賀曽利隆の観文研時代[18]

『忘れられた日本人』

 宮本常一先生の代表作に『忘れられた日本人』がある。『宮本常一著作集』の第10巻に収められているが、先生の死後、岩波文庫の1冊になった。

 この『忘れられた日本人』の中に出てくる「名倉談義」の舞台、奥三河の旧名倉村に若きカメラマンの関野温さんと一緒に行った。関野さんも以前から奥三河には興味を持っていたという。

『ジパングツーリング』(2001年2月号)に掲載された「奥三河名倉探訪記」を読んでいただこう。

『ジパングツーリング』(2001年2月号)に掲載された「奥三河名倉探訪記」

「名倉談義」の舞台へ

 旧名倉村は現在の地名でいうと、愛知県北設楽郡設楽町の東納庫と西納庫を中心とする名倉地区になる。旧名倉村のほぼ中央を国道257号が走っている。

 深夜の東名を疾走し、ぼくたちは夜明けに豊川ICに着いた。カソリはスズキDJEBEL250GPS、関野さんはヤマハのレイド。2台のバイクで名倉に向かった。

 設楽町への途中では、三河の一宮の砥鹿神社や奥宮のある本宮山、織田・徳川の連合軍と武田軍が激しく戦った長篠の古戦場、仏法僧で知られる鳳来寺山などに立ち寄り、その夜は奥三河の秘湯、設楽町の塩津温泉「芳泉荘」に泊まった。

 この温泉宿での夜はよかった。

 湯につかり、夕食を食べ終えると、『忘れられた日本人』の文庫本を取り出して「名倉談義」を読んだ。その舞台に来て読む「名倉談義」はより味わい深いものになった。

「名倉談義」というのは、旧名倉村のお年寄りたちに集まってもらって座談会をおこない、その話をまとめたものである。

 お年寄りたちの話の中からは、じつに見事に村人たちの生活ぶりが浮かび上がってくるし、さらに奥三河の風土が浮かびあがってくる。

 翌日はさっそく「名倉談義」の舞台に向かった。

 設楽町の中心の田口から国道257号を北へ。豊川上流の境川にかかる赤い設楽大橋を渡ると、そこからが旧名倉村になる。

 峠道を登り、家が2、3軒見える延坂を過ぎると、峠の頂上に到達。地図上では名無し峠になっているが、地元の人たちは延坂峠と呼んでいる。

 その延坂峠の旧道が「名倉談義」に出てくる万歳峠だ。

「名倉談義」には、次のように書かれている。

「日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、送られる方はすぐ谷のしげみに姿がかくれてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より五丁(約500m)あまり手前の所にした。そこで、別れの挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりながら、五丁あまりを歩いて峠の向こうに下っていくのである。こうして万歳峠が峠の頂上から五丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。まことにこまやかな演出ぶりである。こうした事に村共同の意識の反映をつよく見ることができる」

 あいにくの天気で雨が降っていたが、ぼくは「万歳峠」のパフォーマンスだとばかりに、国道257号の峠上で雨に打たれながら万歳をした。

 峠を下ったすぐのところに、その名も「峠」という喫茶&軽食の店があった。

 そこで食事をしながら、さりげなく万歳峠のことを聞くと、客で来ていた地元の人が、「ほら、国道がゆるく登ったあのあたり、あそこで万歳したんだよ」
 と教えてくれた。

 それは宮本先生がいうところの、五丁手前の万歳峠のことだった。

 万歳峠を越えると、山深い風景から名倉川沿いの開けた風景に変わった。

 最初に出会う集落が大桑、名倉川をはさんだ対岸の集落が大久保になる。

 この大久保にある寺で「名倉談義」の座談会がおこなわれた。それは昭和31年の秋のことだった。

 座談会に参加したのは、大久保の後藤秀吉さん、猪ノ沢の金田茂三郎さん、社脇の金田金平さんと小笠原シウさんの4人のお年寄りだった。

 座談会の舞台になった臨済宗妙心寺派の大蔵寺に行ってみると、苔むした石段を登った上からは旧名倉村を一望できた。

「名倉談義」の4人のお年寄りは、もうこの世にはいないが、大久保の集落を歩き、猪ノ沢と社脇の集落にはバイクで行った。

 感動的だったのは、社脇だ。

 ここでは小笠原シウさんのご家族に話を聞くことができた。シウさんの息子さんのお嫁さんにあたる90歳を超える小笠原三枝さんがご健在だった。

 小笠原シウさんは戸籍上では「小笠原志やう」さんで「しょうさん」とか「じょーさん」「おじょねー」と呼ばれていたという。

 明治16年生まれで、「名倉談義」の座談会で話した翌年、昭和32年に亡くなられたという。

 小笠原シウさんは「名倉談義」の中では、次のような話をされている。

「わたしは六つのときに子守にいって九つまで子守をした。いまの子供で六つといえばネンネだが、わたしら六つで子供の一人まえにされました。十歳になると草刈にやられるようになりました。そうして十六の年にはもう嫁にいきまた」

 次のような話もされている。

「わたしの家の菜飯は大根飯が主でありました。大根をたくさんつくり、切干にしたり、氷大根にしたり、またハサにかけてほして漬けたり、飯もおかずも皆大根でありました。それでも切干をアラメ、タケノコと一しょに煮シメにしたものを山でたべるのはうまかった。昼まえになると飯櫃を荷俵に入れておうて、さいは桶に入れて持っていったもんです」

 このあとは旧名倉村の中心、東納庫を歩いた。「納庫」でやはり「なぐら」と読む。現在の設楽町役場の出張所と、それに隣合った農協の建物のあるところに、旧名倉村役場があったという。

 さらに国道257号で西納庫を通り、「名倉談義」にも出てくる稲武町の中心、稲橋に行った。ここでは夏焼温泉「岡田屋」の湯に入った。

 稲武町からは奥三河ときわめてつながりの深い信州の根羽村まで行き、そこから折元峠を越えてまた設楽町に戻ってきた。

 このように「名倉」というのは、何も特別なところではない。

 日本中のどこにでも「名倉」はある。

 宮本常一先生は「名倉談義」を通して、
「日本中どこに行っても、おもしろいところばかりじゃ」
 と、教えてくれているようでならなかった。

 奥三河の名倉探訪のあとは、バイクを走らせて「対馬にて」の対馬の伊南〜佐護、「土佐寺川夜話」の土佐寺川、「土佐源氏」の土佐檮原、「梶田富五郎翁」の対馬の豆酘、「世間師」の河内滝畑、「文字を持つ伝承者」の磐城草野などの『忘れられた日本人』の舞台を訪ねてまわった。