賀曽利隆の観文研時代[34]

常願寺川(2)

「アフリカ一周」(1968年〜69年)の時も、「世界一周」(1971年〜72年)の時も、旅から帰った時には日本のすみずみまで歩きまわろうと思ったのだが、3度目の「六大陸周遊計画」の方がより重要で、旅の資金作りと準備に追われ、結局、日本はまわれなかった。

「六大陸周遊」(1973年〜74年)から帰って旅の疲れも少し癒えた頃、観文研(日本観光文化研究所)に行き、宮本千晴さんに、
「日本を歩きまわりたいのですが」
 と、お願いした。

 すると宮本さんはすぐに、民具を通して日本文化を研究している神崎宣武さんと工藤員功さんについて歩けるようにしてくれた。

 神崎さん、工藤さんと歩いているうちに、民具というのは自給性の高い日常使う生活用具であることがわかってきた。神崎さんは焼き物を、工藤さんは竹細工を研究し、収集している。そんなお二人に、具体的に目に見えるものから、その背後に隠れたさまざまなことを読みとっていく方法を教えられた。

 日本を歩くようになってしばらくした頃、結婚した。妻の洋子は観文研の主催した「探検学校」のアフリカ・カメルーンに参加したのだが、それがきっかけとなり、一緒に東海自然歩道を歩いたり、寝ないで「山手線一周」を歩いたりした。

 妻の実家は雪国の魚沼。近くを魚野川が流れ、越後三山を間近に眺める。

 初めて妻の実家に行ったのは雪がボソボソ降る日だった。屋根には1メートル以上もの雪が積もり、「コスキ」という大きな木のヘラで雪下ろしをしていた。魚沼は日本でも有数の豪雪地帯だ。

 次に行ったのは5月になってからのことで、コブシやヤマツバキの花が咲き、里山の斜面にはカタクリの紫色の花が咲いていた。

 魚野川ではハヤやアユ、サケが獲れる。妻は夏は魚野川で泳ぎ、冬は里山でスキーをした。そんな話を聞くと、無性に魚沼のことを知りたくなり、さらに日本を知りたくなるのだった。

越後三山の八海山
越後三山の八海山