賀曽利隆の観文研時代[16]

『あるくみるきく』

『あるくみるきく』第66号の「アフリカ一周」

 日本観光文化研究所(観文研)では、『あるくみるきく』という月刊誌を出していた。

 観文研のシンボル的な存在で、所長の宮本常一先生は情熱をこめて毎号の監修をされていた。

 1967年3月に出た「特集国東」が記念すべき第1号。それ以降、毎号、特集形式で出していった。

『あるくみるきく』のタイトル名からもわかるように、自分の足で歩き、自分の目で見、いろいろな人たちの話を聞き、それを文章にまとめたのが『あるくみるきく』なのである。その1冊1冊には、宮本先生の熱い想いがこめられている。

 ぼくは「アフリカ一周」(1968年〜1969年)の旅から帰ったあと、観文研に出入りするようになったが、きわめつけの貧乏旅行だったカソリの「アフリカ一周」を宮本先生はおもしろがり、『あるくみるきく』に書かせてもらえることになった。

 とはいっても、なにしろ文章を書く術も知らないカソリだったので、大変なことになった。そんなときに宮本先生のご子息の宮本千晴さんは、じつに良いアドバイスをしてくれた。

「カソリ君、そんなに大げさに考えなくってもいいよ。原稿にまとめなくてもいいから、旅の間で強く印象に残ったことをカードに書いてみたらいい」

 ということで、宮本千晴さんのアドバイス通り、全部で150枚のカードに思い出のシーン、印象深いシーンを書き込み、それを終えると「サハラ砂漠縦断」を一番の目的とした「世界一周」(1971年〜72年)に旅立った。

 その150枚のカードを編集してくれたのは東京農業大学探検部OBの向後元彦さんと早稲田大学探検部OBの伊藤幸司さんだった。

 2人は当時の日本の探検、冒険の世界をリードするような方。向後さんと伊藤さんはその150枚ものカードをたんねんにつなぎ合わせ、『あるくみるきく』の1冊にしてくれた。書いた本人がいないのだから向後さんと伊藤さんはさぞかし苦労されたことだろう。

 こうして完成したのが『あるくみるきく』第66号の「アフリカ一周」だ。それを「世界一周」の途中で資金稼ぎのバイトをしていたイギリスのロンドンに送ってもらった。

 異国の地で、『あるくみるきく』の「アフリカ一周」の号を手にしたときの喜びといったらなかった。

『あるくみるきく』第66号の「アフリカ一周」には、さらに後日談がある。

 それを目に留めてくれた人がいた。

 作家の坂口安吾や壇一雄らの本を編集された八木岡英治さんだ。

 ぼくが「世界一周」から帰るとまもなく、八木岡さんは観文研に訪ねてきてくれた。

 お会いするなり、『あるくみるきく』の「アフリカ一周」はおもしろかった、ぜひとも本にしましょうと言ってくれた。信じられないような話だ。

 このようないきさつで、ぼくにとっては最初の本となる『アフリカよ』が出版された。

 ところでこの本のゲラ(校正)が出たとき、八木岡さんは壇一雄さんに読んでもらった。壇さんは一気に読み終え、すごくおもしろがってくれたという。

 そして『アフリカよ』の前書きに、
「ここに青年の行動の原型があり、純粋な旅の原型がある。何か途方もなく大きな希望があり、夢がある。ぼくが今、二十歳で、この著者と同じことが出来ないのが、唯一、残念なことである」
 と、書いてくれた。

 壇さんは『アフリカよ』のゲラを読み終えるとすぐに、ぼくに会いたいと言ったという。だが残念なことに、ぼくは壇さんに会うことなく、次の「六大陸周遊」(1973年〜1974年)に旅立った。

 壇一雄さんはその後、1976年1月2日に亡くなられた。