30年目の「六大陸周遊記」[086]

[1973年 – 1974年]

ヨーロッパ編 9 パリ[フランス]→ ロンドン[イギリス]

パリを歩く

 パリに到着した翌朝は、ありがたいことに雨は上がっていた。そのうち日が差してくる。だが、寒い1日だ。まだ9月の下旬だというのに…。

 1日かけてパリを歩く。

 モンパルナスのサクレクール寺院から歩きはじめ、ルクセンブルグ公園→パルテオン→ソルボンヌ大学→シテ島→ノートルダム寺院とまわり、セーヌ川沿いに歩き、ルーブル美術館を見学。モナリザの前は黒山の人だかり。それとミロのビーナスを見てルーブル美術館を出た。それにしてもすごい数の入館者。さすが世界のルーブル美術館。入館料の3フランは安かった!

 コンコルド広場からはシャンゼリゼ通りを歩き凱旋門へ。警官にぐるりと取り囲まれている大統領官邸のエリゼー宮は、思ったよりも小さかった。

 最後にエッフェル塔に登り、パリを一望の下に見下ろした。

パリの北駅から夜行列車に乗ってロンドンへ

 次に地下鉄に乗ってパリのターミナル駅をめぐる。

 東駅、リヨン駅、そして北駅へ。

 イギリスのロンドンまではヒッチハイクするつもりでいたが、北駅まで来ると、(フランスでのヒッチハイクの難しさもあって)急に列車で行きたくなった。

 時刻表を見ると、22時00分発のロンドン行がある。

「よーし、決めた!」

 ロンドンまでは60フラン。思ったほど高くはなかった。

 北駅のホームにはアムステルダム行やハンブルグ行の中距離列車、ストックホルム行やモスクワ行の長距離列車が停まっている。パリの北の玄関口を感じさせる光景だ。

 ロンドン行の発車時間までまだ5時間近くもあるので、切符を買うと地下鉄でモンマルトルに戻り、丘の上のサクレクール寺院から夕暮れのパリを眺めた。画家の卵たちが集まる広場を歩き、赤い風車の「ムーラン・ルージュ」の前を通り、夕食を食べて地下鉄で北駅に戻った。

 ロンドン行は定刻通り、北駅を発車。コンパートメントで1部屋8人。明るい月夜で、列車は北フランスの広大な平原をダンケルクに向かって突っ走る。

 ダンケルクでドーバー海峡のフェリーに乗り換える。船内でイギリス側のパスポートチェック。船室ではメキシコ人男性、イスラエル人女性の旅行者と親しくなり、一緒にビールを飲む。何本も空にしたところで3人で川の字になってゴロ寝。目を覚ますとフェリーはドーバーの港に着いていた。

 ドーバーからは今度はイギリス側の列車でロンドンへ。終点のビクトリア駅に着いたのは9時00分。パリから11時間の列車旅。ロンドン到着は1974年9月24日のことだった。

ロンドンでのプラニング

 ビクトリア駅に到着すると、駅構内のツーリストインフォメーションで教えてもらったユースホステルまで歩いていく。ずいぶんと距離があった。

 ハイドパークからケンシントンガーデンを通り、オランダ公園の「キングジョージVIユースホステル」に到着。ここまでの疲れがドッと出たかのようで、ユースホステルのベッドにぶっ倒れるようにして横になると、夕方近くまでコンコンと眠りこけた。

 目が覚めると、体はスーッと楽になっていた。

 夕食は5時30分から。フルコースの夕食を食べ終ると、コインランドリーで洋服のみならず寝袋も洗った。あー、さっぱり!

 洗濯を終えると、ロードマップを見ながら北米→中米→南米のプラニングをする。

 これがなんとも楽しい時間。その結果は次のようなものだ。

 まずはアメリカ。

 ロンドンからニューヨークに飛び、ハリスバーグ→ピッツバーグ→コロンバス→シンシナティ→ルイビル→ナッシュビル→メンフィス→リトルロック→ダラス→サンアトニオと通り、ラレドからメキシコに入る。

 ニューヨークからラレドまではロードマップ上で計算すると3276キロになる。

 次はメキシコ。

 アメリカ・テキサス州のラレドから入り、モンテレー→シウダド・ビクトリア→メキシコシティー→オアハカ→トゥストラ・グティエレスと通り、グアテマラ国境へ。

 アメリカ国境からグアテマラ国境までは、これもロードマップ上で計算すると2472キロになる。

 グアテマラからはエルサルバドル→ホンジュラス→ニカラグア→コスタリカと中米の国々を通りパナマへ。

 パナマからは飛行機でコロンビアに飛び、エクアドル→ペルー→チリ→アルゼンチン→ウルグアイ→パラグアイ→ブラジル→ベネズエラと反時計回りで南米を一周し、コロンビアに戻ってくる。

 コロンビアからはアメリカのマイアミに飛び、アメリカを横断してロサンゼルスからサンフランシスコへ。そこがとりあえずのゴールになる。

「拡大版・6大陸周遊計画」

 1973年8月15日に東京を出発したときの「6大陸周遊計画」では、サンフランシコから日本に帰ってくるというものだった。

 だがギリシャからトルコに入ったとき、北のボスポラス海峡ではなく、南のダーダネルス海峡を渡ったのが「6大陸周遊計画」の大きな変更点というか、分岐点になった。

 そのとき、旅の計画を変更し、次のような「拡大版・6大陸周遊計画」を新に立て直したのだ。

 サンフランシスコから日本に帰るのではなく、再度、アメリカを横断し、ニューヨークへ。ニューヨークからロンドンに戻り、ヨーロッパを横断してトルコのイスタンブールへ。今度はボスポラス海峡を渡り、西アジアを横断してインドのカルカッタへ。最後はタイのバンコクに飛び、そこから日本に帰るという計画だ。

 ロンドンではその「拡大版・6大陸周遊計画」も練った。

 まずはヨーロッパ。

 ロンドン→ブリュッセル→アントワープ→ロッテルダム→アムステルダム→ブレーメン→ハノーバー→ベルリン→ドレスデン→プラハ→ウィーン→ブダペスト→ベオグラード→ソフィア→イスタンブールというルートでヨーロッパを横断する。ロードマップで計算すると「ロンドン→イスタンブール」間は3497キロになった。

 次はアジア。

 イスタンブール→アンカラ→タブリーズ→テヘラン→メシェッド→ヘラート→カンダハール→カブール→ペシャワール→ラホール→ニューデリー→ベナレス→カルカッタというルートで西アジアを横断する。同じくロードマップ上で計算すると「イスタンブール→カルカッタ」間は16594キロになった。

 カルカッタ到着は日本を出発してから2年11ヵ月後の1976年7月を予定した。

「拡大版・6大陸周遊計画」をつくりあげると、
「さー、やるぞ!」

 といった、新たな力が体の中に湧き上がってくるようだった。