賀曽利隆の観文研時代[40]

常願寺川(8)

立山曼荼羅
立山曼荼羅

 翌日は芦峅寺をぷらぷら歩いた。

 芦峅寺の約180戸の家々は常願寺川右岸の段丘上にあって、その真ん中を立山街道の県道6号が通っている。その県道6号沿いにある雄山神社里宮の中宮祈願殿が集落の中心になっている。

 まずは雄山神社の里宮へ。境内に入ると、見上げても空が見えないほどで、杉の大木がおい茂っている。樹齢は500年ほど。根回り2m以上の大木が120本ほどあり、北陸一の杉林になっている。この杉は「立山杉」と呼ばれ、成長が早く、雪に強いという。

 杉木立の中の参道を行くと、「耳だれ地蔵」がある。首から上の病気には霊験あらたかなお地蔵様なのだという。

 その先に玉橋という小さな橋がかかっている、いまでこそ玉橋は自由に渡れるが、昔は俗界と神の世界を分ける橋で、神主も衆徒も塩祓いをしなくては渡れなかったという。

 玉橋を渡ると開山堂の跡と佐伯有頼の墓があり、その奥に祈願殿がある。祈願殿に向かって右側に若宮、左奥に大宮があり、若宮と大宮を合わせて本殿なのだという。若宮のわきを登っていくと、朱塗りの新しい開山堂がある。

 つづいて「風土記の丘」へ。富山県の「風土記の丘」は芦峅寺にある。風土記の丘は昭和41年に宮崎県の西都原が指定されたのをかわきりに、埼玉、和歌山、富山という順に指定された。

 富山県の風土記の丘は、「立山風土記の丘」と名づけられ、「立山信仰の発祥地ならびに根拠地」をテーマにして、その跡を探るさまざまなものが見られるようになっている。展示品は立山信仰関係と民俗資料関係に分けられ、その数は1000点を超える。立山衆徒や参拝者の衣装、宿坊での接待用具、立山曼荼羅などが1階に展示されている。

 2階には山と深く結びついた芦峅寺らしく、炭焼きや木こり、猟師の道具などが展示されている。その中でもカモシカの皮で作られた手袋や靴が目を引いた。手袋は「テトウ」、靴は「ソッペイ」というが、やわらかく保温が良いので、冬山での猟には欠かせないものだった。芦峅寺ではかつては狩猟が盛んにおこなわれ、猟師たちはクマやカモシカを追って、立山連峰の奥深くまで入っていった。そんな芦峅寺での狩猟が衰退していくのは、昭和12、3年頃からのことだという。

 芦峅寺のぷらぷら歩きはつづく。

「大仙坊」の隣の「善道坊」を見る。芦峅寺では江戸時代の姿をとどめる唯一の宿坊で、変わったところといったら石置屋根が瓦屋根になったことぐらいで、中は昔のままだという。

 善道坊から少し行くと閻魔堂がある。閻魔堂は明治の廃仏毀釈で取り壊された立山中宮寺の中で、唯一残ったお堂。そのまわりには数多くの石仏が並んでいる。

 閻魔堂を下っていくと、姥堂川にかかる布橋を渡る。姥堂川は立山中宮寺の境内を二分して流れ、立山信仰が盛んだったころは、橋の手前の俗世界と橋の向こうの仏の世界を分けていた。布橋は「この世」から「あの世」に通じる道だった。

 布橋を渡ったところには「六地蔵」があり、そのまわりは墓地になっている。そこからしばらく行くと視界が開け、雪の立山連峰を見ることができた。

 そこには昔、姥堂があったという。その姥堂こそが立山信仰の中心、立山中宮寺の主堂で、本尊の大日如来、弥陀如来、釈迦如来がまつられていた。その脇には全国66ヵ国を守護する66体の仏像が安置されていた。

 姥堂のまわりには、かつては雄山神社里宮の境内と同じように、立山杉の大木が林立していたという。それが明治の廃仏毀釈で立山中宮寺は消滅し、立山杉の大木は1本残らず、すべてが切り倒された。

 姥堂跡から畑の中の小道を通って、常願寺川の崖っぷちまで行った。暴れ川のイメージ通り、常願寺川のだだっ広い河原には、大きな石がゴロゴロしていた。そんな崖の中ほどに「行者窟」がある。立山の修験者たちが修行を重ねた場所だという。