賀曽利隆の観文研時代[09]

奇跡の再会

 周防大島の椋野では、松岡睦男さんにお会いした。

「私は大正7年に椋野で生まれました。天浄寺が生家です。昭和6年に椋野の尋常小学校に入学。尋常小学校のあとは2年間、三蒲の高等小学校に通いました。椋野と三蒲の境の峠、サヤノカミを越えて学校まで1時間、毎日歩いて通いました。あの当時、尋常小学校から中学校や女学校に進学するのはほんとうに限られた家の長男や長女だけで、34、5人のクラスのうち4、5人でした。

 三蒲の高等小学校のあとは小松(旧大島町)の商船学校に入りました。私が小松の商船学校に入ったのは、船乗りになりたいという気持ち以上に、あのころよくいわれた『海外雄飛』への憧れがあったからです。船乗りになって、世界を駆けめぐりたいという思いが強かったですね。小松の商船学校は私が入った年に県立から国立になりました。設備は充実するし、学校の格は上がるし、学費は安いということでほんとうにありがたかった。学生は大島郡よりもよそからの人たちのほうがはるかに多かった。

 小松の商船学校の卒業は昭和19年。戦争が激しくなり、船員が足りなくなって、くり上げの卒業でした。三井船舶に入社したのですが、乗る船がなくて自宅待機。もしあのときに輸送船などに乗っていたら、おそらく生きては帰れなかったことでしょうね。一時期、内地まわりの船に乗ったこともあります。

 戦後は国家管理の船舶運営会社の船に乗りました。進駐軍の物資を運ぶ船。昭和22年から23年にかけては再教育を受けましたよ。戦時下でくり上げ卒業したものですから、国が希望者だけに再教育をほどこしたのです。その間は国から月給をもらいながらの勉強でした。三井船舶に復社したのは昭和26年。昭和39年には三井船舶は大阪商船と合併し、大阪商船三井船舶という新しい会社になったのです。

 昭和41年に船長になり、それ以来、三井OSKラインの貨物船の船長として世界の7つの海をめぐってきました」

 このように話してくれた松岡睦男さんだが、まさに周防大島での奇跡の再会となった。

 ぼくは1968年、20歳のときに日本を飛び出し、スズキTC250を走らせ、友人の前野幹夫君と1年がかりで東アフリカ経由でアフリカ大陸を縦断した。

 アフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡を渡ってスペインに入った時、ぼくは相棒の前野君に無理をいって彼と別れた。イギリスでで資金稼ぎのバイトをしたあと、ふたたびアフリカに戻り、今度は西アフリカ経由で大陸を南下した。

 大きな難関のコンゴとアンゴラの国境を突破し、アンゴラの首都ルアンダまでやってきた。ゴールの南アフリカのケープタウンが目前だった。

 ところがルアンダでは南アフリカのビザが取れなかった。前に進むこともできず、かといって戻ることもできず、にっちもさっちもいかない状態に陥った。そんなときにルアンダ港に日本船が入港した。大阪商船三井船舶の「ぶえのすあいれす丸」。

 その船の船長が松岡睦男さんだった。

 日本人のみなさんに会いたくて、日本語を話したくて港まで行くと、松岡船長をはじめ、乗組員のみなさんには大歓迎された。

 船内ではなんともおいしい日本食をご馳走になった。

「ぶえのすあいれす丸」は3日間、ルアンダ港に停泊したが、その間は船内で泊めてもらい、松岡船長や乗り組み員のみなさんと一緒に食事した。夜はさんざん飲ませてもらった。

 松岡船長らと過ごした3日間は地獄で見た天国のようなもので、この上もなく楽しいものだった。

 そんな松岡船長と宮本先生の故郷の周防大島で再会したのだ。

 これはもう奇跡の再会としかいいようがない。

 このときぼくの頭の中では宮本先生と松岡さんがしっかりと結びつき、
「(この奇跡の再会は)宮本先生のおかげだ!」
 と思った。

アンゴラのルアンダ港での松岡船長との出会い。それは1969年のことだった。ぼくの着ているのは船員のみなさんからいただいたものだ