伝説の浮谷東次郎[4]

スイカ売りの少女に心動く

 浮谷東次郎は名古屋を6時に出発しているが、ぼくはそれよりも1時間早い、5時に鳴海の旅館「喜久水」を出発した。鈴鹿峠の周辺をしっかりと見てみたかったからだ。

 名古屋の中心街を走り抜け、木曽川を渡ったところで日が昇る。

 愛知県から三重県に入り、四日市の「日永の追分」でハスラー50を止めた。

 この追分は、東海道と伊勢参宮街道との分岐点。

 嘉永2年に建立された石の道標には、
「右 京大坂  左 いせ参宮道」
 と、彫り刻まれている。

 ここには常夜燈もある。

 国道1号沿いの喫茶店でモーニングサービスの朝食を食べ、鈴鹿峠に向かっていく。

 峠下の関は、東海道53次の宿場のなかでは、一番、当時の面影を残こしている。東海道と伊勢別街道の「東追分」から、東海道と大和街道の「西追分」までの間が関の宿場町で、まるでタイムスリップしたかのような家並みを見ることができる。東海道の難所、鈴鹿峠を間近に控えた関は重要な宿場で、本陣が2軒、脇本陣が2軒、旅籠が42軒、あったという。

 関から鈴鹿峠を登っていく。

 旧道で坂下宿に寄っていく。

 鈴鹿峠を登りつめ、峠のトンネルを抜け、三重県から滋賀県に入った。

 滋賀県側をわずかに下ったところで、国道1号を左に折れ、旧道で峠まで登る。峠周辺は一面の茶畑。その中に人の背丈の倍以上もある大きな常夜燈を見る。さすが東海道だけのことはある。

鈴鹿峠の常夜灯

 鈴鹿峠を下った土山の道の駅「あいの土山」で小休止。うどんを食べたが、汁の色の薄さが関西圏に入ったことを教えてくれた。

 道の駅「あいの土山」には、
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」
 と『鈴鹿馬子唄』の1節が大書きされている。

 これはじつにうまく峠の天気を歌っている。鈴鹿峠の東側、坂下宿は晴れているが、鈴鹿峠は曇り、鈴鹿峠の西側、土山宿は雨が降っているということだ。

 同じ東海道の箱根の『長持唄』でも、
「三島照る照る 小田原曇る あいの関所は雨がふる」
 と歌われている。

 箱根峠の西の三島宿は晴れ、東の小田原宿は曇り、そして関所のある箱根宿は雨。何度か峠を越えていると、この唄どおりの天気の変化によくぶつかるものだ。

 ところで「あいの関所」の「あい」は三島と小田原の間の意味だが、「あいの土山」の「あい」は鈴鹿峠をはさんで坂下と相対する土山だという説や、山間の「あい」だという説、土山は昔から鮎の名産地なので鮎が訛っての「あい」だという説など諸説があって定かでない。

 鈴鹿峠を下り、東海道と中山道が合流する草津に近づいたところで、浮谷東次郎はスイカ売りの少女を見かける。彼女のなかに、清らかさと素直さを見てとった東次郎は、

「自分はこうしてあそびまわっている、あの女の子が一心にスイカを売っているというのに…」

 と感じ、情けなくなってしまうのだ。

 それと同時に、ある種の悲しみをも感じ、

「自分も何かを作ろう、何かを生産しよう」

 と、いかにも若者らしい純粋さで決心するのだ。

 それが『がむしゃら1500キロ』を書き上げる大きな動機になった。