賀曽利隆の観文研時代[06]

宮本先生とアサ子さん

 宮本常一先生の故郷、周防大島を訪ねる賀曽利隆の「聖地巡礼」は「30代編日本一周」から「70代編日本一周」までの6回を数えるが、それとは別に、先生の奥様のアサ子さんにお話しを聞きにいったことがある。

 それは1997年3月28日のことだった。

 宮本先生が「生涯4000日」もの日数をかけて旅することができたのは、アサ子さんの支えによるところがきわめて大きいと思う。

 アサ子さんは大正元年(1912年)に大阪市浪速区塩草町で生まれた。旧姓は玉田。周防大島にお訪ねした時は85歳になられていたが、お元気で、記憶もしっかりとしていた。

 アサ子さんは塩草尋常小学校を卒業したが、10年下の卒業生には作家の司馬遼太郎さんがいる。宮本先生の著作の大半を読んだという熱烈な「宮本ファン」の司馬さんなだけに、人のつながりの不思議さを感じる(司馬さんは宮本先生の死後、観文研に来て熱心に話をしてくれたこともある)。

 アサ子さんの実家は理髪店で、お父さんは何軒かの店を持っていた。今風にいえばチェーン店だった。昭和8年(1933年)に大阪府立女子専門学校(現大阪女子大)を卒業されて小学校の教師になった。

 その2年後の昭和10年(1935年)4月、大阪・天王寺駅前のレストランで宮本先生とお見合いをした。そのときの先生は熱をこめて奈良や京都の古寺めぐりの話をされたそうで、アサ子さんはその話にすごく魅せられた。

 その後、先生は何通もの手紙を送り、ほとんど日曜日ごとにアサ子さんを連れ出しては奈良や京都の古寺めぐりをしたという。

 当時の宮本先生はといえば、大阪に出て胸を病み、2年ほど故郷で療養し、ふたたび大阪に戻り、小学校の教師をしていた。

 アサ子さんとお見合いをしたのは、宮本先生が生涯の師と仰ぐ渋沢敬三(渋沢栄一の孫)と初めて出会った直後のことだ。先生はこの時期、渋沢敬三、玉田アサ子と、たてつづけにご自身の生涯を大きく左右する2人の人物に出会ったことになる。

 この時代、肺病といえば、死を覚悟しなくてはならないほど恐れられた病気だったが、アサ子さんは先生の胸の病はすこしも気にならなかったし、怖くもなかったという。

 だが、いざ結婚という段になると、アサ子さんのお父さんは先生の家の田畑が少ないという理由で、結婚に反対したという。それを乗り越え、お見合いをしてから8ヵ月後の12月に宮本先生はアサ子さんと結婚された。先生が28歳、アサ子さんが23歳のときのことだった。

 最初は南海高野線の堺東駅に近い借家住まいで、次に阪和線の鳳駅近くに移り住み、昭和12年(1937年)には長男の千晴さんが生まれた。

 昭和14年(1939年)、先生は小学校の教師をやめ、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアムに入所した。これを機に日本全国を民俗学的調査で歩かれるようになる。

 宮本先生のお言葉を借りれば、
「33歳になって、一つの視点をもって歩きはじめたのである」(文藝春秋刊『民俗学の旅』より)
 ということになる。

 そして昭和18年(1943年)には、長女の恵子さんが生まれた。

 昭和20年(1945年)7月、B29の空襲で堺周辺は火の海になり、宮本先生の家は一瞬のうちに焼け落ちた。それとともに、あちこちで聞き取りをした調査用ノート約100冊と原稿1万2000枚、さらに写真などの貴重な資料も一瞬のうちに失った。

 大きな痛手を負ったのだが、宮本先生はそれにもめげずに、すぐさまレンガやトタンなどを集め、6畳と4畳半、台所の半地下式の家をつくり上げた。

 翌昭和21年(1946年)、宮本先生夫妻は帰郷し、アサ子さんは姑のマチさんと一緒に住むようになる。マチさんは心の広い、どっしりと構えた人で、力も強く、何でもできた人だという。

 大阪の町場育ちのアサ子さんをあたたかく迎え入れてくれ、
「慣れないところで大変だね」
 といっては何かと気をつかってくれた。

 マチさんのおかげで、畑仕事にも慣れ、半日がかりの白木山への薪拾いもできるようになった。

 白木山というのは、下田や長崎の浜を見下ろすこのあたりの最高峰である。

 周防大島というのは、他所者をあたたかく迎え入れてくれる土地柄なので、アサ子さんは町からやってきた嫁といった白い目でみられることはなかった。それがずいぶんとありがたいことだったという。

 だが、この年に生まれた次男の三千夫さんを生後50日目で亡くしてしまう。

 昭和27年(1952年)には、三男の光さんが生まれる。

 昭和37年(1962年)にマチさんが亡くなると、アサ子さんはその前年に先生が買われた東京・府中の家に移り住むのだが、それまでの16年間というもの、アサ子さんは先生の故郷を守り通したのだ。

旅の原動力は「家族愛」

 この間、旅に明け暮れた宮本先生だが、心おきなく旅に出ることができたのは、アサ子さんが姑のマチさんといい関係にあり、家をきちんと守ってくれたことが大きい。さらに、先生のお姉さんのユキさん(小学校の教師をしていた)とも一緒に住んでいたが、とても器用な人で、アサ子さんのために、よく縫い物をしてくれた。そのたびにユキさんは、「常一さんは大事な人だから」
 といったという。

 アサ子さんは先生の弟の市太郎さんにもよくしてもらった。大阪の実家では感じられなかったような家族愛を宮本家では強く感じたとアサ子さんは言う。

 先生の家族を思う心、家族の先生を思う心、この「家族愛」こそ、宮本常一先生の旅の原動力であったとぼくは思った。

 旅に出て留守にしていても、いつもアサ子さんのそばにいるような、そんな存在感のある宮本先生だったという。

 アサ子さんが東京に出た翌年に渋沢敬三が亡くなった。

 その翌年に宮本先生は武蔵野美術大学(武蔵美)の教授になった。

 さらにその翌年の昭和41年(1966年)に、日本観光文化研究所(観文研)が誕生したのである。

 武蔵美&観文研時代の宮本先生は、それまでの人生とはまた違った強烈な閃光を放ち、多くの若者たちがその光りの影響を受け、民俗学の枠をはるかに越えた「宮本学」への道を歩むようになった。

 2010年(平成22年)8月5日、宮本アサ子さんは97歳で亡くなった。宮本常一先生が亡くなられてから30年後のことだった。