30年目の「六大陸周遊記」[088]

[1973年 – 1974年]

アメリカ編 1 ブリュッセル[ベルギー]→ ニューヨーク[アメリカ]

「北アメリカ編」の開始だ!

 1974年10月4日、ニューヨークのケネディー空港に降り立った。さー、「北アメリカ編」の開始だ。日本を出発してから、すでに1年2ヵ月が過ぎていた。

 まるでこれからのアメリカの旅を予感させるかのように、ケネディー空港からのヒッチハイクは楽で、一発でマハッタン島まで乗せてもらえた。

 ニューヨークの中心街をあてどもなくプラプラ歩き、夜になったところでセントラルパークを歩いた。どこか人目のつかないところで野宿しようと思ったのだ。

 ところがここでは日本人に声をかけられた。

 この近くに住んでいるとのことで、ひと晩、泊めてくれるという。

「ラッキー!」
 とばかりに、その人についていった。

 マンション高層階の部屋に着くと、ニューヨークの夜景を見下ろした。

「シャワーでも浴びたらいい」
 といわれるままに、さっそくシャワーを浴びた。

 何と湯を浴びている最中に、その日本人がシャワールームに入ってくるではないか。

 ゾッとした。

 その日本人はホモだった。

 すばやくシャワールームを出ると、パッと服を着、荷物をまとめて部屋を出た。アメリカに到着早々、日本人のホモにやられるとは。

 夜の町を歩いていると、コロンビア大学の前を通った。

「大学のキャンパスならいいだろう」
 と構内に入り、植え込みの下にシュラフを敷いて寝た。

ニューヨークは「死の砂漠」!?

 翌日はマハッタン島を歩いた。

 高層ビルが林立し、ビルが高すぎててっぺんが見えない。「ビルの谷間」という言葉がぴったりで、深く険しい峡谷を思わせた。暗い感じがし、息苦しくなるような圧迫感をも感じた。

 ニューヨーク名物のエンパイアステートビルの展望台に登り、そこからニューヨークの摩天楼を一望した。その眺めは「ビルの谷間」を歩いているときよりもさらに異様なもの。眼下に横たわっているのは、巨大な怪獣の死骸を思わせる都市のたたずまいだった。

「まるで死の砂漠だ」

 そんな言葉が口をついて出た。

黒人居住地区のハーレム

 あやうく日本人ホモ氏の餌食になりかけたというのに、再度、セントラルパークを歩いた。広い。とにかく広い。

 広いセントラルパークのその向こうは、黒人居住地区のハーレム。セントラルパークを歩いたあとはハーレムに入っていく。

 崩れかかったビル、いたるところに見られるゴミの山。これでも走るのだろうか…というほどのオンボロ車を何台も見かける。そしてあちこちで、何するでもなしに黒人たちがたむろしている。ここは華やかな消費文明を謳歌するアメリカとは、無縁の世界だった。

 日が暮れても、ハーレムを歩いた。

 10月の夜のニューヨークは冷え冷えとした。寒くて、ドラムカンの火を囲んでいる人の輪に入り、あたらせてもらった。そこには「やあやあ」と気軽に声をかけて入っていける空気があった。火にあたらせてもらいながら酒を飲ませてもらったり、サンドイッチやフライドチキンをもらった。

 ぼくに酒を飲めといってついでくれた黒皮のジャンパーをはおった男は、
「酒と麻薬がハーレムをすっかりダメにしてしまった」
 と、怒るような口調でいった。

 ぼくはすっかりハーレムが気に入り、翌日もハーレムを歩いた。

 プラプラ歩いていると、黒人の警官に呼び止められた。

「外国人がこんなところを歩いていると、危ないぞ」

「どうしてですか」

「ハーレムは危険なところだ。いつ、誰がキミを襲うかもしれない。なにしろここは犯罪の巣窟のようなところだ。悪いことはいわない。早く出て行った方がいい」

 そういわれると、よけいハーレムを歩きたくなった。ハーレムの道を北から南へ、東から西へとクタクタになるまで歩いたが、いきなりポカンと襲われることはなかった。

 それどころか、暗い路地裏でキャッキャッいって遊ぶ子供たちは愛くるしく、黒い肌とそのきれいな瞳は強く心に残った。

ガラリと変わる世界

 鉄道のガードを越えると、ガラリと世界が変わった。

 道行く人たちはスペイン語を話し、スペイン語の看板が目につくようになる。そこはカリブ海のプエルトリコ人の居住地区。プエルトリコ人たちは日本人に背格好が似ている。ここにはキューバからの難民やカリブ海の島々、中南米からの移民も多く住んでいるという。

 マンハッタンの目抜き通り、五番街に出ると、魔法使いを思わせるような老婆がタンバリンを打ち鳴らしながら叫んでいた。

「私はユダヤ人。キリスト教に改宗するユダヤ人が増えているけど、それはとんでもないこと。ユダヤ人はユダヤ教徒でなくてはならない!」
 と叫んでいた。

 イースト川に面した国連ビルの近くでは、ルーマニア人夫婦が通行人に署名を求めていた。

「みなさん、どうか私たち夫婦を助けてください。私たちは命からがらルーマニアから逃げ出してきました。自由な天地を求めて。ところが子供を国に残したままなのです。私たちはやっと落ち着き、子供を呼び寄せようとしたのですが、ルーマニア政府は子供たちの出国を認めてくれません。ルーマニア政府に抗議する署名を集めています。どうかお願いします」

 ダウンタウンの中国人街に行くと、またまた世界がガラリと変わった。

 大通りを歩いているのは中国人。チャイナドレスを身につけた女性の姿が目につく。通りの名前や店の看板はすべて漢字。ここでは漢字が氾濫していた。

 このようにニューヨークは人種のルツボのような世界だった。