賀曽利隆の観文研時代[01]

20歳の旅立ち

 1968年4月12日、ぼくは友人の前野幹夫君とスズキのTC250とともに、横浜港からオランダ船「ルイス号」に乗り込んだ。「アフリカ縦断」を目指しての20歳の旅立ちだ。

祖母や両親、親戚一同の見送りを受けて横浜港を出発。カソリ、20歳の旅立ちだ

「日本を飛び出したい!」

「広い世界を自由自在にバイクで駆けめぐりい!」

 そんな燃えるような想いでの旅立ちだ。

 アフリカ南部、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)で下船し、そこを出発点にして1年をかけてアフリカ大陸を縦断した。

 すっかりアフリカに魅せられたカソリは、ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入ったところで前野君と別れ、再度、アフリカへ。モザンビークのロレンソマルケスに戻り、アフリカ大陸を一周した。日本に帰ってきたのは1969年12月3日だった。

 そのときぼくは、「よーし、これからはトコトン世界を駆けるゾ!」と固く決心した。

 カソリの「22歳の誓い」だ。

 次の「世界一周」を計画しているときに、『週刊朝日』に取材された。東京の阿佐ヶ谷駅近くの喫茶店で記者の川本三郎さんに「アフリカ一周」についていろいろと聞かれた。それから何日かたって、「アフリカ一周」が『週刊朝日』に記事となって出た。ほとんどの人が見過ごすくらいの小さな記事だ。

 その『週刊朝日』の小さな記事が『月刊オートバイ』編集部の目に止まり、編集部の小川孝さんが我が家に来てくれた。

 小川さんはいきなり言った。

「カソリさん、オートバイでアフリカ大陸を一周したそうですね。すごいなあ。ところでそのときのことをウチで書いてもらえませんか?」

 ぼくはビックリした。それまでに何か雑誌に文章を書いたことは一度もないし、高校時代の国語の成績などは惨憺たるもので、自分に文章を書く才能があると思ったことは一度もない。だが、小川さんは「カソリさんなら、きっとできますよ」と、いとも簡単に言う。小川さんのその一言で、ありがたくやらせてもらうことにした。

『月刊オートバイ』での連載は16回にも及び、1回ごとにいただいた高額の原稿料はそっくりそのまま貯め込み、「世界一周」の資金にすることができた。

宮本常一先生との出会い

 この時期すごくラッキーだったのは、『現代の探検』(山と渓谷社)編集長の阿部正恒さんに出会ったことだ。『現代の探検』には「アフリカ一周」のうちの「ソマリア横断」を書かせてもらった。題して「灼熱の岩砂漠を突っ走る−ソマリア横断3500キロ」

 そんな阿部さんに「ぜひとも会ったらいいよ」といわれて宮本千晴さんと向後元彦さんを紹介された。宮本さん、向後さんは当時の日本の冒険、探検をリードされている方々。宮本さんはカナダ北極圏での越冬生活を体験し、向後さんはヒマラヤ探検のパイオニア。

 2人を訪ねた先が、東京・秋葉原にある「日本観光文化研究所」(観文研)だった。真下に首都高速を見下ろす眺めの良い部屋の片隅にはスプリングの飛び出したソファーがあって、それに座って宮本さん、向後さんの話を聞いた。ぼくはすっかり2人に魅せられ、足しげく観文研に通うようになった。

 そんなある日、観文研で小柄な、ヨレヨレの背広を着た年配の方に会った。その方が宮本常一先生だった。

 宮本千晴さんに「親父だよ」と紹介されたときは、「宮本常一」をまったく知らなかったので、「あ、千晴さんのお父さんですか」と何とも失礼な挨拶をしてしまった。それがぼくにとっての宮本先生との出会い。宮本常一先生は観文研の所長をされ、息子の宮本千晴さんが観文研の事務局長をしていた。

世界から日本へ

 ぼくは「アフリカ一周」を終えたあと、1971年から72年にかけてスズキのハスラー250を走らせての「世界一周」、1973年から1974年にかけてはバイクとヒッチハイクで「六大陸周遊」と世界を駆けめぐった。

ハスラー250での「世界一周」 最大の目的はサハラ縦断だった
ハスラー250での「六大陸周遊(オーストラリア編)」 北部オーストラリアで

 1974年11月13日、「六大陸周遊」の旅から帰国すると、すぐに観文研に行った。20代の大半を費やして世界を駆けめぐった反動とでもいおうか、無性に日本をまわりたくなったのだ。

 宮本千晴さんに「これからは日本をまわりたいのですが」と相談すると、宮本常一先生の一番弟子といってもいい神崎宣武さんと工藤員功さんの2人について日本をまわれるようにしてくれた。

 宮本常一先生はそれを聞いて喜んで下さり、「カソリ君、世界を見た目で日本を見るのはいいことだ。とにかく色々な所に行ってみなさい。その中でいろいろなものを見て、いろいろな人たちに出会って、いろいろな話を聞いて、何かを感じ、自分の頭で考えてみたらいい」というアドバイスをして下さった。

 観文研はじつにユニークな組織で、宮本常一先生の教えに興味を持ったり、共感した人は誰でも所員になれた。といっても給料が出るわけでもなく、拘束されることもなかったが、すごくありがたかったのは「君らを食わせてあげることはできないが、君らを歩かせてあげられる」という宮本先生の方針どおり、様々なテーマで日本各地を旅する旅費をもらえたことだ。観文研のプロジェクトで日本各地をまわることによって、ぼくは日本を知るようになった。

観文研にどっぷりとつかる

 1975年3月には結婚した。自慢にもならないが、結婚資金などは一銭もない。そこでどうしたかというと、1万円で保育園を借り、全費用が1万円という結婚式をあげたのだ。宮本先生ご夫妻が仲人をしてくださり、神崎さんが神主をしてくれた。観文研の仲間たちが会場の飾りつけをしてくれ、豪勢な料理をつくってくれた。

 1977年6月には女房と生後10ヵ月の赤ん坊を連れて世界に旅立ったが、出発直前には東京・府中の宮本先生のお宅を訪ねた。そのとき先生は「世界中、どこでも子供は育っている。旅していく中で子供を育てていけばいい」といって下さった。

 そのお言葉が赤ん坊連れの旅の大いなる心の支えになった。

 そんな宮本常一先生だったが、1981年1月30日に亡くなられた。73歳だった。

 観文研発行のの月刊誌「あるくみるきく」では「宮本常一追悼特集号」(第174号)を出そうということになり、先生の遺稿となった「車窓の風景から」の手書きの原稿を持って、ぼくが写真を撮りにいった。

 先生の郷里に近い山口県の大畠駅から岡山駅までの車窓の風景。新幹線からの車窓の風景も写真にとった。「時速200キロの新幹線の車窓からでも見えるものは見える。何も見えないというのは、見る目を持っていないからだ」といわれた宮本先生のお言葉を何度も思い出しながら写真を撮りつづけたのだ。

 それから8年後の1989年3月31日、「日本観光文化研究所」(観文研)は解散した。次回からはそんな観文研にどっぷりとつかり、観文研で多くのことを教えてもらった「賀曽利隆の観文研時代」をお伝えしよう。