賀曽利隆の観文研時代[29]

全12巻の『日本人の生活と文化』

 日本観光文化研究所(観文研)の企画・編集による全12巻の『日本人の生活と文化』(ぎょうせい刊)が出版されたのは1982年。カソリはそのうち第9巻の『食べものの習俗』を担当し、観文研でテーマとしていた「日本の山地食文化」を書かせてもらった。

全12巻の『日本人の生活と文化』(ぎょうせい刊)

 観文研では「日本焼畑紀行」と題して、宮本常一先生の足跡を追うようにして宮崎県の椎葉や石川県の白峰、山梨県の棡原、さらには滋賀県の姉川流域、静岡県の大井川流域、長野県の秋山郷、新潟県の三面…と、かつては焼畑を盛んに行っていた地域を訪ね、焼畑の経験者に焼畑にまつわる話をいろいろと聞かせてもらった。

『日本人の生活と文化』ではそのうち石川県白峰村(現白山市)の焼畑を書かせてもらった。

白峰のナギハタ

 加賀と飛騨の国境に聳える白山(2702m)の麓に石川県の白峰村がある。ここではかつて盛んに焼畑が行われた。昭和29年の白峰の耕地面積とその内訳を示す統計表を見ると。畑の半分は焼畑だった。

 白峰では焼畑のことをナギハタと呼んだ。アラハタと呼ぶこともあった。また、主にダイコンを栽培するための焼畑をナナギバタと呼び、ナギハタとは区別した。ソバを播くためのソバナギもあった。ナギハタは昭和30年代で終了したが、ナナギバタ、ソバナギの方は昭和50年代までつづいた。

 白峰は出作で知られていた。出作というのは、通うのが不便なほど本村から遠く離れた耕地を耕作する場合、その近くに出作小屋を建て、そこを拠点にして耕作することをいう。白峰の出作には、夏の間だけ出作小屋に行って農作業する季節的な出作と、一年中出作小屋に居住する永久出作がある。

 出作小屋といっても豪雪地帯の白峰のこと、雪に押しつぶされないような頑丈な造りの建物なので、小屋というイメージからはほど遠い。

 出作での生活の基盤は焼畑で、食料を自給し、養蚕と木炭で現金収入を得た。

 白峰ではナギハタに適した土地をムツシと呼んでいるが、夏から秋にかけて山刀、鎌、腰鋸を使い、村人たちは共同で草木を刈る。焼く時には、火がまんべんなくまわるように、刈った草木をきれいに揃えておく。

 また、火がまわりの山に飛び火しないように、幅2、3メートルの火道を切る。それをタラグロといっている。ナギハタ上部のタラグロはカシラグロといって、5、6メートルの幅広にする。上部のカシラグロに対して、下部はスソグロと呼んでいる。

 白峰の雪は深い。1年のうち半分近くは雪に埋もれるので、雪が溶け、山肌が見えてくる5月下旬から6月にかけて山を焼く。

 山を焼くのは晴天のつづいた日で、なおかつ風のない日を選ばなくてはならない。火を入れるのはたいてい午後からで、夕方近くになることもあった。山を刈った時と同じように、村人たちは共同で山を焼いた。

 ナギハタの上部、カシラグロに火を入れ、ある程度焼けると、柄の長さが3、4メートルもあるエブリという道具で火を下ろし、山肌をまんべんなく焼いた。エブリで火を下ろすのは大変な作業で、水をかぶりながらそれをやった。

 ナギハタでの栽培は1年目にヒエ、2年目にアワ、3年目にアズキやダイズというパターンで、地味が肥えているナギハタだと4年目にヒエ、5年目にアズキを作った。5年目のアズキはフルバタアズキとかステアズキと呼んだ。

 白峰では焼畑の作物としてはヒエが最も重要で、順序をつけるならば、次はアズキだったという。

 ナギハタは主に雑穀を栽培する焼畑だが、ナナギハタはダイコンの栽培に限った焼畑である。ナギハタに比べると小規模なもので、面積も100坪から200坪くらいのものであった。家の近くでやる焼畑で、そのまま常畑にすることもあった。

 ダイコンがいかに有用な作物であったかは、昭和20年代の農林省の統計を見るとよくわかる。ダイコンは作物中第一の反収を上げている。穀類との比較はいちがいにはできないが、反収の効率が抜群に良い作物なのである。それとダイコンは根も葉も全部食べられるので、食用の効率も良い。

 ダイコンは根、葉ともに煮物や漬物で副食になるし、すりおろしたり千切りにしても食べられる。そして飯に炊き込むと、かてめし(根)、菜飯(葉)の主食にもなる。今でこそダイコンは八百屋の店先などでは野菜として扱われているが、ただの野菜というよりも、イモと同じように主食的な作物として位置づけた方がいいように思う。

 ー中略ー

 水田稲作農耕が日本に伝わる以前から、途切れることなくつづけられてきた焼畑農耕は、山地においてはきわめて重要な食料の生産手段であった。そこでは陸稲(オカボ)も作られたが、雑穀類や根栽類が多く作られた。日本は稲作米食の食文化だといわれるが、こうした山村の農業を考えると、そうとは言い切ることができない。

 その焼畑農耕も、今の日本から完全に消え去ろうとしている。

 宮本常一先生はその理由として、奈良県吉野の例(吉野西奥民俗探訪録)を上げて、次のように言われている。
 1、火事の危険があるからと、県から止められたこと。
 2、米食の普及とともに稗作が減っていったこと。
 3、出作小屋に行っている間は子供も一緒に連れていくので学校が問題になったこと。