賀曽利隆の観文研時代[24]

韓国食べ歩き紀行(6)

初めて見る異国の風景

 私が初めて朝鮮半島の土を踏んだのは、1968年4月。「アフリカ一周」(1968年〜1969年)の時のことだった。

 横浜港からアフリカ南部のモザンビークに船で渡ったのだが、その船というのは喜望峰を経由して南米に行くオランダ船の「ルイス号」。日本から出た最後の移民船で、名古屋、神戸と寄港し、日本を離れた最初の寄港地が釜山(プサン)だった。

 生まれて初めて見る異国の風景は寒々としたもので、神戸では春風が吹いていたのに、釜山では船の甲板を吹き抜けていく風は冷たく、冬そのものだった。

 港をとりまく赤茶けた山肌には、マッチ箱のような家々がびっしり建ち並んでいた。朝鮮戦争の余燼がまだくすぶっているかのような風景。釜山港の岸壁に接岸すると、「ルイス号」を降り、町に出た。港のゲートを一歩、出ると、闇の両替屋が群がってきた。

「マネーチェンジ!」
 と声をかけてくる。

「時計を売ってくれないか」
「ラジオを売ってくれないか」
 と今度は別な男たちが声をかけてくる。

 よくこれで動くものだと感心するようなオンボロのタクシーがガタンピシャンと車体を揺らし、「ピーピー」と、けたたましく警笛を鳴らしながら走っていた。

 釜山の町を歩きまわり「ルイス号」に戻ると、韓国人移民たちが乗船を開始していた。

 約80人ほどで、移民先はパラグアイだという。釜山港の岸壁には、大勢の人たちが見送りに来ていた。出港の時間が近づくと、五色のテープが乱れ飛んだ。だが、華やいだ色彩とはうらはらに、重苦しい空気が港全体を覆っていた。

 体の芯にグサッと突き刺ささってくるような泣き声が、甲板のあちらこちらから聞こえてくる。ぼくのすぐそばにいた男の人は、流れ落ちる涙をぬぐおうともしないで、何か、懸命になって岸壁に向かって叫んでいる。若い女性はガックリと床に崩れ落ち、まるで気がふれたかのように両手で甲板をたたきつづけている。見ていても辛くなるような光景ばかりだ。日本語を話す年配の人は、目に涙をいっぱい浮かべ、「私はもう二度と祖国を見ることも、祖国の土を踏むこともないでしょう」と言った。

 銅鑼が鳴り響き、汽笛が鳴った。いったんは出航しかかった「ルイス号」だが、突然、その気配をなくした。制服の警官や船員たちがあわただしく船内を走りまわる。見送りの老婆がどこか、船内に隠れてしまったというのだ。肉親との生き別れに耐えかねてのことなのだろう。なんとも哀れな出来事だった。

 1時間ほどすると、今度はほんとうの出航になった。船と岸壁をつなぐロープが外され、ルイス号は釜山港を離れた。天気は回復し、朝鮮海峡は晴れ渡っていた。

 私はいてもたってもいられないような気分になり、階段を何段もかけおりて船底の船室に戻ると、1升びんを手に持ち、甲板に引き返した。そして水平線を赤々と染める夕日を見ながら飲んだ。さきほどの韓国人移民の「二度と祖国を見ることも、祖国の土を踏むこともないでしょう」という言葉が、耳にこびりついて離れなかった。それが私にとっての初めての韓国なのである。

1971年の韓国

 2度目の韓国は1971年7月で、関釜フェリーで下関から釜山(プサン)に渡った。

 釜山からは列車を乗り継ぎ、慶州(キョンジュ)→大邱(テグ)→大田(テージョン)→堤川(チェチョン)→江陵(カンヌン)とまわり、江陵からはバスで束草(ソクチョ)→春川(チュンチョン)とまわり、最後にソウルに行った。

 慶州では新羅時代の遺跡群を体力にまかせて歩きまわった。大邱では「私は日本語を勉強している学生です」といって近寄ってきた青年と親しくなった。

 町を案内してもらっているうちに、「いいレートで両替してあげるから」といわれ、虎の子のドルを何10ドルも持ち逃げされた。

 大田では、駅前でぽん引きのおばちゃんにつかまった。

「いい娘を紹介するから」
 と、うす汚れた家に連れていかれた。そこで引き合わされたのは「掃き溜めの鶴」を思わせるような美女。おばちゃんの言葉に偽りはなかった。

 堤川に向かう列車の中では、私を日本人とみてとったのだろう、つかつかっとやってきた40過ぎの男にやにわに胸ぐらをつかまれた。

「お前は日本人だろ」
 というと、そのあとは日本の朝鮮半島統治時代がいかにひどかったかをこれでもか、これでもかといった感じで日本語でまくしたてた。

 江陵からは日本海の海岸地帯を北上した。警備は厳重を極め、ピリピリした緊張感が漂っていた。一触即発の空気を感じた。砂浜には何重ものバリケードが張りめぐらされ、トーチカが点々とあった。38度線を越えると、警備はなおいっそう厳重になり、南北に分断された分断国家の最前線を見た。

 束草では雪岳山に登った。山頂からは金剛山の山並みと北朝鮮の高城(コーソン)の町を遠望した。

 この時代、韓国の食料事情はきわめて悪かった。

 食堂に入っても、水曜日と土曜日は米は一切、食べられなかった。米飯の替わりに出てきたのは、ぽろぽろの麦飯だった。

1976年の韓国

 3度目の韓国は1976年12月で、やはり関釜フェリーで釜山(プサン)に渡った。

 そのときは釜山とその周辺をまわった。

 釜山はすっかり装いを新たにし、山肌にへばりついていたスラム街は一掃され、その跡にはビルが建ち並んでいた。

 釜山滞在中は何度となく釜山漁港に足を運んだ。漁港前の魚市場は2階建。1階には鮮魚店が並び、裸電球の灯る店先では水揚げされたばかりの魚介類が、威勢のいい掛け声とともに売られていた。2階には海鮮料理店が軒を並べ、タイやアワビなどの刺身が日本では考えられないような安い値段で食べられた。

 なんといっても圧巻だったのは、岸壁に沿って長く延びる大露天市。その長さは数百メートルにも達した。魚介類や干魚、ノリなどの水産加工品はもちろんのこと、リヤカーに満載された野菜類や果物類から食器、衣類、雑貨と、ありとあらゆる日用品が売られ、それこそ足の踏み場もないような混雑ぶりだった。

 それら無数の露店の間には、種々雑多な屋台が出ていた。その中には日本風の今川焼きやおでん、うどん、するめ、刺身などを売る屋台もあった。そんな屋台でアナゴの刺身を肴にして昼間から焼酎をあおっている人たちもいた。

 床屋が露店を出し、竹細工の職人がわずかな空地で大籠や大生簀などを編んでいた。

 けたたましくベルを鳴らしながら、山のような荷物を積んで自転車が通り過ぎていく。

「オーオー」
 と、まるで怒鳴っているかのような大声を出して、練炭を満載にしたリヤカーが通り過ぎていく。体の半分以上もあるような大荷物を頭にのせた女性が、羽を広げたような背負子に落ちこぼれんばかりにハクサイを入れた男性が、すさまじい雑踏をかきわけるようにして歩いていく。

 釜山の大露天市は商われる商品の種類の多さもさることながら、大露天市に集まってくる人々の波のようなうねりと喧騒に、私は圧倒されてしまった。釜山の大露天市を歩きながら私は、韓国人の持つ気性の荒さと、そして熱気と迫力を怖ろしいまでに実感した。

1976年の釜山