賀曽利隆の観文研時代[20]

韓国食べ歩き紀行(2)

箸と匙

 1986年8月26日。ソウル到着の翌朝は、ホテル近くの市場を歩きまわり、朝食も市場内の食堂で食べた。ご飯に味噌汁、キムチが3種、カボチャとタチウオの天ぷらというメニュー。ご飯と味噌汁はステンレス製の器に入っている。箸と匙もステンレス製。それらがセットになっている。

 韓国語で「チョッカラ」という箸は、長さが20センチにも満たない短いもので、なおかつ細い。慣れない私には、指にしっくりこないので、使いにくくてしかたない。もう一方の匙は「スッカラ」といわれる。匙面は楕円形で柄はまっすぐ。長さは箸とほぼ同じである。

 箸と匙の使い方は、はっきりと分かれている。箸でおかずをつまみ、匙でご飯と汁をすくうのである。

 まわりの人たちを見ていると、箸よりも、よりひんぱんに匙を使っている。この国における匙の重要性を見る思いがした。

 さらに日本と違う点は、ご飯と汁は各人に配膳されるが、おかず類は大皿形式で、直箸で口まで運ぶ。取箸、取皿がないのである。

 食べ方を見ていると、ご飯や汁の入った器を手で持ったり、直接、口をつけたりはしない。器は膳に置いたまま、匙ですくって食べている。

 熱伝導率の高い金属器を用いてきた韓国の食習慣がこのような食べ方になったのか、もともとこのような食べ方だったので金属器が発達したのか。そのあたりのことは何とも興味深く、「ぜひとも知りたい!」と、思った。

韓国の碗、箸、匙の3点セット

喫茶の伝統

 朝食後、街をプラプラ歩いた。目についたのは「チーチャ」(葛茶)を飲ませる屋台。

 さっそく味わってみた。

 丸太のようなクズの根を圧縮機でぎゅっと絞り、そのままコーヒー茶碗に入れて飲む。

 クズ根の汁は泥水をさらに濃くしたような色をしている。見た目もさることながら、うまい飲み物だとは思わなかった。

 ところが…。

 飲み終わってしばらくすると、不思議なほど、体がスーッと楽になっている。このチーチャ1杯は1000ウォン(約200円)で、これはけして安くはない。前の晩にビアホールで飲んだジョッキ2杯分の生ビールと同じ料金である。

 屋台でチーチャを飲んだあと、喫茶店に入った。

 ソウルは喫茶店の多い街だ。しかし、日本の喫茶店とは違う。日本の場合は食堂顔負けの食事のメニューをそろえているが、韓国では文字通り喫茶だけである。

 喫茶店にも、さきほどのチーチャがあった。今度は喫茶店のを飲んでみたが、さきほどのよりも味が薄くて、松の実が浮かんでいた。

葛茶を飲ませる屋台の丸太のようなクズ根
クズ根の圧縮機
葛茶をコーヒーカップで飲む

 喫茶店のメニューを見ると、そのほかにはチョウセンニンジン茶、ショウガ茶、クコ茶などがあった。これらの薬用茶といってもいいようなお茶は、韓国では一般家庭でも、ごく普通に飲まれているようだ。お茶を嗜好品としてよりも、薬用として飲む傾向が強い。

 なぜ韓国では、このような薬用茶が発達したのだろうか。

 ひとつの理由としては、体にいいものは積極的に取り入れようとする民族的な性格が上げられるだろう。もうひとつの理由としては、韓国では緑茶を飲む習慣がそれほど一般的ではないことが上げられるのではないか。

 韓国での茶の栽培の北限は北緯35度前後で、黄海側と日本海側の海岸地帯はそれよりも北に延びている。そのあたりは竹の自生地の北限にもなっているが、さらに北の落葉樹林帯と南の照葉樹林帯の境にもなっている。

 その境界線は黄海側の群山あたりから全州、南原、普州、馬山と通り、日本海側の蔚山に至る線になっている。この境界線の南側が茶の栽培の可能な地域ということになるのだが、その線はあまりにも南に偏り、韓国全体から見ればごく一部の地域でしかない。

 韓国に茶が伝わったのは新羅の時代の828年だという。

 南部山岳地帯の智異山南麓の寺で栽培がはじまったとされ、最初は日本と同じように薬として用いられたようだ。それが高麗時代(936年〜1392年)になり、仏教が国教になると、飲茶の習慣は国中に広まった。とはいっても、それがどれだけ民衆のレベルに浸透していたのかは、はなはだ疑問に感じられる。

 というのは高麗にひきつづいての李朝時代(1392〜1910年)になると、崇儒排仏政策によって仏教は衰退し、それとともに飲茶の習慣も廃れていった。もし、飲茶の習慣が民衆レベルまで深く浸透していれば、そう簡単には廃れなかったのではないか。

 このような自然条件と歴史的な背景が、緑茶を飲む習慣を一般化させなかったようだ。

 それともうひとつ興味深いのは、コーヒーが日本ほどは普及していないことだ。コーヒー豆を挽いて飲ませてくれる店はほとんどない。たいていはインスタントコーヒー。それというのも、多種類の薬用茶を飲む習慣がそうさせているように思えてならなかった。

南大門市場

 喫茶店でひと息入れたあと、南大門市場に行った。

 ソウルには南大門市場と東大門市場の2大市場があるが、そのほかにも市内の各地に市場がある。市民は店で買物をするよりも、市場で食料品などを買うことが多い。そのため町を歩いていても、米屋とか八百屋、魚屋、肉屋といった食料品店をあまり見かけない。

 南大門市場はソウル駅から歩いて数分の南大門の近くにある。南大門は広壮をきわめたもので、門より内側の一帯が南大門市場になっている。

ソウルの南大門
南大門市場を歩く

 ソウルは李朝の太祖、李成桂によって築かれた都で、高さ9メートル、周囲20キロにも及ぶ城壁で囲まれていた。城壁の東西南北には城門があり、城内への出入りは4つの城門を通してのみ、おこなわれていた。日本統治時代、ソウルの市街地拡大にともない城壁、城門は取り壊され、今では南大門と東大門が残っているだけである。南大門は南のプサン(釜山)やモッポ(木浦)、東大門は日本海のウォンサン(元山)への出発点になっていた。

 人々の往来の盛んな城門の内側には市が立ち、常設の市場へと発展していった。

 今では南大門市場と東大門市場は韓国でも最大級の市場になっている。

 私は南大門市場のあふれんばかりの人波を目にしたとき、エルサレムの旧市街を目に浮かべた。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の3大宗教の聖地になっているエルサレムはやはり城壁に囲まれた都市で、城壁には7つの城門があり、城門を通してのみ、人々の往来は可能であった。

 それら7つの門のうち、ダマスカスに通じる門はダマスカス門、ヤッファに通じる門はヤッファ門などと呼ばれ、城壁内は町全体が一大バザール(市場)になっていた。

 韓国は半島国ではあるが、日本のような島国ではない。大陸とは陸つづきの国なのである。南大門市場の人波のうねりを眺めながら、この地が中国からインド、中東、さらにはヨーロッパへとつながるユーラシア大陸の一部であることを自分の肌でしっかりと感じることができた。それと同時に、朝鮮海峡を越えた日本には、このような城壁で囲まれた都市のないことを改めて思い知らされた。この半島国と島国の違いは大きい。