賀曽利隆の観文研時代[04]

第2回目の「聖地巡礼」

「聖地巡礼」の第2回目は、宮本常一先生が亡くなられてから8年後の1989年のことだった。この年の3月31日には、宮本先生のつくられた日本観光文化研究所(観文研)は閉鎖され、一切の活動を停止した。

 水冷のスズキ・ハスラー50で「40代編日本一周」に出発したのは8月17日。

 有料の大島大橋を渡って周防大島に入ったのは、東京を出発してから72日目の10月27日のことだった。

 まずは宮本先生の故郷の下田(したた)八幡宮を参拝し、そのあと宮本家を訪ねた。

 宮本先生のご子息の宮本光さんはぼくと顔を合わせるなり、
「カソリさん、ちょうどよかった。明日、明後日の2日、山口の農業祭なんですよ。一緒に行きましょう」
 と言ってくれた。

 その農業祭で光さんは自慢のサツマイモ、「東和きんとき」の焼きいもを売るというのだ。光さんはミカンからサツマイモへと比重を移していた。農閑期には何かイベントがあると、焼きいもの道具一式を軽トラックに積んで出かけているとのことで、それがまた光さんにとっては「ハレの日」にもなっていた。

 ひと晩、宮本家で泊めてもらい、翌朝、宮本夫妻はまだ暗い午前5時30分に軽トラックで出発。ぼくも同乗させてもらった。

 光さんの運転で120キロの距離を走り、山口市郊外の農業試験場内の農業祭会場へ。

 山口県下の農協婦人部の「ふれあい喫茶」の隣りが光さんの「石焼きいも」のコーナーだ。さっそく石焼きいものカマをセットする。マキを焚いてカマの底に敷きつめた土佐産の小石を熱し、その上にサツマイモをのせていく。1時間半ほどたつと、焼き上がりはじめる。

「さー、いらっしゃい、いらっしゃい。おいしい、おいし〜い大島の東和きんときの焼きいもですよ〜!」

 光さんの石焼きいもの人気は上々で行列ができるほどの盛況ぶりだった。

 農業祭の2日目は光さんにかわってぼくが客を呼び込んだ。

「光クン、これなら焼きいもを売りながら、日本一周できるね」

 ぼくが冗談半分にいうと、
「それはいいアイデアだ。カソリさん、やろう、やろう!」
 と、光さんは相槌を打ってくれた。

 2日間の農業祭を終えて周防大島に戻ると、宮本家で泊めてもらった。そして宮本夫妻の見送りを受けて四国に向かったのだが、周防大島の伊保田港からのフェリーはなくなっていたので、柳井港から松山行きのフェリーに乗り込んだのだ。

「40代編日本一周」の相棒は水冷のハスラー50。石鎚山の山麓で
宮本常一先生の故郷の下田八幡宮を参拝する