625m)、小さな鞍部を置いて鳶山(2616m)、立山連峰の稜線はさらに越中中沢岳から薬師岳へとつづくが、手前の山に隠れて見えない。

 与四郎兵衛山の左側に見えるのは鬼岳(2750m)、その左側には龍王岳(2872m)が見える。龍王岳の左側が浄土山になるが、どこが山頂なのかわからないような山。一番奥に雄山(2992m)、大汝山(3015m)、富士の折立の「立山三山」が見える。その手前には奥大日岳(2498m)、大日岳(2498m)、前大日岳(1778m)の連山が連なるが、剣岳はその後に隠れて見えない。

 冬の夕日はあっというまに山の端に落ちていく。すっかりお世話になったドライブイン「ふるさと」のおじいさん、おばあさんにお礼を言って「大仙坊」に戻るのだった。