伝説の浮谷東次郎[5]

「やったゼー、大阪到着だ!」

 浮谷東次郎の足跡を追って東海道を西へ。

 ハスラー50で草津、大津と走り抜け、滋賀県と京都府の境の峠、逢坂山を越える。峠上には「逢坂山関址」の石碑と常夜燈が建っている。

 峠を下ると山科だ。そこでいったん国道1号と別れ、日ノ岡峠を越える。京阪京津線の九条山駅のあたりが日ノ岡峠になる。

 今でこそ50ccバイクでも簡単に越えられるが、かつては東海道最後の難所だった。

 雨や雪が降ると、牛馬に引かれた荷車はぬかるみに車輪をとられ、立ち往生した。そのため車石と呼ばれる表面に溝を彫った石を敷きつめ、舗装道路にした。荷車の車輪が車石の溝に沿って進めるようにしたのである。

 日ノ岡峠を下ると、京都の中心街に入っていく。

 京阪三条駅前を通り、三条大橋にさしかかる。ここが、東海道の終点だ。

京都の三条大橋。鴨川にかかるこの橋が東海道の終点

 三条大橋で鴨川を渡り、四条河原町の交差点を通って再度、国道1号を行く。

 京都府と大阪府の境が、国道1号最後の峠の洞ヶ峠。天王山の合戦で筒井順慶がこの峠に陣を張り、豊臣軍と明智軍の戦況を眺め、どちらに味方しようかと思案した。その故事にちなみ、洞ヶ峠といえば「洞ヶ峠を決め込む」といった使い方をするように、日和見の代名詞になっている。

 京都から大阪までは途切れることのない大渋滞。それをスリ抜け、スリ抜けしながら走り、ついに17時ジャストに大阪駅前の梅田新道の交差点に着いた。名古屋から210キロ。12時間かかっての到着だ。ここが国道1号の終点であり、また、九州の門司までつづく国道2号の起点になっている。

 梅田新道を左に折れ、御堂筋に入ったところでハスラー50を止め、
「やったゼー、大阪到着だ!」
 とガッツポーズをとるのだった。

 浮谷東次郎は大阪では「新大阪ホテル」に泊まっている。昭和10年に開業したホテルで、現在の「ロイヤルホテル」の前身だ。

 御堂筋を南下し、中之島に入り、「ロイヤルホテル」へ。30階建ての高層ホテルは、大阪の夕空を背にして聳えたっていた。そこに薄汚れた格好で、50ccバイクで乗りつける。なんとも気がひけるが、覚悟を決めてフロントへ。

 カソリ旅には似合わないような高級ホテルだが、『月刊旅』(JTB)の編集部が予約を入れておいてくれたのだ。

 カソリが案内されたのは、プレジデンシャルタワーと呼ばれる特別室で、23階の部屋から見下ろす大阪の展望は、それは素晴らしいものだった。

 浮谷東次郎の母方のおじいさん、堀川辰吉郎は、戦前・戦中は中国大陸を舞台にして大活躍した人物。戦後は地元の福岡を拠点にし、東京では「帝国ホテル」、大阪では「新大阪ホテル」の1室を借りきって常宿にしていた。

 浮谷東次郎はそんなおじいさんを頼って大阪にやってきた。そして「新大阪ホテル」に3泊し、その間、大阪市内を走りまわっている。

「ロイヤルホテル」では、うれしい出会いが待っていた。ホテルの副総支配人の田口憲さんとの出会いだ。田口さんは、大のオートバイファン。FXRTという日本にはほとんどないタイプのハーレーに乗っている。うらやましいのだが、奥様としばしばタンデムツーリングをしている。

 そんな田口さんは、
「あのカソリさんがやって来る!」
 ということで、心待ちにしてくれていたという。

 その夜は田口さんにすっかり、ご馳走になった。企画部の福本敦洋さん、営業企画室の奥野元さんも同席してくれて、話しは際限なくはずんだ。

 それまでは大阪の最高級ホテルということで、自分とは縁の遠かった「ロイヤルホテル」だったが、こうして田口さんらと親しく話したことによって、身近なホテルに感じられるようになったのだ。