30年目の「六大陸周遊記」[096]

[1973年 – 1974年]

アメリカ編 9 メデリン[コロンビア]

メデリンの空港に降り立った!

 コロンビア第2の都市メデリンはアンデス山中の盆地に開けた都市。中心部には高層ビルが建ち並んでいる。飛行機のタラップを降り、憧れの南米の大地を自分の足でしっかりと踏みしめたときは興奮してしまった。

 うれしいことに天気も回復し、スキッと晴れている。

 それは1974年10月26日のことだった。

 友人の前野幹夫君と一緒に横浜港から南米への移民船「ルイス号」に乗り込み、モザンビークのロレンソマルケス港で下船して「ルイス号」を見送り、「アフリカのあとは南米だ!」と決心してから6年半の歳月が流れていた。

3度目の正直

 ぼくが初めて「南米に行きたい!」と思ったのは、1968年4月12日、20歳の春に旅立ったこの「アフリカ一周」のときのことだった。

「ルイス号」は釜山、香港、シンガポールと寄港してインド洋を越え、ロレンソマルケス、ケープタウン経由で大西洋を越え、ブラジルのサントス、ウルグアイのモンテビデオと寄港し、アルゼンチンのブエノスアイレスまで行く移民船だった。

 日本から出た南米への移民船はそれが最後になった。

 船の中では南米に移民する日本人や韓国人、台湾人たちと家族同様の親しさとなり、「ルイス号」がロレンソマルケス港を離れていくときは、みなさんとの別れの寂しさもあって、「アフリカのあとは南米に行くゾ!」と固く決心したのだった。

 ぼくたちはロレンソマルケスを出発すると、1年がかりで東アフリカ経由でアフリカ大陸を縦断し、北アフリカ・モロッコからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに渡った。

 最初の計画ではヨーロッパから西アジアを横断し、インドから日本に帰るというものだったが、ぼくは無理をいって前野と別れ、再度、アフリカに戻った。そして今度は西アフリカ経由でアフリカ大陸を南下していった。そのときの計画では南アフリカのケープタウンから南米に渡るつもりだった。

 最大の難関のコンゴとアンゴラの国境を越え、アンゴラの首都ルアンダに着いたとき、ケープタウンはもう目前だった。ところが南アフリカ領事館でビザの発給を拒否され、ケープタウンまで行くことができず、ついに南米を断念。ポルトガル船でモザンビークのロレンソマルケスまで行き、そこから日本に帰ったのだ。

 1971年から翌72年にかけての「世界一周」のときも、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、北米とまわり、最後に南米を一周するつもりでいた。アメリカのロサンゼルスでバイトして資金を貯め、中米から南米に向かうつもりにしていたのだが、日本からとんでもない手紙を受け取った。

 アフリカ大陸縦断の旅で、生死をともにした友人の前野幹夫君が原因不明の熱病に倒れ、昏睡状態におちいり、なんと危篤だという。ぼくよりも前野の方がはるかに体が強く、丈夫だったので、信じられないような思いだった。

 彼は旅の間は2年間、早稲田大学を休学したが、復学するとその後は留年することもなく卒業し、時事通信社に入社した。運動部に配属され、プロ野球の担当になり、元気に仕事しているといった文面の手紙を受け取ってまもなくのことだったので、彼の病気がよけいに信じられなかった。

 とるものもとりあえずロサンゼルスから帰国したのだが、こうして2度目の南米挑戦も失敗に終わった(なお前野は奇跡的に一命をとりとめた)。

 それだけにメデリンの空港に降り立ったときは、
「やっとこれで、南米の大地を踏むことができた。3度目の正直だな」
 と、喜びが大きかったのだ。

バスに乗せてもらう

 南米の第一歩となるメデリンをあとにし、南に向かって歩きはじめる。

 足どりも軽く、心もうきうきしてくる。これから南米最南端のフエゴ島に向かい、「南米一周」を終えたら、また、コロンビアに戻ってくるつもりでいた。

 とはいってもヒッチハイクは容易ではなく、車に乗せてもらえないまま歩きつづけた。

 メデリンから南に10キロほど歩くと、夕日がアンデスの山々の向こうに落ちていく。

 そんなときに、バスが止まった。運転手はなんと乗れといって手招きしている。ありがたく20キロほど先の町まで乗せてもらった。

 降りるときには、
「これで何か食べなさい」
 といってお金までもらった。

 ぼくはタダで乗せてもらっただけで十分にうれしかったので断ったが、何度もいってくれるのでありがたくいただくことにした。

 これから先の南米の旅がすべてうまくいくような気がして心が踊った。