賀曽利隆の観文研時代[07]

宮本先生が亡くなってからの観文研

 宮本常一先生の命日の1月30日には、毎年、東京・西国分寺の東福寺で先生の慰霊祭がおこなわれる。

 日本観光文化研究所(観文研)の所員だった山崎禅雄さんが島根県の江津市から駆けつけ、東福寺の本堂で読経してくれる。山崎さんは山陰の曹洞宗の名刹、日笠寺の住職。

 読経が終わると場所を変え、宮本先生の遺影の前で献杯し、飲みながら宮本先生の思い出話に花を咲かせるのだ。

 東福寺での集まりはビールに始まり、日本酒、焼酎と、さしつさされつして飲みつづけ、呂律がまわらなくなる頃にお開きになる。

 宮本常一先生の存在というのは、今でもこれほどまでに大きい。

 1981年に宮本先生が亡くなられた直後から、観文研では先生の学問的体系・思想の継承、発展を目指して「宮本常一研究」を開始した。

 その成果は観文研発行の『研究紀要』に発表された。

 1981年から1989年の観文研閉鎖までに全部で11巻の『研究紀要』が出たが、そのうち「宮本常一研究」は5巻を占め、第5巻目は先生の膨大な著作の目録になっている。これら5巻の『研究紀要』は、今ではほとんど手に入らない貴重な宮本常一研究の資料になっている。

 宮本先生の死後、観文研では共同研究とともに共同調査も開始した。

 1983年4月には先生の故郷、周防大島の椋野(旧久賀町)をフィールドにして、共同調査を行った。宮本先生の後をついで所長になられた高松圭吉先生(故人)や事務局長の神崎宣武さん、前出の山崎禅雄さん、そしてカソリらの所員が椋野に入った。

 宮本先生の故郷ということもあって、
「よ〜し、宮本先生の教えをここで実践してやろう!」
 といった強い意気込みがあった。

 周防大島の北側に位置する椋野は江戸期から明治初期までは椋野村として一村を成していた。国道437号沿いにあるが、ツーリングで周防大島にやってきても、まず立ち止まるようなところではない。100人が100人、まったく気にもとめずに走り過ぎてしまうようなところだ。

 そんな椋野にくらいついていろいろなことを見てやろう、いろいろな人たちの話を聞いてみようという高揚した気分だった。

 椋野には昭和29年(1954年)発行の『山口縣久賀町誌』を持っていった。

 この町誌は宮本先生が責任編集されたもので、久賀町の「地理的条件」、「歴史的展開」、「現在の久賀」、「人と伝承」の4編から成っている。

「瀬戸内海の地図をひらいてじっとみつめていると、一見不規則にばらまいたような島々のたたずまいにも、何らかの秩序がひそんでいるように思えてくるだろう。もう少し具体的にいうと、場所によって島々の疎密の状態がまるで違っているし、また島がたくさん寄り集まったところにしても、その並び方が勝手気ままではなくて、或る目に見えない何かの意志によって、作為的に並べられたような気配を感ずるのである。さらに詳しく見てみると、島々の一つ一つの形や、これらの島と島とを区切っている瀬戸(海峡)の形までから、こうした自然の意志を汲みとれるようにさえ思えてくることだろう」。

 このような宮本常一先生の書き出しで始まる久賀町誌をいつもそばに置き、何度も目を通しながら、椋野の集落をひとつづつ、残らずに歩きまわるのだった。